2-11
寝所に向かったチュンリーは、意外な人物が扉の前に座り込んでいるので、怪訝な顔になった。
そこにいたのは冴え冴えと輝く金の髪をした、化粧っ気のない女だった。
生成り色をした夜着を身にまとっている。それはあまり身分の高くない女性、例えば宮女たちの着る夜着のようにも見えた。
しかしあまりにも彼女は異端だった。彼女は何と身の丈ほどもある長い棒を持っていたのである。
いったい何なのだ。チュンリーを含めやって来た女性たちは困惑した。
何故女がここにいて扉の前に座り込み、炯々と目を輝かせながらこちらを見つめているのか。
そしてチュンリーは彼女に見覚えがあった。彼女は周りが言う通り才能に恵まれていて、記憶力もなかなかの物だったからだ。
彼女の記憶が確かならば、宴の席で暴れた女はこの女である。
そう、陪都公とともに出て行った女だ。
チュンリーは目の前が真っ赤になる心地がした。
この女は陪都公を独占しようとしている、と思ったのだ。
許せることではない。陪都公の寵があるのは自分だ。このような訳の分からない女に横取りされるものではない。
「お前、いったい何の真似」
チュンリーは平然とした調子で言った。内心では油が煮えたぎるような思いだった。
しかしだ。
相手は目を瞬かせるだけだ。そこに恐れも何もない。そう、チュンリー程の実力者の娘を相手にしているのに、そこにあるのはそこいらの女を見るような眼なのだ。
馬鹿にされている、とチュンリーが思った程、その目には敬意という物がない。
この女が誰にでもそう言う目を向けていて、陪都公以外は皆同じという視線をしているなど知らないチュンリーは、彼女が自分を見下してると思ったのだ。
「お前、答えられないの」
「今日で六人目だ、あんた」
チュンリーの言葉に、返ってきたのは要領を得ない言葉だった。
彼女は座り込んだまま手を振った。犬でも追い払うようなしぐさだった。
「自分の寝所って言ったっけ、部屋だか寝床だか知らねえんだけど。そういう所に戻ってくんねぇ? さすがに六人目にもなるとおれの忍耐力も限界なんだよ」
「何が言いたいのかしら。わたくしをどこの誰だと思っているの?」
「ヤンホゥ様が今日は誰とも会いたくないというんだから、おれはそれを守るだけさ。そんだけ。だから帰って。あの人は朝早いんだ。今日も遅くまで質問してくるから……」
女は大きく口を開けて欠伸をした。
「わたくしが渡ると言っても、ヤンホゥ様が拒否なさるかしら」
「しないと思うから扉の前に出てきて帰れって言ってんだよ」
その切り込むような口調は、チュンリーが初めて聞く調子だった。今までこんなにも無造作に言われたことはない。
「では、お前は自分の頭でこれを考えてやっているのね?」
「違う。どこに耳つけてんの、その貝殻みたいなお耳は飾りか? あの人が今日は。そう、今日は誰にも会いたくないと言ってるんだっていってんじゃん」
それはこの女が陪都公のおそばにいたという事だと、敏いチュンリーは悟った。
この女のどこがいいのか。顔だちはいいかもしれないが、こんな化粧もしていない階級の低い女のどこが。
チュンリーには分からなかった。
ただ強烈な怒りが彼女を襲った。止める間もなく、彼女は女を扇で打ち据えた。
だがかなりの力で打ったにもかかわらず、女はけろりとした顔だった。
「世迷いごとを言うのもたいがいにしなさいな! わたくしが来たのですよ」
チュンリーが声を荒げても、その女はひるまない。彼女ほど陪都公の後宮で権力を持つ女などいないのに、それがどうしたという態度を貫いている。
「悪いけど、おれあんたの話一回も聞いた事ねえよ。都にいた時ヤンホゥ様の心を占めていた女はあんたじゃなかった」
チュンリーのなにもかもが、このどこの出か知らない女には一切通用していなかった。
それが彼女には信じられなかった。この陪都で、チュンリーの家を知らない人間はほとんどいなかったし、彼女はそれ相当の待遇を受けていた。
だから彼女はそれが全く通じない相手に出くわしたことがなかった。
それも、こんなに金色の目を光らせる女など。
「だから帰りな、おれもあんまり荒っぽい事したくないんだ」
その金色の目が陪都公を捉えたのか。
チュンリーは打たれてもなお変わらないその姿に、ひどい苛立ちを覚えた。
彼女は女の髪をつかみ上げた。女は少し顔を歪めたが、それ以上の効果がなかった。
「通しなさい」
「いやだね」
女はチュンリーの手を引きはがした。あっという間の事だった。
「二度は言わない。今日は帰れ」
チュンリーがそれ以上言う前に、女官が進み出た。
「后妃様、今日は戻りましょう。陪都公も今日だけはお疲れなのですよ」
「でも」
「この女は今日はと言っているのです。明日はあなた様にお会いになりますとも」
女官はそう言って女を見やった。
その視線を受けて、女は頷いた。
「そうそう。今日はあの人お疲れなんだよ。明日になれば会うかもしれない」
「本当ですね?」
女官の言葉に、女は首を傾ける。
「嘘言ってどうするのさ。明日の事は明日の事。明日の事を確約するなんてできるわけがないじゃん」
「では明日絶対にお会いになるという事は言えないのですか?」
「だってあんたで六人目だし同じ事言うのも六回目だし。あんたより先に来た女の人たちも明日になれば会いに来るだろうし」
「……お前は頭が足りないようですね」
「そうだろうな。よく言われるし自分でも多少は分かってる」
そこで女は言う。
「これ以上居座るんだったら力づくで排除するぜ」
それができない女ではないと、彼女は平然と言っている。
チュンリーは悔しさに歯ぎしりをしたいほどで、しかしこの女を強引に突破できないという事が分かる分別を持っていた。
「戻りますわ」
そのため彼女にできたのは、感情を隠して踵を返す事だけだった。
戻る間中、女の強烈な視線を感じ続けていた。
あの女はいったい何者なのか。どこの生まれでどこから来たのか。
何故チュンリーの邪魔をできるのか。
早々に調べなければならない。あの女は危険だ。あの女はどういう手段を使ったのか、陪都公の信を勝ち得ている。ますます危険だ。
「あなた程度の好きにはさせなくってよ」
チュンリーは物騒に呟いた。それを聞いた女官たちは戦いたが、それを主の前で見せるへまはしなかった。
夜明けだ。インユェはそこでようやく徹夜の仕事が終わった事を実感した。
大きく欠伸をする。徹夜はあまりした事がないのだ。眠くてしょうがない。
近付く足音の数から、都と同じようにヤンホゥの身支度を整える人間たちが来た事を判断する。
ここら辺でどこかに行った方がいいだろう。さて、牡丹はどこだったか。
そんな事を思いながら、彼女は足音とは反対方向に歩き出した。
夜明けの空が白み始めるこの時間は、きりりと身が引き締まる思いがするのだが、眠い頭ではその引き締まる感じが感じ取れない。さっさと寝たい。
適当に外に出られれば牡丹の場所もわかるだろう。牡丹は陪都公の寝所から最も近い殿だと聞いていた。
そんな事を考えながら角を曲がり、インユェは迷う事無くそこにたどり着いた。
「へえ、やっぱり近いんだな」
陪都公の寝所から目と鼻の先と言ってもいい場所に、うらぶれた牡丹殿が建っていた。
欠伸をしながらそこへ入り、インユェはばさばさと着ていた物を脱ぎ捨て肌着だけになって、絨毯に転がった。寝台はまだ使えない。今日やる事はこれの修復だなと考えながらインユェは目を閉ざした。
次に目を覚ました所で誰もいない。当然だ。この牡丹殿にはインユェ一人しかいいないのだから。
乱れた髪を掻きまわして、インユェはあたりを見回した。人の気配がしたような気がして起きたのだが。
気のせいだったらしい。立ち上がって牡丹の外に出る。牡丹殿の周りには井戸があった。そこから水をくみ上げて顔を洗う。幾分すっきりとした頭で伸びをすれば、体の節々が伸びる気がした。
「……さてどうする」
昨日ヤンホゥの部屋で食事の残りを食べた。しかしそれらも一晩見張るという事で消費されたらしく空腹なのだ。猛烈に腹がすいた。
それでも彼女は、どうすれば食事をもらえるのかが分からなかった。
都では女官たちが用意してくれていたが、ここではそういう事をしてくれる女官がいない。
多分自力で調達しなければならないのだろう。
そこに至るまでの思考は数秒にも満たない。
台所はどこだろう。インユェもそう言う場所から食べ物をもらってくるのは知っていた。
とりあえず服を着なければうろつきまわれないだろう。肌着でうろつきまわるのはきっと目立つ。
殿に戻り脱ぎ捨てておいた服に袖を通し、鏡の自分を映すと、寝癖のひどい女が映った。
髪をとかさなければいけないらしい。山にこもっていた時は寝癖だろうが何だろうが気にしなかったが、ここは山ではないからそれもよくない事位分かるし、都では毎日髪をとかされた。つまり髪をとかして整えなければならないのだ。
これもまた残されていた彫刻も見事な櫛を手に取り髪をくしけずる。もともと癖のない髪はあっという間に直る。これで良し。インユェは昨日見つけておいた地味な簪で髪をまとめ上げた。そして自分が臭くも汚れていない事を確認して、台所を探すべく牡丹を出て行こうとし、足を止めた。
扉の前に誰かがいるのだ。それも複数である。そしてインユェの嗅覚は食べ物の匂いを感じ取っていた。
誰かが食べ物を持ってきたらしい。でも誰がだろう。
もしかしてヤンホゥが気を回してくれたのだろうか。きっとそうだろう。
相手から敵意を感じなかったインユェは、扉を開けて、そこにいた少女たちに笑いかけた。「こんにちは」
彼女たちはインユェを見て目を見張り、それから言ってきた。
「お、お食事を持ってきました」
「ありがとう、中に入る?」
「いえ、私たちは持っていくように言われただけですので……」
インユェが示した牡丹殿の中に入る事を、彼女たちはためらった。
何故かと疑問に思ってから、インユェはここが呪われた場所だと言われてきたことを思い出した。
普通の神経の女の子たちに、ここに入れと言うのは嫌がらせかもしれない。
「まあいいや、入りたくないなら。それ貸して」
インユェは彼女たちが持っている荷車のような物を受け取った。
「食べ終わったらどこに持っていけばいいの」
「い、一時間後にまた来ます」
少女たちはどもりながらそう言い、転がるように去っていった。
よっぽどこの殿が怖いらしいな、とインユェは判断して荷車をおして殿内に戻った。
覆いのかぶせられた皿を次々卓に並べてから覆いをとる。
今が何時なのか知らないが、豪勢な料理が出て来た。木のおひつに入った白いたくさんの粒は何だろうか。インユェが見た事のない食べ物がそこにあった。
食べられない物を出すわけもないので、一緒に置かれていたしゃもじでそれを一口分よそって口に入れる。
そしてインユェは感激した。甘くもっちりとした歯ごたえの粒たちだったのだ。
初めて食べる物だったので、インユェは目を丸くしていた。
美味しい。とてもおいしい。尋常じゃないくらいおいしい。
インユェは料理たちを眺めた。豪勢だが一人分の料理と、一人分にしてはやけに大きいおひつ。
食べきれるだろうか。
まあ大丈夫だろう。
インユェは食べる事に没頭しようとして、思いついた。
「なあそこにいるんだろう」
インユェは天井に声をかけた。彼女の感覚に狂いがなければそこに人がいるのだ。
「一緒に食べよう。あんたも何も食べていないんだろう」
答えはなかった。覗きたちはもしかしたら、気付かれていると知らなかったのだろうか。
そう言えばヤンホゥもそんな事を言っていた。普通気が付かないと。
インユェは天井を眺めに眺めて、答えがないのでそういう物なのかと割り切った。
そして食事を進めた。
結局全部食べ切ってしまい、インユェは自分の胃袋の大きさに疑問を持った。よくまあこれだけ食べれたものだ。
そのくせ満腹とは言えないのである。しかしあの白い粒はおいしかった。
山では一度も食べた事がない物で間違いない。
おいしいおいしいと食べながら、インユェは少し山の栗を恋しく思った。
切り込みを入れて焼いて刃物でほじって食べるあれは、故郷の味なのだ。
それを食べたいという我儘は通用するだろうか。
わからない。
そして。
一時間後にやって来た少女たちに荷車を渡し、インユェは寝具の修繕に取り掛かった。