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2-7


寄せられた顔が、そのまま触れ合った。インユェはぱちくりと目を瞬かせる。

今何が起きたのか、よく分からなかったのだ。

「……少しは恥じらいを持て」

ヤンホゥが苦笑いをする。

「今なにしたんですか」

触れ合ったのは唇で、それが持つ意味を知らないせいか、何か特別な事をしたと思えない。

「陪都の風習ですか、こうやって触れ合うの」

「お前は口吸いも知らないのか?」

「口吸い……?」

彼女の声はどこまでも疑問形になる。

こうして触れ合う相手など、持った事が一度もない。

「そんな言葉は初めて聞きましたよ」

「……お前はいったい何を今まで学んできたんだ?」

ヤンホゥの声に、呆れが混ざる。そしていささかの驚きも混ざっていた。

「蟲狩の技法は磨いてきましたけど。それにこれは関係あるんですか」

インユェは男をまじまじと見上げる。それ位に、彼の行動は疑問でしかなかった。

何故そういう事をするのか。理由は何なのか。そして効果はどれくらいなのか。

「まさかお前の村では、口吸いすらしていないのか。誰も」

「ええっと?」

インユェは記憶を掘り起こした。しかし彼の期待に応えられる思い出はない。

「分かんないです、おれはした事ありません。口吸いって何なんですか。それは攻撃ですか。それとも何かしらのあいさつすか」

ここまで世間知らずもそういない。

それはインユェが山の男の誰にとっても高嶺の花だったことを示していた。

強大無慈悲な山の頂点。

そして目が覚めるほど美しい。

そんなインユェを、口説き落とそうというつわものはいない。

彼女が並みの蟲ならば、刃物も使わずに一撃で仕留められるという事もそれの要因である。

その力が、もし自分に向かったならば。

最悪の事態を想定すれば、男たちは彼女にそう言った目を向けない。

そして、女たちは、恋する男たちや憧れの狩人が、インユェに夢中になる事を良しとしない。

だからインユェが、恋愛という物に目を向けないように仕組む。

余計ないさかいを避けたい村長も、あえてインユェに村の男を勧めない。彼女に恋愛という物の存在を教えない。

そして人間、知らないものは知れないのだ。

インユェにとって恋愛は未知の物であり、言葉すら知らない物である。

実は召し出されるという事の意味を知らないからこそ、インユェはフーシャの代わりに慣れたともいえるのだ。

強制的に皇帝の物になる。妻とされる。そして妻として一生生きるしかない。

それをフーシャは知っていた。

それをインユェは知らなかった。

だからフーシャは嫌がった。皇帝の好色は山深い北の里にも知られていた事実で、決していい待遇にもならないと知っていたからこそ、フーシャは山を下りる事を嫌がった。

だが。

山にこもってばかりのインユェは、それを知らなかった。誰も教えなかった。皇帝の好色も、過酷な待遇も、インユェは聞いた事がなかった。

知っていれば、たとえインユェであっても、二つ返事で身代わりにはならなかっただろうが、まったく知らなかったのである。

それゆえ身代わりになれたのだ。知らないという事は時に恐ろしい。

何も知らないインユェは、自分の身の危険という物を全く感じていなかった。

男は、じっと彼女を見下ろしていた。

「攻撃ではない。これは、そうだな、妻にする事だ」

「妻。おれは衝立でしょう? あなたの妻はもっときれいで優しくて、素敵な人だ」

「勝手に決めるな」

「本当の事だろう? おれはあなたの物でしかない、物を妻と言う物好きはいない」

「……ほう。お前は俺の物か」

「そうそう」

インユェは首を上下に振った。男が物騒な笑顔になった理由も知らずに。

「では、物に何をしてもかまうまい?」

インユェは沈黙した。そして考え始める。

確かに。と納得してしまう自分がそこにいた。物相手に、物の機嫌を気にする人間はいない。

物はどこまでも物なのだ。

機嫌を伺う相手ではない。気にする相手でもない。

何をしても、物は者ではないのだから、許される。

そうか、これはこの人の気まぐれなのだ。インユェはそう判断した。

物たるインユェは、それを受け入れるのが普通の事なのだ。

それは違うと誰も突っ込めない状態なので、彼女は一人で考えて一人で納得した。

それがとんでもない間違いだと気付かずに。

「そうだ、った。ヤンホゥ様がこれをしたって問題ないんだっけ」

「……」

ヤンホゥは、そう返ってくるとは思っていなかったらしい。

普通の后妃であれば、もう少し恥じらいや常識を説いて来るし、自分を物扱いされて納得はしない。

自分は彼の衝立、物でしかないと判断しているインユェ相手では、実は勝手が違うのだ。

そのため一瞬戸惑うだろう。普通はそうだった。

「したいならすればいいと思いますよ、どうぞ」

インユェは肩の力を抜いて、男の出方を待った。

ヤンホゥはその深紅の眼を何度か瞬かせた後、言った。

「そうだな」

そしてまた顔が近付いて来る。唇がそっと顔のあちこちをなぞり、小さく音を立てて触れ合う。

その触れ方が優しいので不思議だった。どうしてこんなに優しいんだろう。

気付けば男のたくましい体に抱かれ、唇を当てられているというこの現状。

何なんだろう。

そう言えば、まだ食べている途中で、ご飯が冷めてしまう。

冷めたご飯を食べたくないと訴えれば、顔を離してくれるだろうか。自力で腕は振りほどけるのだが、どうにもそう言った強引な手段をとりたくない。

変な気持ちだ。さっきから変だ。ざわざわと落ち着かない気分は、ぐるぐると腹の中にたまっていき、そのまま煮凝りのように固まりそうだった。

「ヤンホゥ様、おれはご飯の続きがしたいです」

「お前は色気よりも食い気か」

「色気なんて持ち合わせてないです」

ヤンホゥが最後に一度、インユェの唇に触れたあと腕をといた。

そこでインユェは言った。

「さっきから天井だの壁の向こうだので、聞き耳を立てていたりのぞき見をしたりしている人たちは何なんです?」

ずっと感じていた視線や気配である。害はなさそうなので放っておいたが、ずっと視線を向けられていて、その視線がだんだんと剣呑になってきた辺りで、インユェは口を開いたのだ。

ヤンホゥは噴出した。笑う所なのかはよく分からないが、おかしかったらしい。

「お前……! お前……! 気付いていたのか! 気付いていてその反応なのか。たいした心臓だな」

笑いながら言われる。インユェは食べている途中で、実は狙っていた肉入りの点心を箸でつまんだ。

口に放り込み、やっぱり冷めたな、脂が固まり始めている、と心の中で評する。

山では食べられることが贅沢で、こんな事思った事がない。自分も贅沢になったものだとどこかで思いつつ飲み込む。

「心臓も強いって定評あるんですよね、おれ」


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