2-6
「いやあ、参った参った」
インユェは口の中の物を飲み込んでから、手近に用意されていた濡れた布巾で口元をぬぐって言う。
「お前は何をされた?」
「眠らされて奴隷船に売られたんですよ、言ったじゃないですか」
「眠らされた? 聞いていないぞ。だいたい、売られたとは何だ。売り物として奴隷船に乗せられていたのか?」
なんだろう、怒っている。インユェは空気でそれを感じた。
何故と頭をひねり、そこで思い至る。自分はこの人の物なのである。その物が勝手に売り買いされていれば、機嫌も悪くなるだろう。
「なんか起きたら売られていましたよ、足枷と手枷付きで」
それでも嘘がつけないのは性分で、インユェはあまり美しくはない様をさらしながら、箸を使って炒め物を取り皿に映していった。
これもヤンホゥの教育の成果で、大皿から直に食べるのは行儀が悪いとしつけた結果である。
インユェは全面的にヤンホゥを信用しているし、彼が必要のない事を指示するとも思えないので、注意された事は出来るだけ直す様にしている。
もっとも、その雑な口調は直されていないし、何かと手づかみで物を食べようとする癖も矯正されてはいない。
長年の習慣を治すのは難しかった。
そんな中インユェは、急に静かになったヤンホゥを見て、首を傾げた。
なんだか空気が重い。そんな気がする。
何なんだろうと彼をもう一度見て、とても静かで、しかし物騒極まりない状態の男に、何か言ってはいけない事を言ってしまったらしい、という事位は感じ取れた。
「まあいいじゃないですか、おれはこうしてここにいるんです。おれは五体満足で、薬でおかしくされたわけでもなく、傷物になったわけでもなく。たいした事じゃないでしょう」
「お前は薬で眠らされて売り飛ばされたのを、たいした事ではないというのか?」
何故か男の怒りの炎に、油を注いでしまったらしい。
だが、インユェにしてみれば本当に、その程度なのだ。
自分が無事だったのは、自分が一番よく知っている。問題などないではないか。
これで、何か不都合な事をされていたり、見るに堪えない痕でもつけられたりしていれば、多少は考えに違いも生まれただろう。
しかし自分は無事だった。それで物事は全て収まる。
インユェのこの独特の考え方は、北の山の蟲狩に共通した考え方だ。
無事ならば問題なし。
何が起きても、最終的に解決したならばすべてよし。
山という命の奪い合いになる空間で、過程や工程を重んじられる事はなく、全ては結果に基づいて考えられる。
段階は無視される。そして重要視されるのは結末でしかない。
厳しい世界だ。そしてこれほど過酷な世界も滅多にない。
インユェはそう言った世界でしか、生きてこなかった。
そのため、たとえ薬で眠らされても、売り飛ばされても、結果慣れない武器で蟲と戦う事になっても、それは彼女には問題にもならないのだ。
全ては自分の甘さが招いた事、そしてヤンホゥの元に戻ったのだから何も問題はない。
それが平地どころか、同じ山でも通じない異常な事であると、インユェは気付けない。
「あなたの所に戻ってこれたんだから、いいじゃないですか」
だからインユェは平然と、そう言う。
それを聞いた男が、しばし動きを止めたとしても、インユェは料理を片端から食い尽くしていき、反応など気にしない。
「結果が全てですよ。おれはあなたの所に帰ってこられた。頭がおかしくなっていないし。怪我もない。あなたの衝立になれる状態です」
甘辛い煮物に箸をつけながら言う。
「なんか問題があるんですか?」
「お前は」
「おれは?」
インユェは、男が立ち上がったので、彼に視線をやった。
近付いてくるヤンホゥをじっと見つめる。
「結果が全てなのか。お前自身がどうなっても、結末が良ければそれでいいのか」
彼が発した言葉は当然で、インユェは素直に頷く。
「それが、牙という物です」
牙は自分がどうなろうとも、蟲を狩れればいいのだ。
爪や足が、負傷したらそれは考えるが、自分自身の事は気にも留めない。
それだけの強さが、牙には求められる。
身体的な強さ以上に、精神的な強さが。
自分に何があっても、目的を完遂するという意志の強さを必要とされるのだ。
彼女にとってそれは当たり前でも、あいにくヤンホゥには通じない。
「お前は俺の衝立だ。だがそれ以上に、お前は女だ」
「そりゃそうだ。女ですが何か」
「守られるという考えはないのか」
「牙は守るのが信条だ。守られるのはまっぴらごめん」
言い切ったインユェは、急に顎をつかまれて、強制的に相手と向き合わされた。
「なんです、食べ終わってないのに」
インユェは、料理をつまんでいた箸を置いた。
そして、相手の目を見つめる。
「俺に守られろ、と言ったらどうする」
ヤンホゥはその、深紅の色が深い瞳を、インユェに向けていた。
その目にあるのは、激情の一種。
轟々と燃える、感情の色。
「おれはあなたの衝立だ、あなたを守るのが役割だと思う」
それを間近に見れば、普通の女は言葉を失う。言葉を失わないインユェは、並ではない。
それも火に油を注ぐ様な発言を、あっさりと言うのだ。
「そうだな、お前は女避けだ。宮中の女と、俺の間に入る物だ。だが、お前ばかりが守るのは俺の矜持にかかわる」
ヤンホゥは少しばかり目を細め、そう言った。
「弱い方が守られるのは当然でしょう。あなたは弱い」
インユェは、言葉の意味が分かっているのか甚だ疑問になる事を言う。
しかしインユェにとっては紛れもない事実なのである。
彼は自分より弱い。だから彼は守られるべきで、インユェはヤンホゥを守る。
「お前とほかの人間を同列に並べて強弱を測るな。お前の強さは肉体的な物だけだ」
「牙は精神も結構強いんですよ」
「ほう? 単純に愚鈍なだけだろう」
愚鈍。愚かで鈍い。インユェはちょっと考えた。
思い当たる節がある。確かに自分はちょっと抜けていた。
それに、他人が見てそういう部分があるというならば、それはある種の事実なのだ。
「そりゃあ単純でいろいろ鈍いかもしれませんけどね、複雑で鋭いっていうの、衝立に求められる性質なんですか。だったら、ほかをあたってくださいよ、とても持ち合わせがない。おれはこの場所の隅っこでひっそり生きていきますから」
「誰がお前を手放すと言った、馬鹿たれ。そういう所が鈍いのだ」
「そうなんすか」
インユェは男の手がまだ離れないので、なんとなく浮ついた気分になりながら、目を見つめ返していた。
「俺はお前を気に入っている。手放す気にはならん」
「そりゃよかった」
おどけて言えば、彼は顔を寄せてきた。
「お前はまだまだ、働いてもらうぞ」
「衝立のお仕事、頑張ります」