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1-1



男とは山を下りてから別れた。別れた後で、名前を聞くのも忘れたことに気が付いたのだが、インユェはどうでもいいか、と思い直した。

また会うとは思えない。山は広大だ。彼とまた山の中で出会うことはないだろうし、後宮は男子禁制といっても過言ではない空間だ。あの男が自分に会いに来るわけはない。

ただの武官はこの後宮に立ち入ることすらできないのだから。

それ以上に、インユェは早く自室に戻り、肉を塩漬けにしたかった。

塩につければその分日持ちがするし、少ない量で満足する。いかに一つの樽で塩漬けにするか考えていた時、それに気が付いた。

塩をどうやって手に入れようかという問題だった。

故郷の山では掘れば、普通に岩塩が手に入った。そのノリで塩漬けにしようと思ったのだが、この山では岩塩が取れない。失敗したな、とインユェは思った。

そういえば、塩は平地や都では高級品だったことも思い出す。山にやってきた商人が自慢してきた、海の水からとった塩が、馬鹿にならない値段だったのをいまさらながら思い出す。

それならどうするべきなのか。これを腐らせずに長期保存するためには何が必要か。

インユェはしばし考えてから、干すしかないと判断した。

烏に狙われるかもしれないが、腐るよりはましだ。よし、それでいこう。

どこかに場所はないものか……と考えたその時だった。

「お前、何をしているの」

後宮内で、大きな肉の塊を担いで歩くインユェは、目立っていた。それこそ、自分の目に入るものが気に食わなかったら、容赦なく排除する妃が見咎めるほどには。

インユェは立ったまま彼女を眺めた。

故郷の山深い里では見たことのない、ウエストラインの高い、裳裾の揺らめく絹の袴に、これまた贅沢にゆったりとした前合わせの上着。何着も重ねて重ね目の色を凝らした衣装は薄桃色から緑に代わっていく、花のような色合いである。

さらに首には美しい宝玉を飾り、腰帯にも立派な翠玉の飾りを揺らしている。

彼女は花のような女性だった。

顔かたちも美しいものだった。少なくとも、インユェは美しさに見惚れた。柔らかな曲線の眉と、額に押し当てられた鈿の赤さは色の白い肌にくっきりと映っており、もろく壊れそうな髪型に差し込まれた金銀の髪飾りはきらきらと彼女の瞳と同じようにきらめいている。

そうだ、宝石のように輝く瞳をした女性だった。少し細い目は、黒目がちで、鮮やかな青色をしていた。紺といってもいいくらいの濃さの青い目だった。

通った鼻筋、秀でた額、唇はサクランボのように赤くおいしそうである。顔は小顔で、きゃしゃな首の上に乗っている。

美しい姿を、豪勢で豪華で贅沢な衣装や、こまやかで手の込んだ宝石たちで飾った彼女は、間違いなくインユェとは違っていた。

インユェがいつまでも立っているからだろう。

彼女を取り囲んでいる女性の一人が、やってきた。

そして、インユェをひっぱたいた。

「無礼者! この方をどなたと心得ているの!」

「しらねえもん、そんなもの」

インユェはいつも通りにこたえた。その答え方は悪かったとしか言いようがない。

女性がその口調にあっけにとられたのだ。

インユェはどうでもよかった。

立ち尽くしている隣の女性を見た後に、美女を見やった。

「食べる物を調達してきたんだよ。ここけちなんだよ、何にも出してくれないから腹が減ってしょうがない」

美女は、そういう言葉遣いに慣れていないのが、よくわかった。

眉をゆがませたのだ。聞きなれない下賤の言葉は、彼女にとって耳障りだったのだろう。

「なんて口の利き方を」

美女を取り巻く女性たちがざわめく。インユェは気にしないで、肩の肉を持ち直した。さっきからずり下がってきてしょうがないのだ。

本当に、さっさとおろして、薄切りにして天日干ししたい。さっさとどっかに行くなりなんなりしてくれないだろうか。

そんなことを考えたインユェは、びしり、と今度は扇、それも表が木でできたもので打たれた。

「姫様にそのような口をおききになるでない!」

「ほかに言葉なんてしらない」

インユェは、山でも口が悪いほうだった。しかし、牙という実力ゆえに、誰もが声を大にして注意しなかった。インユェの実力だけが重視されたのだ。

人格は、山ではどうでもいいことだった。

「なんて言う田舎者なの」

美女が口を開いて、やっと、そういうことを言った。インユェは彼女を見て言う。

「田舎者だよ。僻地出身。それが何?」

「ではなぜ、このような妃のいる場所にいるというの」

「今日は同じことを何回も言うな、おれはメシダサレタの。山の深いところから。だからここにいるの。帰っていいなら帰るぜ。でもまだ帰してもらえなさそうだし」

「お前のようなものが?」

美女が言う。お前のようなものっていうのは、どういう意味だろうか、とインユェは考えた。田舎者という意味か。それとも、無礼者という意味か。それともなんだ、がさつなものという意味か。

全部でも、インユェは気にしないのだが。気になることは聞く主義だ。

「それってどういう方面で言ってるんだ?」

「姫様、もう行きましょう、言葉の通じない田舎者です」

女性たちが、美女を姫と呼び、どこかへ連れて行こうとする。

彼女はちらとインユェを見て、こういった。

「后妃として存在するべきではないという意味です」

そう来たか。インユェはうなずいた。

「そう。教えてくれてありがとう」

美女はぎょっとした顔をした。

「あなた……頭が弱いの?」

「賢くはないけど」

彼女はしばらくインユェを見た。

「リーリン。お茶の用意をしてちょうだいな。わたくし、この子に興味がわいたわ」

「姫様、ですが」

「こんな娘を呼んでも、わたくしの名前に傷はつかないわ」

女性たちを見て、それから彼女は花がほころぶように笑った。

「あなた、来なさい。おいしいお茶菓子を用意してあげるわ」

「だめ」

「あら、どうして?」

「これを天日干しにしなくちゃいけない、服も着替えないといけない」

「わたくしの料理番に任せるわ。服も用意してあげましょう。わたくし、あなたとお喋りがしたいの」

美女の声はよく通る。インユェは、彼女がわがままをいつでも許される身分であることを、おぼろげながら理解した。

自分が嫌と言っても、不愉快にさせるだけだろう。

それに、おいしいお茶菓子というものに、インユェは心を惹かれていた。

郷ではお茶菓子といえば、貴重な香辛料を効かせた干し肉だった。

平地ではいったい、どんなお茶菓子が出るのだろう。

期待に胸が膨らんだ。

「わかった」

期待のままうなずくと、美女が言う。

「わたくしはレイシ」

「麗妃さまと呼びなさい」

彼女の自己紹介の後、女性たちがインユェに言った。

「こちらに来なさい」

インユェは素直に言うことを聞いた。





借りた服は美女の特注品らしく、インユェには余ったりきつかったりした。ほとんど強制的に入れられた風呂は、慣れ親しんだ桶にお湯を張り、目隠しの板をあたりに立てかけたものだった。

しかし石鹸は段違いにいいものだった。石鹸なんてほとんど使ったことのないインユェは、石鹸がこんなに花のようなにおいがするとは思ってもみなかった。そうしてきれいにされたインユェは、美女麗妃と向かい合わせに卓に座ることになった。

そして出されたのは、点心だった。小麦の皮に肉の餡が包まれた点心をはじめに出され、そこから実に様々なお茶菓子を用意された。卵色の蒸し菓子、桃饅頭、香ばしい胡麻団子。目にも楽しい練り切りというもの、インユェは、後宮という空間で、偉い人はこんなにおいしいものを食べているのか、と驚いた。

「おいしい」

「当たり前だわ」

「おれはこんなにたくさんのお菓子を見たことがない。食べたこともない」

「山深い場所では当然だわ」

とにかく次から次へと出されるお茶菓子。インユェは、その合間に問われることに、馬鹿正直に答えていった。

出身は北の山。歳は十八。この後宮にやってくる前には、蟲を狩るという職種についていたこと。

兄弟のことも聞かれたので答えておく。

兄弟は二人。弟が二人である。

「ということは、あなたのご家族は、あなたという働き手を失ってしまったのね」

「ああ。どうしてっかな、たぶん大丈夫だと思うんだけど」

「稼ぎ手がいなくても大丈夫なの?」

「弟二人も、牙ってほどじゃないけど、結構優秀な蟲狩だったから」

「牙?」

やっぱり、山の言い方は平地では通じないらしい。別に構わない。インユェは言う。

「一番の腕利きのこと。おれがそうだったんだ」

それは決して揺るがない言葉だった。牙は永久に牙であり、牙の名を返上するときは、自分以上の腕利きが現れた時だけだ。

そうでなければ、死ぬまで牙の名は持ち続けていられる。

「あなたはどうして、それなのに山を下りてきたの?」

「フーシャが泣いたから」

「フーシャ?」

「長の娘さん。山を下りたくないって泣いて、だから。身代わり。おれがいなくても、弟たちは生きていけるけど、跡取りがいなくなったら、長の家は滅ぶ。長を新しく選ぶのはよくない」

蒸し菓子をかみちぎりながら、インユェはそう答えた。

「そういうものなの? 長にほかの子供は」

「いない。みんな子供のうちに、山神様にとられちゃった」

「山神様にとられる?」

「うん。いわねえの? そういう言い方しないんだ。病気は山神様が風を吹かせて起こすんだよ。だから山神様が、長んところの子供たちかわいいって言って、みんな採ってっちゃったんだ。残ったのはフーシャだけ」

だからフーシャは、大事な女の子だった。宮廷からの使者なるものが来たとき、村長の娘をとっていくという話をしたとき、フーシャはだから泣いたのだ。行きたくないと泣いたのだ。

だから、インユェは一計を案じた。

自分の家に風が当たる日に、あえて不安定な、風に流されやすい弓矢を宮廷の使者たちに使わせて、自分を選ばせたのだ。

それは決して言ってはいけない秘密だった。言えばどうなるかわからない。

宮廷の人間たちは、美しい、銀の髪が混ざる黒髪という、天の川のような美しい髪をした、整った顔のフーシャに心を決めていた節があったからだ。

慣習だからと長が押し通し、放った弓矢で選ばれたインユェを見たとき、その落胆した顔は目も当てられなかった。

「かわいいフーシャ。おれの友達。小さいころから一緒だったんだ」

「あなたはまるで皇子さまね」

「そう?」

「ええ。大事な人のために自分を投げ出すなんてできることじゃないわ。神馬に乗った皇子さまみたいな人だわ」

「中身これだけどね」

インユェは頭の脇で指をくるくると動かした。頭がいかれている人間を示すときに使うジェスチャーである。

インユェは、自分が狩以外の何もまともにできないことを知っていたので、こういうことも平気でやった。

「あら、もう日が暮れてしまうわ」

麗妃が、窓を見てつぶやいた。

「それじゃあ帰ります」

「そう。あなたは宮人?」

「犯罪は冒してませんけどね」

「わかったわ」

何が分かったというのだろうか。インユェにはいまいちピンと来なかったのだが、麗妃の言葉にうなずいた。

ただ、肉を干した場所は聞いておいた。この乾燥した空気だ。干し肉ができる日も近い。





インユェは個室を持っていない。あまたに存在する宮人に、いちいち個室は与えてはいられない。それゆえ、同居人が何人もいるのがふつうである。

ただし彼女たちは、それぞれ仕える相手がいたため、日中は外に出ていっている。滅多なことでは昼には会わない。その代り、夜になると親しくなった相手に、愚痴ることもよくある。

インユェは、とても珍しい宮人だった。仕えるべき主を持たず、さらに仕事らしい仕事を与えられていないのだから。

それゆえに、食事をもらえないという事実を、インユェは知らない。ただわかっているのは、上の身分の女性にお仕えしないと、食事なりなんなりを手に入れられないということだけだ。

普通はわかるものだ。自分のためには、より権力のある相手にすり寄らなければいけないことくらいは。

しかしインユェは知らない。山深い土地で、牙という最高峰の肩書を持っていたインユェは、誰にもこびへつらって生きてこなかった。

その弊害が発生していることに、まったく気づいていなかった。

「インユェ、どこに行っていたの?」

「山」

同居人たちが、遅くに戻ってきたインユェを見て眉を顰める。

だが空気を読まないインユェは、平気な顔をしている。

「何をしに行っていたの」

「狩」

「は……?」

この端的な事実を飲み込めない、宮女たちは何も悪くない。インユェの説明が足りないのが問題なのだ。

「蟲狩」

インユェは言いつつ布団にもぐろうとする。宮女になってよかったのは、それなりの布団が与えられたことくらいだ、とインユェは認識していた。

「あなた、山に入るのはいけないことだわ」

「ふうん、でも食べるものないんだぜ、食べるためには狩らなきゃいけないだろ」

「誰かにお仕えすれば」

「お仕えしなくちゃ食べられないのか?」

「普通はそうよ。私たちのような宮女は、お妃さまたちにお仕えして初めて、庇護を受けることができるのよ」

「それおかしいよな」

「どうして?」

「だって、必要だって言って引っ張ってきながら、なんで何にももらえないの。釣った魚にえさをやらないとかいう話し合ったけど、あれより始末が悪いじゃん」

布団にくるまったインユェは、それ以上の会話を求めなかった。そのインユェの言葉が、どれだけ周りには衝撃だったのかも、まったく気が付かないで。


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