2-3
大きな蟲が一匹、足をうごめかせて咆哮を上げた。
数多くの人間を食らってきただろう、老獪な蟲だった。
しかしその蟲が持つ最大の攻撃は、その奴隷を売る船には届かない。
長柄刀がその分厚い装甲をひしゃげさせ、その重さで致命傷を相手に与えたからだ。
そんな重さの物を想定していない蟲の装甲は割れ、青紫の体液を飛び散らせてぶちゅりと肉が四散する。
剛力の男でもそんなに軽々、その長さの長柄刀は振り回せない。
そう言いきれるだけの長さの長柄刀は刃の分厚く大きな薙刀に近い見た目をしている。
その重量は大の男の半分ほどもある物で、そして奇妙な形をしていた。
いいや、奇妙なのはその材質だろう。
その長柄刀は何と、木の柄に石の刃を持っていたのだ。
違う。
それは木でできた柄に、平凡な見た目の石を取り付けた長柄刀だった。
偃月刀にも似ているそれは、しかしその材質から決定的に違っていた。
そしてそれをふるった人間は、か細い体の金髪金眼の女。
ぼろぼろの奴隷が着るような衣装を身にまとい、鎖の切れた足枷と手枷を装飾品のように巻きつけ、傲岸不遜に笑う女だった。
蟲が完全に死んだことを確認した彼女は、船に進めと合図を送る。
それを見てから、奴隷船は櫂をこぎ始めた。
「この川、蟲が意外と多いな、やっぱり泥水の方が数が多いのか?」
彼女……インユェは振り返り、ぶんと長柄刀をふるい返り血を落とし、次に河にその刃を沈めて引き上げる。
「俺たちはそれはよくわからない。だがこんなに犠牲者が出ない移動は初めてだ」
「そうか、そりゃよかった」
死人が多くなればいいとは思わないので、インユェは満足げに笑い、船のふちに足をかけ、進む方向を眺める。
「なあ、着替えなくていいのか」
「別にこれでも問題ねえよ。身軽で宮廷の服よりもずっと楽だ。この辺は温かいな、北の山はまだ雪解けもしてないからもっと寒いし。なんでこんな生ぬるいわけ」
「それをこちらに聞いても、気候の事はわからない」
「八つ当たりはしてないさ。さて、後どんぐらいで陪都につきそう?」
「この調子だとそうだな、明日の朝にはつくだろう」
「その間おれは不眠不休で、蟲の見張り?」
「……あ」
男はそこで、彼女のあっけらかんとした疑問に気が付いた。
「確かにそうだ、それでは割に合わない。途中で交代をさせよう」
「じゃあさっさとしてくれよ、さっきからおれ、眠くってしょうがないんだ」
インユェはあくびをした。夜の遅くから動き始めた船で、ずっと蟲の襲撃を見張り、木を張っていたインユェは、夕方までずっと寝ていない。休憩もなく、水面を睨みながら干し肉と干し魚を齧る食事をとっただけなのだ。
山にこもっている時、危険なのはきちんとした休息をとらない事だった。
体に澱の様にたまる疲労は、とっさの判断を鈍らせる。
その危険がよくわかっているインユェは、さっさと休ませてほしかった。
使い慣れていない得物はなんとなく重心がつかめないせいで、疲れを加速させる。
そんな事は誰の目にも分からない事だったが、自分の事は自分が一番よくわかっていた。
その自分が、休息を求めてきているのだから、それは必要な事なのだ。
「そうだな、この辺りは蟲がそこまで出ない流域だ、休んでくれ」
「あっち?」
インユェは船の建物部分を指さした。
男が頷くのを見て、インユェは肩に得物を担いだ。
そして建物部分の布の入り口を抜け、適当なむしろに転がった。
どんな場所でも眠れるという、強みはここでも強みだった。
ごろりと転がり、目を閉じれば意識が飛ぶ。
次に目が開いた時、インユェは船の周囲に、何かが近付いているのを認識した。
船を操っている男たちは気が付いているだろうか。
気付いているに違いない。だが今は夜だ。視界は悪い。
もしかしたら気付いていないかもしれない。
そんな事を思い、インユェは立ち上がった。じゃらり、鳴るのは足枷に手枷。
長柄刀を確認し、それを担いでインユェは外に出た。
途端だった。
インユェは、凍り付いた男たちの視線を受けることになった。
火事になるのを恐れてあまり焚かなかったはずの明かりが船を囲んでいた。
男たちの顔色は悪い。
「おい、やけに変な船が多いな、何事?」
笑いながら言うインユェに、男たちは言う。
「盗賊だ……」
「ふうん、こんな河でも盗賊なんて出るんだ」
しかし堂々とした盗賊だ。
そんな事を思いつつ、周りを見回す。
こんなことをするなら、夜陰に紛れてというのが定石ではないのか。
そこに、隙や怯えや、相手の弱点を見出してしまい、インユェは噴出した。
なんだ、この船を囲うやつらは、三下かその程度なんだ。
「笑って済ませるな! そうだ、あ、あんた強いんだろ、ちゃちゃっとやっつけてくれよ!」
「おれが引き受けたのは蟲退治。おれの仕事の外だぜ、それ」
男たちの悲鳴のような声を、無情に切り捨てるインユェ。
彼女にとってのただの事実は、男たちを絶望に叩き込むのだが、そんなのはどうでもいいのがインユェだった。
自分の仕事は蟲退治。
人間殺しではないし、盗賊退治でもない。
それは彼女にとってしっかりとした線引きだった。
男たちがわめく。
「なんだよ! 話が違うだろう!」
「話が違うのはそっちだろ、おれはちゃんと、蟲をどうにかしてくれって言われただけ」
言いつつも、インユェはあたりの気配を探った。
これだけ明かりを灯せば、引き寄せられる蟲がいるのだ。
それは河の中だろうが陸だろうが関係ない。
「なあ、あんたら。目の前の盗賊よりも、心配しなきゃならないものがあるぜ」
「なんだよそれ!」
「なんだよって、黒水爬蟲」
「……」
男たちも、その蟲の名前は聞いた事があるらしい。血の気が一層退く。
「どう、どうしたら」
「奴らは飛んでくるっていうのが定石。これだけ明かりをぶら下げてりゃ来るに決まってる。その中を一気に抜けりゃいい。……来た」
「あ、あんたが倒してくれるんじゃないのか!」
「これだけ邪魔な船ばっかりある中でぶん回すの面倒くさい。あんたたちだって盗賊の船はどうだっていいんだろ、おれだってどうでもいい。だから黒水爬蟲の相手は奴らにしてもらって、おれたちはぱぱっと逃げればいい。できるだろ、それ位。それともできないなんて弱音はいて、盗賊に殺されるか黒水爬蟲に体をとかされて死ぬか?」
この言葉は効いたらしい。
男たちが、奮い立って指示を飛ばし始める。
インユェは、すうと目を細めた。
夜目が効くのはインユェの体質で、男たちよりも場所を把握できる。
逃げ道は、分かる。
そんな蟲狩は、男たちに言い切った。
「逃げ道はおれが作る。この船に飛んできた奴らは全部つぶす。だからあんたたちは、おれの言った道を通ればいい」
「で、できるのか……?」
「できるんじゃねえよ、やるんだよ。牙なめんな」
にやっと大胆不敵に笑った彼女は、指示を飛ばす。
「南に行け、十数えたら一気に櫂をこいでくれ」
「盗賊は」
「無視だ。奴らだってこの船に乗ってんのが奴隷だって事位分かるんじゃないの? 商品傷つける馬鹿だとは思えない、船を壊すような真似はしない。つまり船への攻撃は来ない」
その読みは正確だった。
「いち、にい、さん……じゅう!!」
高らかに吼えたインユェの声に、櫂が一斉にこがれる。その時、明かりに引き寄せられた黒水爬蟲の集団が、獲物を見つけて飛びかかってきた。
そしてそれは、盗賊たちにとって急な出来事だった。
人の大きさほどもある黒水爬蟲が人間に飛びつき、体に口を突き刺す。
誰かの絶叫。インユェは長柄刀を振った。
血が騒ぐ。もともとこういう性格だ。
一匹、飛びかかってきたそれを切り捨てる。
分厚い刃がその重さで、強固な装甲をに守られた、黒水爬蟲の腹を叩き切る。
「さっさとしろ!」
櫂は漕がれる、誰もが必死になっていて、インユェだけが余裕を崩さない。
その余裕を感じさせる動きで、奴隷船に飛びかかってくる邪魔な蟲を、どんどんつぶしていく。
長柄刀が振るわれた時それは、蟲が必ずその刃にかかってつぶされていくのだ。
返り血がほとばしっても、それでも、彼女はひるまない。怯えもしない、まして恐れるなどない。動じない。
動じないで、その美貌をにいと笑いにゆがめ、蟲が屠られていく。
それは奴隷船の人間にとって、これ以上ない頼もしさだった。
彼女は守ってくれる。
危険な蟲から。
それも、人間が一人では勝ち目のない大型の蟲から。
船がインユェの指示に従い、黒水爬蟲と盗賊たちの喧騒から離れたのは、ほどなくしてからだった。
インユェは耳を澄ませる。船の周りには盗賊らしいものもいないし、危険な蟲もいない。
そこに至るまでに、全身を青紫にしたインユェは最後に倒した黒水爬蟲を解体しにかかった。
寝起きで戦ったので、腹が減ったのである。
腹を裂き、内臓を引きずり出し、口に入れていく。むろん手づかみだ。
何かよほどおいしい物を食べている表情で、インユェは蟲を食べていく。
それは鬼よりよほど、鬼らしかった。
そんな事、思い至るわけがなかったのだが。
しかしうまいな、とインユェは神経を前歯で噛み切りながら思った。
北の山の蟲は、実はそんなにおいしい物ではないのか、と思うほど、南に下った場所の蟲は味が濃く、脂がのっていて、とろけるようなうまさを感じさせるのである。
本当に癖になりそうな味だった。
たらふく食べたインユェはようやっと見えてきた明かりを、見つめた。
「陪都が見えてきたぞ!」
男の一人がそう言った。
これが陪都か。インユェはそう思い、蟲の残骸を河に放り捨てた。




