2-2
「インユェがいない?」
男は目を軽く開く。報告をしに来た宦官は低頭し、土下座をせんばかりの状態だ。
「なぜ今頃になって報告が入ってきた?」
男はその点が気になった。
彼女がいなくなったのがいつなのか。
そして何故にこの時間まで報告が遅れたのか。
夕刻、一日がかりで陪都まで到着し、一晩明け、早朝である。
そこが問題だった。
いったいいつの間に、あの娘は姿をくらましてしまったのか。
低頭する宦官が言う。
「途中までは確認しておりました。しかし……」
「しかし?」
男の促しに、宦官が言いにくそうに口を開く。
「陪都に着き、輿の中を改めたら……影も形もなかったのです」
「なぜこの時間まで報告が遅れた?」
愚図、と言外に伝えつつ男が言えば、その冷気にあてられた宦官は真っ青になる。
「女官たちが……」
「女官がどうした」
「インユェ様は、遊びに出かけたのだろうと……あの方は外に出たがっておられたので、こっそり抜け出したのだろうと申しまして」
「そんな馬鹿をほざいた女官たちはどうしている?」
宦官はさらに顔を青褪めさせる。それから男は、ろくな報告が来ないことを知った。
「消えてしまったのです……」
「陪都の兵はそこまで馬鹿だったか? いや、父上の兵はあの女一人、ろくに見ていることができなかったのか? 第一そう言った女官たちが逃げたのならば何故、それも報告に上がらない」
男が苛立った口調で言えば、宦官は必死に視線をさまよわせる。
何かまともなことを言おうとしたのだろう。
「で? あれの輿を運んでいた男たちはどうした」
「輿を指定の位置に置いた後の消息がつかめません」
男の目がすうっと細まった。
「つまりなんだ? あれをどこかにやってしまった奴らがすべて、行方をくらましたと言いたいのか?」
「それは……その……」
まったくもってその通りのことなのだが、宦官はそれを明言したくなかったらしい。
男が鈴を鳴らす。しばし立って現れた武官たちに、男は視線もやらずに言う。
「金髪と金の目の、美貌の女を探して来い。短い髪だ。そして蟲を殺すのにありえないほど長けている女だ。奴隷だろうが何だろうが、探して引っ張ってこい」
その言葉はごうごうと燃え盛る炎よりも熱く、慈悲というものを感じさせなかった。
怒りを如実に表した声に、武官たちはただならぬことだとすぐにわかったらしい。低頭し、速やかに退出した。
残された宦官は、穴があったら入りたいとでも言いたげだった。
「お前も責任をもって探しに行け。さっさとしろ。次はないぞ」
次は命を取られると、明言されたようなものだった。
宦官がほうほうのていで出て行く。
それを無感動に眺めた後、彼は苛立ちを隠さない息を吐き出し、書類に目を通し始める。
草食いの蟲の対応の書類である。
本当ならば、インユェに意見を求める予定だったのだ。
あれだけの知識を持つ蟲狩はほかにいない。
もしくは、北の里に人材を求めれば、同じだけの知識の誰かが来るのだろうか。
それはないだろう。
インユェは経験値が豊富だ。それは本人曰く、蟲狩以外のろくなことをしてこなかったということに基づく事だ。
十年と言っていた。
その間に何人もの仲間を見送ってきたとも言っていた。
十年生き残るだけの技量を持った、当代一の蟲狩、牙。
もしかしたら、と陪都の資料を探せば、その存在が浮かび上がってきた。
北に遠征をしに行った人間の資料で、北の山奥に、その集団があるという報告だった。
牙という蟲狩の頂点をもった蟲を狩ることを生業とする集団だ。
そして……毒に精通している。
それも致死の毒ばかりに。さらにはそれらの解毒方法も、耐性のつけ方も。
その里の人間は知っているという。
あの馬鹿もおそらく知っているのだろう。
言われていないことは話さない、頭の回らない女だからあり得る。
そして牙というのが問題だった。
牙は最強の称号だ。
絶対にして唯一の頂点。
それを冠する人間は、並の人間からはかけ離れるのだ。
蟲を狩るという事に特化し、他のなにもかもを捨てるような人間が多いとも報告に上がっていた。
先々代の皇帝の時の報告だが、これは今でも通用するだろう、と彼は判断していた。
さらに興味深いことに、牙は集団を統率するのが異様にうまいらしい。
あれもそうなのか。
試す価値はありそうだ、というのもまた、男の本心であり、それをやりたくないと思うのもまた本心であった。
あれは自分だけが見ていればいいという、傲慢にして欲望。
あれがきらきらと目を輝かせて、名前を呼ぶのは自分だけでいい。
我ながら、ここまで一人の女に入れ込むとは思わなかったが、あれは別だ。
どこまでも狗のように忠実に、自分に従うだろう女。
そしてそれを、何のためらいもなく行うだろう女。
気にかけずに何と思う。
あれはただ一つ、自分のものだ。
そんなことを思っているせいか、書類をまくる手は進まなかった。
一方のインユェはと言うと、呑気に川辺で水をはね散らかしていた。
まごう事なく水遊びである。
それもこんな冷たい季節にするには、いささか問題のある遊びだった。
ひとしきり遊び、インユェはさてどうするか、と頭を巡らせた。
船に乗っていた男たちは、インユェをほかの奴隷たちから引き離し、何やら会議を行っている。
どうも自分の処遇の事らしいが、インユェはあまり興味がない。
さらわれてしまったものはしょうがない。自分の油断が招いた事を、インユェはしっかりと理解していた。
そのため、その現状からいかに脱出するかも、インユェ自身が見出さなければならないのである。
そしてインユェは、その方法を見出していた。
この周辺は、陪都からそこまで遠くないようなのだ。陪都は大きな川が流れている。
そしてこの船もまた、陪都の奴隷市に奴隷を運ぶための船だった事も、インユェの尋常ならざる耳はちゃんと聞いていた。
つまりこの川を下っていけば、陪都なのだ。
そうすればヤンホゥのいる場所まで遠くないだろう。
歩いていけばいい。
自分にはそれだけの脚力があり、体力もあるのだから。
インユェ自身が思っていても、実際はそうはうまくいかないのが現実だった。
それはインユェの現在の衣装のせいでもある。
奴隷としての襤褸といってもいいだけの身なりは、最上級の階級である、陪都公との接点を見いだせない身なりだった。
こんな襤褸を着た女が、陪都公に会いたいなどと言っても、けんもほろろに追い出されるのが目に見えているが、インユェはそんな事になるなどとは思ってもいなかった。
自分があの男の物なのはインユェにとってただの事実でしかないのであった。
「……さて」
インユェは、裸足に鎖をぶら下げて、頭上を見上げた。
星が瞬いている。星から方角を割り出すのは、別に船乗りばかりではない。
山の蟲狩だって、星を読むのだ。
すうっと目を細め、さて川の下流はいずこか、と割り出し始めたインユェは、後ろから近づく相手を気にも留めなかった。
留めてどうするというのだろう?
河蜘蛛より簡単にひしゃげる人間を、インユェは脅威だと思った事が一度もない。
そのため、警戒をするわけもない。
その気配を無視して方角を割り出し、歩き出そうとした時だった。
「なあ」
声がかけられた。インユェはここで、今気が付いた、という調子で振り返る。
事実、どうでもよかったので、この反応は当然だった。蚊の羽ばたきを、人は気にするだろうか、しないだろう。それと同じ事だった。
そしてそれは、インユェが気配に疎い、と知らない人間には思わせてしまう要因だった。
戦いの達人は、気配を読むのが上手く、常人とは比べ物にならない程、気配に敏感だ。
そしてそれは、態度に如実に出てくるのだ。
しかしインユェは、それとは真逆だ。
そこから、知らない人間たちは彼女が、そこまで強くないと判断する。
そして今回もそうだった。
大股で近寄られても、彼女は止まったままで、避けようともしない。
そのため簡単に、男に腕をつかまれた。
そして引き寄せられる。
「何? 何の用事?」
星空でも光る、大粒の金の目を瞬かせたインユェは、その男に問いかけた。
「……お前は売れない」
「ふうん。じゃあおれがどこに行こうっていったって、構わないだろ」
「大親分が腕の立つ人間を探している。お前はそこに連れていかれる事になる」
「は? 何の冗談? 寝言は寝てから言えよ。そんなの勝手に決めるな」
インユェは笑いながら言った。ここで怒りながら言えば多少、迫力があったかもしれないが、笑ったので、その声がまぎれもなく真実だと、男は分からなかったらしい。
「それだけの腕で、売られるなんて、よほどのことをしたんだろう? 大親分は寛大な方だ、能力が高ければそれだけ、買ってもらえる。人を殺したこともあるだろう?」
男が続ける。それにインユェはまた笑う。
実に余裕しゃくしゃく、と言った調子で。
「おれは、殺せないと思った人間以外は殺せるよ」
相手の問いかけを絶妙にはぐらかし、インユェは答える。殺したとも、殺した事がないとも言わない。
実際には、経験がある。インユェは牙であり、集落の安寧を守るために、盗賊などに手をかけた事はいくらでもあった。
しかし語らないのは、語る理由がどこにもないと、思ったからだけだ。
「ここまで運んでくれてありがとうな、おれは行くよ」
「大親分のところに連れていく、と言っているだろう」
「へえ、おれがどこに行こうともそれは俺の自由だろう? 悪いけど、あんたらがおれを止められるの?」
「止められる」
「ふうん」
インユェの、やっすい挑発に、男はさらに腕の力を籠める。
だが。
インユェは軽く、腕を回した。
途端、男の体は宙を舞い、重力によって一気に地面に叩きつけられた。
叩きつけられた拍子に、息がつまった男が、奇妙な音を立てる。
インユェは、彼を見下ろした。
「あんた、軽いんだよ」
男の体は屈強で重く、とてもそんな風に言える体ではない。
しかしインユェにとってはそれがただの事実で、男にとっては目の前の相手が普通ではない、それどころか何を比較にすればいいのかわからない相手だと、やっと悟らせる事態だった。
男の顔が、夜でも青白くなる。
絶対的強者がそこに立っていた。
見た目の可憐さ華奢さに騙されてはいけない。
そこに立っていたのは、そうだ、大河蜘蛛を一撃で屠ったやつだった。
男は息をのんだ。
夜の月に、その女の髪はさらに輝きを増し、白い肌は夜に浮かぶような見事さで、整いすぎた顔は笑っている。
その中でも、強烈な個性をひらめかせる金の目は、男の無知を笑っているような、呆れているような色をしていた。
これはただの人間じゃない。
男はようやくその事実に気が付いた。
「じゃあ、行くわ」
インユェは、踵を返して歩き始めようとした。
「待ってくれ……!」
男が身を起こす。インユェは、立ち止まらない。
そのまま歩いて数歩。
「頼む、陪都に着くまでは、一緒に来てくれ……!!」
その言葉に、インユェは足を止めた。
振り返る。
「なあに、あんた、陪都まで送ってくれんの」
「ああ、お前は大親分の所にはいかないと言ったが、陪都を目指すんだろう?」
「どこからそう思ったんだよ。理由は?」
「山越えをする人間は、陪都か王都にしか行かないからだ」
男はそう言い、インユェを見上げる。
インユェは目をぱちくりとさせ、納得した。
男がそういうのならそうなのだろう。その程度の納得の仕方だ。元来彼女は単純で、物事を深く考えない。
「陪都まで、船に乗ってほしい。そこからはどこに行っても自由だ」
「その言い方が気に食わない。おれはあんたらの所有物じゃない。おれはインユェ。生きたいところに行く」
陪都に行きたいのはやまやまだが、男の言い方が気に食わなかった。どこに行っても自由など、上から目線もいい所だ。
牙にそんな口を叩く蟲狩は、いた事がない。
そんな事をちらと考え、インユェは男を見下ろした。
「言い方がほかにあるだろう。もっとましな言葉を考えてから出直せば?」
それだけを言い、本当に歩き去ろうとした時だった。
「一緒に船に乗ってください! 蟲を狩れる人間が必要なんだ!」
やっと、インユェがその気分になれる言葉を、男が悲鳴のように言った。
なるほど、大河の蟲を狩れる人間が必要なのか。
最初からそう言えばいいのだ。街の人間は分かりが悪くて行けない。
そう思いつつも、インユェは満面の笑みを浮かべ、男に近付き、手を差し出した。
「そうこなくっちゃな!」
男はここで、目の前の相手が、単純だが矜持の高い相手だと、理解した。
「あ。その前に飯食わせてくれないか? 腹減ってしょうがないんだよ、あとさ、こんな石知らないか? 使うんだけど」
先ほどの切り捨てた態度とは打って変わって、ずうずうしいかもしれない事を言いつつ、インユェは匕首の代わりになるものを探さなければ、と行動を決めた。
「め、飯……?」
男は呆気に取られていた。
それはインユェの、その落差のある性格についていけなかったからだった。