2-1
そしてとうとう、陪都へ移る日となった。
インユェはその荷造りをぼんやりと眺めていた。
本当ならば指揮しなければならないのだが、そういう常識は彼女にはない。
身一つ、匕首一本で出発しかねない主に代わって、宮女たちが用意をしていく。
その手際の良さと言ったら、有能さが如実に出たもので、インユェが指揮したとしても、これだけの事は出来なかったに違いない。
それが十分わかるだけ、インユェは敏かった。
寝台に大人しく座り、足をぶらぶらとさせて用意ができるのを待つ。
そうして支度が終われば、椿殿は、誰でも住めるようになる。
これと言った私物がない状態になるのである。
「すっげえな、こんなに物があふれていたんだ」
身も蓋もない言い方である。最近その言動にやっと慣れた宮女たちは、苦笑している。
「これもあれもそれもいらないのに」
「失礼ですが、どれもヤンホゥ様がご用意してくださったものたちでしょう」
宮女の中でも、もしかしたら、いいや、はっきりとインユェより出自が上の女性が言う。
そんな彼女を見て、インユェは言う。
「だったらおれの物なんだろ? いらないからあげる。荷物そんなにいらない。だいたい山越えするのになんで、こんなにいっぱい詰め込むのかわからない」
「女の支度とはそういうものでしょう。インユェ様も都に来たのですから、もうお慣れくださいませ」
「一生慣れる気がしない」
木箱の真綿に厳重にくるまれた簪たちを眺め、インユェは頭をぼりぼりと掻いている。
百年の恋も冷めるだろうしぐさである。
それを見て宮女たちは、一様にため息を吐くのであった。
「インユェ様、ご用意はできましたか?」
年若い宦官の一人が現れて言う。インユェの代わりに、宮女が返事を返す。
「ええ、全て用意は整いましてよ」
これは、インユェが口を開くともう、だめだからだ。
このとんでもない口の悪さは、夢をぶち壊すからだろう。
インユェはとんでもない玉の輿に乗った女性、という認識が町では広まって久しいのである。
さらわれるように後宮に入り、その美貌から陪都公の目に留まり、寵愛を受ける幸運な美女、という認識だ。
これを持っている官は意外と多く、誰も、まさか現物が蟲を狩る好戦的な女性だとは思っていない。
そのため、宮女たちはその夢を壊すことで風評を下げることを恐れ、できるだけインユェの化けの皮が剥がれないようにしているのであった。
本人は化けの皮云々を一切気にしていないが。
「では、荷物を運ばせますので、インユェ様は輿にお乗りください」
輿。インユェは何だろう、と首を傾けた。
神輿なら知っている。二つ向こうの街ではそういう物を担ぐ祭りがあった。
アレのようなものだろうか。しかしあの時なめた飴はおいしかった。
そんなことを思い出していると、宮女たちがインユェを急かす。
「こちらですよ、インユェ様」
「ああ、うん」
言われたので大人しく、案内に任せる。
椿殿とはここでお別れか、と思うと、悪くない、実に快適な環境だったな、と思わないでもない。
インユェだって、おいしいものが食べられて、温かい寝床があって、死ぬ心配をしない環境というものは好ましいのだ。
ただ、生ぬるくて時折体を掻きむしりたくなるが。
それはさておき、インユェは輿に案内された。
男が複数で担ぐもので、それらの男が屈強なのが当然の仕様であった。
そこに乗り込んで数分後、輿はがたがたと動き始め、またぐらぐらと揺れながら動き始めた。
輿を担ぐのは人間であるので、足をそろえて歩くという事はない。
つまり非常に安定しないのである。
実際に、インユェは最初、輿の中を転がりそうになった。
不安定な場所に立つのは慣れていても、不安定な場所に座るのは慣れていなかったのだ。
とっさに取っ手にしがみついたインユェは、なにもおかしい事ではない。
そんな輿は、上流貴族の一般的な移動手段である。
皇帝などは、もっと美々しく飾り立てられた物に乗り込む。
それを知らないインユェは、こんな物、と小さく悪態をついた。
悪態をつきつつ、これまた小さな窓から、外を眺めた。
一度も遊びに行ったことのない町を、ゆっくりと通り抜けていく。
ヤンホゥに頼んで、お忍びと称して出かけてみてもよかった。陪都では出かけられるだろうか、あれが食べたい、と宮廷では決してお目にかかれない、労働者の食事を思って、インユェは町を眺めていた。
しかし安定の悪い乗り物だ。内臓がぐらぐらと揺れそうだ。そんな感想を抱いても問題ないほど、輿は不安定に揺れていく。
下手に乗れば、あっという間に乗り物酔いになる代物であった。
それに運ばれること数時間。途中休憩をはさみ、運び手が交代しつつ、インユェの輿は、陪都公の兵士たちに守られながら、陪都を目指していた。
山に入って数時間。インユェは、なんとなく眠気を感じて目をこすった。
欠伸を漏らす。ひどい揺れにも慣れてくると、なんだか揺りかごのようである。
それとも、慣れない振動に体が疲れているのか。
別段眠っても問題ないだろう。
そんなことを思って、インユェは髪型が崩れてもいいように櫛を確認し、簪をはずして横になった。
横になるとあっという間に眠気が襲ってきて、それに抗うことなくインユェは深い眠りに入った。
輿は一旦、やんごとない事情により兵士たちの列を抜けて、すぐさま戻ってきた。
輿を担ぐ人間など、兵士たちは顔も覚えないので、違和感に気付かなかった。
輿の中にいる女性がいない事にも当然、気付くことはなかった。
河の音がする。インユェは第一にそう思った。水の流れる音がする。何故だ。
そんなことを思って、体を起こす。妙に暗い気がした。
輿の中と違う場所だ、とすぐさま分かったのは、インユェの寝起きが悪くないからだ。
ここはどこだ。
インユェの体はすぐさま、緊急事態に覚醒する。
自分は肌着一枚に剥かれていて、手足にはじゃらじゃらと鎖が付いている。
なんなんだ。
おかしいのは分かり切っていた。この牙たるインユェが、これだけされても起きないなど、通常ではありえない。
となれば薬か。インユェはすぐさま自分にされたことが分かった。
あの時だろう。食事休憩の時だ。
宮女の一人が、熱すぎるお茶を持ってきた。毒見の女性が、熱すぎるから水を差して来いと言った。
あの時だ。水に何か入れられていたのだろう。
毒に慣れていても、さすがに眠り薬に耐性がないのが失敗だった。
村では、毒は豊富だったが、眠り薬などと言うやわな物は取り扱っていなかった。
それのせいだろう。
もしかしたら、強い毒で、体がやられたのかもしれない。
そこまで考えが巡る。
「ここどこだ」
回りつつも、インユェは冷静だった。冷静であろうとした。
ここで狂乱しても意味がない。それを充分にわかっていたのだ。
立ち上がる。やはり鎖につながれている。
だが、鎖自体はどこかに結ばれているわけではなく、両足と両手にかかるだけだ。
立つことも歩くこともできる。
充分だ。
そんなことを思いつつ、インユェは漏れる隙間から、外へ滑り出た。
そして驚いた。
船は屋根のついた建物を船にしたような造りで、自分はその建物の部分にいたのである。
外では船を操る人々がいて、河は見たことがないほど広く、山々は峻険だった。
これは初めて見るもので、状況が状況であったが、インユェは目を丸くした。
「すっげえ!」
走って船の端による。河は美しい緑いろで、山の木々はとても青い。
名画の中にいるようだった。
名画などほとんど見たことがないが。
「お前、どこから逃げ出してきた!?」
そんなインユェに、声がかけられる。強引に肩をつかまれても、インユェが動くわけがない。
だが、インユェは情報欲しさに従った。
「あ、ひげだ」
声をかけてきた男はひげ面で、無頼漢という風情だった。
普通の女性なら関わりたくない男だった。
だがつくづくインユェは、普通ではない。
「なあなあ、おれなんでこんなのついてんだ? ここはどこだ? おれはどうなるの?」
男の方も、まさかこんな弱弱しげに見える少女が、こんな状況でもケロッとした声で疑問を次々ぶつけてくるとは思わなかったに違いない。
彼も目をしばたかせている。
「お前、自分の状況分かっているのか?」
「ぜんっぜん!」
インユェははっきりと明言した。事実わかっていない。
薬を盛られただろうことはわかっても、その後が分からない。眠らされていたのだから。
それを示せば、ひげ面の男はにやりと笑った。
「可哀想にな、お前は売られるんだよ、金髪に金の目で、こんなに色が白いんだ、高く売れるだろよ」
「それはヤンホゥ様が俺を売ったという事?」
それはありえないだろうな、と言いつつインユェは判断していた。
彼ならば、ちゃんと自分にそれを言うだろう。
そして、彼というくびきから解き放たれれば、インユェはどこまでも自由に動ける。
男は頷く。そこから、やはり嘘だな、とインユェは察した。
「売られたんだよ、お前は。どこの妾だったんだ? そんなに口が悪くて。俺がたっぷり教えてやろうか?」
下卑た声で、じろじろと体を眺めまわされても、あいにくインユェは気持ち悪くない。
蟲だのなんだのの、捕食者のまなざしを受け止めるインユェは、たかだかこの程度で気分を害さないほど、鈍くなった。
そして根っこが単純なので、男に顔を近づけて、問いかける。
「教えてくれんの? やったね、誰もおれにまともな言葉遣い教えてくれねえんだもん。丁寧にしろって言いつつそれだぜ? ないよなそんなの」
男はと言うと、調子が狂っているらしかった。
当然だ。
こんなどこかの令嬢のように、傷一つない少女、それも大変な美しさの少女が、目をキラキラと輝かせて顔を寄せてくるなど、人生で一度もありはしないだろう。
「あーっと……」
言葉が行方不明になったとしても、それは男のせいではない。
対してインユェは、状況を楽しんでいた。そして好都合だと思っていた。
売られるならば、適当な隙をついて逃げ出せばいい。
こんな細っこい鎖が、自分を戒められるわけがないと知っていたので。
そして、言葉遣いを教えてもらえるならば、それに越したことはなのだ。
男が口を開閉させた時だ。
不意に船が、ぐうらりと揺れた。それは唐突な揺れ方だった。
インユェは少しだけ体重を移動させるだけで、立ち続けた。
男は無様に転がった。船の漕ぎ手も、水先案内人も転がる。
水しぶきを浴びながら、インユェはそれを見た。
それは大きな、船一つを壊すことを可能にしている巨体の、大河蜘蛛だった。
背中にあぶくを背負う事で、潜水を可能にした大蜘蛛は、人間の体液が好物である。
こんな風に出会ってしまえば、まず誰かが犠牲になること間違いなしの、そんなとても厄介な蜘蛛だった。
そう。
彼女がいなければ、この船もたちまち壊され、大蜘蛛は獲物を複数手に入れていた事だろう。
インユェは拳を握った。両手を広げ、鎖を引きちぎる。
その時点で、男たちがひきつったのも無視して、インユェは跳躍した。
「危ない!!」
大蜘蛛の超至近距離まで跳んだ彼女を見て、先ほど話していた男が言う。
根は悪い奴ではないらしい。そう判断しつつ、インユェは握った拳を、蜘蛛の頭に叩き込んだ。
全身の力を余すことなく伝えた、それは強烈な一撃だった。
蜘蛛の頭がひしゃげ、複数の複眼がつぶれ、体液が飛び散った。
蜘蛛は必殺の毒も糸も、全く使えなかった。
使えないまま足をわななかせ、ずるずると船から落ちて行った。
残された人間たちは、それをあっという間に行った少女を、呆然と見ていた。
インユェは、惜しいことをしたな、などと考えつつ、頬に飛び散った体液を手の甲でぬぐった。口の周りについたものをべろりとなめる。
悪くない味がした。




