1-15
陪都公は毛色の変わった猫に夢中らしい。
インユェはそれを、思い出したように茶会で言われた時、それはどんな猫だろうか、と考えた。
茶会の主催者はシャヌ姫で、彼女とだいたい同じ程度の身の上の女性たちが集まった茶会である。
シュエイジン姫ほど身分の高い女性は、この茶会には参加していない。
恐れ多くて、招待できないのだ。
身分が低いという事はそういう事で、南の小国の王女であるシャヌ姫は、この大国の宰相の娘である、シュエイジン姫と比べれば、身分が低くなるのだ。
そのため、シャヌは気の置けない仲良しを呼んで、気楽なお茶会を行うのである。
そこにインユェを招待したのは、友達たちが、一度でいいからインユェに会ってみたいと言ったからだという事を、知らないのは本人だけである。
それはさておいて、インユェは村を思い出していた。
猫はネズミを捕る。だがそれを言うならば小型の犬の方がずっといい。
犬は教え込めばそれなりに使えるし、やってはいけないこともしなくなる。
だが猫は違う、あの自由気ままな、しなやかな獣は。
木造の建物を見事にだめにする。インユェはそれを知っている。
ネズミ対策として、小型の犬から猫に転向しようとした年があったのだ。
旅の商人という情報源が、猫の方がいいだろうといってきたのだ。ネズミを捕るなら、普通は猫なのだと。
そのため、高いお金を払って、いい子猫を何匹か買ってきて、村で育てたことがあるのだ。
だが、結果は悲惨で、建物という建物で爪とぎをされて、壁と言い柱といいがぼろっぼろにされて、おまけに猫はおいしいものの方が好きだったようで、村のやせたネズミよりも、脂ののった蟲の肉ばかり欲しがり、ネズミ捕りなんてしなかった。
そんな猫たちは、美しい姿をしていたそうで、旅の商人がその美しさゆえに欲しがり、格安で子犬と交換してしまったのを覚えている。
フーシャは嫌がったが、村の建物という建物をだめにする猫を、放置しておくわけにもいかず、不承不承フーシャのような、猫をかわいがっていた主に女性たちを、インユェは説き伏せたのを覚えていた。
あの猫たちはどうしているだろう。
インユェは村の猫たちを思い出した。つややかな体毛、しなやかな動き、確かに毛並みはとても良くて、インユェは実はあれのような毛皮がほしかった。
商人に売られた後の末路は知ることもできないし、同じ商人が北の里にやってくることはそうそう多くなく、猫を欲しがった商人が猫をどうしたかも知らない。
そんなことを思ったので、インユェは毛色の変わった猫が、いかような猫なのか疑問に思ったのである。
都では役に立っているのだろうか。
「どんな猫?」
そのためインユェは、それを言ってきたシャヌ姫に問いかけた。
彼女は怪訝な顔になった。
「猫っていろいろいるんだろ、毛足の長いのから短いの、ぶち模様から虎縞、目玉も青だの金だの。ヤンホゥ様が大事にしている猫ってのは、どんな猫なんだ?」
インユェは卓の上のお茶を一口すする。
都のお茶はインユェが飲んでいたようなお茶と違い、あっさりとしている。
じつは薄くてちょっと苦手だ。そして平地は水がまずくて仕方がない。
山の湧水と比べているからいけないのだが、インユェは飲むものは基本湧水を使っていたので、それを珍しいことだと知らない。
「とても美しい猫だとか」
返答に困ったシャヌ姫の一人が言った。
「ヤンホゥ様の部屋では見たことがないな」
インユェは彼の部屋を思い浮かべた。建物もきれいなものだったし、猫の爪痕もなかった。
猫が寝るだろう場所もなければ、餌や水の器もなかった気がする。
もしかして、とインユェは心の中で予想した。
どこかの后妃が、それは素晴らしい猫を飼っているのだろうか。
そうに違いない。
一人うんうんと頷けば、スイフーの后妃の一人が言う。
「金の毛と金の目をした、それは素晴らしい猫だと聞いていますわ」
金の毛か、それは縁起のいい猫なのだろう。
「ふうん」
インユェはそれだけを聞いて、後は興味をなくした。別にあの人が猫を好むから、自分の仕事に支障が出るわけでもない。
愛玩するなら好きなだけすればいい。自分は関わらない。
「それはそうと、インユェ様はご寵愛が厚くていらっしゃいますね」
ほかの后妃が言う。彼女の顔は初めて見た。
いったいどれだけ、スイフーの后妃は存在しているんだろうか。
以前言っていたように、千人規模なのか。
そうだったら、かつての自分のように、ご飯も食べられない女性がいるんじゃなかろうか。
そう思うと、なんとなく複雑な気分になった。
食べられないのはつらいことだ。
見たこともない誰かに、インユェは同情した。
そうして思いつく。そうだ、たくさんもらった着物を売り払おう。確か、后妃たちの御用達の女性の商人が、定期的に回ってくるはずだ。
そう言った女性たちに売り払い、お金を作って、炊き出しでも行えば。いいや、保存がきくように、小麦粉を配れば。
そんなことを考えつつ、聞いたことのない単語に首をかしげる。
「なんでチョウアイが厚いの?」
チョウアイの意味が解らない。また、わからない単語だ。
街の単語は訳が分からないものが多くて困る。
まあそれを言えば、山の言葉は平地には訳が分からないものに違いないのだが。
「毎晩、ヤンホゥ様がお呼びになるのでしょう?」
「まあそうだけど」
それがどうした、という感じである。自分は彼の衝立で、陪都に行ったときに余計な混乱を防ぐために、毎晩通っているだけなのだ。
「ヤンホゥ様が毎晩同じ女性を呼ぶなんて、今まで一度も聞いたことのないことですもの」
「ええっと。毎晩違う女だったりはしたの」
毎晩違う女性だったら、顔なんて覚えられないんじゃなかろうか。
インユェはそんなことを思いながら、問いかけた。
親切に答えてくれる后妃の一人。
「ええ。ヤンホゥ様は見目麗しいかただし、陪都の主ですし。その妻の座を狙った女性たちが、あらゆるつてを頼って寝所に行っていたのですよ」
陪都の主だからもてるのか、それとも見た目がいいからもてるのか。
インユェはちょっとわからなかった。
「でも、おれは今まで一回も、そういう女性に会ったことがない」
鉢合わせをしたこともない。押しかけるんだったら、一回くらい鉢合わせをしていてもおかしくないのだが。
「それは、宦官が調整していますから」
「ふうん」
自分に被害が降りかかってこなければ、構いやしない。
そしてこのインユェは、己に降りかかる火の粉は振り払える。
その自信がある。自分はできると知っている。
「そうだ、ねえ、陪都ってどんな街か知ってるか? おれはよく知らないんだ。やっぱり王都みたいに壁があるの?」
そこでとうとう、たまりかねたように、后妃の一人が言う。
「インユェさま、どうしてそのように不調法な口調なのです? その口調さえなければ、あなたは三国一の美姫といっても過言ではないのに」
「これで生きてきたから、だけど。そんなにダメなわけ? ヤンホゥ様にはちゃんとした言葉でしゃべってるから問題ないんじゃないのか?」
インユェの言葉を聞いて、后妃はため息を吐き出した。
この后妃はインユェをあまり知らないで、シャヌ姫の主催するお茶会に参加した。
そして、初めて対面した陪都公の寵愛する女性を見て、息をのみそうになったのだ。
それくらい、インユェは周りと全く違う美しさだったのだ。
彼女は今まで、女性はたおやかにしなやかでなければ、美しいと言えないと思っていた。
だが、その常識は見事なほどひっくり返された。
インユェの、無造作な着こなしの衣装や、朱宮では非常識なほど短い髪の毛や、粗雑な態度は、正直眉を顰めるもので、美しさとは正反対だったはずだった。
だが、彼女はインユェの美しさに圧倒された。
気配が違うのだ。圧倒される気配。皇族ではないのに、膝をつきたくなる迫力。
そして、それに拍車をかける、なんといえばいいのかわからない美しさ。
衣装も化粧も何もないがゆえに、生来の美しさが際立つ。
粗雑な態度も、実にしっくりくるのだ。
それでも、やはり、口調が気になってしまった后妃だった。
インユェというこの美少女が、もっとたおやかな口調でしゃべれば、あらゆる男たちが膝をつき、愛を希うと思うと、実にもったいなかったのだ。
「ヤンホゥ様とお喋りをしているのを聞くけれど、あなたのそれはちゃんとした敬語とも言えないわよ?」
シャヌ姫が微笑みながら言う。后妃は頷いた。
何度か、回廊を歩く二人を見たことがあるが、その漏れ聞こえてくる口調は、今よりまし程度の丁寧さだった。
しかしインユェは、きょとりと目を丸くした。
「え、おれそんなに口悪い?」
自覚がないのも考え物だ、とよく言うが、まさにそれだった。
インユェは周りを見回して、誰もがなんとも言い難い顔をしているので、本当に自分は口が悪いらしい、とやっと気づいた。
だが直せるものでもない。十八年、インユェはこれで生きてきたのだから。
十八年分の蓄積が、真っ白になるわけでもない。
まあ、ヤンホゥが何か言ってくるまで直さなくていいだろう、とインユェは結論付けた。
自分の主はあの男ただ一人で、命令を聞くのもあの男だけだ。
それ以外の誰にも、インユェは従わないと決めていた。
「話戻すんだけどさ、陪都のこと知らないの?」
インユェの問いかけに、后妃たちは顔を見合わせた。
「知ってるんだ。何でもいいから知っていること教えてくれないか? 何にも知らない場所に行くの嫌なんだ」
その表情から、知っているのだろうとあたりをつけて、インユェは問いかける。
何も知らない場所に行くのは、王都だけで十分だ。
「陪都はね、農業が盛んな場所なのですよ、王都で食料が不足すると、皆陪都に行くのです」
「外の畑だけじゃ、賄えないこともあるんだ」
そう言えば、スイフーも似たようなことを言っていたな、などとインユェは思い出した。
「飢饉はよく起こりますし。陪都はそれにとても栄えている都ですわ。インユェ様がみたらきっとびっくりして目を落としそうになるかもしれませんね」
「商業も盛んで、絹の道という交易の道の中継地点なの。だから胡人も多いし、東からの商人も多いの。ここよりも珍しいものがたくさんあるわ」
「この宮の時点で、珍しい物多すぎるんだけど」
「インユェ様は、素朴ですね」
后妃の一人が言う。
「ただの野蛮なだけだよ」
インユェが当たり前の調子で言えば、彼女たちは困った顔になった。
「インユェ、あなた本当に変わっているわね」
「山育ちの常識が、平地と合わないだけだよ」
しれっとそう言い、インユェはお茶菓子をつまんだ。
先ほどから視線を感じる。椿殿に戻ったインユェは、その視線をたどった。
見られていることに気付けない牙はいない。
ここは朱宮だから、命の心配をしなくてもいいかもしれないが、視線の行方程度は気にしなければいけない。
さりげなく靴に触れ、インユェは目をそちらに向けた。
誰かがいたような気がしたが、もうそこにはいなくなっていた。
「おかえりなさい、インユェ様」
「インユェでいいって言ったのに」
「あなたは陪都公の后妃様なのですから」
宮女が言う。
インユェは彼女たちを見て、そういえば、彼女たちのご飯の手配をしたことがない、という事をふと思い出した。
「ねえ」
「なんでしょう」
「おれに仕えてくれている人たちは、ご飯に困っていたりしない?」
「はい?」
「ご飯に困ってたり、寝るところに困っていたりしない?」
インユェは、飢えのつらさを知っている。
そのため、身近な女性たちが、それに困っているということは、嫌だった。
「椿の者は、寝食に困っておりませんよ」
「本当に?」
「陪都公が手配してくださいますから」
「もし、困ったら、おれの衣装どんどん売っていいからな?」
インユェの言葉は、后妃としてはありえない言葉だった。
どこの后妃が、自分の衣装を売っていいなどと言うだろう。
普通は言わない言葉を聞いて、宮女たちは顔を見合わせた。
だがインユェは真顔で、言う。
「ご飯食べるのできないの、辛いだろ」
そこでようやく、彼女たちは、インユェの出自を思い出すのであった。
今日もお召しである。インユェは匕首をきちんと確認してから、宦官に連れられてヤンホゥの部屋に行く。
入れば、待ちかねていたらしい彼が、書物を片手ににやりと笑う。
「遅いぞ、インユェ。待ちくたびれた」
「ここから椿までの距離を思ってくださいよ。どれだけ遠いと思ってるんですか」
「陪都ではもっと近いな。牡丹はもっとも陪都公の寝所に近い殿舎だ」
「へえ。そんで、どこまで話しましたっけ」
「穴ヤゴの特性の続きだ」
「ああ、そこまででしたっけ」
言いつつインユェは、すっかり慣れたヤンホゥの隣に座る。
書物に書かれていない、蟲の特性を話していく。
どれもこれも、実地体験で身に着けたもので、非常に信憑性があるのだ。
「こいつらは、ぬかるみに多くいて、たぶんでかい河にはめちゃくちゃいるんじゃないですかね、顎が伸びるから本体を引きずり出すまでに、結構大変です。尻尾を叩ければ飛び上がって浮いてくるから、それをぶすっといくのが基本」
言いつつインユェは、ヤンホゥを見ている。
彼は知らないことに目を輝かせていて、インユェに態度だけで、もっと語れと訴えてくる。
「村ではどうしていたんだ?」
「薬草があって、蟲寄せって皆呼んでる草を、蟲の肉にこすりつけて、紐をつけていそうな場所に投げつけるんです。顎が伸びたらそこから距離を測って、尻尾に石を投げて、浮き上がってきたら背中にある神経のかなめに一撃を入れてた」
「蟲寄せの薬草か、聞いたことがないな」
「どこにでもある草ですよ、赤い花が咲くんです。一抱えはありそうな花で、これの蜜をすいたくて、それなりの蟲が寄ってくるから、便利な餌でしたよ」
そんなことを言いつつ夜は更けていく。
いつもこうなので、インユェは何も疑問に思わない。
「そうだ、今度、村の武器を再現して見せましょうか」
「あの妙な匕首以外に、あるのか」
「ありますよ、手軽なのが」
「それで蟲は殺せるのか」
「距離を測れば」
言いつつインユェはあくびをする。
「眠いのか」
「うん。眠い」
「では寝るぞ。お前は眠くなると話が知っちゃかめっちゃかになるからな」
「そう言うわけじゃ」
反論するも事実なので、インユェはヤンホゥが示す寝台に寝転がる。端により、主の寝る場所もきちんと確保する。
隣に滑り込んでくる温かい体温。
ふっと目を閉じて、意識が暗くなる。
そうして目を開けるのは、薄暗く夜明け間近な時間だ。
インユェは絡んでいる腕をはがし、寝顔を眺める。
ヤンホゥの寝顔は、たぶん共寝をしている自分の特権なのだろう。
轟々と燃える目が閉じられていると、少し幼くも見えてくる。
だが自分より年上なのは確実なので、年上にかわいいは失礼だろうな、などとインユェは考えている。
耳を澄まさなくとも、朝の用意をしに来る宮女たちの物音がする。
インユェは身なりを整え、宮女たちと鉢合わせをしないように、滑るように部屋を後にする。
慣れっこになったので、椿に帰るまでの道も覚えているのだ。
そして帰れば、誰も起きていない椿殿の庭で、体を動かす。
インユェが、一人ヤンホゥを独占しながらも、大きな噂にならないのは、この行動が原因だった。
普通の后妃は、夫が起きるまで共にいることが多く、傾国の女性の伝説では、朝も昼も夫がともにいたがるらしい。
だが、さっさと帰るインユェは、それとは逆で、政務に支障をきたさないので、独占していても声高に非難されないのだ。
ただインユェは、宮女たちがうるさいのが嫌で、ヤンホゥと一緒に麻の支度をすると、訓練の時間が減るからさっさと出て行くだけなのだが、周りはそうは受け取らないという、いい例だった。