1-12
なるほど、初対面の時の対応は一般的な対応だったに違いない。
ここ数日、貴族というものに触れてきたインユェは、蟲の入ったスープをまた一口飲みながら、后妃たちのお喋りを聞いていた。
どうもこの集まりの頂点は宰相の娘であるシュエイジン姫で、彼女の庇護を受けている部分がある女性たちばかりのようだ。
そんな彼女たちの会話は流れるようで高等で、インユェの頭の中を右から左に通り抜けていく。
それを幸いと、インユェはお菓子に手を伸ばす。どうにも、食事の保障があっても、インユェは目の前に食べられるものがあると手を伸ばしてしまう。
それも、別格においしいものならなおさらだ。
そしてなんともうれしいことに、あの蒸し菓子と同じものが卓に並んでいる。人数分あるので、一個は食べてもいいだろう。
インユェはそう判断した。点心は驚くほど繊細な味わいで、蟲の体液を水代わりに飲んでいるような奴が食べるには、いささかもったいないほどだ。
シャヌ姫は、インユェよりも緊張しているようで、顔つきが固い。自分から話を始めることがないのは、いったいなぜなのか。
インユェだから思う事だが、これは普通のことなのだ。身分の低いものが、その場を仕切る女主人よりも出張るのは無礼で、シャヌ姫の対応もまた、一般的なものだった。
それをインユェが知らないだけで。
どうも自分は、知恵がなさすぎるようだ、とインユェは話を聞いている。
右から左に流しているだけだが。
こうして女性たちを見ていると、やはりあの時の自分は、つまみだされてぽいっとされてもおかしくない風体だったのだな、と実感していた。
彼女たちの衣は清潔で甘いいい匂いがして、そしてとてもきれいだ。
壁画にある天女のようだとまではいかないが、それと同等だと思う。
こんなものを日常的に着ているのだ。あの時の、悪臭を放つ狩人衣装を着ているインユェは、ものすごい無礼というか、汚い存在だったに違いない。
小汚い、なんてものすごくやわらかな言い方だったのだろう。
追っ払われて当然だったのだな、とやっとわかった。
わかるまでに非常に時間がかかったが、納得できたインユェは気分がいい。
そんなインユェが見ている間、彼女たちは優雅に流行の衣装や最近の行事の話などをしている。
どれも聞き覚えのない、謎の言葉の羅列だ。
聞かなくても問題ないだろう。
どうせ陪都に行ってしまう身の上だ。
王都の行事を知らずとも、問題はないはずだ。
そんなことを思いつつ、蟲の汁物を一匙。よくアクが抜かれている蟲の出汁は、煮だした苦すぎるお茶にちょっとした甘さを加えている。
非常においしい。これお替りできないものだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「それにしても、インユェの肌はきれいなものですわね」
シュエイジン姫が、インユェを見やって話しかけてきた。
彼女は、インユェをそれなりに扱うことにしたらしく、初対面の時とは全然違う態度である。
それもたいしたことではない。
日常のインユェを見た後に、牙のインユェを見た旅の商人は、同じ人間に対する態度とは思えない態度になったものだ。
とても下出に出た態度になったものだ。
それはインユェが突出した蟲狩の腕を見せつけたからなのだが、そこまで思い至らない足りない頭のインユェは、気にも留めなかった。
それと似たようなことが起きていても、インユェは一向に気にならない、普通だと思っているのだから。
「何か特別な方法を知っているのではなくて?」
インユェは知らなかったが、都では玉の肌はもてはやされている美の象徴である。
滑らかな真っ白い肌というものは、この王都では大変な価値を持っていた。
しかし聞かれたインユェは、ううん、とうなった。
村ではインユェ程度の肌の男性が山といて、彼らとの共通点は何だっただろうか。
ちょっと思い出して、インユェは椀をみた。
「たぶん、これ」
これ、と指さされたのは蟲である。
かたい殻付きの芋虫を指さし、インユェはとうとうと語る。
「これな、すごい滋養があるんだ。あと、蟲の生血っつうの? そういうの飲んでるやつの方が肌きれいだよ。穴蜻蛉の幼虫、穴ヤゴっていうんだけどな、それを絞った汁は肌荒れにすごくいいんだ。面皰とか腫物とか、何でも治っちまう。北の山じゃみんな顔に塗ってた」
聞いている女性たちは呆気に取られている。
それは聞いたことのない文化だからだろう。
「そうなの……? 聞いたことがないわ」
「山の知恵だし、平地で穴ヤゴはええっと……あ、いっぱい採れるっけ。湿っぽい土にいっぱいいるもんな。まだこっち来てから見たことないけど。たぶんいるよな、温かいほうがわいてくるわけだし」
シャヌ姫の呆気にとられた声に、またこれも呑気に返す。
蟲の知恵は、別段隠しているわけではないのだ。
「ねえ、それはどこで手に入るかしら?」
女性の一人が身を乗り出す。
彼女は顔にできものができていた。化粧をそれで隠しているようだった。
「どこって……考えたことない」
インユェは問われて、答える。
「おれそういうの、採ってくる役割だったし……お金払って手に入れるものでもなかったし、いつでも欲しかったら採りに行ったし……」
少しぼんやりと話すインユェ。
話ながら、彼女は思い出していた。フーシャとの思い出を。
顔にひどいできものができてしまったフーシャは、それを痛がっていて、痒がっていて、可哀想だったのだ。
だからインユェは、天候が悪いのに、山に入った。
そして目的の穴ヤゴを手に入れたが、雨のせいで足場を崩し、どことも見当がつかない場所で一夜を明かしたのだ。
一晩あけてみればそこは、村の放牧場と目と鼻の先のような場所で、ほっとしたことを思い出した。
フーシャはもう、それは泣きじゃくり、人目もはばからず泣き続け、もうそんなことしないで、と訴えてきた。
おまけに義弟たちが、普段は絶対にしない怖い顔で、インユェを怒ったのだ。あれはびっくりした。
村は牙の突然の失踪に慌てふためていて、捜索隊を結成する寸前だった。あれは迷惑をかけてしまったな、などとさすがのインユェも思ったほどだった。
穴ヤゴの効果はてきめんで、一週間でフーシャのできものは治っていた。
そこだけはよかったわけである。
「あなたが採ってくるの?」
后妃の一人が不思議そうな声で言う。
「あなたでも捕まえられるなら、誰でも捕まえられるのではなくって?」
もう一人の后妃が言う。
インユェはそこで気分を害した。
誰でも捕まえられるならば、牙の誉れはない。
穴ヤゴは伸びる口を持っていて、距離を測り間違えたら一瞬で食われてしまう。
それで何人も足を失ってきた。ひどいときには同じ年に、爪が二人食われたこともあった。
「誰でもできることじゃねえよ」
インユェの声は低くなった。
誰でもできることではない。
この、自分だから一人でどうにかできるのだ。
同じことを、そこら辺の人間に行われては面目丸つぶれである。
インユェの、今までの何をいわれても平然とした調子とは、一転した声に、后妃たちは動揺した。
声が違う。気配が違う。
目の前にいるのは、ただの女ではないと、女の直感がなくともわかる。
以前それを目の当たりにした、シュエイジン姫は一番よく分かったらしい。
「ごめんなさいね、蟲狩のことを、わたくしたちは何一つとして知らないのですわ」
「そう? そういうもの?」
「蟲狩なんて初めて聞く職業だわ」
一人の后妃が言う。彼女の名前を聞いていないことを、インユェは思い出す。
だが聞いても、意味がないだろう。
名前を聞いても、どれくらい偉いのか、わからないのだから。
インユェは、どう説明しようか、と考えた。
蟲狩は当たり前の職業だと思っていたせいで、的確な言葉が思いつかないのだ。
麗妃に言ったように、長ったらしく説明をしても聞いてくれるだろうか。
インユェはうんうんと悩んだ。誤解されてもどうも思わないわけではない。
ちゃんと認識されないのは、ちょっと癪に障るのだ。
「蟲狩はな、文字通り、蟲を狩るんだ。蟲ってわかる?」
「大きな虫でしょう?」
「どれを蟲っていうかわからないけど。そうだな、普通の虫と違うんだ。あ、思い出した。大地の気を吸収して育つのが、蟲って北の山では言う」
「普通の虫とどう違うの?」
「特別な力や薬効がある。すごい奴だと、一滴で千人を殺す猛毒を生成できるよ」
インユェがあっさりとしゃべることは、后妃たちにとって未知の世界だ。
「あとな、生命力が半端じゃない。なかなか死なないし、倒すのだって厄介だ。大型になればなるほど、危険は跳ね上がる」
「それを、狩るの?」
「うん。蟲狩は、そういうのを狩るのが職業。おれがいた北の山では、山に入ってひたすら蟲を追いかける生活をしたりした。おれも半年、山にこもってたこともある」
「まあ……」
彼女たちは驚いている。
それくらい、インユェがそんな生活をしてきたように見えないのだろう。
仕方がないことだ。見た目ばかりは変えようがない。
「あと、お金持ちの女の人なら、持ってない? 蟲の皮」
「持っているけれど……?」
「あれはぎ取ってくるのも蟲狩の仕事。あれの肉、うまいんだよな」
インユェは、誰も手を付けていない点心を一つつまんだ。
口に入れる。ふかふかとした生地は柔らかく、中身はあまいさらりとした漉し餡である。おいしいのでもう一個。
「こういったものとどちらがおいしいのかしら?」
問いかけてきたシュエイジン姫は強かった。
いいや、インユェを自分とは違う世界の人間だと、判断したからかもしれない。
「甘いのはなんでもうまいよ。村じゃこんな手の込んだ料理食べないし。箸も使ったことなかった。おれの村な、蕎麦の粉を水で溶いて薄くのばして、焼いて、山菜と一緒に蟲の肉を包んで食べるのが普通だった。お茶菓子は香辛料を効かせた干した蟲の肉だった。蟲もうまいよ、でも甘いお菓子はいっぱい感動するな」
「まあ」
シュエイジン姫がくすくすと笑った。
「あなたにどうして、第一皇子様が興味を持ったのかが分かったわ」
「ふうん」
「だって、近年陪都の付近では、蟲の被害が深刻なんですもの」
「なるほど、経験者が必要ってわけか」
「そうなのですか?」
シャヌ姫が聞く。驚いた声に、シュエイジン姫は頷く。
「穀物の畑が、軒並みやられたという話も出ていますのよ? もっと南では、人が食い殺されているとか」
「まあ、なんて恐ろしいんでしょう」
「王都は城壁がありますから、安全ですよね」
インユェは、それらを聞いて、自分は衝立のほかにも、そういうものにかかわることをしていくことになるのだな、と判断した。
ヤンホゥのそばにいる以外に、そんなこともしなければならないのか。
仕事が多そうだ。
というか、どこから教えればいいのだ。
インユェは、まだ始まってもいないものを考え始めた。
蟲の生態からか。
それとも狩り方か。足跡の見分け方か。
呼び寄せ方か。人らしさをごまかす方法からか。
いったいどれから始めればいいんだろうか。
ぐるぐると考えが回り始めたインユェを見て、シュエイジン姫はさらに別の話題を持ちかけてくる。
「あなたは、ヤンホゥ様と親しいのかしら?」
「ええっと?」
考えていたところに、急に話を持ってこられて、インユェは戸惑った。
「なんで?」
「この前、一緒に食事をしていたと聞いておりますわ。そのあと、同じ部屋で眠ったとか」
シュエイジン姫以外が、どよめく。
陪都公の寵愛のある女性ならば、彼女たちのように、夫が渡ってこない女性よりも、宮廷内で権力をふるえるからだ。
「ああ、あれ。飯食って床で寝たらいつの間にか布団に運ばれてた。その時何されてたのかはわからない。でも、あの人、寝たのか?」
言いつつインユェは、その時を思い出し、眉を動かした。
衝撃だったことに、眠っても気を抜かないはずの牙、インユェは、男に運ばれてしまっていたのだ。
衝撃以外の何物でもなかった。今まで一度もそんなことがなかっただけに。
しかし、男はインユェが起きた時に卓上の書類を仕分けていたので、一晩のうちに何が起こったのか、インユェは当事者なのにわからないのだ。
「寝てないよな……あれ絶対に寝てない。徹夜は能率が悪いのに」
インユェはぶつぶつと言い、それからああ、とシュエイジン姫を見やった。
「お姫様はヤンホゥ様の寵愛がほしいのか?」
それを聞いて、シュエイジン姫は微笑む。
「いいえ」
はっきりとした否定だった。そこに嘘は見当たらなかった。
「わたくしは、第一皇子様の后妃ですもの」
「えらいなあ、ブレてなくって」
インユェは感心し、果物に衣をつけてからりと揚げて、飴を絡ませたものをつまんだ。
「うまい」
しかしシュエイジン姫以外の女性たちは真っ青である。
当然だった。
自分たちの不作法な発言を、忘れるわけがないのだから。
言われた当人はすっかり忘れているが、言った方はもう、血の気が引いてしょうがないのだ。
そんな時だった。
「インユェ、ここにいたのか?」
笑い声を含んだ、美貌を連想させる声がかけられ、女性たちは声の方を見て、目を見開いた。
そこには陪都公が立っていた。
「ヤンホゥ様」
インユェは立ち上がった。
そして一目散に近付き、裾に膝に、土がつくのも構わずに膝を着こうとした。
「服を汚す。立ったままでいい。インユェ、お前が椿にいないと聞いて、驚いてみればここか。なにか楽しい話をしてもらっていたのか?」
「お貴族様の上等なおしゃべりを聞いていました。お菓子おいしいです」
インユェは馬鹿なほど正直に、言っていた。
もともと嘘はつかない性分だ。それを聞いて、男ヤンホゥが、笑いながら問いかけてくる。
「お前は甘い菓子も好きか。そうか。ほかに何か困ったことはないか?」
「いいえぜんぜん。そうだ、でもわがままを言っていいのなら、動きやすい服がほしいです」
「お前はその格好が似合っているだろう」
「頭が重いです」
「着飾って俺を楽しませろ」
「それもお仕事ですか」
「そうだな」
「わかりました」
インユェが、ヤンホゥに間違いのない忠義を誓っているように見えても、なにもおかしくない光景だった。膝をついて、両手を合わせて、一礼をするなど、昨今の貴族ですら行わない、ありえないほど正式な、そして厳粛な忠義の姿勢だった。