第五話
青緑色の非常口電灯、赤色の警報ベル電灯、白色の足元の電灯が朧げに光る廊下にコツコツと革靴の音が響く。
既に消灯時刻を過ぎた深夜。診察時間も面会時間も終え夜勤の担当医や看護師、そして眠りに着く患者達のみ居る事が許されている筈の病院に訪れたのは優の父親の春。その出で立ちは日中の明るさとはかけ離れた物だった。
身を包む黒いスーツはバーの仕事帰りとも思わせるが、それ以上に固く閉ざした口、そしてギラギラと光る鋭い視線が彼の剽軽さを一切感じさせない。
308号室。優が居る病室の前に到着した彼は、音を立てないように気を付けながら引き戸をゆっくりと開けた。
室内は暗かったが、窓の白いレースのカーテンに膨張した外の駐車場の電灯の光が、鈍く部屋を照らしていた。だが見える、という程の物でもないその部屋に躊躇なく足を踏み入れた春は一直線に息子が眠るベッドへと近づいた。
(優、お前を守るのは俺の役目だからな)
心の中で呟いた春は息子に向けて右手を翳した。する手の平の中心が淡く光だしたと思えば光は春の手を包み、光は伝染するように優の体も包み込んだ。
(これで……優はまた普通の暮らしができる…。お前は知らなくていいんだ、何も)
光によって照らされた何も知らない息子の健やかな寝顔を見つめながら、眉を顰めている筈の春の口元は弧を描いていた。葛藤、という言葉がその表情に合う。だが春はその葛藤を払拭する為にも、今やるべき事を完遂するべく顔を引き締めた後、集中するように目を閉じた刹那、翳していた右手をガシリと掴まれ驚き閉じていた目を開けた。
「……親父、」
この部屋に居るのは春と優のみ。もちろん春の手を掴むのは優しかおらず、寝ているとばかり思っていた息子が今、目の前で驚愕の表情を見せているという事を春が理解する迄に少々時間がかかった。
「おま、…寝てたんじゃ、」
「扉開いた音で起きた。…で、これ何だよ」
動揺で声が吃る春とは違い、淡々と言葉を発する優。
「これ、は……」
春が言い淀むのも無理はなく、普通の人であれば己の肉体から一生涯発する事がない光。それをどう説明していいのか言葉が見つからなかった。何とかして誤魔化すしかない、そう思っていても息子の視線は誤魔化すな、と訴えてきているのは誰が見ても明白だった。
言葉が出ない父親を見兼ねてか、優は春の手を離しベッドに座り直した。そして春も翳した手を下せば、光は徐々に薄まり消えた。
再び暗くなった部屋を重い沈黙が包んだ。黙りこくる優を見ていられなくなった春は彼から視線を逸らし床を見つめた。そんな何も言わない父親を見て優は自分の手の平を見つめる。先程自分を覆っていた光は事故直後の物と似ていて、そして過去の記憶の物とも…。
だが今、その答えを持つであろう人物が目の前にいる。開いた手を固く握り、先に沈黙を破ったのは優だった。
「俺さ……、事故に合った時も、同じ光を見たんだ」
「っ!」
息を飲んだ父親に春は続ける。
「それに、ガキの頃にも同じ光が俺の手から出たのも、その時なんか思い出した。親父が出したのと俺が見たの、なんか関係あるんだろ?なぁ、教えてくれよ」
優は顔を上げ、再度春を見つめた。すると隠し切れないと理解したのか、春は唇を噛み締め拳を握り、絞り出すように「関係、ある…」と呟いた。苦悶の表情を浮かべる父親に椅子に座るよう促せば素直に丸椅子をベッドに引っ張り座った春。そしてぽつりぽつりと話し始めた。
「まず…事故の時お前が見たのは父さんの力だ」
「親父の?」
「そうだ。あれはお前を守る為、父さんがかけた一種の魔法みたいな物だ」
魔法。その言葉に唖然とするも、それ以上自分に起こった現象が証明できないのも分かっていた優は春が続きを話すのをただ黙って待った。
「お前が命を落とす程の危険に晒された時に発動するように仕掛けてた。それがあの事故で条件が揃って発動したんだろう…」
「……親父って、その…霊能力者とか…ああ、陰陽師とかそんな感じの奴なのか?」
漫画やドラマ等ではよくある特殊能力。それに真意は分からないが、テレビでも幽霊番組で霊能者が霊と対話、なんて物も放送されてるくらいだ。お札や式紙なんてのを使った陰陽師という存在も昔は居た、なんてのも聞いたことがある。そういう力が現代にも受け継がれていてもおかしくないし、それが父親にも使えたと考える他ない。
だが残念な事に、優の予想は春の言葉で呆気なく砕かれた。
「……俺の…、父さんの本当の名前はバルドル。お前も北欧神話は知ってるだろ?」
「ば、るどる…?北欧神話って聞いた事あるけど内容は知らねー」
北欧神話とは日本の遥か北に位置する、主にスウェーデンやノルウェー等、一部の国の神話と言われている。そう説明した春にそれが何の関係があるんだと、視線を送る優に春はまあ待てと宥めた後、表情を固くした。
「北欧神話最高神ってのが、オーディンという神様なんだけどな。俺の親父なんだわ」
「は?」
間抜けな声で返事した優にいいリアクションだと笑いながら春が手を翳せば光るベッド上のライト。そこでようやくお互いの顔が見えたが、驚く優を見て春は苦笑いした。
「少し昔話をしようか。俺が何故人の世界に降りる事になったのか…」
それから御伽噺を語るように、そして懐かしむように春は事の経緯を説明した。
神がの住まう世界の一つ、アースガルズ。そこで父、オーディンの後を継いでアースガルズを統括していたのが春、もといバルドルだ。
太古に起こった神々の大戦争、伝承ではこの戦争を『ラグナロク』と言うが、その終末は全てを焼き尽くす炎により一度全てが大海に沈んだ。だがしばらくして緑の大地が大海から現れ、死を迎えたはずの神々の内、数人の神のみ蘇った。その内の一人がバルドルである。
終末前のような平和な世界。安寧が包む幸福な世界に神々は歓喜した。時が経ち人の世も繁栄し文明が開化し出した頃、気が付けば神の手を借りる事なく人が自らの手で世界を築かれていく様を、神はただ眺めるだけの存在となった。そんな腐敗する事のない永遠とも言える世界にいつしかバルドルは退屈を覚え始めた。
神々の緊急の会議がなければ何もする事もなく、だらだらとした生活を続けていた時、外交という久々の仕事で高天原こと、日本を監視する神の国へと足を運んだ時に事は起こった。
社交辞令が飛び交う挨拶を受け取り、こちらもそれで返す。どこへ行っても結局退屈だと改めて実感したバルドルは、堅苦しい会議の合間に高天原の神に連れられたのは下界を覗く水鏡。大方、日本は今こんなに凄いんですよと思わせたいだけだろ、と心の中で悪態吐きながらも付き合いだから仕方がない。粗方見たらお決まりの台詞を言おう。そして早い事アースガルズへ帰ろうと決めながら、興味なさげに水鏡を見下ろした。
沢山のビル、車、そして縦横闊歩する人々。色鮮やかな物が混じり合ってごちゃごちゃした光景に、バルドルは眉を顰めた。
こういうのは昔の方が良かった。など口が裂けても言えないが、彼の心中では排気ガス反対。今の時代エコだろ。残り僅かな資源を大事にしろよ人間ども。と悪魔に扮したバルドルが脳内で囁いたが、現実には「日本っていつ見ても綺麗な国ですね」とお世辞全開で天使スマイルなバルドルが日本の神々に笑顔を向けていた。
元々、北欧神話最強のイケメンに育ったバルドルの無垢な笑顔の裏に別人格がいるなんて誰も思いもしないのをいい事に、バルドルは清く正しく美しく、そして狡猾に育った。
その証拠に眼前にいる神々は男女問わず頬を赤らめ恍惚の表情を浮かべていた。そんなお馴染みの反応に愛想笑いだけを送りまた水鏡へと視線を落とした春の目に、一人の女性が目に止まった。刹那、心臓を鷲掴みにされる感覚が春を襲う。
高鳴る心臓、脳髄を甘い痺れが支配し幾人もいる中でその女性だけを追ってしまう。
歳の頃二十代だろうその女性は艶のある漆黒の長い髪、白いシャツに黒のジャケットとパンツに身を包み、その上からグレーのコートを羽織った、如何にもOLの服装。人の世の季節は冬なのか、木枯らしに当てられた鼻の頭や頬に少し赤みが射していた。何処にでもいそうな彼女に何故惹かれるのか。それは至極簡単で単純にバルドルの好みのドストレートだったからだ。
「は?…ちょっと待て親父」
それまで黙って聞いていた優が春の話を中断した。段々と熱弁し出した父親の話。話の終着点が読めて来てしまった優は恐る恐るその先は簡潔に話す事を要求した。
多少不快な顔をした春は、これからがいい所なのに。と拗ねるように吐き捨てた後、
「まっ、簡潔に言うとだ。父さんは母さんに惚れて今ここにいる」
自信満々で言った父親の言葉に優は頭痛を覚え、頭を抱えた。
「んな理由でフツー降りてくるのかよ!」
先程までのシリアスな雰囲気がこれではぶち壊しだと言わんばかりに身を乗り出しベッドを叩いて講義する。
「だって母さんめっちゃ美人だったんだもん!お前も写真で母さんの美しさを見てるだろう!あの美貌ッ!」
「お、おう…」
なんとか母の美を息子に解らせようと拳を作りしつこく説き伏せてくる父親に、優は気圧され頷いた。というか引いてる事を理解していない春は尚も熱弁する。
「一目見た時確信したね!この女性は俺が幸せにするって!んで居てもたっても居らんなくってミズガルズに…、あ、これ人間界のことな?んでアースガルズ飛び出して母さんと結婚したって訳だ。いやぁ―――母さんって凄いよな!神に寵愛されるなんて、今の人は一生かかっても経験できねーよ!」
とりあえず冒頭の話に少なからず感動していた優の神に対するイメージは、この瞬間脆くも崩れ去った。
話からすると、このダメ親父が神様の世界の権力者で、そんな奴が女のケツ追っかけて職務ほっぽりだして人間の世界に降りてくるなんて、高校生の彼にも理解できる。コイツは只のアホだと。
「……その、母さんに対する話はもういいから。つーかうるせーし。俺のガキの頃の記憶のあれは、結局俺の力じゃなくて親父が仕掛けた魔法だったって事でいいのか?」
父親が神様だと納得しても対応は変わらない。正直まだこの暑苦しい親父が神様だなんて何かの間違いじゃないかとすら思う。
というより優にとっては他の神々にこんな奴ですみませんと謝罪したいくらいだった。だから幼い頃に己の手から出た光の正体も父親が今回のように仕掛けた物だろうと自己完結していた。
だが父、春の表情は思っていた物と違い、苦渋の色を見せていた。その表情を目にした優に新たに浮上した可能性。
「え、まさか…」
「そのまさか。お前は神である俺と、人間の母さんとの間に生まれたんだ。半分は神の血が入ってるから、まあその…なんだ…」
頬をかく春は一度視線を彷徨わせた後、優を真っ直ぐ見つめ、
「今まではお前の力を封印していた。事故のショックでその封印も解けたみたいだったから今日、お前が寝ている間にまた封印しようと思って来たって訳だ」
それを聞いた優はまた頭痛に悩まされ、頭を抱えた。
「……これから俺、どうなるんだ」
神の血を引く、なんていつか見た映画を思い出す。世界を脅かす脅威が襲って来て、それに立ち向かう主人公の物語。その主人公は救世主や英雄と称えられ、半分神の血を引いた同じ境遇の者達が集まる集落で日常を離れ鍛錬に勤しんでいた。
まさか自分もそんな状況になるのか、という不安は杞憂だった。
「んなもん、今まで通り普通に学校行って部活やってればいいんだ」
そう笑顔で答えた父親に心底安堵した。だが「もしかしてお前、映画見たいな状況になるとか考えてた?」と薄ら笑いを浮かべる父親に安堵を一瞬で通り越し苛立ちが支配した。
「うっせ!普通考えんだろーが!」
「ああ悪かった悪かった。だからそんな吠えんなって。な?」
幼い頃のように笑顔で頭を撫でてくる父親の手を振り払い、そっぽ向いた優に春はからからと笑った。そして、さてと、と膝を叩いた春は椅子から立ち上がり優に向けて手を翳した。
「今からお前の力をまた封印する。それが終われば今まで通りの生活が送れる。安心しろ」
ずっと頼りない、と思っていた父親。毎朝起こしに来る度に優の年齢に関係なく愛情表現してくる暑苦しい父親。しかも小さい亡くなった母親を未だに愛してると毎日言い張る、馬鹿で真っ直ぐな父親。
そんなどうしようもない父親に、幼い頃ぶりに頼れる父親を見た気がした。
徐々に光だした自分に向けられた手の平。この手に撫でてもらえる事が、昔は大好きだった。
年齢を重ねると共に億劫になっていったが、今後は少し我慢してやってもいいかもしれない。と柄にも無く考えた優は静かに目を閉じた。それと同時に暖房の効いた暖かい部屋に入った時のような感覚が体を包み込んだ。
暫くしてその感覚が消えた頃、目を開いた優に春は笑顔を向けた。
「これで終わりだ。優、今まで黙っていてすまなかったな」
「謝んなら退院して家帰ったら上手い飯でも用意してくれよな」
病院食は不味くて腹いっぱいにもなんねー。と照れ隠しとも言える言葉。普段の優では考えられない優しい言葉に春の目には涙が浮かんだ。
「ず、ずぐるが…やざじいィ…!」
おうおうと大人気なく泣き出す父親を見て、明後日学校に行けば同じような反応を見せるだろう人物がいる事が思い浮び、優は今日何度目かの盛大な溜息を吐いた。