第三話
今日の部活は散々だった。
さすがに朝練をすっぽかしてしまった俺への三笠部長の当たりの強さは相当の物で、「小野寺千本ノックじゃ、ごるぁあ!!」と雄叫びを上げてバットを振り回した部長を見たあの時、マジで泣きたくなった。
県内では三本の指に入る野球の強豪校として知られる俺が通う高校は、良くも悪くも設備がきっちりしている。気が付けば太陽は西に傾きナイター設備をフル活用して部活が終わった今の空はもう真っ暗だった。今日この日だけはナイター設備完備の高校に入った事を呪ったが、それもこれも全部自分が悪いのもわかっている。
そう優は眉間に皺を寄せ、今朝の自分の失態に眉間に皺を寄せ反省した。
ふと朝のホームルーム前の敷島の反応を思い出した。勢いよく笑顔で教室に入ってきた敷島。あれはそんな己の失態を絶対からかうつもりだったのだろう事は付き合いの長い分手に取るように理解できて、それがまた彼の眉間の皺を濃くさせた。
だがそれ以上に三笠の対応が優には嬉しかった。
少し気になるクラスメイト。
美人でスタイルが良く、気さくな性格から男女学年を問わず人気のある所謂マドンナ的存在。
そんな高嶺の花と同じクラスになれ、しかも自分が野球部という事から会話が弾み、今ではそこそこ話せる仲にもなれた。…ただあの部長の妹、という事で手を出す事ができないのは自分だけじゃないだろう。手を出した日には部長の全身全霊を懸けた報復が待っているのだから。
いい思い出も部長が出てきては台無し。
むしゃくしゃした感情は帰ったら絶対あの暑苦しい親父にぶつけて発散しようと心に決めた優は、自転車を漕ぐスピードを早めた。
通学路は大通りに面した商店街が軒並み並んでいる。車の通りが多く、歩道を歩く人も多いこの道は市内一の繁華街だ。この時間帯はまだ開いている店も多く、お腹が減るには十分な匂いが充満していた。例に漏れず優の腹も空腹を訴えるようにぐぅと鳴った。
「今日の晩飯なんだろ」
そんなありふれた言葉がするりと口から溢れた時、丁度信号に引っかかった。ブレーキを握り停止し、行き交う車を見つめながら今か今かと信号が変わるのを待っていた。
そんな時、ちりん…と鈴の音が優の耳に入った。
――――何だ?と振り返った優の目に飛び込んできたのは一匹の猫。鈴の音の正体は猫の首輪に付けられたアクセサリーだという事を理解した時、彼の足元にちょこんとその猫が座った。
何だ猫か。首輪付けてるって事は……飼い猫か?
暗くて分かんねーけどたぶん色はグレーか。
そう心の中で分析していると優の視線に気付いたのか猫がその小さな頭を上げた。
目が合った、か…可愛い。
動物が昔から好きだった優はちょっとした感動に心躍らせるも、お前に興味はないとばかりにすぐ視線を外しまた前を向く猫にあからさまに落胆の色を見せた。
いいさ、帰ったら俺に懐いてくれるフギンとムニンがいんだから。
鳥にしては人の言葉を正確に理解してんじゃねーかって時々思うくらい、話しかけたらちゃんと鳴き声や行動で示してくれる賢い家族が。
どうだ、羨ましいだろう。そんな視線を猫に送ってやろうと足元を見たが、その姿は忽然と消えていた。
「アイツ…どこに、」
そうぼやいた瞬間、車の通りが無くなったのを見計らったのか先程まで自分の足元にいた猫が横断歩道を歩いていた。ハッと前方の信号を見れば色はまだ赤色。こちら側がまだ渡ってはいけないと赤い色が警告していた。
だが猫がそんな人間の作ったルールを知る筈もなく、ただ車が無くなったからと歩きだしたのだろう。思わず自転車から降りた優は辺りを見渡し車が来ていないか確認したが、
ブウォオオオン!!
不幸にもこちらに迫り来る一台の車を目視した。
再度猫に視線をやればそれに気づかず優雅に横断歩道を渡っている最中。
「っおい、お前早く渡れ!轢かれるぞッ!!」
突然大声を出した優に同じように信号待ちしていた人達が訝しげな視線を彼に送ったが、必死な顔で叫ぶ優の視線を辿った時ようやく何に対して言っているのか理解した。
「道路に猫が!」
「く、車が来てるぞ!」
「や、やだッ」
口々に叫ぶ人達も迫り来る車に一歩が出ない。その時、ガシャン!と音を立てて自転車が倒れたと同時に道路へと飛び出す一つの人影。
それは優で、彼は部活で鍛え抜いた脚力を駆使し猫へと一直線に足を踏み出した。途端に優に気付いた車が急ブレーキを掛けたがすぐには止まれない。
――――ぶつかる!…そう誰もがこれから目の前で起こる惨劇を想像し覚悟した刹那、
「うぉおおりゃあああ!!!」
雄叫びを上げた優の声に誰もが目を奪われた。
ヘッドスライディングさながら地を蹴った優は猫を抱き締めそのまま反対車線へと転がった、と同時に向かって来ていた車が猫が先程まで居た場所を通り過ぎ少し離れた所で止まった。
よろよろと起き上がる優の腕の中には元気そうな猫。反対側の歩道へと連れて行こうとした時には猫は優の手から飛び、先に歩道へと降り立った。
――――無事だった!
一部始終を見ていた誰もが歓喜に沸き、声を上げようとした。だが、
プップ―――――!!
突如クラクションの音に気を奪われた観衆が次に目にしたのは、
ドオンッ!!
助かったと思われた少年が宙に浮く、そんな残酷な光景だった。
誰かが上げた悲鳴が辺りを轟かせ、絶望だけがその場を包んだ。