魔女ベリーパティエールより、"三つの童話"
1.
私は見ている。男を見ている。
男は走っていた。坂道を、担ぎ、何度も膝をつき、終いには額を土に付けて。
「もういいのよ」
「だめだ。まだだ」
「もういいの」
「だめだ」
男は無様である。諦めた声を聞かぬふりをして立ち上がる。
男は愚かである。坂道は、終わらない。
「もういいのよ」
「だめだ」
「もう、よしましょうよ」
「いやだ」
男は真に彼女を愛していた。愛ゆえに坂道を上がる。
その向こうで二人は救われる。男は駆け出した。
「もう、やめましょう」
「いやだ」
彼女は真実を知っている。私は結末を知っている。
彼女は微笑んだ。微笑んで男の耳元で囁いた。
「だぁーめ」
瞬間、男は足下が不確かになる。全てが反転する。
酔っぱらいのように躓く男は、そこで初めて女を見た。女はミルクの髪を靡かせていた。
「……そこに居てくれて、よかったんだよ」
そも、男の背に女などいなかった。
女は男を堕とす存在であった。しかし男にとって聖女であった。
ミルクの髪は霧になり、夢想の恋人は真夜中の繊細なレースになる。解放された男は叫ぶ他にない。
女の最期の微笑みに、涙があったのを、私だけが知っている。
2.
私は空を飛んでいる。下は海、夜空を映している。
そこに人間の船があって、近づけば麗しの乙女が溜息を吐いている。ドレスは赤く、口紅が初々しく。
乙女には婚約者がいるが、今だ恋を知らない。恋に落ちる、その瞬間の稲妻の激しさを知りたいと常々思っている。
「あっ」
偶然にも、私は乙女が稲妻に打たれる瞬間を見た。
乙女の視線の先には人魚姫、「好きよ」と腕を伸ばす。海水に濡れる、ミルク色の髪に私は微笑んだ。
「待って!」
乙女は頬を染めて駆け出す。人魚姫の先にいるのは二十も後半の男だ。くたびれた黒髪を認識した。
人魚姫は恋に燃える乙女の存在に驚き、海の底に隠れようと背を向ける。「待って」乙女は燃える心臓の命ずるままに船から飛び出した。遅れて、ぼちゃんと音がする。
乙女はゆっくりと目を開けた。暗い青の中、ミルクの髪が美しく広がっている。
人魚姫は男に手を伸ばし、抱きしめるとその真白な首を曝す。男が噛みつく。乙女は手を伸ばした。
男は咀嚼すると、服が溶けて素足は鱗になった。百年ぶりに抱き合えたことを喜び、その涙は真珠に変わる。
月明かり、二人の人魚の逢瀬に、乙女は気付いた。
悔しかった。悲しかった。―――でも、もういいと思う。
男は乙女の、虚ろな顔の婚約者であった。
乙女は自分こそが脇役だと悟ると、静かに舞台袖に還っていった。
3.
私は森の奥で謡っている。孤独である。
すると騎士がやって来る。若者で、真面目な顔の面白味の無さそうな男だ。
「助けて欲しい。主が病に倒れ、意識が戻らぬ」
「主?」
「まだ幼い、青のドレスが似合う御方だ」
私はその言葉の裏の想いに気付くが、騎士は気付いていない。
騎士は反応の無い私にのっそりと、「助けて下さい」と言い直した。……そうではないのに。
「何でもする。神に誓って。なんでも命じてくれ」
「何でも?君の首が欲しいと言っても?」
「何でもする」
騎士の返事は面白くない。けれどその顔は面白かった。興味が湧いた。
私は、半々の心を隠して、騎士に再度問いかけた。
「靴を舐めろと言ったら?」
「舐める」
「子供の心臓を持って来いと言えば?」
「……持ってこよう」
「仕えろと言えば?」
「仕えるとも」
「主に離れても、いいのかい」
「かまわない。生きてくれるのなら。生きてくれれば、私の気持ちは死なない」
私は笑った。自分でも、酷い笑みだと思う。
「小指を頂戴」
騎士は脂汗を浮かべながら、微笑んで黒馬を駆る。
森を抜け、彼が帰った瞬間、彼の主は眠り姫役を放り投げるだろう。
私は小指を口の中で転がしながら、白鳥が飛んでいくのを見上げるばかりだった。
――――本当は、「愛している」と言って欲しかった。