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結界を眺めてるだけの婚約者はいらないそうなので、王都結界の管理権限を返上します。

作者: 靴べら
掲載日:2026/06/28

「エリアナ・ベルフィーユ。君との婚約は、本日をもって破棄する」


 王太子アルヴィン殿下のお声が、白薔薇の間に響いた。

 磨き抜かれた大理石の床。

 壁一面を飾る銀細工。

 王侯貴族たちの視線。

 そして、殿下の隣で儚げに微笑む、聖女候補ミレーヌ様。


 なるほど。

 今日の謁見に、私が呼ばれた理由をようやく理解した。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 そう尋ねた私に、殿下は少しだけ不快そうに眉を寄せた。


 その表情を見て、私は場違いにも、北西塔の結界水晶を思い出していた。あの水晶も、亀裂が入る直前には同じような歪みを見せる。

 小さく、しかし確実な破綻の兆し。


「君では王太子妃にふさわしくない」

「……左様でございますか」

「君はいつも結界塔に籠もっているだけだろう。水晶を眺め、記録をつけ、古びた術式に魔力を流す。そんな地味な仕事しかできない女を、私の妃にはできない」


 白薔薇の間が、わずかにざわめいたものの、誰も、殿下の言葉を否定しなかった。

 それどころか、何人かの令嬢は扇の陰で笑っている。


 結界塔に籠もる陰気な令嬢。

 王太子の婚約者でありながら、夜会にも茶会にもろくに出ず、王都を覆う大結界の管理ばかりしている変わり者。


 それが、王宮での私の評価だった。


「それに比べ、ミレーヌは民を癒やす力を持っている。彼女こそ、王太子妃にふさわしい」


 ミレーヌ様は、殿下の腕にそっと手を添えた。


「エリアナ様、どうかお許しください。わたくし、殿下をお支えしたいだけなのです」


 その声は震えていたが、目は笑っていた。

 私は何も言わずに頭を下げた。


 責める気はない。驚きも、怒りも、悲しみも、思ったほど湧かなかった。

 ただ、胸の奥にひどく冷たい納得だけがあった。

 ああ、やはり。

 この方々は、本当に何も見ていなかったのだ。


「エリアナ。君は勘違いしているのだ」


 殿下はさらに続けた。


「王都を守っているのは、初代聖女様が遺された大結界だ。君ではない。君はただ、その結界を眺めているだけだ」


「……」


「初代聖女様の奇跡は永遠だ。君一人がいなくなったところで、王都が揺らぐはずもない」


 私は、殿下の胸元に視線を向けた。


 王太子の礼装の下。


 そこには、王族だけが身につける護符がある。


 王都結界と連動し、災厄の際には本人を中心に局所結界を展開する、極めて繊細な魔道具だ。


 昨日の夜、私はその護符に生じていた魔力の濁りを抜いた。

 一昨日は、陛下の寝所を守る結界の歪みを修正した。

 三日前は、南門の魔獣除けに溜まっていた瘴気を抜いた。

 七日前は、貴族街の地下水路に生じた結界の薄れを塞いだ。


 毎日王都の大結界は、少しずつ壊れている。

 魔獣がぶつかる。

 瘴気が滲む。

 貴族たちの私設結界が干渉し、魔道灯の過負荷が術式を乱す。

 王城地下の魔力炉が熱を持つ。

 祝祭日には人々の魔力が揺れ、雨の日には結界の外層が重くなる。


 初代聖女様の大結界は、確かに偉大だ。

 けれど、奇跡は放っておけば摩耗する。

 守るとは、壊れないものに祈ることではない。

 壊れ続けるものを、壊れきる前に直し続けることだ。


「承知いたしました」


 私は左手の手袋を外した。

 王太子妃候補として与えられた指輪が、白い指の上で冷たく光っている。

 それを抜き取り、銀盆の上に置いた。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


 殿下は満足そうに頷いた。

 ミレーヌ様も、安堵したように微笑んだ。

 だから私は、続けて胸元の徽章を外した。

 王都結界管理官の徽章。

 初代聖女の紋章と、管理権限を示す七つの星が刻まれた銀章。それを、指輪の隣に置いた。


「また、王都結界管理官の職も、本日をもって辞させていただきます」


 その瞬間、殿下の表情が初めて変わった。

 驚きではない。面倒なことを言い出した女を見るような、薄い不快感だった。


「王都結界管理官の職も?」

「はい」


 私は静かに首を傾げた。


「私の仕事は、結界を眺めているだけなのでしょう?」

「事実だろう」


 殿下は鼻で笑った。


「王都を守っているのは、初代聖女様が遺された大結界だ。君が毎日水晶を眺めていたからではない」

「では、私が退いても問題はございませんね」

「大げさな女だな」

 

 殿下は呆れたように息を吐いた。


「好きにしろ。後任ならすぐに置く。王宮に、君にしかできない仕事など存在しない」


 その言葉に、周囲の令嬢たちが小さく笑った。

 ミレーヌ様も、困ったように眉尻を下げながら、けれど殿下の腕に添えた手を離さなかった。


「エリアナ様……そこまで意地を張らなくても」


「意地ではございません」

 

 私は銀盆の上に、最後のものを置いた。

 結界塔の主鍵。

 王都結界の中枢に触れるための、ただ一つの管理鍵。

 その金属音が響いた瞬間、白薔薇の間の隅で、ひとりの老文官が顔色を変えた。


「お、お待ちください。エリアナ様」


 結界塔の補佐を務めている、オルド卿だった。

 彼は震える手で一歩前へ出る。


「管理鍵の返上となりますと、結界塔の術式認証が一時停止いたします。せめて後任への実地引き継ぎまでは――」


「オルド」


 殿下が不快そうに名を呼んだ。


「何を騒いでいる」


「殿下、王都結界は多層構造です。各層の負荷、瘴気の抜き方、魔力炉との接続順、王城中枢部と平民区の配分率……記録だけでは追えない部分が多くございます」


「だから何だ」

「最低でも三月。できれば半年の引き継ぎが必要です」


 白薔薇の間に、先ほどとは違うざわめきが広がった。

 殿下は眉をひそめる。


「半年? 水晶を眺める仕事に?」

「殿下、結界は――」

「もうよい」


 殿下はオルド卿の言葉を遮った。


「初代聖女様の大結界が、女一人いなくなった程度で壊れるはずがない。結界塔の者たちが大げさに職務を重く見せていただけだろう」


 オルド卿は、何かを言いかけて口を閉じた。

 言っても無駄だと悟ったのだろう。

 私もまた、深く理解した。

 殿下は本当に知らないし、知る気なんてさらさらないんだと。


「承知いたしました」


 私は殿下へ向き直る。


「では、王都結界管理官エリアナ・ベルフィーユは、本日この時をもって職務を終了いたします」

「好きにしろ」

 

 殿下は冷たく言った。


「最後まで、自分が特別だと思っているのだな」

「いいえ」


 私は少しだけ微笑んだ。


「特別ではございません。私の代わりはいくらでもいるそうですから」


 殿下の目が、わずかに細くなる。

 けれど、もう何も言わなかった。

 私は一礼し、白薔薇の間を後にした。

 背後で、オルド卿が慌てて私の名を呼ぶ。


「エリアナ様、せめて第七層の補修記録だけでも……!」

「引き継ぎ書は結界塔に残してあります。危険箇所と補修優先順位も記載済みです」

「ですが、実地認証は……!」

「後任の方にお願いいたします」


 それだけ告げて、私は歩き出した。

 殿下は、最後まで私を引き止めなかった。

 それでよかった。

 もしあの方が少しでも王都結界の仕組みを理解していたなら、そもそも眺めているだけの仕事などとは呼ばなかっただろうから。

 その足で結界塔へ向かった私は、管理記録を整理し、引き継ぎ書を残した。

 王城中枢部、貴族街、商業区、平民区、孤児院、施療院、地下水路、南北四門。

 各結界層の状態。

 直近三十日の魔力負荷。

 危険箇所。

 補修優先順位。

 そして、三日分の自動補助術式。

 本来なら、王城中枢部の補助を厚くするべきだった。

 けれど私は、人的被害が最も大きくなる区画を優先した。

 平民区、孤児院、施療院の区画だ。

 

 王宮には、殿下とミレーヌ様がいる。

 初代聖女様の奇跡を信じる方々も、たくさんいらっしゃる。平民区画にはない避難路もしっかりとしている。

 それに、私の代わりはいくらでもいるそうだ。

 ならば、きっと大丈夫だろう。

 私はそう判断した。

 最後に、結界水晶へ手を添えた。

 淡青色の水晶の奥で、幾筋もの光が揺れている。

 十四歳の頃から毎日見てきた光。

 父が亡くなり、母が伏せり、ベルフィーユ家が傾いても、私はこの塔へ通った。

 王太子の婚約者に選ばれたのも、私が結界管理官だったからだ。

 怖くもあった。

 けれど、私は王都を守っているのだと誇りに思っていた。


「……長い間、お世話になりました」


 水晶は何も答えない。

 ただ、かすかに震えた。

 まるで、別れを惜しむように。

 私は管理権限を解除し、結界塔を出た。


◇◇◇

 

 その夜。

 王城の北側にある客室で、私は荷をまとめていた。

 婚約破棄された以上、王宮に残る理由はない。

 ベルフィーユ家の屋敷へ戻るつもりでいたのだが、そこへ来客があった。


「エリアナ・ベルフィーユ嬢」


 扉の前に立っていたのは、黒髪の青年だった。

 鋭い灰色の目。

 軍服に近い礼装。

 王都の華やかな貴公子たちとは違う、逞しい匂いがする人。

 北方辺境伯、レオン・グラナード卿。


 何度か王宮で見かけたことはあるが、言葉を交わしたことはほとんどない。


「夜分に失礼する。単刀直入に申し上げたい。あなたを、我がグラナード領に招きたい」


「……私を、ですか?」

「ああ」


 レオン卿は、少しも笑わなかった。

 憐れみでも、同情でも、好奇心でもない。

 ただ、真剣な目で私を見ていた。


「王都結界を七年間維持し続けた、結界管理官として招きたい」


 胸の奥が、わずかに詰まった。


「私の仕事をご存じなのですか」

「もちろんだ」


 レオン卿は頷いた。


「北方では、魔獣の被害が現実にある。結界が一日乱れるだけで、村が一つ消えることもある。結界は、張って終わりではない。守り続ける者がいなければ、いずれ必ず落ちる」

「……」

「王都の者たちは、守られることに慣れすぎた。だから、守る者の姿が見えなくなったのだろう」


 私は思わず、唇を噛んだ。

 泣くつもりなどなかった。

 殿下に婚約を破棄された時でさえ、涙は出なかった。

 なのに、初めて自分の仕事を正しく呼ばれた瞬間、目の奥が熱くなった。


「待遇を説明させてもらう」


 レオン卿は淡々と続けた。


「年俸は王宮時代の1.5倍、専用の執務室を用意し、助手を三名つける。結界図、魔獣出現記録、村落配置図、魔力炉の仕様書は全て開示する。必要なものがあれば、俺に直接申請してくれ」


「……随分と、過分な待遇ではありませんか」

「不足があれば言ってほしい」

「いえ、そうではなく」


 少し戸惑いながらも口にする。

 

「私は、王都を追われたばかりの身です。それに、グラナード領にも結界を扱える方はいらっしゃるのでしょう?」

「ああ。騎士団付きの魔術師たちがいる」

「彼らは優秀だ。破れた結界を塞ぎ、魔力炉に魔力を足し、魔獣の襲撃中でも前線を支えてきた」

「では、私など必要ないのでは?」

「違う」


 その声は、迷いがなかった。


「彼らは専門職ではない。破られた場所へ赴き、襲撃を蹴散らし、その後応急的に塞ぐ。対症療法でしかない。それではあまりに被害が大きくなってしまう」

 

 レオン様は、私をまっすぐに見た。


「我が領に足りないのは、強い魔術師ではない。結界を守り続ける仕組みを作れる者だ」


 胸の奥が、わずかに震えた。


「……それを、私に?」

「エリアナ嬢しかいない」

 

 甘い言葉ではなかった。

 愛の告白などでは、もちろんない。

 けれどその言葉は、王太子殿下から贈られたどんな宝石より、私の胸に重く、温かく落ちた。


「……少し、考える時間をいただいても?」

「当然だ。だが、馬車は明朝出す。王宮に長く留まるのは、エリアナ嬢にとって得策ではないだろう」

「そうですね」


 私は窓の外を見た。王都の夜空には、淡く青い結界の光が揺れている。その光に、ほんの少しだけ魔力の澱みが混じっていた。引き継ぎ書は残した。警告も残した。補助術式も、守るべき場所には残した。

 それでも、あの王城中枢部は長くもたないだろう。


「グラナード卿」

「レオンで構わない」

「では、レオン様」


 私は頭を下げた。


「お世話になります」


 翌朝、私は王都を出た。

 そして、その三日後。

 王都結界は、初めて小さな異常を示した。


 ◇◇◇


「結界が、少し薄くなっている?」


 王城の結界塔で、アルヴィンは眉をひそめた。

 目の前の水晶には、確かに黒い筋が走っている。

 だが、それがどれほど危険な兆候なのか、彼には分からなかった。

 隣に立つミレーヌが、不安げに胸元を押さえる。


「わ、わたくしが祈りますわ。聖女の力で清めれば、きっと元通りになります」


 結界塔の新しい管理担当に選ばれた老文官が、慌てて声を上げた。


「お待ちください、ミレーヌ様。引き継ぎ書には、外部魔力を流し込む際は第七層の圧を抜いてからと――」

「わたくしを疑うのですか?」

「いえ、そういうわけでは」

「初代聖女様の奇跡を守るのは、聖女の務めです」


 ミレーヌは両手を組み、祈りを捧げた。

 白い光が、結界水晶へ注がれる。

 一瞬、水晶は眩く輝いた。

 アルヴィンは安堵した。


「ほら見ろ。やはりミレーヌなら――」


 その言葉は、最後まで続かなかった。

 水晶の奥で、何かが軋んだ。

 黒い筋が、蜘蛛の巣のように広がる。

 塔の壁が少し震えた。


「な、何が起きている!」


 老文官が青ざめて引き継ぎ書をめくる。


「第七層の圧が抜けておりません! そこに聖女様の魔力を直接流し込んだため、第三層と第五層が干渉を――」

「分かるように言え!」

「結界の継ぎ目が広がっております!」


 その日、王都では小さな異変が起きた。

 王城の魔道灯が昼間からちらつき、貴族街の噴水が濁った。南門の魔獣除けが一刻ほど沈黙した。

 だが、被害は王宮と貴族街に集中していた。

 平民区、孤児院、施療院のある区画はなぜか結界が安定している。

 老文官は、引き継ぎ書を読んで顔色を変えた。


「エリアナ様が、一月分の補助術式を残しておられます。平民区と施療院を優先して……」


 それを聞いた国王は、深く目を閉じた。

 一方、アルヴィンは唇を噛んだ。


「なぜ王城ではなく、平民区を優先した」


 誰も答えなかった。

 答えは明白だった。

 王城には、彼女を不要と断じた者たちがいたからだ。

 そして二月後、アルヴィンとミレーヌの婚約披露式の日。

 一度は持ち直したと思われた王都結界は、王城上空で硝子のようにひび割れた。

 白薔薇の間には、隣国の使節、王国貴族、神殿関係者が集まっていた。

 ミレーヌは純白のドレスに身を包み、アルヴィンの隣で微笑んでいる。

 その時、遠くで鐘が鳴った。

 一度。二度。三度。

 それは祝福の鐘ではなく、異常を知らせる警鐘だった。


「な、何の音だ」


 アルヴィンが顔を上げる。


 次の瞬間、天井の魔道硝子越しに見える青い空へ、黒い亀裂が走った。

 貴族たちが悲鳴を上げる。王城庭園に、小型魔獣が数匹落ちた。角の生えた狼のような魔獣である。

 騎士たちが駆け出す。

 式典は中断となった。隣国の使節は顔を強張らせ、神殿長は顔面蒼白になり、王妃は椅子に崩れ落ちた。


「ミレーヌ! 結界を直せ!」


 アルヴィンが叫ぶ。


「む、無理ですわ! こんなの、わたくし、見たことが……!」

「聖女なのだろう!」

「わたくしの力は人を癒やす力です! 結界なんて、分かりません!」


 その叫びは、白薔薇の間に響き渡った。

 聖女候補は、結界を守れない。そう、誰もが理解した。

 そして、結界を守っていた者は、もう王都にはいない。


   ◇


 グラナード領は、王都よりずっと寒かった。

 空気は澄み、山々には雪が残り、夜になると遠くで魔獣の遠吠えが聞こえる。

 私は領主館に着くなり、客間ではなく執務室へ案内された。

 広い机に、壁一面の地図。棚には魔獣出現記録と結界維持報告書。窓際には新しい結界水晶が置かれている。


「こちらが、あなたの部屋だ」


 レオン様はそう言った。


「寝室は隣に用意してある。だが、まずはこちらを確認したいだろうと思ってな」


「……はい」


 私はすぐに地図を広げる。グラナード領の結界は、王都のものより遥かに小さい。だが、一番の問題は大きさではなかった。


「村全体を均一に覆っているのですね」

「ああ。先代からその形だ」

「これでは魔力が足りなくなります」


 レオン様が目を細めた。


「説明を頼む」

「魔獣は全方向から均等に来るわけではありません。この地形なら、北の谷と西の森から八割以上が侵入するはずです。ですが現在の結界は、来る可能性の低い南側にも同じ厚みを使っています」

「つまり?」

「守るべき場所を間違えています」


 私は赤い石筆で地図に線を引いた。


「村全体を厚く覆うのではなく、避難路、井戸、施療所、食糧庫を優先して守ります。北の谷には厚い拒絶結界を。西の森には感知結界を重ねて、襲撃の前に鐘が鳴るようにします」

「それで村は守れるか」

「守れます」


 私ははっきりと言った。


「ただし、今夜から作業が必要です。次の魔獣群は、三日後ではありません。おそらく明日の夜に来ます」

 

 その場にいた騎士団長が、眉を上げた。

 

「記録では、まだ三日は猶予があるはずですが」

「今年は魔力炉の出力が落ちています。それに、雪解けが早い。西の森の瘴気が例年より早く動いています」

「そんなことまで分かるのか」

「結界は、結界だけを見ても管理できませんので」


 私は水晶へ手を添えた。

 王都の大結界とは違う、荒く、未熟で、けれど必死に人を守ろうとしている結界だった。


「天候、地形、魔獣の習性、魔力炉の癖、人の動線。全部を見ます。結界を守るとは、そういうことです」


 レオン様は、しばらく黙って私を見ていた。

 やがて、騎士団長へ向き直る。


「全兵に通達。北の谷と西の森へ配置を変える。村人には避難路の確認をさせろ。エリアナ殿の指示を最優先とする」

「しかし閣下、着任したばかりの方に全てを――」

「俺は専門家を招いた」


 レオン様の声は揺れなかった。


「ならば、専門家の言葉を聞く」


 その一言で、胸の奥が熱くなった。

 私は深く頭を下げ、誓う。


「必ず、守ります」


 翌日の夜。

 魔獣の群れは、本当に西の森から現れた。

 だが、村は落ちなかった。

 感知結界が最初の一匹を捉え、鐘が鳴る。

 避難路の結界が青く輝き、村人たちは迷わず施療所と食糧庫へ逃げ込む。

 北の谷には厚く重ねた拒絶結界が立ち上がり、魔獣の進路を塞いだ。

 騎士たちは、予定通りの場所で迎撃した。

 夜明けまでに、魔獣の群れは退いた。

 死者は、出なかった。

 負傷者もわずか。


 グラナード領では、十年ぶりのことだという。


 朝焼けの中、私は結界水晶の前に座り込んでいた。


 魔力を使いすぎて、指先が震えている。


 そこへ、レオン様が温かい茶を持ってきた。


「飲めるか」


「ありがとうございます」


 受け取った茶は、少し苦くて、ひどく温かかった。

 レオン様は私の隣に立ち、夜明けの村を見下ろした。


「王都の者たちは、あなたを結界を眺めるだけの女だと言ったそうだな」


「……はい」


「愚かだな」


 彼は静かに言った。


「貴女の仕事はなくてはならないものだ」

 

 私は茶器を握る手に力を込めた。


「そんなふうに言われたのは、初めてです」


「なら、これから何度でも言おう」


 レオン様は、少しだけ困ったように笑った。


「あなたが来てくれてよかった。エリアナ」


 その瞬間、私はようやく気づいた。

 私は王都に必要とされたかったのではない。

 殿下に愛されたかったのでもない。

 ただ、自分が守ってきたものを、誰かに見てほしかったのだ。

 結界の光の向こう側に、私という人間がいることを、知ってほしかったのだ。


   ◇


 それから一月後。

 グラナード領の結界は、大きく変わった。

 村ごとに避難結界を置き、谷には拒絶結界を、森には感知結界を、街道には一時防壁を張る。

 無駄な魔力消費を減らしたことで、魔力炉の負担も下がった。

 魔獣被害は半分以下になり、商隊の通行も増えた。

 毎日が忙しかったものの、不思議と苦ではなかった。

 王都にいた頃と違い、ここでは私の報告書を誰かが読む。

 必要な予算は審議され、助手たちは質問をしてくる。

 騎士達には感謝され、領民たちは、結界塔に果物や焼き菓子を持ってきてくれる。

 そしてレオン様は、どれほど忙しくても、必ず一日に一度は執務室へ顔を出した。

 孤独に王都結界を守っていたあの頃とは随分な違いだ。


「無理をしていないか」

「していません」

「昨日、助手から深夜まで水晶を見ていたと聞いた」

「必要な確認です」

「なら、次から俺も呼べ。必要な確認なら、領主も知っておくべきだ」

「……レオン様は、本当に変わっていますね」

「そうか?」

「王都では、結界の話をすると皆様退屈そうになさいました」

「命に関わる話を退屈そうにする方が変だろう」


 あまりに当然のように言われて、私は思わず笑ってしまった。

 レオン様は私の笑顔を見て、少しだけ目を見開いた。


「どうかなさいましたか」

「いや」


 彼は視線を逸らした。


「あなたは、そうして笑うのだなと思った」

「……私も笑いますよ」

「そうだな。すまない」


 謝る声が真面目すぎて、また笑ってしまった。

 王都にいた頃、私はいつも背筋を伸ばしていた。

 王太子の婚約者として、ベルフィーユ家の令嬢として。


 そして王都結界管理官として、失敗できない。乱れてはいけない。泣いてはいけない。怒ってはいけない。そう思っていた。


 けれどここでは、少しだけ肩の力を抜ける。

 疲れたと言えば、椅子を勧められるし、眠いと言えば、仕事を止められる。怒れば、理由を聞かれる。


 笑えば、見つめられる。

 私は少しずつ、人に戻っていったような気がした。

 そんなある日、王都から使者が来た。

 国王陛下の命を受けた宰相と、オルド卿、そしてアルヴィン殿下だった。

 応接室に入った瞬間、殿下の顔色の悪さに私は驚いた。

 以前のような自信に満ちた輝きはない。

 目の下には隈があり、礼装の護符もくすんでいる。

 隣にミレーヌ様の姿はなかった。

 聞けば、彼女は聖女候補の資格を一時停止され、神殿で再教育を受けているらしい。

 結界への無理解のまま祈りを流し込み、王都結界を損傷させた責任を問われたのだという。

 宰相は深く頭を下げた。


「エリアナ嬢。このたびは、王宮の判断に重大な誤りがあった。国王陛下に代わり、謝罪申し上げる」

「頭をお上げください」

「王都結界は現在、応急処置で保っている。だが、根本的な修復にはあなたの知見が必要だ。どうか王都へ戻っていただけないだろうか」


 私は静かに宰相を見た。

 彼の謝罪は、本物だった。

 少なくとも、彼は事態の重大さを理解している。

 だからこそ、私は丁寧に答えた。


「お断りいたします」


 宰相の顔が歪んだ。

 アルヴィン殿下が、一歩前に出る。


「エリアナ」

「はい」

「戻ってくれ、君がいなければ王都が困る」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが冷めた。

 ああ。この方は、まだ分かっていない。


「困るのは、王都でしょうか」

「何?」

「それとも殿下でしょうか」


 殿下は答えられなかった。それでも私は続ける。


「殿下が必要としているのは、私ではありません。私が管理していた結界です」

「それは……同じことだろう」

「違います」


 私ははっきりと言った。


「私は結界の部品ではございません」


 応接室が静まり返った。


「王都結界の修復については、資料を作成いたします。過去の管理記録と照合すれば、安定化は可能でしょう。また、後任の管理官を育成するための手順書もお渡しします」

「ならば、君が戻れば早いではないか」

「戻りません」

「なぜだ!」


 殿下の声が荒くなる。


「君は王都を守っていたのだろう! ならば最後まで責任を――」

「殿下」


 それまで黙っていたレオン様が、静かに口を開いた。

 低い声だった。決して怒鳴っているわけではない。静かで、しかし強い力を感じる声だ。

 部屋の温度が下がったように感じた。


「恐れながら申し上げます。エリアナ殿は、あなたに不要と断じられ、その上で、必要な引き継ぎも残して王都を去りました。責任を放棄したのではなく、責任を果たした上で、正当に職を辞したのです」

「グラナード辺境伯。これは王家の問題だ」

「ならば王家が解決すべき事でしょう。不要とした人間を都合よく呼び戻してよい理由にはならないのではないですか? それに彼女は、今は我が領の結界管理官です」


 殿下は歯を食いしばった。

 私は、レオン様の背中を見た。

 守られている。

 そう感じた。

 宰相は長い沈黙の後、もう一度頭を下げた。


「……承知した。資料の提供だけでも感謝する」

「後任の方には、三月ほどこちらへ研修に来ていただければ指導いたします」

「よろしいのか」

「王都の民に罪はありませんから」


 私はそう答えた。

 アルヴィン殿下は、何かを言いたげに私を見た。

 かつて私は、その視線の意味を必死に読もうとしていたが、今はもう、読みたいとすら思わなかった。


「エリアナ」

「はい」

「本当に、戻らないのか」

「はい」

「……私は、君を見誤っていた」


 それは謝罪だったのかもしれない。

 けれど、遅すぎた。


「殿下」


 私は穏やかに微笑んだ。


「結界は、壊れてから直すより、壊れる前に気づく方が大切です」

「……」

「人の心も、きっと同じでございます」


 殿下は何も言わず、そのまま、宰相と共に帰っていった。

 窓の外で、北方の風が鳴っている。

 私は大きく息を吐いた。


「震えている」


 レオン様が言った。

 見れば、自分の指先がわずかに震えていた。


「情けないですね」


「情けなくはないさ」


 彼は私の前に膝をついた。

 辺境伯が、令嬢の前に。

 慌てて止めようとした私より先に、彼は静かに言った。


「エリアナ。あなたは、もう十分に王都を守った」


 その言葉で、堪えていたものが崩れた。

 涙が、一粒落ちた。私は涙を見られるよう、顔を覆う。


「私は……戻らなくて、よかったのでしょうか」

「ああ」

「王都を見捨てたことには、なりませんか」

「ならない。あなたは資料を渡し、後任も育てると言った。それ以上を求めるのは、彼らの甘えだ」

「……」

「それに」


 レオン様は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「俺は、あなたにここにいてほしい」


 私は手を下ろした。


 レオン様は、真剣な目をしていた。


「もちろん結界管理官として、あなたの力が必要だ。だが、それだけではない」

「……」

「朝、眠そうに茶を飲むところも。難しい術式を前に眉間に皺を寄せるところも。村の子どもに礼を言われて困ったように、嬉しそうな顔をするところも。結界がうまく繋がった時に、少しだけ誇らしそうに笑うところも」


 彼の声が、少しだけ柔らかくなる。


「知ってしまった。だから、仕事だけを置いていけとは言えない」


 胸が、痛いほど鳴った。


「これは命令ではない。領主としての要請でもない」

 

 レオン様は、私の手に触れる寸前で止めた。

 触れてよいかを、私に委ねるように。


「エリアナ。あなたが許してくれるのなら、これからも俺の隣にいてほしい」


 私はその手を見た。

 アルヴィン殿下は、いつも私の行き先を決めた。

 妃になれ。黙っていろ。戻ってこい。


 でも、レオン様は違う。


 彼はいつも、私に選ばせてくれる。

 どうしたいかを尋ね、私の言葉を待ってくれる。

 私はそっと、その手に自分の手を重ねた。


「私で、よろしければ」

「あなたがいい」


 あまりにまっすぐな言葉に、顔が熱くなる。


「……では、これからもグラナード領の結界をお任せください」

「それだけか?」

「それから」


 私は少し迷い、けれど逃げずに彼を見た。


「あなたの隣で、私自身の未来を選びたいです」


 レオン様は、初めて心から安心したように笑った。


   ◇


 それから半年後。


 王都結界は、新しい管理官たちによって少しずつ安定を取り戻した。


 彼らは三月の間、グラナード領で研修を受けた。


 最初は「王都の結界管理官が辺境で学ぶなど」と不満げだったが、魔獣の警鐘が鳴る夜を一度経験すると、誰も文句を言わなくなった。

 結界は飾りではない。命を守る技術だ。

 それを理解した者たちは、きっと王都でも同じ過ちを繰り返さないだろう。

 アルヴィン殿下は、王位継承順位を下げられた。

 ミレーヌ様は聖女候補ではなく、正式な施療院付きの癒やし手として働き始めたという。

 それが罰なのか救いなのかは、私には分からない。

 ただ、少なくとも彼女はもう、分からない結界に祈りを流し込まされることはないだろう。

 そして私は、今日もグラナード領の結界塔にいる。

 窓の外では、雪解け水が川を光らせている。

 遠くの村には、新しい結界柱が立った。

 子どもたちがその周りで遊んでいる。


「エリアナ」


 振り返ると、レオン様が扉の前に立っていた。


「どうかなさいましたか」

「この後、少し時間はあるか」

「報告書が一つ残っていますが」

「なら待つ」

「何か急ぎのご用件ですか?」

「急ぎではないが、重要だ」


 そう言って、彼は小さな箱を差し出した。

 中には、指輪が入っていた。

 王都で返したものより、ずっと質素な指輪だった。

 けれど、石の奥には小さな術式が刻まれている。

 守護ではない。束縛でもない。互いの居場所を、知らせるだけの術式。


「結婚してほしい」


 レオン様は言った。


「エリアナ・ベルフィーユという一人の女性に、俺の隣にいてほしい」


 私は指輪を見つめた。

 かつて私は、王都を守る結界の一部だった。

 誰にも見られず、誰にも褒められず、それでも壊れないように支え続ける部品だった。

 けれど今は違う。

 私を見てくれる人がいる。

 私の仕事だけではなく、私自身を必要としてくれる人がいる。


「謹んでお受けします」


 私がそう答えると、レオン様は少しだけ顔を綻ばせた。


「本当に?」

「はい」

「後悔しないか」

「それは、こちらの台詞ですよ」


 私は笑った。


「結界管理官は、頑固で、夜更かしで、仕事の話ばかりしますよ」

「知っている」

「それでも?」

「それがいい」


 また、顔に熱が集まるのを感じる。きっとりんごのように真っ赤なんだろう。レオン様は私の指に、そっと指輪を通した。

 窓の外で、結界の光が淡く揺れる。

 誰かに不要と告げられた場所ではなく、私が、私の意思で守ると決めた場所。

 そして、私を守ろうとしてくれる人のいる場所。

 かつて私を、結界を眺めているだけの女だと笑った人たちがいた。


 けれど、今なら胸を張って言える。

 私は今日も、結界を眺めている。

 村の灯りを。人々の暮らす家を。雪解けの川を。愛する人の帰る場所を。

 壊れないように、見守っている。

 それは決して、ただ眺めているだけの仕事ではない。

 私が選んだ、私の誇りだ。

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