選ばれるのをやめた令嬢は、チョコレートで世界を変える
「チョコレート? 平民の食べ物を私に贈るなど、侮辱だわ」
アリシア・ヴェルミリオン嬢の白い指が、私の差し出した小箱を叩き落とした。
宝石のような紫の瞳が、軽蔑に歪む。銀の髪が揺れる様すら優雅なその人は、踏みにじられたチョコレートを一瞥もせずに笑った。
「まあ、田舎の男爵令嬢には、これが精一杯なのかしら?」
三日三晩。眠る間も惜しんで、カカオ豆の選別から始めた。この世界では失われた古代製法を、私だけが知っている。テンパリングの温度管理、結晶構造の見極め、香りを閉じ込めるタイミング——前世で培った全ての技術を注ぎ込んだ、一粒。
それが今、王宮の大理石の床で、無残に潰れている。
「やはり田舎男爵家の娘には、高貴な味覚は分からないようだ」
婚約者であるはずのエドワード殿下が、嘲りを含んだ声で言った。金髪碧眼の完璧な美貌。けれどその瞳に、私への情など一片もない。三年間、ずっとそうだった。
周囲の貴族たちが失笑する。憐れむような、蔑むような視線が突き刺さる。
(——ああ、そう)
私は静かに微笑んだ。
表情筋は完璧に制御している。前世で、気難しいパリのグランシェフたちと渡り合ってきた経験が、今ほど役に立った瞬間はない。
「……左様でございますか」
「何?」
「では、この婚約は本日をもって解消ということで」
場が、凍った。
エドワード殿下の碧眼が見開かれる。アリシア嬢の嘲笑が消える。貴族たちのざわめきが、波紋のように広がっていく。
「は? お前、何を——」
「お気遣いなく」
床に落ちたチョコレートの欠片を見下ろす。三年分の想いの残骸。
でも、不思議と悲しくはなかった。
「私、もう選ばれるのを待つのはやめましたので」
前世では、過労死寸前まで働いた。誰かの期待に応え続けて、自分を削って、最後には心臓が悲鳴を上げた。
——もう、二度と。
深々とお辞儀をして、背を向ける。誰も私を止めなかった。止める価値もないと思われているのだろう。
構わない。
(見ていなさい、殿下)
踵を返しながら、私——リゼット・クランツは心の中で静かに誓った。
(あなたが「平民の食べ物」と呼んだそれで——私は、必ずこの世界を変えてみせる)
◇ ◇ ◇
婚約破棄の噂は、風よりも早く王都を駆け巡った。
『田舎男爵の娘が身の程知らずにも王太子殿下に楯突いた』
『聖女アリシア様への嫉妬に狂った哀れな女』
『やはり辺境の出には宮廷は早すぎた』
好き勝手言ってくれる。
実家のクランツ男爵領に戻った私を待っていたのは、両親の温かい抱擁だった。
「リゼット、よく帰ってきた」
父——ハインリヒ・クランツ男爵は、私の頭をそっと撫でた。白髪交じりの髪、日に焼けた肌。辺境の小領主として、領民と共に汗を流してきた人だ。
「お前が笑顔でいられるなら、それが我が家の誇りだ」
「……お父様」
ああ、だめだ。王宮では一滴も流さなかった涙が、堰を切ったように溢れ出す。
「お姉様!」
栗色の髪を揺らして飛び込んできたのは、妹のマリーだった。
「やっとあの無能王子と縁が切れたのね! 最高!」
「マリー、言葉遣い」
母のエレノアが苦笑しながら、紅茶を淹れてくれる。
「だって本当のことよ。お姉様の価値も分からない男なんて、こっちから願い下げだわ」
——ああ、やっぱり、ここが私の居場所だ。
三年間、「控えめな妻」を演じ続けた。殿下に求められるまま、才能を隠し、意見を飲み込み、影のように生きてきた。
もう、終わりにしよう。
「お父様、お母様。お願いがあります」
私は真っ直ぐに両親を見つめた。
「屋敷の一角を、お借りできませんか。チョコレート工房を、開きたいのです」
沈黙が落ちる。
無理もない。この世界でチョコレートは「失われた古代技術」で作られる超高級品。製法を知る者は誰もいない——表向きには。
「お嬢様」
老執事のセバスチャンが、静かに口を開いた。長年この家に仕え、私を誰よりも近くで見てきた人。
「私は存じております。お嬢様が幼い頃から、まるで遠い異国の技を知っておられるかのようでしたこと」
(——気づいていたのか)
前世の記憶。パリの五つ星ホテルで「チョコレートの魔術師」と呼ばれた腕。この世界に転生してから、ずっと隠してきた秘密。
セバスチャンは深々と頭を下げた。
「ようやく、お嬢様らしくいられるのですね」
その声が、微かに震えていた。
「……ええ、セバスチャン」
私は、前を向いた。
「今度こそ、私が選ぶ番です」
◇ ◇ ◇
工房を開いて二週間。
小さな店には、領民たちがぽつぽつと訪れるようになっていた。最初は「男爵令嬢の道楽」と見られていたが、一口食べた瞬間、誰もが目を見開く。
「な、なんだこれは……!」
「魔力が……回復していく……!?」
当然だ。私のチョコレートは、この世界の粗悪品とは根本から違う。正しい製法で作られたカカオは、魔力回復効果が従来品の十倍にもなる。
そんなある日。
店の前に、漆黒の馬車が止まった。
「……何事?」
マリーが窓から覗き込む。私も手を止めて外を見た。
馬車から降り立ったのは、一人の男だった。
漆黒の髪。氷のような銀灰色の瞳。彫刻のように整った美貌は、しかし、凍てついたように無表情だった。
「——レオンハルト・フォン・シュヴァルツェン公爵」
マリーが息を呑む。
隣国の公爵にして、若くして軍の最高指揮官を務める実力者。「氷の公爵」と恐れられる男が、なぜこんな辺境の小さな店に。
公爵は店内に入るなり、陳列されたチョコレートを一瞥した。
「甘味は苦手だ」
冷ややかな声。愛想の欠片もない。
普通なら萎縮するところだろう。でも私は、前世でもっと気難しい客を相手にしてきた。
「では、こちらをお試しください」
差し出したのは、カカオ分85%のビターチョコレート。甘さは限りなく抑え、カカオ本来の香りと苦味を活かした一粒。
公爵は無言で受け取り、口に含んだ。
——瞬間、銀灰色の瞳が見開かれた。
「……っ」
言葉を失ったように、公爵は私を見つめた。氷のような無表情が、初めて揺らぐ。
「これを作ったのは、貴女か」
「ええ。お気に召しませんでしたか?」
沈黙。
数秒後、公爵は低く、しかし確かな声で言った。
「王都で店を開け」
「……は?」
「必要な資金と後ろ盾は私が出す。条件は追って詰める。——断るという選択肢はない」
あまりに唐突な申し出に、私は思わず言葉を失った。
けれど公爵の瞳は、真剣そのものだった。
「この味を、この辺境に埋もれさせるつもりか」
——ああ。
この人は、分かっている。
一口で、私のチョコレートに込められた全てを見抜いている。
「……公爵様は、商人の真贋を見抜く目をお持ちなのですね」
「商人ではない。貴女は——芸術家だ」
その言葉が、胸の奥深くに響いた。
三年間、誰にも認められなかった。「控えめな妻」を演じ、才能を隠し、価値を踏みにじられてきた。
なのにこの人は、たった一粒で、全てを理解した。
「……考えさせてください」
「三日待つ」
公爵は踵を返し、店を出ていった。
嵐のような訪問だった。
「お姉様」
マリーが興奮気味に私の腕を掴む。
「今の、あのレオンハルト公爵よ!? 氷の公爵が、お姉様のチョコレートで表情変わってた! 見た!? 見たわよね!?」
「……見たわ」
私は、窓の外を見つめた。
漆黒の馬車が、土埃を上げて去っていく。
(王都、か)
殿下とアリシア嬢がいる、あの場所へ。
復讐がしたいわけではない。けれど——。
(私の価値を証明する機会を、逃す手はないわね)
口元に、自然と笑みが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
レオンハルト公爵の後援を受け、私は王都に店を構えた。
目抜き通りから一本入った、隠れ家のような立地。派手な看板は出さず、知る人ぞ知る名店を目指した。
開店初日。
行列が、通りを埋め尽くした。
「嘘でしょ……」
マリーが呆然と呟く。
原因は明白だった。騎士団副団長のカイル・ハーヴェストが、訓練中に部下たちへ配ったのだ。「魔力回復効果が従来品の十倍」という噂は、瞬く間に広がった。
「リゼット嬢、正式に騎士団への定期納品をお願いしたい」
カイル副団長が、真剣な眼差しで言った。砂色の髪に日焼けした精悍な顔。裏表のない実直さが、好感を持てる人物だった。
「連続任務で魔力が枯渇した隊員が続出していてな。従来の回復薬では追いつかない。貴女のチョコレートがあれば、救える命が増える」
「……喜んで」
騎士団御用達。その肩書きは、絶大な信頼の証となった。
魔術師ギルドからも依頼が殺到した。貴族の令嬢たちが「美容に効く」と噂を広め、社交界でも話題になった。
そして——。
「お姉様、またあの方が」
マリーが意味ありげに笑う。
カウンターの隅、いつもの席。漆黒の髪と銀灰色の瞳。氷の公爵が、今日も静かにチョコレートを口にしている。
「公爵様、本日もありがとうございます」
「……ああ」
相変わらず無表情。けれど、私は気づいている。
この人、甘いものが苦手なはずなのに——毎日来て、毎回完食しているのだ。
「新作でございます。カカオとオレンジピールの組み合わせ」
「苦手だ」
「存じております」
差し出すと、公爵は一瞬だけ眉を動かし——結局、受け取った。
マリーが厨房から「ニヤニヤ」という擬音が聞こえそうな顔で覗いている。後で説教だ。
「繁盛しているようだな」
「公爵様のおかげです」
「俺は何もしていない。貴女の実力だ」
さらりと言われた言葉に、心臓が跳ねた。
(——だめだめ。これはビジネスパートナーとしての信頼関係。それ以上でも以下でもない)
そう自分に言い聞かせながら、私は次の客の対応に向かった。
振り返らなかったから、気づかなかった。
銀灰色の瞳が、私の背中をじっと追っていたことに。
◇ ◇ ◇
その日、店に嵐が訪れた。
「ここがあの店? 随分と小さいのね」
銀の髪。宝石のような紫の瞳。
アリシア・ヴェルミリオン——偽りの聖女が、傲慢な足取りで店内に入ってきた。
店内の空気が凍りつく。客たちが息を呑み、道を開ける。
「久しぶりね、リゼット」
「いらっしゃいませ、アリシア様」
私は完璧な営業スマイルを浮かべた。内心では——正直、笑いをこらえるのに必死だった。
(来ると思っていたわ)
聖女の加護には、古代製法のチョコレートが必要。この世界でそれを作れるのは、私だけ。遅かれ早かれ、彼女は来る。
「単刀直入に言うわ。あなたの作るものは全て、私に献上しなさい」
店内がざわめく。
「私は聖女よ。神殿の最高位。あなたのような田舎男爵の娘が、私に逆らえると思わないことね」
傲慢。三年前と、何も変わっていない。
「申し訳ございません、アリシア様」
私は深々とお辞儀をした。
「当店は予約制でして」
「……は?」
「現在、大変多くのお客様にお待ちいただいております。聖女様でございましても——」
にっこりと、心からの笑顔で。
「三年は、お待ちいただくことになりますわ」
静寂。
そして——店内のあちこちから、押し殺した笑い声が漏れた。
「っ……!! この、平民上がりの分際で……!」
「お言葉ですが、私は男爵令嬢でございます。それに——」
私は真っ直ぐに、紫の瞳を見つめ返した。
「三年前、私のチョコレートを『平民の食べ物』と仰いましたよね。あの時踏みにじったもの、今更欲しいなんて、矛盾していらっしゃいません?」
アリシアの顔が、朱に染まる。
「覚えていなさい……!」
捨て台詞を残して、彼女は店を飛び出していった。
店内に、歓声に近いざわめきが広がる。
「す、すごい……」
「聖女様相手に、あの度胸……」
「やっぱりこの店、只者じゃない」
「お姉様、最高」
マリーが親指を立てていた。
私はふう、と小さく息を吐いた。
(やっと、言い返せた)
三年前、言葉を飲み込んだ自分への——小さな、けれど確かな決着。
「——見事だった」
低い声に振り向くと、いつの間にか来ていた公爵が、微かに——本当に微かに——口角を上げていた。
「公爵様」
「あの女は必ず報復を企む。護衛を増やせ」
「ご心配には及びません」
「心配などしていない。投資の保全だ」
相変わらずの無表情。けれど、その銀灰色の瞳には、確かに温もりがあった。
(……なんなのかしら、この人)
胸の奥が、またおかしな音を立てる。
◇ ◇ ◇
王宮の大広間に、シャンデリアの光が降り注ぐ。
年に一度の大夜会。貴族たちが着飾り、社交に興じる華やかな夜——のはずだった。
「エドワード王太子殿下を、偽聖女幇助の罪で弾劾する!」
神殿長の宣言が、広間を震わせた。
私は壁際で、静かにその光景を見つめていた。レオンハルト公爵が、私の隣に立っている。
事の発端は、アリシアの「奇跡」の失敗だった。衆人環視の中、聖女の加護を示せなかった彼女は、取り乱してこう叫んだのだという。
『リゼットのチョコレートさえあれば、私は本物の聖女になれたのに!』
——馬鹿な女。
その一言で、全てが露見した。
偽聖女。本物の聖女の加護を奪い、古代製法のチョコレートで誤魔化してきた詐欺師。そして、それを知りながら担ぎ上げてきた王太子。
大広間の中央で、エドワード殿下が膝をついていた。金髪は乱れ、碧眼は怯えに揺れている。
あんなに傲慢だった人が、今は惨めに震えている。
(——何も、感じないわね)
三年前の私なら、胸が痛んだかもしれない。でも今は、他人事のようにしか思えなかった。
「リゼット!」
突然、殿下が私を見つけた。よろめきながら近づいてくる。
「頼む、やり直させてくれ」
縋りつくように、私の手を取ろうとする。
「君の価値が分からなかった。俺が間違っていた。だから——」
私は、静かに一歩下がった。
「もう遅いですわ、殿下」
「っ……」
「私が差し上げたチョコレートを、殿下は地面に捨てましたもの」
あの日の光景が、脳裏に蘇る。大理石の床に散らばった、私の想いの欠片。
「あれは——私の心でしたのに」
殿下の顔から、血の気が引いていく。
「待ってくれ、リゼット。俺は——」
「リゼット嬢は、俺の客人だ」
低い声が割って入った。
レオンハルト公爵が、私の前に立つ。氷の視線が、殿下を射抜いた。
「これ以上の狼藉は、隣国への侮辱と見なす」
「なっ……」
衛兵が駆け寄り、殿下を引き離していく。
広間に静寂が落ちた。貴族たちが、息を呑んで私を見つめている。
かつて「田舎男爵の娘」と蔑んだ者たち。「平民の食べ物」と笑った者たち。
今、彼らは悟っただろう。
——価値を見誤っていたのは、自分たちだと。
「帰るぞ」
公爵が、そっと私の肩に手を添えた。
「……はい」
振り返らなかった。
もう、あの場所に未練はない。
◇ ◇ ◇
夜会から三日後。
私は工房で、新作の試作に没頭していた。カカオバターの配合を微調整し、口溶けの最終確認をする。
「——また、徹夜か」
低い声に振り向くと、レオンハルト公爵が戸口に立っていた。
「公爵様。お約束は明日では……」
「眠れなかった」
さらりと言って、公爵は私の隣に座る。自然な動作で、出来立てのチョコレートを一粒、口に含んだ。
「……美味い」
「甘いものは苦手なのでは?」
「君の作るものだけは別だ」
銀灰色の瞳が、私を見つめる。いつもの無表情。けれど、どこか熱を帯びている気がする。
「公爵様」
「レオンハルトでいい。何度言えば分かる」
「では、レオンハルト様」
「……様も要らない」
どこまで距離を詰めてくるのだ、この人は。
「夜会での件、感謝しております」
「あんな男に触れさせるわけにはいかなかっただけだ」
「——それは、投資の保全ですか?」
皮肉を込めて訊くと、公爵は一瞬だけ黙った。
そして。
「違う」
低く、けれど確かな声。
「俺は最初から知っていた。あの一粒に、どれほどの想いが込められていたか」
「……」
「あの男はそれを踏みにじった。許せなかった」
心臓が、痛いほど脈打つ。
「俺は甘いものが苦手だ。感情を表に出すのも得意じゃない。だから、誤解されやすい」
公爵が、私の手を取った。
「だが——君のことは、誤解したくない」
大きな手。剣を振るい、戦場を駆けてきた手。けれど今、私の手を包み込む仕草は、驚くほど優しかった。
「君自身が、甘すぎて中毒になりそうだ」
——ずるい。
こんな台詞、こんな無表情で言われたら。
「……レオンハルト様は、口説くのも不器用なのですね」
「自覚している」
「でも」
私は、小さく笑った。
「嫌いじゃないです」
公爵の瞳が、わずかに見開かれる。
そして——生まれて初めて見た。
この人の、本当の笑顔を。
◇ ◇ ◇
——あれから、一年。
リゼット・クランツの名は、大陸中に轟いていた。
「チョコレート姫」。
失われた古代製法を復活させ、魔力回復の概念を覆した女性。隣国の氷の公爵を虜にした、小さな男爵令嬢。
今日は、王国と隣国の友好条約締結の式典。私は来賓として、かつて婚約破棄を告げられた王宮の大広間に立っていた。
「リゼット嬢、本日も美しい」
カイル副団長——今は団長に昇進した——が笑顔で声をかけてくる。
「騎士団へのご納品、いつも感謝しております」
「いえ、騎士団の皆様に喜んでいただけて光栄です」
「お姉様!」
マリーが駆け寄ってきた。今日は私の付き添いとして、おめかししている。
「隣国の使節団、もう到着してるわ。公爵様、今日もかっこいい」
「マリー」
「分かってます、分かってますって。姉を泣かせたら隣国まで追いかけるって、もう言ってあるから」
一年経っても、この妹は変わらない。
式典が始まる。壇上には、新しい王が立っていた。エドワード殿下は王位継承権を剥奪され、辺境へ左遷されたと聞く。アリシアは神殿から追放され、行方知れずだそうだ。
因果応報。
けれど、不思議と胸は痛まなかった。
私には——もう、前を向く理由がある。
「リゼット」
低い声。振り向くと、正装のレオンハルトが立っていた。漆黒の軍服が、銀灰色の瞳を引き立てている。
「式典が終わったら、話がある」
「……何のお話でしょう」
「俺は口説くのが不器用だと、君は言ったな」
「ええ」
「だから、行動で示す」
意味が分からない。けれど、公爵の瞳は真剣だった。
式典は滞りなく進み、夜の祝賀会が始まった。
シャンデリアの光、ワルツの調べ、華やかな笑い声。
一年前、この場所で私は心を踏みにじられた。
今——。
「リゼット・クランツ嬢」
レオンハルトが、衆人環視の中で膝をついた。
広間が、しん、と静まり返る。
「俺と——生涯を共にしてほしい」
その手には、小さな箱。開かれた中には、カカオ色の宝石をあしらった指輪が輝いていた。
「君の作るチョコレートに、俺は救われた。冷え切っていた心が、溶けていくのを感じた」
いつも無表情だった人が、今は——緊張で、微かに声が震えている。
「俺の傍にいてくれ。君以外は、要らない」
涙が、頬を伝った。
一年前、この場所で流せなかった涙。
今は——幸福の涙。
「……私で、よろしいのですか」
「君以外にいない」
「甘いものは苦手なのに」
「君がいれば、甘さも悪くない」
私は、笑った。
「——はい」
指輪が、薬指に嵌められる。
広間に、割れんばかりの拍手が響いた。
◇ ◇ ◇
かつて価値を踏みにじった者たちは、没落した。
けれど私は——彼らを憎む暇などなかった。
だって、こんなにも幸せだから。
「幸せか」
「ええ、とても」
「俺も——今、猛烈に幸せだ」
無表情のまま、レオンハルトが言う。
「……顔に出てませんわ」
「君には分かるだろう」
分かる。この人の微かな表情の変化、声の温度、視線の熱。
全部、分かるようになった。
「チョコレート姫」と呼ばれるようになった私。
けれど本当は——ただの、恋をしている女の子。
前世でも今世でも、こんなに甘い幸福は知らなかった。
これから先、何があっても。
私を選んでくれた人と、世界一甘い日々を歩んでいく。
——それが、「選ばれるのをやめた」私が手に入れた、最高のハッピーエンド。




