生の実感
翌日……雨は止んでいなかった。 いや、むしろ昨夜よりも強く、冷たくなっていた。 灰色のカーテンのような豪雨が、視界を白く濁らせ、地面を腐った沼のように変えている。
僕たち『鉄屑』の五人は、城塞都市から北へ半日ほどの距離にある『嘆きの渓谷』を進んでいた。 依頼内容は、ランクGのゴブリンの巣穴の駆除。 数日前のオーク討伐(と呼ぶのもおこがましいが)で得た金貨で、僕たちは装備を新調していた。 僕は少しマシな鉄の剣を。リズは穂先の鋭い槍を。そしてガインは、あの『廃材の大剣』の持ち手に、滑り止めの新しい革を巻いていた。
「へへっ、いいグリップだぜ! これなら手汗かいても滑らねえ!」
ガインが雨の中で大剣を振り回し、豪快に笑う。 その笑顔には、微塵の不安もなかった。無理もない。僕たちは「死」を乗り越え、強くなった気でいた。 金貨三枚分の自信。それが、僕の目を曇らせていたのだ。
「……静かにしろ、ガイン。反響する」
僕は注意したが、その声には以前ほどの切迫感はなかった。 (たかがゴブリンだ。オークの腕を両断するベテランの領域には程遠いが、今の僕たちなら、群れ相手でも完封できる) 頭の中で、勝率の計算式が「勝利」を弾き出している。 それが「慢心」という名のバグを含んでいることに、僕は気づかなかった。
「……レン。何か変だ」
斥候のニルスが足を止め、泥にまみれた地面を睨んだ。 「足跡が多い。それに……配置がいやらしい。いつもなら見張りがいるはずの岩陰に誰もいねえ」
「雨で警戒を解いてるんじゃないか? 巣穴の奥で暖を取ってるんだろう」 僕は即答した。早く終わらせて、またあの温かい宿に帰りたかった。
「陣形を確認。僕が前衛で注意を引く。リズは右翼。ガイン、お前は僕の合図で中央を突破して、巣穴の入り口を塞げ。袋の鼠にする」
「おうよ! 任せときな、リーダー!」
ガインが親指を立てる。 呑気な野郎だ。
戦闘は、当初の予定通りに進んだ。 岩陰から飛び出してきたゴブリン五匹。 錆びたナイフを持った彼らの動きは、オークを見た後の僕たちにはスローモーションに見えた。
「チッ!」 僕は小盾でナイフを弾く。 その隙にリズの槍がゴブリンの喉を貫く。 背後から忍び寄ろうとした個体は、ニルスの放った矢が眼球を射抜き、悶絶している。
「雑魚が! 俺たちの相手じゃねえよ!」
ガインが咆哮と共に大剣を叩きつける。 グシャリ、という湿った音と共に、二匹のゴブリンが肉塊へと変わる。 圧倒的だった。 僕たちは強くなっている。連携も完璧だ。
「……レン! 奥から増援だ! 七……いや、十匹来るぞ!」 ニルスの警告。 巣穴の奥から、わらわらと緑色の小鬼たちが湧き出てくる。 数は多いが、個体は小さい。戦力差はない。
ここで、僕の頭の中の計算機が、最悪の解を弾き出した。 (ここで引いて体制を立て直すか? いや、この狭い渓谷で引けば、背後を取られる。一気に押し込んで、巣穴の入り口を潰すのが最短だ)
僕は叫んだ。
「ガイン! 前だ! 突っ込め!!」
「うおおおおおッ!!」
僕の指示に従い、ガインがタンクの役割を果たそうと、無防備に敵の集団の中へと踏み込んだ。 彼の大剣が一閃されれば、それで終わるはずだった。
だが。 ガインが踏み込んだその場所は、ただの地面ではなかった。
ズルッ。
「……え?」
ガインの巨大な体が、不自然に沈んだ。 泥だまり? 違う。 『落とし穴』だ。 ゴブリンごときが? いや、奴らは学習したのだ。雨で地盤が緩むことを利用し、枯れ葉と泥で偽装した、深さ一メートルほどの穴。
ガインの右足が膝まで呑み込まれる。 突進の勢いが殺され、彼は前のめりに体勢を崩した。
「ガッ……!?」
そこへ、殺到した。 十匹のゴブリンが、まるでピラニアの群れのように、転倒したガインに覆いかぶさったのだ。
「ガイン!!」
僕は走った。 だが、遅い。 ゴブリンたちは、人の「急所」を知り尽くしていた。 分厚い筋肉に覆われた胸や背中ではない。 革鎧の隙間。関節の内側。そして――顔。
「あ、が……あがぁぁぁぁぁッ!!?」
ガインの絶叫が渓谷に響き渡る。 一匹のゴブリンが、ガインの兜の隙間に、汚れた指を突き刺したのだ。 ブチュリ、という破裂音。 目だ。眼球が、爪で抉り出された。
「やめろぉぉぉッ!!」
僕は盾でゴブリンを殴り飛ばす。 だが、数が多すぎる。 ガインの体が見えない。緑色の塊が彼を覆い尽くし、錆びたナイフを、石を、歯を、狂ったように突き立てている。
「痛ぇ! 痛ぇよレン! 助けて! レン!! レン!!!」
親友の声が、断末魔の悲鳴に変わる。
「嫌だ! 暗い! 見えない! レン、どこだ! 痛い痛い痛い痛い!!」
大剣はもう手放していた。 ガインは両手で顔を覆い、泥の中でのたうち回っている。 その指の隙間から、鮮血と、白濁した硝子体が溢れ出す。 無防備になった彼の首筋に、別のゴブリンが噛みついた。 犬が肉を食いちぎるように、首の肉を食らい、引きちぎる。 頸動脈が破れた。 ヒュウウゥゥー……と、赤い霧が舞い上がる。
「退かせ! そこを退けぇぇぇッ!!」
僕は半狂乱で剣を振るった。 ゴブリンの背中を切り裂き、蹴り飛ばし、ガインの上に覆いかぶさる奴を引き剥がす。 リズも悲鳴を上げながら槍を突き出し、ニルスが至近距離で矢を放つ。
ようやく、ゴブリンたちが散った。 泥の中に、ガインが横たわっていた。
「ガイン……!」
僕は駆け寄り、彼を抱き起こそうとした。 そして、喉の奥からヒュッという音が漏れた。
ガインの顔は、もう半分がなかった。 右目は抉られ、鼻は削ぎ落とされ、頬の肉は食いちぎられて歯茎が剥き出しになっていた。 首の動脈からは、心臓の鼓動に合わせて大量の血がポンプのように噴き出している。 喉が裂けているため、もう声にはならない。
「カヒュー……ゴポッ……」
という、赤い泡が弾ける音だけが響く。
「う、あ……あ……」
僕の手が、ガインの温かい血で真っ赤に染まる。 エマ! エマの治癒なら! 僕は振り返ろうとした。 だが、ガインの残った左手が、万力のような力で僕の腕を掴んだ。
その目。 唯一残った左目が、焦点の合わない虚ろな光で、僕を見ていた。 責めているのか? 助けてくれと言っているのか? それとも――。
ガインの唇が、微かに動いた。 泡立つ血と共に、最期の言葉が形作られる。
「……に……げ……」
ガクン。 腕の力が抜け、重い肉塊が泥の中に落ちた。 瞳の光が消え、ただの物体へと変わる。
死んだ。 ガインが、死んだ。 僕の剣が。僕の親友が。 つい昨日、「肉が美味い」と笑っていたあいつが。 僕の「突っ込め」という指示一つで。 ゴミのように、餌のように、食い殺された。
「――レン!! ボサッとするな!! まだ終わってねえぞ!!」
ニルスの怒号が、僕の停止した思考を無理やり叩き起こした。 顔を上げる。 ゴブリンたちは逃げていなかった。 ガインの肉を食らい、血の味を覚えた奴らは、興奮状態でこちらを包囲していた。 そして、巣穴の奥から、一際大きな影が現れる。
【ランクE:ホブゴブリン】
人間ほどの大きさ。手には、死んだ冒険者から奪ったであろう鉄のメイス。 こいつだ。こいつが、雑魚どもを統率して罠を張らせたのだ。 ホブゴブリンは、ガインの死体を踏みつけ、勝ち誇ったように笑った。 その足が、ガインの潰れた顔をさらに泥の中に押し込む。
プツン。
僕の中で、何かが焼き切れる音がした。
「……あ、あああああああぁぁぁぁぁッ!!!」
指揮官としての冷静さ? 生存確率? 知ったことか。 僕は小盾を投げ捨てた。防御なんていらない。 腰のショートソードを両手で握りしめる。
「レン! ダメよ! 陣形が!」 リズの制止など聞こえない。 僕は獣のように吼え、ホブゴブリンに向かって一直線に突っ込んだ。
「殺す! 殺す! 殺してやるッ!!」
ホブゴブリンが嘲笑い、メイスを振り上げる。 まともに食らえば頭蓋骨粉砕。 だが、僕は止まらない。 メイスが振り下ろされる瞬間、僕は地面を蹴り――自分からその懐へと飛び込んだ。
ガッ!!
メイスの柄の部分が、僕の左肩を直撃する。 鎖骨が砕ける音が、耳元で生々しく響いた。 激痛。だが、それがどうした。 ガインの痛みに比べれば、こんなもの蚊に刺された程度だ。
僕は密着状態で、ホブゴブリンの腰にタックルした。 そのまま勢いで押し倒す。 泥の中へのマウントポジション。 ホブゴブリンが驚愕し、僕を振りほどこうと暴れる。太い指が僕の傷ついた顔を鷲掴みにし、爪が肉に食い込む。
「死ねぇぇぇぇッ!!」
僕はショートソードを逆手に持ち、ホブゴブリンの首元へ突き立てた。 硬い。筋肉が邪魔をする。 ならば、目だ。 僕は躊躇なく、剣先を奴の左目にねじ込んだ。
「ギャガアアアアッ!?」
手応え。 ゼリーを潰すような感触。 暴れる力が強くなる。僕の体が跳ね飛ばされそうになる。 離さない。絶対に離さない。 僕は左手の指――骨折して動かないはずの指を、奴の口の中に突っ込んだ。 指が噛まれる。骨が砕かれる。構わない。 指をフックにして頭を固定し、右手で剣をグリグリとかき回す。
「返せよ……ガインを返せよぉぉぉッ!!」
涙と鼻水と血が混ざり合い、視界がぐちゃぐちゃだ。 僕は何度も、何度も剣を突き立てた。 目から脳へ。 喉へ。 顔面へ。
「レン! 伏せて!」
リズの声。 次の瞬間、僕の脇を銀色の閃光が走り抜けた。 リズの槍が、ホブゴブリンの開いた口から後頭部へと貫通したのだ。
ビクンッ、と巨体が跳ね、そして動かなくなった。 ホブゴブリンの死。 統率者を失った残りのゴブリンたちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとする。
「逃がすかよ……一匹も、逃がすもんか……」
ニルスは無表情で、逃げるゴブリンの背中に矢を放つ。 リズが鬼のような形相で槍を振るい、這いずるゴブリンを串刺しにする。 これは戦闘じゃない。 処刑だ。 僕たちは泣きながら、叫びながら、動くもの全てを殺し尽くした。
雨音だけが残った。 渓谷は、赤い泥沼に変わっていた。
十数匹のゴブリンの死体。ホブゴブリンの死体。 そして、その中心にある、変わり果てた親友の死体。
「ガイン……」
僕は這いずって彼のそばに行く。 もう、ピクリとも動かない。 酷い顔だ。半分がない。体中が噛み跡だらけだ。 エマが、ガインの横で崩れ落ちていた。 彼女の手は光っていた。必死に「洗浄」と「止血」の魔法をかけている。 だが、死体に魔法は効かない。 千切れた血管からは、もう血すら流れない。
「なんで……治らないの……起きてよ、ガインくん……昨日はあんなに笑ってたじゃない……」
エマの悲痛な嗚咽。 リズは槍を杖にして立ち尽くし、雨に濡れた顔を伏せていた。彼女の肩が激しく震えている。 ニルスは、ガインの大剣――誰も持ち上げることのできない鉄塊を見つめ、唇を噛み締めていた。血が滲むほどに。
僕は、ガインの冷たくなった手を握りしめた。 硬くて、分厚い手。 僕の指示一つで、地獄へ飛び込んでくれた手。
『へへっ、レンがいれば大丈夫だろ!』
あいつの声が、脳内で再生される。 僕のせいだ。 僕が殺した。 ゴブリンじゃない。僕の「慢心」が、僕の「言葉」が、あいつを食い殺したんだ。
「う……あ……あぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!!!!」
僕は泥水に顔を突っ込み、慟哭した。 喉が裂けるほど叫んでも、涙が枯れるほど泣いても、砕けた頭蓋骨は戻らない。 金貨三枚で買った自信も、装備も、未来も、全てが泥の中に消えた。
雨は無慈悲に降り注ぐ。 僕たちの「無敵」が終わった日。 『鉄屑』の一つが、本当の鉄屑になってしまった日。
僕はただ、親友の亡骸のそばで、獣のように泣き続けることしかできなかった。 左手の砕けた指の痛みなど、胸に開いた風穴に比べれば、存在しないも同然だった。




