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鉄屑達の生き方  作者: ヤスナー


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信頼そして力

雨足が強まってきた。 鉛色の空から降り注ぐ雫は、世界中の錆を溶かし込んだように冷たく、鉄の味がする。

僕、レンは、濡れた下草に腹ばいになりながら、自分の心臓が早鐘を打つ音を聞いていた。 ドクン、ドクン、ドクン。 肋骨を内側から蹴り上げるような激しい鼓動。何度経験しても、この「接敵直前」の緊張感だけは慣れることがない。呼吸を浅くし、泥水を吸い込んだような湿った空気を肺の端っこだけで循環させる。

「……レン」

背後から、風の音に紛れるほどの微かな声。 振り返らずに、左手の指だけで合図を送る。『待て』。 ハンドサインの主はニルスだ。彼がこの距離で声をかけてくるということは、風向きが変わったか、あるいは「奴ら」の動きに変化があったかだ。

僕はゆっくりと、泥にまみれた茂みの隙間から視線を送った。 二十メートル先。朽ちた巨木の根元に、その「現実」はいた。

ゴブリンだ。 三匹。

かつての絵本に出てきたような、愛嬌のある緑の小人ではない。 身長は僕の胸あたりまである。皮膚は病的な深緑色で、所々が腫瘍のように隆起し、硬質化していた。勇者が敗北し、マナが濁った影響だ。 奴らは車座になり、何かを貪り食っていた。 赤黒い肉塊。折れた角が見えるから、おそらく鹿だろう。だが、その食べ方は野生動物よりも遥かに醜悪だった。 一匹が、手にした粗末な石斧で骨を叩き割り、中の髄をすするように舐めている。もう一匹は、腰に錆びついたナイフをぶら下げ、周囲をキョロキョロと警戒しながら肉を咀嚼していた。

知能がある。 道具を使う。 そして何より、今の僕たち人類と同じように「必死」だ。

(……足を引きずっている個体は、右端だ)

ニルスの報告通りだ。右の個体は左足首が不自然に曲がっている。おそらく以前の冒険者との戦闘か、同族争いで負った傷だろう。 狙い目はあいつだ。

僕は音もなく左手を上げ、指文字を描く。 『右端/足止め/一斉攻撃』

背後の茂みがわずかに揺れた。 相棒のガインが、あの巨大な鉄塊を構えた気配。 リズが長槍の穂先を音もなく突き出した気配。 ニルスが弓を引き絞り、ギリリと弦が鳴る寸前で止めた気配。 そして、さらに後方でエマが息を呑み、祈るように両手を握りしめた気配。

全員の呼吸が、僕の背中に重なる。 怖い。 逃げ出したい。 足が震えて、地面の泥を蹴散らしてしまいそうだ。 だが、僕が震えれば、後ろの四人はもっと震える。僕は指揮官だ。このパーティの脳であり、最初に痛みを受ける盾だ。

僕は恐怖を奥歯で噛み砕き、震える手を握りしめ、そして振り下ろした。

『撃て』

ヒュンッ! 湿った空気を切り裂き、ニルスの放った矢が吸い込まれるように飛んだ。 狙いは頭ではない。確実に当たる胴体でもない。 右端のゴブリンの、すでに傷ついていた左足だ。

「ギャァッ!?」

汚らしい悲鳴。 矢じりに塗られた痺れ薬と、古傷への衝撃。ゴブリンがバランスを崩し、泥の中に顔から倒れこむ。

「走れぇぇぇッ!!」

僕の喉から、自分でも驚くほど野蛮な咆哮が迸った。ステルスは終了だ。ここからは泥沼の殺し合いだ。 僕は茂みを飛び出し、小盾を構えて突進する。

残りの二匹が反応した。 速いっ。 鹿肉を放り投げ、一瞬で武器を手に取る。その反応速度は、酔っ払った衛兵よりも遥かに鋭い。 真ん中にいた一際大きな個体が、血走った目で僕を睨み、石斧を振り上げた。

(来る……!)

「グギャァアッ!」

ゴブリンが跳躍する。 人間の子どもほどの体躯から繰り出されるとは思えない、質量を伴った殺意。 僕は足を止めない。逃げない。ここで僕が足を止めれば、後ろのガインが突っ込めない。

衝撃。 ガギィンッ! 小盾越しに、重機に激突されたような衝撃が左腕を駆け抜けた。 骨がきしむ。筋肉が悲鳴をあげる。 (重いッ……! なんだこいつ、本当にランクGかよ!?) 石斧の一撃は、僕の体を数メートル後退させるほどだった。だが、弾き飛ばされはしなかった。 僕は歯を食いしばり、泥にブーツを食い込ませて耐えた。

「ガインッ! 今だッ!」

「おうらぁぁぁぁッ!!」

僕の真後ろから、暴風が吹き荒れた。 ガインだ。 相棒は僕の頭上スレスレを飛び越えるようにして、その馬鹿げた質量の『廃材の大剣』を叩きつけた。 狙うは、僕を攻撃して動きが止まった真ん中の個体。

「ガッ……!?」

ゴブリンが防御しようと石斧を掲げる。 だが、無駄だ。ガインの武器は「切る」ものじゃない。「潰す」ものだ。 ドゴォッ!! 鈍く、湿った破壊音。 石斧ごとゴブリンの腕がひしゃげ、そのまま地面に叩きつけられる。 即死ではない。だが、肩の骨は粉砕されたはずだ。

「リズ! 左!」

僕は痛む左腕を無視して叫ぶ。 左側の個体が、ガインの隙だらけの脇腹を狙ってナイフを構えていた。 そこに、銀色の閃光が走る。

「させないわよ、汚らわしい!」

リズの長槍だ。 彼女は騎士のように優雅に突き……はしなかった。 ぬかるんだ足場に足を取られそうになりながらも、彼女は槍の柄を長く持ち、あえて穂先ではなく、柄の部分でゴブリンの顔面を横殴りにしたのだ。 バチンッ! 鼻血を吹き出してよろめくゴブリン。

「くっ、すばしっこい!」

リズが舌打ちする。今のゴブリンは、一撃では止まらない。 よろめきながらも、奴らはすぐに体勢を立て直し、僕たちを包囲しようと散開し始める。 手負いが一匹、腕を潰されたのが一匹、鼻血を出しているのが一匹。 有利だ。だが、勝負はここからだ。

「囲め! フォーメーションCだ! 腕の折れた奴から確実に殺す!」

僕の指示に、全員が動く。 これが僕たち『鉄屑』の戦い方だ。 1対1の決闘なんてしない。 5対1で、弱った奴から、卑怯なまでに徹底的に叩く。

「ガイン、もう一発だ! リズは牽制! ニルス、逃げようとする奴の足を狙え!」

ガインが雄叫びを上げて、腕の折れたゴブリンに追い打ちをかける。 ゴブリンは必死に逃げようと泥を掻くが、その背中にニルスの矢が突き刺さる。 動きが鈍ったところに、ガインの鉄塊が振り下ろされる。 グシャリ。 今度こそ、頭蓋が砕ける感触。

「一匹やった! 次、左!」

僕がターゲットを切り替えようとした、その時だった。

「レンッ! 後ろッ!!」

後方にいたエマの、引き裂くような悲鳴。 心臓が凍りついた。 後ろ? 索敵は完璧だったはずだ。三匹しかいなかったはずだ。

僕は反射的に振り返る。 視界の端、泥の中に埋もれていた「倒木」が動いていた。 いや、違う。泥を全身に塗りたくり、倒木に擬態していた四匹目のゴブリンだ。 奴はずっと待っ

ていたのだ。僕たちが前衛に気を取られ、後衛が無防備になるその瞬間を。 ターゲットは――エマだ。

「しまっ……!」

距離がある。 僕の足では間に合わない。 ガインは大剣を振り下ろした直後で硬直している。 リズは左の個体と交戦中だ。 ニルスは弓をつがえているが、近距離で飛びかかられては分が悪い。

ゴブリンが跳ぶ。 錆びたナイフが、エマの喉元へと迫る。エマは腰を抜かし、動けない。

「エマッ!」

僕が叫んだ瞬間、横から細い影が突っ込んだ。 ニルスだ。 彼は弓を投げ捨て、腰のダガーを抜く暇もなく、体ごとゴブリンにタックルしたのだ。 ドサッ! ニルスとゴブリンが泥の中にもつれ込む。

「ぐっ、この野郎ッ! 臭せぇんだよ!」

ニルスがゴブリンの腕を掴み、ナイフを押し留める。 だが、筋力差は歴然だ。ランクGとはいえ、今のゴブリンは成人男性並みの力がある。 徐々にナイフがニルスの顔に近づいていく。 切っ先から滴る茶色い液体――糞尿と毒の混合物――が、ニルスの頬に落ちる。

「ニルス!」

僕は走る。 だが、目の前に鼻血を出したゴブリンが立ち塞がる。 「邪魔だァッ!」 僕は盾で殴りつけるが、避けられる。

「レン! ニルスを助けて! こっちは私がやる!」

叫んだのはリズだった。 彼女は自分の対面している敵を無視して……いや、あえて背を向けて、僕の前の敵に突っ込んできた。 「ええいッ!」 彼女は槍を投げ捨てた。 そして、立ち塞がるゴブリンの腰にタックルし、そのままマウントポジションを取った。 騎士の誇り? 優雅な槍術? そんなものはここにはない。 リズは泥まみれになりながら、ゴブリンの髪を掴み、その顔面を地面の石に何度も叩きつけた。

「死ね! 死ね! 私たちの邪魔をするな!」

鬼気迫る形相。泥で汚れた銀髪が振り乱される。 彼女が道を開けてくれた。

僕はニルスの元へ滑り込む。 ゴブリンのナイフが、ニルスの眼球まであと数センチに迫っていた。 僕は剣を使う余裕すらなかった。 小盾のエッジを、ゴブリンの首筋に叩きつける。 「離れろッ!」 ゴブリンが呻き、力が緩む。 ニルスがその隙に膝蹴りを入れ、ゴブリンを蹴り飛ばす。

仰向けになったゴブリン。 僕はその上に馬乗りになり、ショートソードを逆手に持った。 ゴブリンと目が合う。 黄ばんだ白目。恐怖に歪む顔。 「命乞いか?」 そんなもの、聞く耳は持たない。 僕たちだって、いつ死ぬか分からないんだ。

「悪いな」

僕は全体重を乗せて、剣を突き立てた。 一度では死なない。肋骨に阻まれる。 ゴブリンが暴れ、僕の顔を爪で引っ掻く。熱い痛みが走る。 それでも僕は止まらない。 何度も、何度も。 心臓が止まるまで。 生暖かい血が僕の顔に吹きかかり、鉄の味が口の中に広がる。

「ハァ……ハァ……ハァ……」

動かなくなった。 僕は震える手で剣を引き抜き、よろりと立ち上がる。

周囲を見渡す。 ガインが、最初の一匹にトドメを刺して立ち尽くしている。 リズは、顔面を潰したゴブリンの横で、肩で息をしながら泥を拭っている。 ニルスは泥だらけで仰向けになり、空を見ていた。 エマは……へたり込みながらも、無事だ。

終わった。 四匹。全滅。 完全勝利だ。……いや、どこがだ。

「……みんな、生きてるか」

僕の声は枯れていた。

「……最悪よ」 リズが吐き捨てるように言った。 「泥の味がするわ。髪もギトギト。……でも、五体満足よ」

「……俺もだ。あー、死ぬかと思った」 ニルスが起き上がり、顔についた泥とゴブリンの体液を袖で乱暴に拭う。 「レン、お前、顔……切れてるぞ」

「ああ、ヒリヒリする」 頬に走る熱。ゴブリンの爪痕だ。 すると、エマがふらふらと近づいてきた。 彼女の手には水袋と、清潔な布。

「レンくん、じっとして。……洗うから」

エマの声は震えていたが、その手つきは優しかった。 傷口に水をかけ、泥と毒を洗い流す。 水が沁みる痛みに顔をしかめると、彼女は「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。 魔法で治すほどの傷じゃない。消毒して、縫えば治る。 それが僕たちのレベルだ。

「ありがとな、エマ。……ニルスも、よく耐えた」 「ったく、借りだぜリーダー。あとで高い酒でも奢れよ」 「スープで我慢しろ」

空気が緩む。 僕たちは生き残ったのだ。 あの恐怖の時間を、誰一人欠けることなく。

「さあ、仕事の仕上げだ」

僕は言った。 これからが一番気が滅入る作業だ。 ゴブリンの死体から「右耳」を切り取る。討伐証明部位だ。 そして、彼らが持っていた武器や、身につけている装飾品を剥ぎ取る。 死体漁り。 勇者なら絶対にしない行為だ。でも、ゴブリンの持つナイフ一本でも、街の鍛冶屋に持っていけば銅貨数枚にはなる。それが明日の矢になり、薬になる。

ガインが、ゴブリンが食べていた鹿の残骸を見つめていた。 「……レン、この肉、まだ食えるかな?」 「やめとけ。毒があるかもしれない。……今日はゴブリン四匹分の報酬が出る。街でまともな豚肉を買ってやるから」 「ほんとか! やったぜ!」

ガインが無邪気に笑う。 その笑顔を見て、僕の張り詰めていた糸がようやく切れた。 ドサ

リと、泥の上に腰を下ろす。

雨はまだ降り続いている。 泥と血と鉄の臭いが充満している。 体中が痛い。左腕は上がらないし、顔の傷はズキズキする。リズは鎧の汚れを気にしているし、ニルスは矢の回収に走り回っている。

なんて無様で、惨めな光景だろう。 でも。

「……ふっ」

笑いが込み上げてきた。 生きてる。 心臓が動いてる。 痛みがあるということは、まだ死んでいないということだ。

「何笑ってんのよ、レン。気味悪い」 リズが呆れた顔で僕を見下ろしている。その顔にも泥がついているのが、なんだかおかしかった。

「いや……生きて帰れるなと思ってさ」 「当たり前でしょ。私がいるんだから」

リズはふんと鼻を鳴らし、手を差し伸べてきた。 僕はその泥だらけの手を掴み、立ち上がる。 掌から伝わる体温。 それが、僕たちが今日勝ち取った戦利品の全てだ。

「帰ろう、みんな。温かいスープが待ってる」

僕たちは歩き出す。 背中には重い疲労と、わずかな銀貨の重み。 英雄になんてなれなくていい。 世界がどうなろうと知ったことか。 ただ、明日もまた、こいつらとこうして馬鹿話をしながら泥道を歩けたら、それだけでいい。

雲の隙間から、ほんの少しだけ薄日が差した気がした。 僕たちの影が、灰色の地面に長く伸びていた。

薄日が差したのも束の間、再び降り始めた雨は、先ほどよりも冷たく、重くなっていた。

「……おい、止まれ」

帰路の半ば。ニルスの鋭い声が、緩みかけた空気を切り裂いた。 彼の視線は、街道沿いの鬱蒼とした藪の中に釘付けになっている。 僕たちは即座に足を止め、武器を構え直す。だが、遅かった。

ズズン、という重い振動。 腐葉土の地面が揺れた。 藪が内側から弾け飛び、巨木がマッチ棒のようにへし折られる音と共に、それは姿を現した。

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