エピローグ
城塞都市に、今日も冷たい雨が降る。 石畳を濡らすその水は、路地裏にこびりついた汚物と、誰かが流した血を洗い流し、ドブ川へと運んでいく。 この世界は、巨大な排水溝だ。 弱者は汚泥となり、強者はその上を歩く。ただそれだけのシステムで回っている。
教会の鐘が鳴る。 人々は祈る。だが、空からは何も降ってこない。 神? そんなものがいるなら、なぜ路地裏の孤児は冬を越せずに凍死する? なぜ必死に生きた若者たちが、豚の餌になって森で朽ちる? 祈りは気休めにもならない。神に縋る暇があるなら、泥水を啜ってでもカロリーを摂取しなければ、明日の朝には死体袋行きだ。
「おい、そこの兄ちゃん。いい儲け話があるんだが」 酒場の隅で、人の良さそうな笑顔を浮かべた男が、新人の冒険者に声をかけている。 優しそうな顔? 親切な言葉? 笑わせるな。この街で「善人」の皮を被っている奴は、全員詐欺師か人攫いだ。 あいつも数日後には、身ぐるみ剥がされて下水道に浮くか、借金まみれになって危険な鉱山に売られるだろう。
かつての友人たちを思う。 酒を酌み交わしたあいつ。将来を語り合ったあいつ。 みんな死んだ。 墓なんてない。 彼らの死体はダンジョンの奥底で魔物の腹に収まったか、腐敗して苔の苗床になった。 冒険者の末路なんてそんなものだ。 『鉄屑』と呼ばれたあの四人組のように、遺体が回収され、誰かに涙を流してもらえるなんて、宝くじに当たるより稀な奇跡なのだ。 大抵は、名前すら忘れられ、所持品はハイエナ共に奪われ、骨一本すら残らない。
救いなんてない。 正義なんてない。 努力が報われる保証なんて、どこにもない。
それでも。
ギルドの扉が開く。 入ってきたのは、ツギハギだらけの服を着た、震える少年だ。 彼の手には、拾ったような錆びた剣が握られている。 腹が減っているのだろう。目が落ち窪んでいる。 それでも、彼は掲示板の前に立ち、自分の命を賭ける依頼を探している。
なぜ戦うのか。 死ぬのが怖いからだ。 でも、何もせずに飢えて死ぬのは、もっと怖いからだ。
世界は残酷で、無慈悲で、クソったれだ。 だが、その暗闇の中で、歯を食いしばり、震える足で一歩を踏み出す「小さな勇気」だけが、唯一、この世界で本物と呼べる光なのかもしれない。 たとえその先にあるのが、無惨な死だとしても。 彼らは今日も、泥沼の中を這いずり回る。 「生きたい」という、ただそれだけの、浅ましくも尊い欲望のために。
深く、暗い、底のない闇の中。 肉体の痛みも、寒さも、飢えも、もう何もない場所。
「……悪いな、シリル」
闇に溶けるような声がした。 右腕も左足も失った、焦げた魂の形をした男が、隣に漂う気配に話しかける。
「結局、使い潰しちまった。……お前も、俺も」
「……本当にね」
答える声は、鈴を転がすように涼やかで、どこか呆れたような響きを含んでいた。 青緑の燐光が、男の隣で微かに明滅する。
「最悪の指揮だったよ、ボス。……泥だらけで、血まみれで、痛くて……最後はあんな醜い肉の塊にされて」
「ああ。……文句なら聞くぞ。地獄の底まで付き合ってやる」
「ふふ。……でも」
青緑の光が、ふわりと男の魂に寄り添った。 そこには、かつて屋根裏部屋で感じたような、微かな熱があった。
「ポケットの中……居心地は悪くなかったよ」
「……硬くて痛かったけどな」
「お互い様でしょ」
闇が深まっていく。 意識という輪郭さえも、世界というシステムに還元され、消滅していく。 だが、二つの魂は、離れることなく混ざり合っていた。
「……次は、もっとマシな世界がいいな」
「そうだね。……剣と魔法なんてなくて、オークもいなくて……ただ、美味しい肉を食べて、昼まで寝ていられるような世界がいい」
「ああ……それはいい。最高だ」
「おやすみ、レン」
「おやすみ、シリル」
そして、光は消えた。 残されたのは、永遠の静寂だけ。 かつて世界に抗い、傷つけ合い、愛し合い、そして散っていった二つの鉄屑の物語は、ここで完全に幕を閉じた。
見てくれてありがとうございました!!また投稿する作品も楽しんでもらえると嬉しいです。




