全てを賭けて...
季節は晩春。 城塞都市の街から北東へ馬車で三日ほどの距離にある『新緑の樹海』。 その名の通り、鮮やかな緑が萌え出ずる美しい森であり、同時にランクCからDの魔物が跋扈する危険地帯でもあった。
朝霧が立ち込める森の入り口で、俺たち『鉄屑』は装備の点検を終えていた。
「……空気、美味いな」
ニルスが深く息を吸い込み、腰の鉈の柄をポンと叩いた。 その顔には、かつてのような卑屈な笑みはない。獲物を前にした狩人の、静かな高揚感だけがある。
「ええ。視界も良好よ。……この森なら、私の槍の長さも活かせるわ」
リズが重装歩兵槍の石突きで地面を突き、泥の硬さを確かめる。 ボロボロの中古鎧は、何度も修復を重ねて、今では彼女の皮膚のように馴染んでいた。
「魔力感知、異常なしです。……近くに敵影はありません」
エマが布鎧の袖を捲り上げ、風の匂いを嗅ぐように周囲を警戒する。その手には、使い込まれた鉄のメイスが握られている。
そして俺、レンは、腰の『青緑』の鼓動を感じていた。 ドクン、ドクン。 一定のリズムで脈打つ魔剣。 今日は機嫌がいい。俺の体調も万全だ。
「……今回の依頼は、森の奥に巣食うオークの集落の殲滅だ」
俺は地図を広げ、仲間たちに告げた。
「数は十から二十。オーガが混じっている可能性もある。……だが」
俺は顔を上げた。 そこには、歴戦の傭兵のような顔つきをした三人がいた。
「今の俺たちなら、やれる。……泥仕合だろうが、消耗戦だろうが、最後に立っていれば俺たちの勝ちだ」
「おうよ! 狩り尽くしてやるぜ!」 「ええ。……鉄屑の意地、見せてやりましょう」
俺たちは笑った。 死ぬなんて思っていなかった。家具運びやドブ掃除で培った底力。 それらが俺たちを「強者」にしたと信じていた。 この森は俺たちの新たな門出を祝うステージであり、死体袋になる場所だなんて、微塵も疑っていなかった。
俺たちは森へと足を踏み入れた。 新緑の隙間から差し込む木漏れ日が、残酷なほど美しく、俺たちの行く末を照らしていた。
異変に気づいたのは、森の中腹あたりだった。
「……おい、妙だぞ」
ニルスが足を止めた。 「静かすぎる。……鳥の声もしねえ。獣の気配もねえ」
ザワワワ……。 風が木々を揺らす音だけが、不気味に響く。
「……レンくん。……臭う」 エマが鼻を押さえた。 「腐った……お肉の臭い。それに、すごく濃いマナの気配……」
俺は剣を抜いた。 『青緑』が、ジジジ……と嫌な音を立てて熱を発し始める。 警戒色だ。シリルが怯えている? いや、興奮しているのか?
「陣形を詰めろ! 来るぞ!」
俺の声と同時だった。
ドォォォォォンッ!!!
地面が爆発したかのような衝撃。 左右の茂みが一斉に薙ぎ倒され、巨大な影が飛び出してきた。
「グルァァァァァァッ!!!」
オークだ。 豚の頭を持つ亜人。オークの群れ。 その数、十五匹。
「囲まれた!? いつの間に!」 リズが叫び、槍を構える。
「上だ! 木の上から降りてきやがった!」 ニルスが頭上を睨む。
だが、絶望はそれだけではなかった。 オークたちの背後から、さらに巨大な、圧倒的な圧力を放つ影が現れた。
身長三メートルを超える、青黒い肌の巨人。 【オーガ】。 それも、片手に大木を引き抜き、もう片手に人間よりも大きな鉄球を持った、歴戦の個体だ。
「……ハッ。上等だ」
俺は恐怖をねじ伏せ、唇を舐めた。
「想定内だろ? 数が多いくらいが、丁度いいハンデだ!」
「違げえねえ! 全部素材に見えるぜ!」
ニルスが笑い、鉈を抜いた。 俺たちは突っ込んだ。 死にに行くとは知らずに。
戦闘開始直後、俺たちは優勢だった。 泥臭い訓練の成果が発揮された。
「フンッ!!」
リズが踏み込む。 迫りくるオークの錆びた斧を、避けるのではなく、鎧の肩当てで受け止める。 ガギィンッ! 衝撃を逃し、そのまま体をぶつけて体勢を崩す。 「死になさいッ!」 重装歩兵槍が唸り、オークの太い首をへし折る。
「らぁぁぁっ!」 ニルスが駆ける。 オークの股下をスライディングで抜け、アキレス腱を鉈で断つ。 倒れたところを、ゼロ距離射撃で眼球を撃ち抜く。 「二匹目!」
エマも負けていない。 飛びかかってきたオークの顔面に、魔力を込めたメイスを叩き込む。 パァァンッ! 頭部が破裂し、脳漿が飛び散る。
そして俺。 『青緑』が青い軌跡を描く。 魔剣の熱が、オークの分厚い脂肪を溶かし、骨ごと両断する。 「軽い……! いけるぞ!」
俺たちは確実に敵を減らしていた。 十五匹いたオークが、またたく間に半分になった。 「勝てる」「俺たちは強い」という確信が、俺たちの動きを加速させる。
だが。 その慢心が、オーガの知能によって砕かれることになった。
オーガは動かなかった。 部下のオークたちが殺されるのを、冷ややかな目で見ていた。 そして、俺たちの動きの癖、陣形の穴、そして誰が「要」かを見極めていたのだ。
「グオォッ……」
オーガが小さく唸り、鉄球を振るった。 狙いは俺でも、リズでもない。 一番後ろで、的確に俺たちの傷を癒やしていたエマだ。
ゴオォォォォォッ!!!
風切り音がした瞬間には、鉄球はエマの目の前にあった。 「え……?」 エマが反応する間もない。
「エマッ!!!」
リズが動いた。 思考するよりも早く。 訓練で染み付いた「壁」としての本能が、彼女を死地へと走らせた。
リズはエマの前に飛び込み、槍を捨て、全身で鉄球を受け止めようとした。
ズドォォォォォォンッ!!!!!
嫌な音がした。 金属がひしゃげる音。骨が粉砕される音。そして、トマトが潰れるような湿った音。
「が、ぁ……ッ!?」
リズの体が、エマごと後方へ吹き飛ばされた。 数本の巨木をへし折り、岩盤に叩きつけられて止まる。
「リズ! エマ!」 俺は叫び、駆け寄ろうとした。 だが、残りのオークたちが壁となって立ち塞がる。 「どけぇぇぇッ!!」 俺は狂ったように剣を振るうが、数は減らない。
リズは、岩にもたれるように倒れていた。 その姿は、惨劇そのものだった。 自慢の小札鎧は、胸の部分が完全に陥没していた。 鉄球のスパイクが鎧を貫通し、彼女の胸郭を粉砕し、肺と心臓をグチャグチャに破壊していた。
「カヒュー……ゴポッ……」
リズの口から、大量の血と内臓の破片が溢れ出す。 即死だ。 人間が耐えられる衝撃ではなかった。 だが、彼女の腕は、しっかりと何かを抱きしめていた。
エマだ。 リズの腕の中、エマは無傷――に見えた。 だが、エマの首は、ありえない方向に曲がっていた。 衝撃だ。 リズがクッションになったとはいえ、鉄球の衝撃波と、吹き飛ばされた時の風圧で、エマの細い首の骨は瞬時に折れていたのだ。
エマの目は見開かれたまま、虚空を見つめていた。 手にはメイスを握りしめ、「守らなきゃ」という意志を残したまま、事切れていた。
「あ……あ、あ……」
リズの瞳から光が消えていく。 彼女は最期に、腕の中のエマを見て、血の泡を吹いて微かに笑ったように見えた。 そして、ガクンと首を垂れた。
二人同時に、死んだ。
「う、わぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
ニルスの絶叫が響いた。 「クソッ! クソッ! クソッ!」 彼は半狂乱になり、弓を捨てて鉈一本でオークの群れに突っ込んだ。
「ニルス! やめろ! 下がれ!」 俺の制止など聞こえない。 「殺してやる! 殺してやるよ畜生!!」
ニルスは強かった。 鉈でオークの腕を切り落とし、喉を食いちぎり、獣のように暴れた。 だが、多勢に無勢だ。 一匹のオークが、背後からニルスのふくらはぎに槍を突き刺した。 「グッ……!」 体勢が崩れる。 そこへ、三匹のオークが殺到する。 斧が、棍棒が、ニルスの体に振り下ろされる。
「が、ぁッ! はな、せ……!」
ニルスは這いずり、巨木に背中を預けて立ち上がろうとした。 左腕はぶら下がり、右目の上から大量に出血して視界が塞がっている。 鉈の刃は欠け、もうボロボロだ。
「……へへっ。……来やがれ、豚ども……」
ニルスは笑った。 血まみれの顔で、最期の挑発をした。 オーガが近づいてくる。 その巨大な手が、ニルスの頭を掴んだ。
「……あばよ、レン」
メキョッ。
オーガが握力だけで、ニルスの頭蓋骨を圧搾した。 眼球が飛び出し、鼻から脳漿が噴き出す。 パンッ! スイカが割れるような音と共に、ニルスの顔の上半分が消し飛んだ。 残った下顎だけが、まだ笑った形を保ったまま、ズルリと地面に崩れ落ちた。
「ニルスぅぅぅぅぅぅぅッ!!!」
俺は一人になった。 森の静寂が戻ってくる。 残ったのは、俺と、五匹のオーク、そして返り血で赤く染まったオーガ。
俺は震えていた。 恐怖じゃない。 沸騰するような怒りと、どうしようもない絶望で、魂が震えていた。
「……許さない」
俺は『青緑』を両手で握りしめた。 マナを注ぐ。 限界まで。血管が焼き切れるまで。 シリルがあの日感じていた、死に至る熱量を、今ここで再現する。
ドクンッ!!!
剣が悲鳴を上げた。 刀身が青緑色から、眩い白色へと発光する。 俺の手袋が焼け、皮膚が焦げ、肉が炭化していく。 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」 激痛。 だが、剣を離さない。 手と剣が焼き付いて、一つに融合していく感覚。
「殺す……! お前ら全員、地獄へ連れて行くッ!!」
俺は駆けた。 人間じゃない速度で。 身体強化の限界突破。筋肉繊維がブチブチと切れる音がする。初めての感覚。
「死ねぇぇぇッ!!」
ズンッ!!
一閃。 残っていたオーク五匹が、一振りで纏めて両断された。 傷口が爆発し、上半身が炭になって崩れ落ちる。
残るはオーガ。 奴は、ニルスの死体をゴミのように投げ捨て、俺に向かって鉄球を構えた。
「グオォォォッ!!」
オーガの鉄球と、俺の魔剣が激突する。
ギャリガリガリガリッ!!!
鉄球が溶ける。 俺の剣の熱が、鋼鉄を飴細工のように溶断していく。 「斬れろぉぉぉぉぉッ!!」
ズパァンッ!!
鉄球ごと、オーガの右腕を斬り飛ばした。 だが、代償は大きすぎた。 『青緑』の刀身に、ピキリと亀裂が入る。 そして、反動で俺の右腕の骨が粉々に砕けた。
「ガァッ……!」
俺は膝をついた。 右腕が動かない。ブラブラと垂れ下がっている。 剣を取り落としそうになるが、炭化した皮膚が柄に張り付いて離れない。
オーガは、腕を失った激痛に狂い、残った左手で俺を掴み上げようとした。 「まだだ……!」 俺は左手で腰のダガーを抜き、オーガの指に突き立てる。 だが、浅い。 オーガの巨大な手が、俺の左足を掴んだ。
ベリリリリッ!!
「ぎゃああああああああああッ!!!」
引っこ抜かれた。 俺の左足が、股関節から無理やり引きちぎられた。 鮮血が舞う。 俺の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「ハァッ、ハァッ、アァ、アァ……」
視界が赤い。 右腕は砕け、左足がない。 大量の出血で、急速に体温が下がっていく。 寒い。 新緑の森なのに、ここだけ真冬のように寒い。
オーガが近づいてくる。 片腕を失い、血走った目で俺を見下ろしている。 とどめを刺しに来たのだ。
(……ここまで、か)
俺は、残った左手と、砕けた右腕で、這いずった。 逃げるためじゃない。 少し先に落ちている、黒ずんだものへ向かって。
リズ。エマ。ニルス。 みんな、肉塊になって転がっている。
(ごめん。……ごめんな、みんな)
俺が、夢を見せたせいだ。 鉄屑は鉄屑らしく、ドブの中で生きていればよかったんだ。 輝こうなんて思ったから。 強くなろうなんて願ったから。
俺は、這いつくばったまま、右手にある『青緑』を見た。 剣は、もう光っていなかった。 俺のマナが尽き、生命力が尽きたせいで、急速に冷却されている。 美しい青緑色は消え失せ、ただの黒い、焦げ付いた鉄屑に戻っていた。
「……シリル……」
俺は、焦げた手で、黒くなった剣を抱きしめた。 冷たい。 あんなに熱かったのに。 俺の唯一の相棒。俺の命。
「……お前も、死んだのか」
オーガの足が、俺の頭上に迫る。 影が落ちる。
俺は、黒い剣に頬ずりをした。 泥と血の臭い。 でも、微かに……あいつの香水の匂いがした気がした。
「……やっと、一緒になれるな」
グチャッ。
重い音が森に響いた。 オーガが俺を踏みつぶした音だ。 肋骨が全壊し、心臓が破裂する。
意識が飛ぶ寸前、俺は見た。 黒くなったショートソードが、俺の血を吸って、一瞬だけ――本当に最後の一瞬だけ、悲しげに青く明滅したのを。
そして、世界は永遠の闇に包まれた。
森には再び静寂が戻った。
新緑の木々は、何もなかったかのように風に揺れている。 ただ、その根元には、赤黒いシミが広がり、四つのひどく損壊した肉塊と、一本の黒ずんだ剣だけが残されていた。
『鉄屑』たちは、誰にも知られることなく、夢の途中で錆びつき、朽ち果てた。 その死体は、やがて森の養分となり、美しい緑の一部となるのだろう。 残酷で、無慈悲で、ありふれた冒険者の末路として。




