泥沼に沈んだ鉄屑
季節が二つ、巡った。 遅い春が過ぎ、ジメジメとした梅雨が明け、城塞都市の空に眩しい夏の日差しが戻ってきた頃。
俺たち『鉄屑』は、まだ生きていた。 ただし、剣を振るう冒険者としてではない。 街の影で、泥と油にまみれて働く「何でも屋」としてだ。
「……くそ、重てぇな。貴族様の家具ってのは鉛でも入ってんのかよ」
ニルスが荒い息を吐きながら、巨大なオーク材のタンスを背負って石階段を登っていた。 かつて弓を引いていた指は、今は荷運び用の分厚い軍手で守られ、その革鎧は作業用のツナギに変わっている。
「文句言わないの。……これを運べば、銀貨二枚よ。矢を十本買うより確実な稼ぎだわ」
後ろで荷物を支えるリズもまた、見る影もなかった。 美しい銀髪は短く切り揃えられ(手入れが面倒だからだ)、顔には煤と汗が張り付いている。 だが、その瞳から、かつてのような「虚飾のプライド」は消えていた。あるのは、今日を食いつなぐための、地を這うような逞しさだけだ。
俺たちは、メンバーを補充しなかった。 ガインのような盾も、シリルのような矛も、もう二度と入れなかった。 誰かが死ぬのはもう御免だ。 背負うのは、物理的な荷物だけで十分だった。
その代わり、俺たちは「プライド」を捨てた。
下水道の清掃。 崩落した廃屋の撤去作業。 貴族街のドブさらい。 冒険者が「割に合わない」と敬遠するような、汚くて、きつくて、地味な仕事。 それを俺たちは、無言で、機械のようにこなした。
それを可能にしたのは、ギルドの受付嬢、ミリアの密かな助力だった。
「……レンさん。これ、裏口に入れておきますね」
カウンターの端で、ミリアが周囲の目を盗んで一枚の依頼書を渡してくれる。 それは正規の掲示板には貼られない、少し「訳あり」だが実入りのいい仕事だ。
『錬金術師ギルドの廃棄薬液の処理(危険手当付き)』 『商隊の荷降ろし作業・夜間限定(早朝割増付き)』
本来なら、もっとランクの高いパーティや、専門の業者に回される案件。 それを彼女は、独断で俺たちに回してくれていた。
「……いいのか? こんな高単価な雑務、俺たちみたいなのに回して」
俺が小声で尋ねると、ミリアは悲しげに、でも力強く微笑んだ。
「あなたたちは……逃げなかったから」
彼女の視線が、俺の汚れた手と、ポケットの膨らみに向けられる。
「仲間を見捨てて夜逃げするパーティなんて、山ほどいます。……でも、あなたたちは残って、泥水を飲んででも罪を償おうとしている。……私は、そんな『鉄屑』を応援したいだけです」
「……恩に着る」
俺は短く礼を言い、その依頼書を握りしめた。 同情かもしれない。贖罪のつもりかもしれない。 だが、今の俺たちには、その蜘蛛の糸が命綱だった。
そして、その日は唐突に訪れた。
ギルドのカウンター。 夕暮れ時の淡い光が差し込む中、俺は革袋をひっくり返した。
ジャラジャラ……。
大量の銀貨と、数枚の金貨が、木のトレイの上に山を作る。 それは、ここ数ヶ月、俺たちが血と汗と泥にまみれて集めた結晶だ。 ニルスが腰を痛めながら運んだ家具の代金。 リズが吐き気をこらえて掃除した下水道の報酬。 エマが夜なべして選別した薬草の売上。 そして、俺が――ポケットの中のシリルに「見てろ」と誓いながら、歯を食いしばって稼いだ金。
ミリアが、震える手でそれを数える。 一枚、また一枚。 周囲の喧騒が遠のく。 俺たちの心臓の音だけが、コインの音と重なって聞こえる。
「……確認、しました」
長い沈黙の後、ミリアが顔を上げた。 その目には涙が溜まっていた。
「違約金、および前借り分の報酬……全額、返済完了です」
ドンッ。
彼女が書類に『完済』のスタンプを押した。 その乾いた音が、俺たちの止まっていた時間を動かす合図のように響いた。
「……は、はは……」
ニルスが、力なく笑った。 その場にへたり込み、天井を仰ぐ。 「終わった……。終わったぞ……! クソッ、長かった……!」
リズは、深く息を吐き出し、カウンターに額を押し付けた。 「……やっと、肩の荷が下りたわ。……本当に、重かった……」
エマは、俺の袖を掴んで、声を殺して泣いていた。
俺は、ポケットの中に手を入れた。 そこにある、冷たくて硬い石。 その表面を、親指でゆっくりと撫でる。
(……終わったぞ、シリル)
借金は返した。 お前の命の値段に見合うだけの金を、俺たちは稼ぎきった。 もちろん、お前が帰ってくるわけじゃない。ガインが戻るわけでもない。 失ったものは何一つ帰ってこない。
けれど、俺たちは「マイナス」から「ゼロ」に戻ってきた。 泥沼の底から這い上がり、やっと地面の上に顔を出したのだ。
「……レンさん」
ミリアが、スタンプを押した書類――借用書の控えを俺に渡した。 そして、改まった表情で言った。
「これより、パーティ『鉄屑』への依頼制限を解除します。……また、冒険者として活動されますか?」
その問いに、俺は顔を上げた。 仲間たちを見る。 ボロボロの作業着。傷だらけの手。日に焼けた肌。 かつてのような、煌びやかな装備も、根拠のない自信もない。
だが、その目は死んでいなかった。 泥の中で磨かれ、叩かれ、焼き入れられた、鈍色の輝きを宿していた。
「……ああ」
俺は答えた。
「俺たちは『鉄屑』だ。……一度捨てられたゴミだ。だがな」
俺は拳を握りしめた。
「溶かして、叩いて、鍛え直した。……前よりも、少しはマシな刃物になったはずだ」
俺たちはギルドを出た。 外は夕焼けだった。 空が燃えるように赤い。 それはあの日、シリルの命が燃え尽きた時の蒸気の色にも、ガインが流した血の色にも似ていた。
「……眩しいな」 ニルスが目を細める。 「ずっと地下とか倉庫にいたから……太陽が目に沁みやがる」
「……空気も、美味しいわね」 リズが大きく深呼吸をする。 「ドブの臭いがしない。……ただの風の匂いがする」
俺たちは、ギルドの階段に腰を下ろした。 借金はない。 明日からの重労働の予定もない。 自由だ。 その自由の重さが、今は心地よかった。
「……で? どうするよ、リーダー」 ニルスがニヤリと笑った。 「装備は全部売り払っちまった。手元にあるのは、なけなしの小銭と、この薄汚いツナギだけだ。……またゴブリン退治からやり直すか?」
「いいや」
俺は立ち上がり、夕陽に向かって指を差した。
「ゴブリンなんてもう御免だ。……まずは、自分たちの武器を取り戻す」
俺はポケットの中の石を握りしめた。
「……シリルが言ってた。『私の骨を武器にしてくれ』ってな」
三人が息を呑む。 俺は続けた。
「あいつは俺のポケットの中で、ずっと待ってたんだ。……金がないから加工できなかったが、今ならできる」
俺は振り返り、仲間たちを見た。
「行くぞ、鍛冶屋へ。……俺たちの最強の仲間を、もう一度戦場に連れて行く準備をするんだ」
リズが、ニルスが、エマが、力強く頷いた。 もう迷いはない。 俺たちは地表に上がってきた。 肺いっぱいに空気を吸い込み、泥を落とし、そして再び歩き出す。
俺たちの影が、夕陽に長く伸びていた。 それは以前のような頼りない影ではない。 地に足をつけ、重荷を背負う覚悟を決めた、確かな輪郭を持つ四つの影だった。




