弱き者は奪われる
ギルドの扉が開く音は、まるで断頭台の刃が落ちる音のように重く、そして鈍く響いた。
入ってきた風が、熱気とアルコールの臭いが充満するホールに、冷たい冬の匂いを運び込む。 一瞬の静寂。 そして、さざ波のように広がる困惑と、侮蔑と、恐怖のざわめき。
「……おい、あれ……『鉄屑』じゃねえか?」 「ひでぇ有様だな……」 「一人、足りなくねえか? あの派手なコート着た優男は?」
無数の視線が突き刺さる。 だが、僕――いや、今の俺には、そんな視線を気にする余力など残っていなかった。
俺は、リズの肩に抱えられ、足を引きずりながら歩いていた。 視界が霞む。 全身の骨が悲鳴を上げている。特に胸のあたりは、呼吸をするたびに焼け火箸を突っ込まれたように痛む。 だが、俺の右手だけは、麻痺したようにポケットの中の「硬い石」を握りしめたまま、硬直していた。
「……どいて。邪魔よ」
リズが、低い声で唸った。 彼女も満身創痍だ。自慢の特注の槍は折れ、美しい銀髪は泥と血で固まり、顔色は死人のように青白い。 それでも彼女は倒れない。 俺という重荷を背負い、エマとニルスを引き連れ、亡霊のような執念でカウンターへと進んでいく。
「……報告よ、ミリア」
リズが、血のついた冒険者カードをカウンターに叩きつけた。 バァン! という乾いた音が、ギルド内の喧騒を完全に黙らせた。
受付嬢のミリアが、顔を上げた。 彼女は俺たちの姿を見た瞬間、持っていた羽ペンを取り落とした。 インクが書類に黒いシミを作る。
「リズ、さん……? それに、レンさん……っ!」
ミリアが慌ててカウンターから身を乗り出す。 彼女の視線が、俺たちの背後――入り口の方を彷徨う。 誰かを探している。 いつも涼しい顔で、青緑のコートをなびかせて入ってくるはずの、あの「最強の新人」を。
「……シリルさんは? 遅れてるんですか? まさか、怪我をして病院へ……?」
「死んだわ」
リズが遮った。 感情を殺した、乾いた声だった。
「……え?」
「死んだのよ。……雪山で。変異種に捕まって……握りつぶされて、砕け散ったわ」
「そ、そんな……」
ミリアが口元を押さえ、よろめくように後ずさった。 あのシリルが。 ここ数週間、ギルドの話題を独占していた、あの美しく残酷な処刑人が。 あまりにも呆気ない報告。
「依頼は……フォール……失敗よ」
リズが続ける。その声が微かに震え始める。
「情報と違うわ。……あれはただのホブゴブリンじゃない。ランクD……いいえ、C相当の変異種よ。全身が筋肉の鎧で……マナへの耐性があって……」
彼女は拳を握りしめ、カウンターを殴った。 ゴンッ。
「あいつの……シリルの攻撃すら通じなかった。……あいつが、身代わりにならなかったら……私たちは全員、ミンチになってたわ」
ギルド内が凍りついた。 あのシリルが通用しなかった? そして、あの冷酷で利己的だと思われていた男が、仲間を庇って死んだ?
「……素材の回収は、できませんでした。遺体の回収も……不可能です」
リズが唇を噛み切り、血を滲ませながら報告を続ける。
「あいつは……バラバラになったから。雪と泥に混ざって……もう、どれがあいつか分からないくらいに……」
嘘だ。 俺のポケットの中にいる。 ここにある。 青い結晶と、骨と、肉が混ざり合った、冷たい塊が。 でも、俺は口を閉ざしたまま、ただリズの背中に寄りかかっていた。
「……分かり、ました」
ミリアの声は涙で湿っていた。 彼女は震える手で、死亡届の書類を取り出した。
「依頼失敗の違約金……および、前借りしていた報酬の返還……。それに、シリルさんのギルド登録抹消手続き……」
事務的な言葉が、処刑宣告のように響く。 金だ。 あんなに稼いだ金貨は、装備に消え、そしてこの違約金で消える。 ガインの命で得た金も、シリルが命を削って稼いだ金も、すべて無くなる。
「……ないわ」 リズが力なく首を振った。 「手持ちがないの。……装備も壊れた。……後払いにさせて」
「規則ですので……借金という形になります。期限は……」
ミリアが言い淀む。 今の俺たちに、返せる当てなどないことを見て取ったからだ。 ボロボロの装備。主力の喪失。指揮官の負傷。 『鉄屑』は、完全に終わった。 誰もがそう思った。
「……はっ。ざまあねえな」 「やっぱり、他人のふんどしで相撲取ってただけか」 「死神に取り憑かれてるんじゃねえか? あいつら」
背後から、遠慮のない囁き声が聞こえる。 そうだ。笑えよ。 俺たちは道化だ。 身の程知らずの子供が、英雄ごっこをして、代償に仲間を殺して回ってるだけの、滑稽な殺人者だ。
「……レン」 リズが、俺を支える手に力を込めた。 「……なんか言いなさいよ。……あんた、リーダーでしょ」
彼女は泣きそうだった。 一人でこの場を支えることに、限界が来ていた。
俺は、顔を上げた。 首が痛い。視界が揺れる。 ミリアの顔が、涙で滲んで二重に見える。
口を開く。 いつものように。 『僕の責任だ』と。 『僕が弱かったから』と。 謝罪し、懇願し、惨めに許しを請うために。
「……ぼ、く……」
声が出た。 弱々しい、少年の声。 何も守れなかった、無力なガキの声。
(……違う)
ポケットの中の石が、熱を持った気がした。 ギリリ、と結晶の角が俺の手のひらを突き刺す。
『使い潰すって言ったろ?』 『私の英雄』
あいつの声が聞こえた。 あいつは、最期まで笑っていた。 俺を生かすために。俺に未来を託して、あんな無惨な肉塊になった。
なのに、俺はまだ「僕」なのか? ガインに守られ、シリルに守られ、今はリズに背負われている、ただのお荷物のまま終わるのか?
(殺せ)
俺は、心の中の「僕」の首に手をかけた。 泣き虫で、優柔不断で、甘ったれな「僕」を。 今ここで、殺せ。
「……違約金は、必ず払う」
俺の声が変わった。 喉の奥から、錆びた鉄を擦り合わせるような、低く、しゃがれた音が絞り出された。
「……レン、さん?」 ミリアが驚いたように瞬きをする。
俺は、リズの肩から離れた。 足がガクガクと震える。立っているだけで激痛が走る。 それでも、俺は自分の足で立ち、カウンターに両手をついた。 血まみれの左手と、ポケットに突っ込んだままの右手。
「……俺が、払う」
一人称が変わった瞬間、世界の見え方が変わった気がした。 もう、戻れない。 子供の時間は終わった。
「借用書を作れ。……利子がついても構わない。どんな汚れ仕事でもやる。ドブ攫いでも、死体処理でも、なんでもだ」
俺は、充血した目でミリアを睨みつけた。
「『鉄屑』は解散しない。……俺がいる限り、絶対に終わらせない」
ギルド内が静まり返る。 それは先ほどの嘲笑の静寂とは違う。 死にかけているはずの少年から放たれる、異様な「圧」に気圧された沈黙だった。 幽霊ではない。 ここには、修羅になり損ねた悪鬼がいる。
「……わ、分かりました」 ミリアが気圧されたように頷き、羊皮紙を用意する。
俺は、震える手でペンを握り、サインをした。 『レン』。 その文字は、以前のような整った文字ではなく、紙を切り裂くように鋭く、荒々しかった。
「……行くぞ」
俺は振り返った。 ニルスが、エマが、そしてリズが、呆然と俺を見ていた。 まるで、知らない他人がそこに立っているかのように。
「立て、ニルス。……計算は後だ。今は歩け」 「……あ、ああ。……分かったよ、クソリーダー」 ニルスが涙を拭い、鼻をすすりながら立ち上がる。
「エマ。泣くな。……治療の準備をしておけ。宿に戻ったら忙しくなる」 「う、うん……! レンくん……ううん、レン……!」
そして、リズ。 彼女は俺の顔をじっと見つめ、それからフッと、自嘲気味に笑った。
「……生意気になったわね。……今にも死にそうな顔のくせに」
「死なないさ」
俺はポケットの中の石を、さらに強く握りしめた。 血が溢れ、ズボンの生地を濡らす。
「俺には、まだ使い潰さなきゃならない『武器』が残ってるんだ。……こんなところでくたばったら、あいつに笑われる」
俺たちは歩き出した。 扉を開けると、外は雪になっていた。 冷たい風が吹き荒れ、俺たちの傷口を容赦なく叩く。
寒い。 体温が奪われていく。 だが、不思議と心臓だけは、焼けるように熱かった。
俺はもう「僕」じゃない。 仲間を守り、指揮し、そして死なせる「俺」だ。 その罪も、痛みも、後悔も、すべて飲み込んで、泥の中を進む怪物だ。
「……見てろよ、シリル」
俺は白い息と共に、呪詛のように呟いた。
「お前が惚れた男が……これからどうやって世界に牙を剥くか。……特等席で見てろ」
ポケットの中の石は、何も答えない。 ただ、俺の体温を吸って、静かに脈打っているように感じられた。
雪の中に続く、四つの足跡。 それは以前よりも深く、重く、地面に刻み込まれていた。




