美しくて綺麗で悲しい石ころ
白い闇の中を、揺られていた。 ガクン、ガクン、という不規則な振動。 船酔いのような吐き気と、頭蓋骨の中で脳が転がるような鈍痛。
(……ここは、どこだ……?)
瞼が鉛のように重い。 開こうとしても、睫毛が凍りついた血と涙で張り付いて動かない。 世界は音を失っていた――いや、違う。 音が、水の中にいるようにぼやけているんだ。
「――ッ! ――よ! ――ないで!」
誰かの叫び声。 高い、引き裂かれるような悲鳴に近い声。 耳鳴りの向こう側から、その音波だけが鼓膜を叩く。
「レン! レン!! 寝ちゃダメ! 死ぬわよ! 舌噛み切ってでも起きなさいよ!!」
背中から伝わる振動。 そして、鼻腔を満たす、汗と、鉄と、泥の混じった強烈な臭い。 女性の髪の香り。いや、今はもう泥の臭いしかしない。
(……リズ?)
僕の意識が、泥沼の底から少しだけ浮上した。 体が熱い。 いや、僕の体じゃない。僕を背負っている「誰か」の体温が、異常なほど高いのだ。
リズだ。 リズが、僕を背負って走っている。 彼女の荒い呼吸音が、僕の耳元で過給機のように響いている。 「ハッ、ハッ、グッ、ハッ……!」 肺が悲鳴を上げ、喉が焼け付くような呼吸。それでも彼女は足を止めない。
「……う、あ……」
僕の口から、空気の漏れるような音がした。 すると、横から別の声が飛んできた。
「レンくん! レンくんが!」
エマだ。 彼女も走っている。泣いているのか、過呼吸気味にヒック、ヒックと喉を鳴らしながら。
「生きてる! まだ息してる! 死んでない! 死んでないよぉぉッ!」
「当たり前だろ! こいつが死んだら……こいつまで死んだら、俺たちは終わりなんだよ!」
ニルスの怒号。 いつもは冷めた彼が、今は獣のように吠えている。 ザッ、ザッ、ザッ、という雪を踏みしめる音が、三人分……いや、四人分か? 不規則に乱れて、それでも必死に前へと進む音。
(……ああ、そうか)
僕は思い出した。 雪山。変異種。青い結晶。 頭が潰れたトマトのような音。 そして、僕の目の前に落ちてきた、青緑色の肉塊。
「……オ、ェ……」
胃袋が痙攣した。 中身なんて何もないのに、酸っぱい胃液だけが込み上げてくる。 吐き出そうとしたが、リズの背中で揺られているせいで、それすらままならない。
「吐くな! 飲み込めバカ!!」 リズが叫んだ。 「あんたが今吐いたら、私の首筋にかかるのよ! ……あいつの血だけで十分よ! これ以上、汚さないでよぉぉッ!!」
彼女は泣いていた。 怒っているんじゃない。恐怖と、絶望と、疲労で、感情のダムが決壊しているのだ。
僕は、リズの肩越しに、ぼんやりと後ろを見た。 真っ白な雪原。 点々と続く、僕たちの足跡。 そして、その白いキャンバスに撒き散らされた、点々とした赤いシミ。
僕の血か。リズの血か。 それとも、あの場所に置いてきた「彼女」の血か。
「……シリ、ル……」
僕の唇が、無意識にその名前を紡いだ。
その瞬間。 リズの足が、ガクンと止まりそうになった。 「ッ……!」 彼女は何かを堪えるように呻き、さらに強く地面を蹴った。
「言うな……その名前を呼ぶな……!」
リズの声が震えている。
「置いてきたんだよ……! 私たちが……見殺しにして……あんな肉の塊にして……置いてきたんだよぉッ!!」
「ちくしょう! ちくしょう! なんでだよ!」 ニルスが走りながら、雪を蹴り上げている音がする。 「黒字だったじゃねえか! 上手くいってたじゃねえか! なんでまた……なんでまたガインの時と同じなんだよ!!」
ガイン。 そうだ。あの時と同じだ。 僕たちは何も学んでいなかった。 装備を良くしても、金を稼いでも、結局は「誰か」を犠牲にして、その屍を乗り越えて逃げ帰る。 僕は「指揮官」気取りの、ただの死神だ。
(……僕は、死ぬべきだった)
あの変異種の足の下で。 シリルの残骸と一緒に、雪と泥に混ざって、ひとつのシミになればよかった。
「降ろせ……」
僕は掠れた声で言った。
「リズ……僕を、置いていけ……」
「ふざけんな!!」
リズが吼えた。 背負っている僕の太ももに、彼女の爪が食い込むほどの力で掴みかかってくる。
「あんたが死んだら! シリルは何のために死んだのよ! あいつは……あいつはねぇ、あんたを守って飛び出したのよ!」
リズの涙が、風に飛ばされて僕の頬に当たる。冷たい。
「あんな……あんな嫌な奴だったけど! 私たちを馬鹿にしてたけど! でも、あいつはあんたのことだけは……!」
言葉にならない嗚咽。 リズは走り続ける。 足がもつれ、何度か膝をつきそうになりながらも、決して僕を離さない。 重いだろう。 僕は男だ。装備だってつけている。 小柄な彼女が背負うには、限界を超えているはずだ。 それでも彼女を動かしているのは、「もう二度と仲間を減らさない」という、呪いにも似た執念だった。
その時。 僕の腰のあたりに、ゴツリと当たる硬い感触があった。
(……なんだ、これ)
ポケットの中。 走るたびに、僕の腰骨を殴打する、小さくて重い異物。 痛い。 鋭利な角が、服の布越しに皮膚を突き刺してくる。
僕は、麻痺した左手を、ゆっくりとポケットへと伸ばした。 指先の感覚がない。 それでも、その「異物」に触れた瞬間。 電流が走ったような衝撃が、脳天を突き抜けた。
硬い。 冷たい。 そして、ヌルリとしている。
指先に絡みつく、粘着質な液体の感触。 そして、ギザギザとした、結晶の断面。
――『石になっても、ポケットに入れてくれる?』
記憶がフラッシュバックする。 屋根裏部屋。蝋燭の灯り。 僕の腕の中で、猫のように笑っていた彼女。
「……あ、あぁ……」
僕はポケットの中で、その「石」を握りしめた。 あの惨劇の直前。 僕が無意識に掴み取っていた、彼女の欠片。 変異種に握りつぶされ、爆散した彼女の体の一部。 綺麗な青緑色の結晶と、砕けた骨と、凍りついた肉が混ざり合った、歪な塊。
シリルだ。 これが、シリルだ。
「……う、うあぁぁぁぁぁ……ッ!!」
僕の喉から、獣のような呻き声が漏れた。 ポケットの中の手を離せない。 鋭い結晶が僕の掌を切り裂き、血が出る。 その僕の血と、彼女の血が、ポケットの中で混ざり合う。
痛い。 痛いよ、シリル。 お前はこんなに硬くて、冷たくて、痛いものになってしまったのか。
「レンくん……?」 エマが心配そうに覗き込んでくる。 僕の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったはずだ。
「いる……ここに、いるんだ……」
「え……?」
「シリルが……ポケットの中に……痛いんだ……熱いんだよ……」
僕のうわ言に、エマが息を呑む。 彼女は気づいたのだろう。僕のポケットが、内側から赤黒く滲んでいることに。 そして、そこから微かに、青い燐光のようなマナが漏れ出していることに。
「……持って、きたの……?」 エマの声が震える。 「あんな……あんな状態だったのに……?」
ニルスが振り返った。その顔は、恐怖と嫌悪と、どうしようもない悲しみで歪んでいた。 「お前……正気かよ。……死体の一部だぞ。あいつの……」
「うるさい!!」
僕は叫んだ。リズの耳元で。 リズがビクリと体を震わせる。
「約束したんだ! 一緒だって! 僕が運ぶって! だから……だからここにいるんだ! 文句あるか!!」
子供の駄々だ。 狂人の世迷い言だ。 でも、誰も僕を否定しなかった。 否定できるはずがなかった。 僕たちは全員、狂っているのだから。
どれくらい走っただろうか。 雪景色が終わり、泥色の街道が見えてきた。 そして、灰色の空にそびえ立つ、城塞都市の巨大な城壁。
「……着いた……」
リズが、肺の中の空気をすべて吐き出すように呟いた。 彼女の足取りは、もう限界だった。 ズルズルと靴を引きずり、一歩ごとに膝が折れそうになっている。
門番の衛兵たちが、ボロボロの僕たちを見てギョッとした顔をした。
「おい、なんだその様は! 魔物にやられたのか!?」
「……うるせえ、道を開けろ」 ニルスが、殺気立った声で吐き捨てた。
「通さないと、ここでお前を射ち殺して俺も死ぬぞ」
狂気じみたニルスの目に、衛兵がたじろぐ。 僕たちは、誰の目も気にせず、門をくぐり抜けた。
街の喧騒。 肉を焼く匂い。鉄を打つ音。人々の笑い声。 平和だ。 吐き気がするほど、平和だ。 ほんの数時間前、雪山であんな地獄があったことなど、この壁の中の誰も知らない。
ギルドへ向かう道すがら、リズの足が止まった。 広場の中央にある噴水の前だ。
「……もう、無理」
リズが膝から崩れ落ちた。 僕も一緒に、石畳の上に転がり落ちる。 ドサッ、という音。 痛みはない。体が麻痺している。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」
リズが大の字になって空を見上げる。 泥と汗で汚れた顔。その目から、堪えていた涙が滝のように流れ落ちる。
「なんでよ……なんで、こんな……」
彼女は両手で顔を覆った。
「やっと……やっと上手くいきそうだったのに。……あいつ、嫌味な奴だったけど……頼りになったのに……装備だって揃えて……これからだったのに……!」
「……クソッ! クソッ! クソッ!」
ニルスが、近くにあった木箱を蹴り飛ばした。 バカンッ! と木っ端微塵になる。 「金貨だぞ! あいつは金貨の山だったんだぞ! 失った損失がどれくらいか……計算できねえよ! 高すぎて計算できねえよバカ野郎!!」
彼は金の話をしているふりをして、ただ泣いていた。 損得勘定で割り切れない「喪失」が、彼の論理を破壊していた。
エマは、僕のそばに座り込み、僕のポケット――血が滲むポケットに手をかざした。 「……治せない。……こればっかりは、治せないよぉ……」 彼女は、ポケットの中の「石」に向かって、謝り続けていた。
僕は、石畳の冷たさを背中に感じながら、空を見上げていた。 バルガスの空は、いつも通りの灰色だ。 雪山と同じ色。 シリルの瞳の色とは、似ても似つかない濁った色。
ポケットの中の石を、さらに強く握りしめる。 ゴリ、と骨が鳴る。 手のひらの傷口が開く。 痛みが、僕の生存証明だ。
(……聞こえるか、シリル)
僕は心の中で呼びかけた。
(帰ってきたぞ。……泥と鉄の街だ。お前が嫌がっていた、汚い街だ)
返事はない。 ただ、冷たくて硬い感触だけが、そこにある。
(……まだ、使い潰してないぞ。……勝手に終わるなよ)
涙がこめかみを伝って、耳の中に流れ込む。 熱い。 あんなに冷たい石を持っているのに、目から出る水だけはどうしようもなく熱い。
僕は体を丸め、ポケットを押さえたまま、声を殺して泣いた。 広場の通行人たちが、奇異の目で僕たちを見ている。 「また冒険者が死にかけてる」 「汚い連中だ」 そんなヒソヒソ話が聞こえる。
どうでもいい。 世界中が僕たちを笑っても、僕はこのポケットの中の石だけは離さない。
ガインが死んだ時、僕は空っぽだった。 でも今は、この「呪い」のような石がある。 それが重くて、痛くて、苦しくて。 だからこそ、僕はまだ、息をしていられる気がした。
「……レン」
リズが、泣き腫らした目で僕を見た。 彼女の手が、泥だらけのまま伸びてきて、僕の肩を掴んだ。
「……生きるわよ」
彼女の声は、掠れて、震えていた。 でも、そこには鬼気迫る「意志」があった。
「あいつの分まで……なんて綺麗なことは言わない。……ただ、あいつが命がけで繋いだこの命を、ドブに捨てるような真似はさせない」
彼女の瞳に、復讐にも似た炎が灯る。
「強くなる。……もっと、もっと。……もう誰も、私たちの前で死なせないくらいに……化け物になってやる」
それは『鉄屑』たちの、新たな誓いだった。 英雄への憧れでも、金のためでもない。 ただ、この理不尽な世界への、血を吐くような抵抗宣言。
僕は、ポケットの中のシリルを強く握り直し、小さく頷いた。
「……ああ。行こう」
僕たちは立ち上がった。 足が震えている。体はボロボロだ。 心には、埋まらない巨大な穴が二つも空いている。
それでも、僕たちは歩き出す。 背中に死者たちの叫びを背負って。 ポケットに、砕けた戦友の欠片を忍ばせて。
ギルドの扉が、黒い口を開けて僕たちを待っている。 そこは次の地獄への入り口だ。 だが、僕たちはもう迷わない。 地獄の底まで這いずってでも、生き延びてやる。
それが、残された僕たちへの、唯一の罰であり、救いなのだから。
「ガイン。シリル。」
『俺』は小さく呟いた。




