鉄屑は強くない英雄なんかじゃない
雪が、世界を白く塗りつぶしていた。 音のない、真綿で首を絞めるような静寂な冬の朝。
僕たち『鉄屑』は、北の雪山『白銀の背骨』を進んでいた。 今回の依頼は、近隣の村を襲った【変異種ホブゴブリン】の討伐。 通常の個体よりも一回り大きく、知能が高く、そして残虐な個体だという。
「……寒いね、レン」
隣を歩くシリルが、白い息を吐きながら呟いた。 彼女は厚手の青緑のコートを着込んでいるが、その顔色は雪よりも白い。 唇は薄紫色に凍え、時折、手袋越しの指先をぎゅっと握りしめている。 昨夜の「屋根裏部屋」での温もりだけが、今の彼女を辛うじて生繋いでいるようだった。
「……大丈夫か。無理なら下がってていいぞ」 「平気だよ。……エンジンは、温まってる」
彼女は強がって微笑んだ。 だが、その笑顔は、ヒビの入ったガラス細工のように儚かった。 彼女の体は限界に近い。指先の「結晶化」は、手袋の下で確実に進行している。
「……来るぞ!!」
ニルスの鋭い警告が、静寂を切り裂いた。
ズドォォォォンッ!!!
地響きと共に、雪煙が舞い上がった。 前方の岩陰から、それは現れた。
デカい。 通常のホブゴブリンが子供に見えるほどの巨躯。 身長は二メートル後半。皮膚は赤黒くただれ、筋肉が腫瘍のように隆起している。 そして、その手には――大木に鉄板を打ち付けただけの、巨大な「杭」が握られていた。
「グルルルルァァァァァッ!!!」
咆哮。 ビリビリと空気が震え、積もった雪が枝から落ちる。
「散開ッ! 正面に立つな、潰されるぞ!!」
僕の号令と共に、全員が弾かれたように動く。 リズが左へ、ニルスが岩場の上へ、シリルが右へ。 僕は正面で盾を構え、囮となる。
「こっちだ、化け物!!」
ブンッ!!
「杭」が横薙ぎに振るわれる。 風圧だけで体が浮く。 僕は泥にまみれて転がり、回避する。 直撃していたら、盾ごとミンチになっていただろう。
「硬い……! 矢が通らねえ!」 ニルスの悲鳴。彼の矢は、変異種の分厚い脂肪と筋肉に阻まれ、刺さることなく弾かれている。
「リズ! 足だ! 足を狙って機動力を削げ!」 「分かってるわよ! ……やぁぁぁッ!!」
リズが側面から槍を突き出す。 鋭い穂先が、変異種の太ももを捉える――はずだった。
ガシッ。
「え……?」
変異種は、リズの槍を素手で掴み止めた。 「嘘……!?」 リズが青ざめる。 次の瞬間、変異種は槍ごとリズを振り回した。 「きゃぁぁぁぁッ!?」 リズが枯れ葉のように吹き飛ばされ、岩肌に叩きつけられる。 「ガハッ……!」 彼女は血を吐き、動かなくなった。
「リズ!!」
戦線崩壊。 一瞬の出来事だった。 変異種は、邪魔者が消えたことを確認すると、その血走った眼球を、ゆっくりと僕に向けた。
「グルァッ……!」
ニヤリと、醜悪な笑みを浮かべる。 知能がある。 こいつは分かっている。「指揮官」である僕さえ潰せば、あとは餌の時間だと。
ドスッドスッドスッ!!
重戦車のような突進。 速い。あの巨体で、雪崩のような速度で迫ってくる。
「くっ……!!」
逃げ場がない。背後は断崖だ。 僕は盾を構える。受けるしかない。 だが、あの「杭」を受ければ、僕の体などトマトのように破裂する。
死ぬ。 ガインの時と同じだ。 圧倒的な暴力の前に、僕の指揮など紙切れ同然だった。
杭が振り上げられる。 空を覆うほどの巨大な影が、僕の上に落ちてくる。
(……あ、)
走馬灯が見えた気がした。 ガインの笑顔。リズの泣き顔。 そして、屋根裏部屋での、シリルの温もり。
ゴオォォォォッ!!
風切り音。 死が、頭上から落下してくる。
その時。
「ダメッ!!――させないッ!!」
横から、青緑の閃光が突っ込んできた。 シリルだ。 彼女は、身体強化のリミッターを完全に解除していた。 全身から、真っ白な蒸気が――いや、血管が焼き切れた「赤い蒸気」が噴き出している。
彼女は、僕と杭の間に割って入った。 武器で弾く? 違う。 間に合わない。 彼女は、背中を向けて――その身を盾にした。
「シリルッ!?」
嫌な音がした。
グシャアアァァァァッ!!!!!
人間の体からは、絶対にしてはいけない音。 濡れた雑巾を万力で絞り上げたような、粘着質な破壊音。 そして、乾いた枝を束ねてへし折ったような、無数の破砕音。
「――ガ、ッ……!?」
シリルの体が、僕に向かって吹き飛ばされてきた。 僕は彼女を受け止める――ことができなかった。 衝撃が強すぎて、僕ごと後ろの雪原に弾き飛ばされた。
ゴロゴロと転がり、止まる。 視界が回る。 白い雪。灰色の空。 そして、目の前に横たわる、青緑の塊。
「……シ、リル……?」
僕は這いずって近づく。 そして、喉の奥からヒュッという音が漏れた。
形が、変わっていた。
彼女の腰から下が、ありえない方向にねじれていた。 背骨が直角に折れ、肋骨が皮膚を突き破って、白い雪を赤く染めている。 左腕は、杭の直撃を受けたのか、肘から先がミンチ状に潰れ、ただの肉と皮の袋になってぶら下がっていた。
「あ……が……ボゴッ……」
シリルが口を開く。 大量の血が、噴水のように溢れ出した。 その血は、鮮やかな赤と――毒々しい「青紫色」がマーブル模様に混ざり合っていた。
「シリル! シリル!! 嘘だろ!? おい!!」
僕は彼女の上半身を抱き起こす。 重い。 そして、ぐにゃりとしている。 背中の骨が砕けているせいで、まるで液体の入った袋を抱いているような、気味の悪い柔らかさだった。
「……レ、ン……」
彼女の瞳が、焦点の合わないまま僕を探す。 右目は充血して真っ赤になり、左目からは青いマナの涙が流れている。
「……まも、れ……た……?」
「守れた! 守れたよ! だからもう喋るな! エマ! エマァァァッ!!」
僕は絶叫した。 だが、エマは遠い岩陰で、気絶したリズの治療に当たっていて、ここにはいない。 間に合わない。 素人目にも分かる。 内臓が全部潰れている。即死しなかったのが不思議なくらいだ。
ズシン、ズシン……
足音が近づいてくる。 変異種だ。 奴は、自分の攻撃を生身で受け止めた「虫」に興味を持ったのか、ゆっくりと歩み寄ってきた。 手にした杭には、シリルの肉片と、青い布切れがへばりついている。
「……逃げ、て……」
シリルが、血の泡を吹きながら言った。 彼女の残った右手――手袋が破れ、青黒く結晶化した指――が、僕の胸を押そうとする。 だが、力なんて入っていない。 僕の服を赤く汚すだけだ。
「置いていけるかよ!!」
僕はショートソードを掴もうとした。 だが、手が震えて力が入らない。恐怖ではない。シリルの惨状を目にしたショックで、脳が拒絶反応を起こしているのだ。
変異種が、僕たちの目の前で立ち止まった。 見下ろす眼球。 嘲笑うような鼻息。
そして、奴は巨大な手を伸ばし――僕ではなく、瀕死のシリルを掴み上げた。
「やめろぉぉぉッ!!」
僕の手が空を切る。 シリルが宙に吊り上げられる。 壊れた人形のように、手足がだらりと垂れ下がる。 折れた背骨が、ゴリゴリと嫌な音を立てる。
「……あ、ぐ……ぅ……」
変異種は、シリルの体を握りしめた。
メリメリメリメリ……ッ!
「ギ、ァ……アァァァァッ!!」
シリルが絶叫する。 肺が圧迫され、砕けた肋骨が内臓に食い込む激痛。 口から、鼻から、耳から、青紫色の血が吹き出す。
「離せ! 離せよ化け物ォォッ!!」
僕は盾を投げつけ、剣で斬りかかる。 だが、変異種の分厚い皮膚には傷一つつかない。 奴は僕を無視して、手の中の「玩具」が壊れる感触を楽しんでいる。
ビチャッ、ボタボタボタ……
シリルの体から搾り出された血が、雨のように僕の顔に降り注ぐ。 熱い。 焼きごてを押し当てられたように熱い。 身体強化で沸騰した彼女の命そのものだ。
「レン……」
締め上げられる苦痛の中で、シリルが僕を見た。 その顔は、苦悶に歪んでいるはずなのに。 なぜか、微笑んでいるように見えた。
『石になっても、ポケットに入れてくれる?』
あの夜の約束が、脳裏をよぎる。
次の瞬間。
バキィィィィンッ!!!!
高い、硬質な音が響いた。 骨が砕ける音ではない。 ガラスが割れるような、美しい破砕音。
変異種の指が、シリルの腹部に食い込み――そこから、「青い結晶」が一気に爆発したのだ。 死の恐怖と激痛が、彼女の英雄病を一気に末期へと進行させた。
傷口から、内臓から、青い水晶のような棘が無数に飛び出す。 それは美しい花が咲くように、彼女の体を内側から突き破った。
「カハッ……」
シリルの瞳が、急速に硝子のように濁っていく。 白磁の肌が、見る見るうちに青黒い鉱石へと変わっていく。
「……すき」
最期の言葉は、音にはならなかった。 唇の形だけを残して。
グシャッ!!
変異種が、苛立たしげに手に力を込めた。 半ば結晶化したシリルの頭部が、握りつぶされた。
パァァァンッ……
トマトが潰れるような音と、宝石が砕け散る音が混ざり合う。 青い欠片が、キラキラと舞い散る。 脳漿と、髪の毛と、美しい顔だったものが、ただのグロテスクな混合物となって、雪の上に撒き散らされた。
「あ……あ……」
首から下が、ボロ雑巾のように投げ捨てられる。 ドサリ。 僕の目の前に落ちてきたそれは、もうシリルではなかった。 青い結晶に侵食された、肉の塊。 折れた肋骨と、結晶の棘が複雑に絡み合い、赤と青のコントラストを描いている。 潰れた左手には、まだあの時の――僕と手を繋いだ時のぬくもりが残っているような気がして。
吐き気がした。 胃の中身が逆流する。
「オ……オロロロロロロッ……!!」
僕は雪の上に嘔吐した。 酸っぱい臭いと、鉄の臭いと、マナの甘ったるい臭いが混ざり合う。
死んだ。 シリルが死んだ。 僕の武器が。 僕の共犯者が。 僕の戦友が。
あんなに美しかった顔は、もうどこにもない。 あんなに熱かった体温は、急速に冷たい石へと変わっていく。
変異種が、つまらなそうに鼻を鳴らし、手についたシリルの残骸を振り払った。 そして、次なる獲物である僕に、巨大な足を振り上げた。
影が落ちる。 でも、僕は動けなかった。 動く気も起きなかった。
(ああ、これでいい)
僕も、潰してくれ。 あの青い石と肉の塊の中に、僕も混ぜてくれ。 ポケットに入れるどころか、僕たちがミンチになって混ざり合えば、もう二度と離れることはない。
僕は、目の前に転がるシリルの残骸――かつて手だった部分――に手を伸ばした。 青い結晶が指に刺さる。痛い。 でも、その痛みだけが、彼女がここにいた証拠だった。
「……シリル」
僕は笑った。 涙とゲロと血にまみれた顔で。
踏み潰される瞬間。 僕は彼女の名前を呼んで、目を閉じた。
ズドォォォォンッ……!!!
意識が、闇に落ちた。




