残されたのは少ない時間
冬の気配が色濃くなってきた。 城塞都市バルガスの石畳は、朝起きるとうっすらと霜で覆われていることが多くなった。 その冷気は、僕たちの肌だけでなく、パーティの要である「彼女」の寿命をも、確実に削り取っているようだった。
あのベテラン冒険者の惨たらしい死を目撃してから、半月が過ぎていた。
僕たち『鉄屑』の戦績は順調だった。 リズは恐怖を乗り越え、槍の鋭さが増した。ニルスは矢を惜しまず、的確な援護射撃をするようになった。エマも戦場の空気に慣れ、遅れずに着いてくる。 だが、その成長曲線と反比例するように、シリル――僕たちの最強の「武器」は、目に見えて摩耗していた。
「――ッ、く……!」
雪混じりの森の中。 シリルが小さく呻き、その足がもつれた。 相手は【キラーウルフ】の群れ。 素早さが売りの魔物だが、以前のシリルなら、あくびをしながらでも撫で斬りにできた相手だ。
だが、今。 シリルの戦斧が、ウルフの飛びかかりに対して、コンマ数秒遅れた。
ガリッ!
鋭い爪が、シリルの青緑のコートを裂く。 「しまっ……!?」 シリルが目を見開く。体勢が崩れる。そこへ、別のウルフが喉笛を狙って殺到する。
「シリルッ!!」
僕は叫び、滑り込んだ。 新しい小盾を突き出し、ウルフの顎を下から殴り上げる。 キャンッ! ウルフが悲鳴を上げて吹き飛ぶ。
「リズ! 右だ! ニルス、援護!」 「分かってるわよ!」 「遅ぇんだよ、新入り!」
リズの槍がウルフを串刺しにし、ニルスの矢が眉間を貫く。 戦闘はすぐに終わった。 僕たちの連携は、皮肉にもシリルの「不調」をカバーするために洗練されつつあった。
戦闘終了後。 シリルは、自分のコートに入った亀裂を、呆然と見つめていた。 そこから覗く白い肌には、赤い三本の爪痕が走っている。
「……ありえない」
彼女が呟いた声は、震えていた。 痛みからではない。恐怖からだ。
「見えていたのに……脳からの指令に、指が追いつかなかった……」
彼女は、斧の柄を握る右手を開いたり閉じたりしていた。 その動きは、油の切れた機械のようにぎこちない。
「……帰るぞ」
僕は彼女の肩に手を置いた。 コート越しでも分かる。彼女の体温は、以前のような「燃えるような熱さ」ではなく、不気味なほど冷たく、そして時折、脈絡なくスパークするように熱くなるのを繰り返している。
(制御が……効かなくなってきている)
あのベテランの末路。 結晶化へのカウントダウンが、静かに、しかし確実に進んでいるのだ。
その夜。 僕は皆が寝静まるのを待ち、いつものように屋根裏部屋へと向かった。 シリルに呼び出されたわけではない。 だが、今日の彼女の様子を見て、放っておけるはずがなかった。
扉を開けると、そこは氷室のように冷え切っていた。 暖炉のない屋根裏部屋。 シリルは、部屋の隅で毛布にくるまり、ガタガタと震えていた。
「……レン?」
彼女が顔を上げる。 その顔色は、蝋のように白く、唇は紫色になっていた。 いつもなら身体強化の余熱で火照っているはずの体が、今日は異常なほど冷たい。
「……大丈夫か」
僕は近づき、彼女の隣に座った。 持ってきたランタンの微かな灯りが、彼女の怯えた瞳を照らす。
「……ダメみたい」
シリルが、弱々しく笑った。
「うまく……力が入らないの。今日のウルフ、本当は避けるつもりだったんだ。……脳内では避けてた。首を落としてた。でも、体が……一瞬、石になったみたいに動かなくて……」
彼女は毛布から手を出し、僕に見せた。 その指先。 綺麗な白い指の先端が、ほんのわずかに――青黒く変色していた。 霜焼けではない。 皮膚の下で、血管が硬質化し始めているのだ。
「……これが、始まり?」
彼女の声が震える。
「あのオッサンみたいに……私も、顔半分が石になって、血の代わりにマナを吐いて……のたうち回って死ぬのかな」
彼女の脳裏に、あのギルドでの惨劇が焼き付いている。 自分と同じ未来を辿った先達の、あまりにも無様な最期。
「怖いよ……レン……」
シリルが、ぽつりと漏らした。 それは、今まで彼女が決して口にしなかった言葉だった。 「死ぬのは怖くない」「太く短く生きる」と豪語していた彼女が、初めて見せた本音。
「痛いのは我慢できる。……でも、動けなくなるのは嫌だ。レンの役に立たなくなって……ただのゴミになって捨てられるのが……怖い」
彼女の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。 血の涙ではない。 透明な、ただの少女の涙。
「……捨てないで……」
彼女は僕の服を掴んだ。 その力は弱々しく、赤子のようだった。
「お願い……まだ使えるから……まだ戦えるから……私を、鉄屑置き場に捨てないで……」
嗚咽が漏れる。 一度決壊した涙は止まらなかった。 彼女はずっと張り詰めていたのだ。 「最強」の仮面を被り、男のふりをして、平気な顔で寿命を削り続けてきた。 その糸が、今日の「ミス」でプツリと切れてしまった。
僕は、彼女の冷え切った手を両手で包み込んだ。 僕の手のひらの熱が、彼女の氷のような指先に伝わっていく。
「……馬鹿なこと言うな」
僕は、できるだけ優しく、けれど力強く言った。
「誰が捨てるか。お前は僕が全財産叩いて買った、最高級の武器だぞ」
「……でも、錆びついて……」
「錆びたら研ぐ。欠けたら直す。……それでもダメなら」
僕は彼女の涙に濡れた頬に手を当て、親指でその雫を拭った。
「僕が背負って運ぶ」
シリルが、目を見開いて僕を見た。
「お前が動けなくなったら、僕が動く。お前が剣を振れなくなったら、僕が振る。……そのために、僕たちは今、必死で強くなってるんだ」
甘い言葉だけじゃない。 これは、指揮官としての覚悟だ。
「勘違いするなよ、シリル。お前は『使い捨て』じゃない。『一生モノ』だ」
僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前が石ころになって、動かなくなっても……僕はその石をポケットに入れて、最期の瞬間まで一緒に戦ってやる。……だから、安心しろ」
それは、プロポーズよりも重く、契約よりも強い言葉だった。 彼女の「死」ごと受け入れるという宣言。
「……レン……」
シリルが、泣き濡れた顔で僕を見つめる。 その瞳の奥で、何かが揺らぎ、そして定まったような気がした。
「……ずるいよ、そんなの」
彼女は泣き笑いのような表情で、僕の胸に飛び込んできた。 冷たい体が、僕の体温を求めて密着する。
「そんなこと言われたら……私、もう逃げられないじゃん」
彼女の腕が、僕の背中に回される。 今度は強い力で。すがりつくように、確かめるように。
「……好き」
小さな、けれど確かな声。 以前の言葉とは違う。 もっと芯のある、熱を帯びた響き。
「大好きだよ、レン。……君が私のオーナーでよかった。君が私を見つけてくれて……本当によかった」
彼女は顔を上げ、僕の唇を求めた。 冷たい唇が重なる。 だが、その内側から伝わってくる感情は、火傷しそうなほど熱かった。
キスが深くなる。 彼女の舌が、僕の中に侵入してくる。 それは快楽を求めるというより、僕の命、僕の覚悟を、自分の中に刻み込もうとする儀式のようだった。
「……ねえ、レン」
唇が離れると、彼女は潤んだ瞳で僕を見上げた。 そこにはもう、怯えはなかった。 あるのは、狂信にも似た、一途な光。
「私、決めたよ」
彼女は、青黒く変色し始めた自分の指先を見つめ、そして握りしめた。
「この命、全部君にあげる。……最後の一滴、最後の鼓動、最後のマナの欠片まで……全部、君のために燃やす」
それは、破滅的な誓いだった。 けれど、今の僕には、それが何よりも美しく聞こえた。
「……ああ。受け取るよ」
僕は彼女の髪を撫でた。
「その代わり、僕も捧げる。……僕の指揮は、すべてお前を生かすためにある」
僕たちは、冷たい屋根裏部屋で、互いの体温を分け合った。 シリルはもう震えていなかった。 僕の腕の中で、彼女は安らかな顔をしている。
「……あったかい」
彼女が呟く。
「レンの匂いがする。……泥と、鉄と、血の匂い。……私の一番好きな匂い」
彼女は僕の胸に耳を当て、鼓動を聞きながら、静かに目を閉じた。
「……おやすみ、私の英雄」
その寝顔は、今まで見たどの表情よりも無防備で、そして愛おしかった。
僕は、彼女を抱きしめたまま、窓の外を見た。 雪が降り始めていた。 世界は白く染まり、全てを凍てつかせていく。
だが、僕の腕の中にあるこの小さな命だけは、決して凍らせない。 たとえ、彼女の体が石に変わろうとも。 この心の熱だけは、誰にも奪わせない。
僕は心の中で誓った。 神になど祈らない。 頼るのは、この腕の感触と、彼女がくれた信頼だけだ。
「……おやすみ、シリル」
僕は彼女の額にキスをし、その身体を抱き直した。 彼女の重みが、心地よかった。 それは、僕が生きていくための「重石」であり、僕が戦うための「理由」そのものになっていた。




