鉄屑達の復帰
昨夜のレストランでの衝突から、一言の会話もないまま朝を迎えた。 宿を出て、北の岩場へと向かう道中も、空気は重く沈殿していた。
僕たち『鉄屑』の隊列は、葬列のように静かだった。 先頭を行くのは、青緑のコートを風になびかせたシリル。 彼は不機嫌そうに黙り込み、時折、懐に手を入れては咳き込むのを堪えている。 その後ろを、僕たちが歩く。 リズは青ざめた顔で唇を噛み、ニルスは弓の弦を何度も確認し、エマは僕の背中に隠れるように視線を落としている。
今日の依頼は、【ホブゴブリン四匹の討伐】。 場所は『鬼哭きの岩場』。 かつて僕たちがガインを失い、絶望を味わった因縁の相手であり、シリルが加入してから何度も「彼一人に」処理させてきた相手だ。
岩場の入り口に差し掛かる。 風がヒョオオと音を立てて吹き抜け、岩肌にへばりついた苔の臭いと、獣の糞の臭いが鼻をつく。
「……いるね」
シリルが足を止め、冷淡に告げた。 二十メートル先。岩陰にたむろする四つの巨体。 筋肉の鎧を纏い、粗末な鉄の棍棒や斧を持った亜人たち。
「……配置は?」
シリルが僕を振り返らずに聞いた。 その声には、「どうせ僕一人で突っ込むんだろ?」という諦めと苛立ちが滲んでいる。 彼はすでに、背中の巨大な戦斧に手をかけていた。 首筋には微かに血管が浮き上がり、身体強化オーバーロードの準備に入っている。
僕は、大きく息を吸い込んだ。 肺の中の空気をすべて入れ替えるように。 腹の底に溜まった恐怖と、劣等感と、昨夜の屈辱をすべて燃やして、熱に変える。
「……シリル」
僕は声を絞り出した。
「お前は、一番右の個体――『大斧持ち』だけをやれ」
「は?」 シリルが怪訝そうに眉をひそめた。 「四匹だぞ。まとめてやった方が早い。僕が突っ込めば、十秒で……」
「却下だ」
僕は彼の方へ歩み寄り、その前に立った。 見下ろしてくる青緑の瞳。そこには軽蔑の色がある。
「お前は右の一匹だ。……残りの三匹は、僕たちがやる」
一瞬の静寂。 シリルが目を丸くし、それから鼻で笑った。
「正気かい? 昨日の夜、僕が言ったことを忘れたのかな。……死ぬよ?」
「死なない」
僕は言い切った。 そして、後ろで震えている仲間たちを振り返った。
「リズ! ニルス! エマ! ……聞け!」
僕の大声に、三人がビクリと肩を震わせる。
「シリルが言った通りだ。僕たちは寄生虫だった。……ガインが死んで、怖くて、思考停止して、このイカれた新入りに全部押し付けてた!」
リズが顔を上げる。その目は潤んでいるが、逃げてはいなかった。 ニルスが唇を歪める。
「今日の相手はホブゴブリンだ。ガインを殺した奴らと同格だ。……怖いか?」
「……当たり前でしょ」 リズが震える声で答えた。槍を持つ手が白くなるほど握りしめられている。
「僕も怖い。足が震えてる」 僕は正直に言った。 「でも、ここで動かなきゃ、僕たちは一生『飾り物』だ。……あのレストランで言われた惨めな思いを、一生引きずって生きることになる」
僕はショートソードを抜き放ち、切っ先をホブゴブリンに向けた。
「証明しろ! 僕たちがただの鉄屑じゃないことを! 研ぎ直せばまだ切れることを! ……総員、戦闘準備ッ!!」
僕の咆哮が、彼らの背中を叩いた。
「……クソッ、やってやるよ!」 ニルスが叫び、背中の矢筒から矢を抜き放った。 「一本銀貨一枚だ……外したら承知しねえぞ俺!」
「……私は、騎士よ」 リズが槍を構える。その切っ先は、まだ震えている。だが、足は前を向いていた。 「泥水啜ってでも生きるって決めたんだから……!」
シリルは、呆れたように肩をすくめた。 だが、その口元には、微かに自嘲めいた笑みが浮かんでいた。
「……お手並み拝見といこうか。……失敗したら、僕が纏めて殺すけどね」
「余計なお世話だ。……行けッ!!」
戦闘開始の合図は、ニルスの弦音だった。
ヒュンッ!!
放たれた矢が風を切り、左端のホブゴブリンの肩に突き刺さる。 「グオオッ!?」 「チッ、浅い! やっぱり手が震えてやがる!」 ニルスが毒づきながら、すぐに次弾をつがえる。
敵が反応した。 四匹の巨体が、怒号と共にこちらへ突進してくる。 地響き。獣の臭い。 圧倒的な質量の暴力が迫る。
「シリル! 右だ!」 「はいはい」
シリルが風のように動いた。 彼は身体強化の出力を最低限に抑えつつ、右端の個体へと滑るように接近する。 「――邪魔だ」 一閃。 大斧を持ったホブゴブリンの腕が宙を舞う。 だが、彼はとどめを刺さなかった。足を払い、無力化しつつ、戦場をコントロールしている。 (……見ている。あいつ、僕たちを試しているんだ)
「来るぞ! リズ、左の個体を受け持て! 真ん中の二匹は僕が引きつける!」
「む、無理よ! 二匹なんて!」
「やるんだよ! 死にたくなきゃ槍を出せ!」
僕は小盾を構え、正面から突っ込んでくる二匹の棍棒持ちに向かって走った。 怖い。 心臓が破裂しそうだ。 ガインの潰れた顔が脳裏をよぎる。 もし盾が弾かれたら? もし足が止まったら?
「ウオオオオオッ!!」 僕は恐怖を怒声で塗りつぶし、一匹目の棍棒を盾で受けた。
ガギィンッ!!
重い。 骨がきしむ。 以前の安物の盾なら砕けていただろう。だが、金貨で新調したこの盾は耐えた。 衝撃で足が止まる。 そこへ、もう一匹が横から殴りかかってくる。
「させねえよッ!」
ドスッ!
ニルスの援護射撃。 横槍を入れたホブゴブリンの太ももに、矢が深々と突き刺さる。 「グギャッ!?」 体勢が崩れる。
「ナイスだニルス! ……リズ! 今だ!」
リズは、左の個体と対峙していた。 ホブゴブリンが錆びた剣を振り回す。 リズは青ざめた顔で後ずさる。 「ひっ……! 怖い、怖い……!」
(ダメか……!?)
その時、後方から声が飛んだ。
「リズちゃん! 前を見て!」
エマだ。 いつもなら耳を塞いで震えているはずの彼女が、杖を握りしめ、戦場の只中へと走ってきていた。 「私がいる! 怪我しても、すぐに治すから! だから……お願い、戦って!!」
「エマ……!?」
リズが目を見開く。 守られるべき後衛が、泥だらけになって叫んでいる。 その事実が、リズの騎士としてのプライドに火をつけた。
「……ああもう! 分かってるわよ!!」
リズが覚悟を決めた。 彼女は踏み込んだ。 綺麗なフォームではない。泥臭い、半ばヤケクソのような突き。 だが、その槍は「東方の特注品」だ。 鋭い穂先が、ホブゴブリンの革鎧を紙のように貫通し、脇腹を深々と抉った。
「死ねぇぇぇッ!!」
リズが叫び、槍を捻る。 ホブゴブリンが悲鳴を上げてのけぞる。
乱戦になった。 シリルがいれば十秒で終わる戦い。 だが、僕たちは泥にまみれ、汗を流し、悲鳴を上げながら、一分、二分と時間をかけて命を削り合う。
僕は二匹を相手に防戦一方だった。 盾で殴り、剣で牽制するが、決定打がない。 「ハァッ、ハァッ……重い……!」 腕が上がらなくなってくる。
「レン! スイッチだ!」
ニルスが叫ぶ。 彼は弓を投げ捨て、腰のダガーを抜いて突っ込んできた。 「足元がお留守だぜ!」 ニルスがスライディングしながら、僕と対峙していたホブゴブリンのアキレス腱を切り裂く。 バランスを崩して倒れ込む巨体。
「そこだ、レン! 首を落とせ!」 「おうッ!!」
僕は倒れたホブゴブリンの首めがけて、ショートソードを突き立てた。 硬い肉の感触。骨に当たる不快な振動。 一度では死なない。 「死ね! 死ね!」 僕はなりふり構わず、何度も剣を振り下ろした。 顔に返り血がかかる。生温かい。鉄の味。 これが生きるということだ。シリルが涼しい顔で省略していた、生の営みだ。
「ギャアアアッ!」 隣でリズが、脇腹を貫いたホブゴブリンにマウントを取られそうになっていた。 「いやっ、離して!」 「援護します!」
エマが走る。 彼女は攻撃魔法なんて持っていない。 だが、彼女は腰から取り出した「閃光玉」――ニルスが持たせていた護身具だ――を、ホブゴブリンの目の前で炸裂させた。
カッ!!
強烈な光。 ホブゴブリンが目を覆って怯む。 「今よ、リズちゃん!」 「ありがとう、エマ!」
リズは体勢を立て直し、槍の石突きでホブゴブリンの顎をカチ上げた。 脳震盪を起こしてふらつく敵の心臓に、渾身の一撃を叩き込む。
ズブォッ。 手応えがあった。ホブゴブリンが動かなくなる。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」 リズが肩で息をする。髪は振り乱れ、美しい鎧は泥だらけだ。 でも、彼女は勝った。自分の力で。
僕の方も、ニルスと協力して一匹を仕留めていた。 残るは一匹。 無傷のホブゴブリンが、仲間を殺されて激昂し、僕に向かって棍棒を振り上げた。 僕は盾が砕けていて受けられない。 ニルスも距離が遠い。
「レン!!」
死の影が落ちる。 その瞬間。
ヒュンッ。
銀色の閃光が、ホブゴブリンの首を一瞬で刎ね飛ばした。
首のない巨体が、僕の目の前にドサリと落ちる。 その向こうに、シリルが立っていた。 彼はすでに自分の担当右端の一匹を処理し終え、涼しい顔で――しかし、少しだけ息を弾ませて――立っていた。
「……遅い」
シリルが言った。
「三分二十秒。……僕なら十五秒だ」
彼は血のついた斧を振るい、納刀した。 戦闘終了。
僕たちは、その場にへたり込んだ。 全員、泥と血でぐちゃぐちゃだ。 新しい装備は傷だらけになり、見る影もない。 リズは涙目で荒い息を吐き、ニルスは高価な矢が折れているのを見て顔をしかめ、エマは僕の擦り傷に手を当てて治癒を始めている。
不格好だ。 無様だ。 効率なんて最悪だ。
でも。
「……生きてる」
僕は空を見上げた。 曇り空の隙間から、少しだけ陽の光が差していた。
「……おい、新入り」 ニルスが這いつくばったまま、シリルに声をかけた。 「どうだ……見たかよ。俺たちの……泥仕合を」
シリルは、ポケットからハンカチを取り出し、口元を拭っていた。 そして、冷ややかな目で僕たちを見下ろした。
「……ああ。最低だったね」
彼は言った。
「フォームはバラバラ。判断は遅い。連携も穴だらけ。……見ていて吐き気がするほど非効率だった」
リズが悔しそうに唇を噛む。 だが、シリルは言葉を続けた。
「……でも」
彼は、懐から小さなガラス瓶――いつも飲んでいる鎮痛剤だ――を取り出そうとして、ふと手を止めた。 そして、それをポケットに戻した。
「……今日は、薬がいらないみたいだ」
その言葉に、僕は顔を上げた。
シリルは、僕の方を見て、微かに、本当に微かにだけ口角を上げた。
「君たちが三分間、泥遊びをしてくれたおかげで……僕のエンジンは一度もレッドゾーンに入らなかった。……ただのめまいで済んだよ」
彼は、僕の前に手を差し出した。 泥も血も付いていない、白くて綺麗な手。 だが、その掌が、僕たちのおかげで「焼けていない」ことを、僕は知っていた。
「……立つんだろ? リーダー」
僕は、その手を取った。 熱い。まだ身体強化の熱は残っている。 だが、いつものような「火傷しそうな高熱」ではなかった。 人肌より少し熱い程度の、心地よい体温。
「……ああ。帰ろう」
僕は彼の手を借りて立ち上がった。 全身が痛い。盾は壊れた。修理費がかさむ。 でも、不思議と心は軽かった。
「……次は、二分で終わらせる」 リズが槍を杖にして立ち上がり、強がって言った。 「あんたがサボれる時間を、もっと作ってあげるわよ。感謝しなさい」
「期待しないで待ってるよ、お姫様」 シリルが鼻で笑う。
「俺の矢、三本折れたぞ……ちくしょう、大赤字だ」 ニルスが文句を言いながらも、その顔には生気が戻っていた。
「みんな、怪我はない? ……よかった」 エマが、安堵のあまり涙をこぼす。
僕たちは歩き出した。 まだ「鉄屑」には変わりない。 でも、今日は誰かに動かされる屑じゃない。 自分たちの足で転がり、ぶつかり、傷を増やしながら進む、意思を持った鉄屑だ。
シリルが、ふと僕の隣に並び、小声で囁いた。
「……悪くなかったよ、ボス」
その声は、いつもの冷徹な響きではなく、昨夜の隠し部屋で聞いたような、少しだけ甘えた響きを含んでいた。
「君たちが泥を被ってくれるなら……僕はもう少しだけ、長持ちしそうだ」
「……そうかよ」
僕はぶっきらぼうに答えたが、頬が緩むのを止められなかった。
風が吹く。 僕たちの影が、岩肌に長く伸びていた。 五つの影。 一つは大きくて歪で、四つは小さくて頼りない。 だけど、それらは確かに一つの塊となって、明日へと続いていた。




