チームの亀裂
季節が巡り、あの長雨の季節が終わろうとしていた。 代わりに訪れたのは、肌を刺すような初冬の乾いた風だった。
僕たち『鉄屑』は、変わった。 外見だけは、見違えるように立派な冒険者になっていた。
「へぇ、これが新しい軽鎧か。すげぇな、ミスリル銀のコーティングだってよ」
宿の一室。ニルスが新調した革鎧を撫で回し、感嘆の声を上げていた。 かつては継ぎ接ぎだらけのボロ布を纏っていた彼が、今は中堅の冒険者でも手が出ないような高級品を身につけている。 その手にある弓も、弦の張りが強い複合弓だ。
「私のも見てよ。……これ、東方の職人が打った特注品なの」
リズが誇らしげに――しかし、どこか虚ろな目で――新しい長槍を見せた。 穂先には魔力を帯びた青い石が埋め込まれ、柄は強靭な樫の木で作られている。以前の彼女なら、喉から手が出るほど欲しがった逸品だ。
エマもまた、最高級の薬草ポーチと、身を守るための魔除けのローブを羽織っていた。 そして僕、レンも。左手のギプスは外れまだ完治はしていないが、手には業物と呼ばれるショートソードが握られていた。
金貨。 金貨だ。 シリルが加入してから一ヶ月。僕たちの懐は、異常なほどの速度で潤っていった。 ランクE、ランクF。時にはランクDの手負いまで。 シリルという「美しき処刑装置」は、それら全てを鼻歌交じりで換金アイテムへと変えていった。
僕たちは、ただ後ろをついていき、死体から素材を剥ぎ取り、ギルドで金を受け取る。 それだけの「作業」で、かつて命懸けで稼いでいた年収分を、たった数日で稼ぎ出していた。
だが、その代償として。 部屋の隅に置かれた、最新鋭の装備たちは、一度も血を吸うことなく、ピカピカと不気味に輝いていた。 まるで、床の間に飾られた美術品のように。
その日の夕刻。 僕たちは、依頼の達成祝いと称して、街の上層区にある少し高級なレストランに来ていた。 ガインが生きていた頃には、入ることすら許されなかったような店だ。 白いテーブルクロス。銀の食器。静かな音楽。 泥臭い冒険者など一人もいない空間。
「……乾杯」
僕が音頭を取るが、グラスを合わせる音は硬く、響かなかった。 目の前には豪華な料理が並んでいる。 だが、リズはフォークで肉をつつくだけで口に運ぼうとしない。エマはスープを一口飲んで、ため息をついた。
「……味が、しないわね」 リズが呟いた。 「美味しいはずなのに……なんだか、砂を噛んでるみたい」
「贅沢言うなよ、お姫様」 ニルスがワインを煽り、皮肉っぽく笑う。 「俺たちは今、勝ち組なんだぜ? 他の連中が下水道でドブネズミと戦ってる間に、俺たちはここで鴨のコンフィを食ってる。……最高の効率だろ」
ニルスの目は笑っていなかった。 彼は最近、戦闘中に弓を構えることすらしなくなった。 「どうせシリルがやる」 「俺が射つ前に終わる」 そう言って、矢筒に手を伸ばすことさえ諦めてしまった。計算高い彼が出した「最適解」が、「何もしないこと」だったからだ。
「……ねえ、シリルは?」 エマが不安そうに空席を見た。
「遅れてる。……メンテナンスだそうだ」 僕は短く答えた。
メンテナンス。 その言葉の本当の意味を知っているのは、僕だけだ。 今頃、彼は路地裏の暗がりで、吐血し、鎮痛剤を飲み、沸騰する体を冷やしているのだろう。 あの美しい戦闘の裏で、彼がどれだけの寿命を支払っているか。 ここにいる仲間たちは、それを知らない。
「……あいつ、最近なんかピリピリしてないか?」 ニルスが不満げに言った。 「戦闘中、俺たちが近づくと舌打ちするし。……昨日はリズが援護しようとしたら、『邪魔だ』って睨みつけたろ?」
「……ええ。思い出すだけで腹が立つわ」 リズがナイフを強く握りしめた。 「私だって……私だって、役に立とうとしたのに。あいつ、私の新しい槍を見て鼻で笑ったのよ。『飾り物は床に置いておけ』って」
「あいつ、自分の強さに胡座をかいてやがるんだ。俺たちを見下して楽しんでるのさ」
違う。 僕は心の中で否定した。 あいつは余裕があるから笑ってるんじゃない。 余裕がないから、余計なノイズ、お前たちの未熟な援護を嫌っているんだ。 そして何より、今のあいつの苛立ちは、もっと別のところにある。
その時だった。
「――随分と盛り上がってるね。僕の悪口かい?」
背後から、冷ややかな声が降ってきた。 空気が凍りつく。 シリルだ。 彼はいつもの青緑のロングコートを完璧に着こなし、優雅に立っていた。 顔色は少し青白いが、その美貌に陰りはない。
「……遅いぞ、新入り」 ニルスがバツが悪そうに視線を逸らす。
「ごめんね。少し手間取った」 シリルは僕の隣の席に座り、給仕に水を頼んだ。ワインではない。今の彼の胃袋は、もうアルコールを受け付けないのだろう。
「で? 楽しそうだね。新しい装備の使い心地はどうだい?」
シリルは、リズが腰に下げている新しい短剣と、ニルスのダガーをチラリと見た。 その視線には、明確な侮蔑の色が混じっていた。
「……最高よ」 リズが虚勢を張って答えた。 「軽くて、鋭くて、魔力の通りもいい。これなら、どんな魔物の皮膚だって貫けるわ」
「へぇ。貫ける、ね」
シリルは水を一口飲み、グラスを置いた。 カチャン、という音が、不自然に大きく響いた。
「じゃあ、なんで今日の【野良ゴブリン】相手に、一歩も動かなかったんだい?」
リズの表情が強張る。
「それは……あんたが、一人で突っ込んだからじゃない!」
「突っ込んだ? 違うね」
シリルは冷たく首を横に振った。
「今日の依頼の帰り道だ。藪から飛び出してきたのは、たった三匹のゴブリンだ。しかも飢えてガリガリに痩せた、子供みたいな個体だった」
シリルは、リズの目を真っ直ぐに見据えた。 その瞳は、宝石のように美しく、そして氷のように冷たい。
「僕が前に出るまでもなかった。君のその立派な槍なら、片手で払うだけで殺せた相手だ。……なのに、君は動かなかった。槍を構えるどころか、悲鳴を上げて僕の後ろに隠れた」
「う……っ!」 リズが言葉を詰まらせる。図星だったのだ。 彼女は、ガインの死以来、恐怖トラウマが体に染み付いている。 相手がどんなに弱くても、「緑色の肌」を見ただけで体がすくんでしまうのだ。
「ニルス、君もだ」 矛先が変わる。 「君の新しい複合弓。ゴブリンが三匹、一直線に並んでいた。目を閉じていても当てられる距離だ。……なのに、君は矢筒に触れもしなかった」
「……お前がやると思ったんだよ」 ニルスが開き直ったように言った。 「お前なら一瞬だろ? 俺が矢を無駄にする必要がどこにある?」
「必要?」 シリルが眉をひそめた。
「エマ。君に至っては、ゴブリンを見た瞬間に腰を抜かして座り込んだ」
シリルは、呆れたように溜息をついた。
「いいかい? 今日の相手は、村人でも追い払えるような雑魚だ。……それを殺すために、僕がわざわざ斧を抜いて、走り回った」
彼はテーブルに肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。 そして、この上なく美しい笑顔で、毒を吐いた。
「もったいないな、と思ってね」
彼は、僕たち全員を見渡した。
「君たちが身につけている、その高級な武具たち。……豚に真珠。猫に小判。カカシにプレートメイル」
「ッ!!」
「そんな雑魚相手にすら震えて使えないなら、その武器はただの重りだ。……戦場に持ってくるなよ。目障りだ」
バンッ!!
リズがテーブルを叩いて立ち上がった。 食器が跳ね、ワイングラスが倒れて赤い液体をこぼす。
「いい加減にしなさいよ!!」
彼女の叫び声が、静かなレストランに響き渡る。 周囲の客が驚いてこちらを見るが、彼女はお構いなしだ。
「あんたに何が分かるのよ! 私たちはね、必死なの! あんたみたいに才能がある人間とは違うのよ! ガインが死んで……怖くて、手が動かなくて、それでも生きなきゃいけないから、必死で装備を揃えて……!」
「才能?」
シリルが、低く、ドスの効いた声で遮った。 その瞬間、彼のまとっていた優雅な空気が消し飛び、どす黒い殺気が溢れ出した。
「今、才能って言ったか?」
彼はゆっくりと立ち上がった。 僕たちを見下ろすその目は、充血し、狂気を孕んでいた。
「ふざけるな」
彼は自分の胸を、ドンと拳で叩いた。
「僕が、才能だけで戦ってると思ってるのか? あの程度の雑魚を殺すのに、僕がどれだけの『コスト』を払ってるか、考えたことがあるのか?」
「こ、コストって……たかがゴブリンじゃない……」
「そうだ! たかがゴブリンだ!!」
シリルの絶叫が、店内の空気をビリビリと震わせた。
「たかがゴブリン! たかがネズミ! たかがコウモリ! そんなゴミみたいな敵を掃除するために、いちいち寿命エンジンを回させるな!!」
彼はテーブル越しに、リズの胸ぐらを掴み上げた。 「キャッ!?」 「シリル、やめろ!」 僕が止めに入ろうとするが、シリルは止まらない。
「お前らがやれば、ただの労働で済むんだ! お前らが槍を一突きすれば終わるんだ! なのに、なんで僕がやらなきゃならない!? なんで僕が、あんなゴミを殺すために、血を吐かなきゃならないんだよ!!」
彼の目は本気だった。 強敵に苦戦しているのではない。 取るに足らない雑用を、命を削って処理させられていることへの、純粋な怒りと絶望。 「最強の力」の無駄遣い。それが彼にとって、何よりも耐え難いのだ。
彼はリズを突き放し、ニルスを睨みつけた。
「効率? ふざけるな。矢の一本を惜しんで、僕の命を一時間削るのが効率か? ……それは『寄生』って言うんだよ」
「テメェ……!」 ニルスがダガーに手をかける。
「やるか? いいよ、かかってこい」 シリルは両手を広げた。武器など持っていない。だが、その姿はどんな魔物よりも恐ろしかった。 「そのピカピカの新品で、僕を殺してみろよ。……出来ないだろ? ゴブリンすら殺せない臆病者の刃なんて、僕には届かない」
「……ッ、くそぉぉぉッ!!」
ニルスはダガーを抜くことができなかった。 悔しさと、図星を突かれた情けなさで、顔を真っ赤にしてうつむくしかなかった。
シリルは、荒い息を吐きながら、襟元のスカーフを緩めた。 そこから、ちらりと「どす黒い血管」が見えた気がした。 彼は限界なのだ。 怒っているんじゃない。焦っているんだ。 『こんな雑魚相手に消耗していたら、本当に大事な時に僕は動けなくなる』 『お前らが育つ前に、僕が燃え尽きる』 そんな悲痛な叫びが、僕には聞こえた。
「……もういい」
シリルは、冷めた目で僕たちを見下ろした。
「食事は不味くなった。……僕は帰る」
彼はテーブルに金貨を一枚、彼自身が稼いだ金を叩きつけた。
「精々、その綺麗な鎧を磨いておきなよ。……中身が腐ってるのを隠すためにね」
言い捨てて、彼は店を出て行った。 青緑の靡く髪が、扉の向こうの闇へと消えていく。
残された僕たちは、沈黙の中にいた。 倒れたグラスからこぼれたワインが、テーブルクロスを赤く染めていく。それはまるで、誰かが流した血のように見えた。
「……なによ、あいつ」 リズが、震える声で呟いた。涙声だった。 「なんなのよ……! 私だって、怖いのよ……死にたくないのよ……!」
彼女は椅子に座り込み、顔を覆って泣き出した。 新しい装備の輝きが、彼女の惨めさを一層際立たせている。
ニルスは、何も言わずにワインを一気飲みした。 グラスを持つ手が、激しく震えていた。
エマは、ただ怯えていた。 仲間の不和に。そして、シリルが放った「本物の殺気」に。
僕は、シリルが出て行った扉を見つめたまま、動けずにいた。
分かっていた。 いつかこうなることは。 シリルは「完璧な超人」ではない。 彼は、僕たちよりも遥かに必死に、泥沼でもがいている人間だ。 だからこそ、安全圏でぬくぬくと「冒険者ごっこ」をしている僕たちが、許せなかったのだ。
「……帰ろう」
僕は静かに言った。
「……レン?」
「帰って、装備の手入れだ。……シリルが言った通りだ」
僕は、自分のショートソードの柄を握った。 新しい革の匂いがする。 だが、その感触は、まだ僕の手には馴染んでいない。
「僕たちは、鉄屑だ。……でも、錆びたまま終わるか、それとも研ぎ直して刃になるかは、僕たち次第だ」
説教がしたいわけじゃない。 ただ、このままでは本当に終わる。 シリルというエンジンが、つまらない雑魚掃除で焼き切れた時、僕たちはただの重たい金属ゴミになって、路傍に捨てられるだけだ。
「……クソッ」
ニルスが吐き捨て、立ち上がった。 「分かってるよ。……言われなくても、分かってるっつーの」
彼は悔し紛れに、テーブルのパンを一つ鷲掴みにしてポケットに突っ込んだ。
僕たちは店を出た。 夜風は冷たく、僕たちの頬を叩いた。 見上げた空には、星一つ見えなかった。 ただ、シリルの言葉という刃物が、僕たちの心臓に深く突き刺さったまま、鈍い痛みを放ち続けていた。
(……待ってろよ、シリル)
僕は心の中で、あの不器用で孤独な共犯者に呼びかけた。 お前のその負担、いつか必ず、僕たちが背負う。 お前が燃え尽きる前に。 僕たちが、お前を「道具」として使いこなせるようになるまで。
その夜、宿に戻った僕たちは、誰一人として眠らなかった。 部屋には、砥石で刃を研ぐ音と、弓の手入れをする音だけが、朝まで響き続けた。




