力の代償そして契約
夜の森は、死んだように静かだった。 ゴブリン8匹を瞬殺した僕たち(正確にはシリル一人)は、街道から少し外れた開けた場所で野営をしていた。
焚き火がパチパチと爆ぜる。 いつもなら、この時間は「反省会」と称した馬鹿話の時間だ。ガインが「腹減った」と騒ぎ、ニルスが薪をくべ、エマが薬草茶を淹れる。 だが今夜は、誰も口を利かなかった。
リズは焚き火を虚ろに見つめ、ニルスは寝袋に潜り込んで背中を向けている。エマは……僕の隣で膝を抱えていた。 そして、あの「完璧な新人」シリルは、ここにはいない。
「……少し、メンテナンスをしてくるよ。誰も来ないでくれ」
そう言い残して、彼は一時間以上も森の奥へと姿を消したままだ。 食事も摂らず、水筒の水だけを受け取って……。
(……メンテナンス?) 武器の手入れなら、焚き火の明かりでやればいい。 排泄にしては長すぎる。 何より、彼のあの言葉が引っかかっていた。 『僕の武器のメンテナンス費用はパーティ持ち』。 あの戦斧は刃こぼれ一つしていなかった。なのに、なぜ?
「……レンくん?」 「エマ、寝てていいぞ。少し小便に行ってくる」
僕は言い訳をして立ち上がった。 折れた左手が重い。だが、胸のざわめきの方がもっと重かった。 僕は足音を殺し、シリルの消えた方角――風下へと歩き出した。
数十メートルほど離れた、巨大な杉の木の根元。 闇の中に、青白い月明かりだけが差し込む場所。
そこに、彼はいた。
「――グッ、オェッ……!!」
耳を覆いたくなるような、湿った音が響いた。 嘔吐の音だ。 それも、ただの吐瀉物じゃない。もっと粘度のある、液体が地面を叩く音。
僕は息を呑み、木の陰から様子を窺った。 目が慣れると、その異様な光景が浮かび上がった。
シリルは、木に片手をつき、体を「く」の字に折り曲げていた。 あの優雅で、塵一つ寄せ付けなかった青緑のロングコートは、今は泥にまみれている。 そして何より――。
シュウウウウゥゥゥ……。
彼の体から、猛烈な「蒸気」が立ち上っていた。 襟元から、袖口から。 白い煙が、夜気に触れて揺らめいている。 まるで、沸騰したヤカンだ。
(蒸気……? まさか……)
僕の脳裏に、あのベテラン冒険者の姿がフラッシュバックする。 『身体強化』。 命を燃やし、血管を焼き切るほどの負荷をかけて、マナを強制循環させる自殺行為。
「はぁッ、はぁッ……カハッ! ゲェッ……!!」
シリルが再び激しく咳き込み、地面に赤黒い塊を吐き出した。 血だ。 それも、胃液混じりの鮮血が、水たまりができるほどの量で吐き出されている。
「……クソ、効率が……落ちてきているな……」
彼の声は、あの鈴を転がすような美声ではなかった。 焼けた鉄板のようにガラガラに掠れ、苦痛に歪んでいた。
彼は震える手で、懐から小さなガラス瓶を取り出した。 中に入っているのは、ドス黒い紫色の液体。 鎮痛剤か、それとも無理やりマナを活性化させる劇薬か。 彼はそれを、血塗れの唇で噛み砕くように飲み干した。
「ガッ……! あああああぐぅッ……!!」
薬が回ったのか、彼は喉を掻きむしり、背中をのけぞらせて悶絶した。 その拍子に、乱れた前髪が上がり、月明かりに照らされた彼の「素顔」が見えた。
美しい白磁の肌? 違う。 首筋から頬にかけて、どす黒い血管が蜘蛛の巣のように浮き上がり、脈打っていた。 目からは血の涙が流れ、白目は充血して真っ赤だ。 それは「美少年」の顔ではなかった。 マナの毒に蝕まれ、内側から崩壊しかけている「末期患者」の形相だった。
「……誰だ」
シリルが、獣のような鋭さでこちらを振り向いた。 充血した目が、僕を射抜く。
僕は観念して、木の陰から姿を現した。
「……僕だ」 「……ボス、か」
シリルは僕を認めると、口元の血を袖口で――あの汚れるのを嫌がっていたコートの袖で、乱暴に拭った。 そして、ふらつきながらも姿勢を正し、いつもの「冷徹な仮面」を被ろうとした。 だが、体から立ち上る蒸気と、足元の血溜まりは隠しようがない。
「……見られたね。『メンテナンス』中だったんだけど」 「それが、メンテナンスか?」
僕は血溜まりを指差した。
「……身体強化だろ。それも、かなり無茶な出力の」 「……ご名答」
シリルは自嘲気味に笑った。その歯は血で真っ赤だった。
「君たちみたいな『凡人』には分からないかもしれないけどね。……僕には才能がないんだ」
彼は意外なことを口にした。
「才能がない? お前が?」 「ああ。マナの許容量が、人より極端に少ない。だから、普通に戦えばゴブリン一匹にも負ける」
彼は自分の胸を拳で叩いた。
「だから、燃やすしかないんだよ。寿命をね。常に限界ギリギリまで身体強化をかけ続けて、やっと『天才』のふりができる」
「なんで……そんなことを」
「需要があるからさ」
シリルは冷たく言い放った。
「誰も『弱いタンク』なんて雇わないだろ? 君たちだってそうだ。僕が弱かったら、ガインの代わりにしたかい? ……強く見えるから、綺麗に戦うから、金を出したんだろう?」
彼はロングコートの襟を立て、浮き出た血管を隠した。
「このコートもそうさ。分厚い生地じゃないと、戦闘中に体から出る『蒸気』が見えちまう。涼しい顔をして戦ってるように見せるのも楽じゃないよ。……コートの下は、汗と脂汗でグチャグチャだ」
僕は言葉を失った。 今日の戦闘。 あの優雅な円舞。 一滴の血も浴びず、涼しい顔でゴブリンを屠ったあの姿。
あれは全部、演技だったのか? 体の中で沸騰する血液の熱さに耐え、筋肉が断裂する痛みを笑顔で隠し、僕たちの前で「最強」を演じていたのか?
「……死ぬぞ」 僕は絞り出すように言った。
「あんな量の血を吐いて……薬で誤魔化して。いつか体が破裂する」
「知ってるよ」 シリルはあっさりと答えた。
「長く生きるつもりはない。……太く、短く、高く売れるうちに売り切る。それが僕の生存戦略だ。鉄屑スクラップになる前に、高級品として燃え尽きる」
彼は懐から、先ほど僕が渡した手付金を取り出し、月にかざした。
「この銀貨一枚で、少し高級な痛み止めが三本買える。それでまた三回、僕は『最強』になれる。……合理的だろ?」
「……馬鹿げてる」
「君たちに言われたくないね」
シリルは金貨を握りしめ、僕に近づいてきた。 血と、薬と、焼け焦げたような体臭が鼻をつく。 あんなに綺麗に見えた彼が、今は誰よりも生臭く、人間臭かった。
「……勘違いしないでくれよ、ボス。僕は君たちのためになんて戦わない。僕は僕の命を金に換えるために、君たちを利用する」
彼は僕の肩に手を置いた。その手は、高熱を発していて火傷しそうなくらい熱かった。
「だから、君も僕を利用しろ。……僕が壊れるまで、使い潰せ。それが契約だろ?」
そう囁くと、彼は僕の横を通り過ぎ、闇の中へと消えていった。 川の方へ向かったのだろう。顔の血と、汗を洗い流しに。 そしてまた、明日の朝には「涼しい顔をした美少年」として戻ってくるつもりなのだ。
僕は一人、残された血溜まりを見下ろした。 地面に染み込んだ赤黒い血。 それは、ガインが流した血と同じ色をしていた。
(……なんだよ、それ)
嫉妬していた自分が馬鹿みたいだ。 彼もまた、鉄屑だった。 いや、僕たち以上に壊れた、悲しい鉄屑だった。
「……使い潰せ、か」
僕は折れた左手を強く握った。 痛みがある。 生きている痛みだ。 でも、あいつの痛みは、そんな生易しいものじゃない。死へ直結するカウントダウンの痛みだ。
僕たちは、とんでもない爆弾を抱え込んでしまったのかもしれない。 でも。
「……悪くない」
僕は呟いた。 あいつの、あの血に濡れた歪んだ笑顔の方が、昼間の澄ました顔より、ずっと信用できる気がしたからだ。
「契約成立だ、クソ野郎」
僕は闇に向かって吐き捨てると、重い足取りでキャンプへと戻った。 焚き火の明かりが、少しだけ暖かく感じられた。




