後悔そして崩壊
ギルドからの帰り道、雨は冷たい霧へと変わっていた。 その霧は、街全体を巨大な霊廟のように包み込み、生者の気配を消し去っているようだった。
僕は宿の軋む階段を上る。 一歩上るごとに、ポケットの中の銀貨がチャリ、と鳴る。 それは新しい仲間――いや、新しい「捨て駒」を雇うための手付金だ。 ガインの命を切り売りして得た金で、ガインの代用品を買う。 その吐き気を催すような事実が、僕の足を鉛のように重くさせていた。
「……ただいま」
扉を開ける。 返事はなかった。
部屋の中は、昼間だというのにカーテンが引かれ、薄暗い。 充満しているのは、安酒のツンとする刺激臭と、嘔吐物の酸っぱい臭い。そして、澱んだ絶望の空気。
ニルスは、まだ壁に向かっていた。 「……矢尻の回収率が三割。修理費が……いや、新品を買うよりは安いか。でも、ガインがいれば回収できたはずの……」 彼は壊れたレコードのように、同じ計算を繰り返している。彼の指先は、矢のささくれで傷つき、血が滲んでいたが、それに気づく様子すらない。
エマは、ベッドの上で胎児のように丸まっていた。 彼女の視線は、ガインがいつも使っていた、もう誰もいないベッドの凹みに固定されている。 「……肉、買ってくるって言ったのに。……嘘つき」 彼女の瞳からは光が消え、ただ涙だけが乾いた頬を濡らし続けている。
そして、部屋の中央。 テーブルの前に、リズが座っていた。
彼女の前には、空になった酒瓶が三本転がっている。 だが、今の彼女はもう飲んでいなかった。 彼女は、自分の愛用している長槍の穂先を、布で丁寧に磨いていた。
シュッ、シュッ、という金属を擦る音だけが、静寂な部屋に響く。
「……おかえり、レン」
リズは顔を上げずに言った。 その声は、驚くほど澄んでいて、穏やかだった。 昨夜泥酔して暴れていた彼女とは別人のようだ。 だが、その「静けさ」こそが、僕の背筋を凍らせた。
「……何をしてるんだ、リズ」
僕は慎重に声をかけた。 彼女の横顔は蒼白で、唇は血の気がなく紫色に変色している。 整った美しい顔立ちが、まるで精巧に作られた死蝋の人形のように見えた。
「手入れよ。騎士の嗜みだもの」
リズは微笑んだ。 その笑顔は、ガラス細工のように脆く、そして歪んでいた。
「汚れているのよ、レン。いくら磨いても、落ちないの」
彼女は槍の穂先を見つめる。 そこには一点の曇りもなく、彼女の顔が映り込んでいるはずだ。 だが、彼女には違うものが見えているらしい。
「ほら、ここ。……ガインの血がついてる。私が遅かったから、あいつの血が飛んできたの。……ここには、泥がついてる。私が転んだ時の泥よ」
彼女は布で穂先を強く擦る。 ギリギリと、布が裂けるほどの力で。
「汚い。汚いわ。……私、騎士なのに。高貴な家柄なのに。こんなに薄汚れて……ガイン一人守れなくて……ただの、人殺しの役立たず」
「リズ、もういい。その槍を置け」
僕は一歩踏み出した。 嫌な予感が喉元まで迫り上がってくる。
リズの手が止まった。 彼女はゆっくりと、槍をテーブルの上に置いた。 そして、代わりに腰のベルトから、護身用のダガーを抜いた。
「ねえ、レン。知ってる? 穢れを落とす一番の方法」
彼女はダガーの刃を、自分の白い喉元に当てた。 刃先が皮膚に食い込み、赤い血の珠がプクリと浮かぶ。
「血で洗うのよ。そうすれば、全部綺麗になるんですって」
「やめろッ!!」
僕は叫び、駆け出した。 折れた左手の激痛など忘れて、彼女に向かって飛び込む。
「来るな!!」
リズが叫ぶ。 その目から、堪えていた涙が一気に溢れ出した。 人形の仮面が割れ、絶望に発狂した少女の顔が露わになる。
「嫌なの! もう嫌! ガインの叫び声が聞こえるの! 目を閉じると、あいつが『痛い』って泣いてるの! 私のせいよ、私が殺したのよ!」
彼女はダガーを握りしめ、横に引こうとした。 頸動脈を切り裂こうとする動き。
「させるかぁッ!!」
僕はテーブルを乗り越え、彼女の右腕を掴んだ。 「離して! 死なせて! お願いだから楽にさせて!」
「ダメだ! 死ぬな! 生きろ!!」
もみ合いになる。 彼女の力は異常だった。死への渇望が、彼女の細い腕に火事場の馬鹿力を与えている。 僕の左手が悲鳴を上げる。 ガインの代わりを探してきたばかりの手が、今度はリズの命を繋ぎ止めようときしむ。
「いっ……ぐぅぅッ!!」
ダガーの刃が暴れる。 僕の頬を掠め、新たな傷を作る。 リズの手首を掴む指が、折れた骨に食い込んで脳髄を焼くような痛みを走らせる。
「離してよぉぉぉ! 私なんて生きてる価値ない! ガインが死んで、なんで私が生きてるの!? あいつは優しかったのに! 私みたいな高慢ちきな女より、あいつの方が生きるべきだったのに!!」
リズの絶叫。 それは、僕たちが全員、口に出せずに飲み込んでいた真実だった。 そうだ。ガインは一番いい奴だった。 一番強くて、一番優しくて、一番未来があった。 それが死んで、僕たちのようなクズが残った。
「そうだよ! 僕たちはクズだ!」
僕は泣きながら叫んだ。 力任せに彼女の手首を捻り上げる。
「価値なんてない! 僕たちは鉄屑だ! 生きてるだけで迷惑なゴミだ! でもな、ガインは……ガインは、そのゴミを守って死んだんだぞ!!」
「あ……ぁ……」
「お前が死んだら、ガインの死はどうなる!? あいつは無駄死にか!? あいつが命を懸けて守ったお前が、自分で喉を切って死んだら……あいつは一体、何のために痛い思いをして死んだんだよ!!」
僕の言葉に、リズの力がふっと抜けた。 カラン……。 ダガーが床に落ち、乾いた音を立てた。
リズは僕の胸に崩れ落ちた。 アルコールと汗と、鉄の臭い。 彼女の体は、小刻みに震えていた。
「うあぁぁぁぁぁ……! ごめんなさい……ごめんなさいガイン……うううぅぅ……」
リズは子供のように泣きじゃくった。 僕の服を掴み、顔を押し付けて、獣のような声で慟哭する。
僕は彼女を抱きしめたまま、床に座り込んだ。 左腕の感覚がない。 包帯から滲み出した血が、リズの銀髪を汚していく。
部屋の隅で、エマがこちらを見ていた。 彼女もまた、声もなく涙を流していた。 ニルスは計算をやめ、壁に後頭部を打ち付けていた。ゴン、ゴン、という音が、自罰的に響く。
誰も救われていない。 リズの自殺は止めたが、彼女の心が救われたわけじゃない。 僕たちは、地獄の底で、互いの傷口を舐め合っているだけだ。
「……死ぬな、リズ」
僕は、彼女の背中を撫でながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「死ぬまでは、生きろ。……どんなに無様でも、泥水を飲んででも。ガインがくれたこの時間を、勝手に捨てるな」
リズの泣き声だけが、部屋に木霊し続ける。 窓の外、雨音はさらに強くなっていた。 まるで、この世界にはもう、光など一筋も残っていないと告げるかのように。
僕は薄暗い天井を見上げた。 そこには、蜘蛛の巣が一つ、頼りなげに揺れていた。 それが、今の僕たち『鉄屑』の姿そのものに見えた。 誰かが息を吹きかければ飛んでいくような、あまりにも脆い命の糸。
それでも、僕たちはまだ、繋がっている。 血と泥と、後悔で練り固められた、醜い絆で。




