報酬と補充
翌朝。雨は小降りになっていたが、空は相変わらず腐った内臓のような鉛色をしていた。 僕は一人でギルドの扉をくぐった。
リズは二日酔いと自己嫌悪で吐き続け、ニルスは部屋の隅でブツブツと矢の計算を続けていた。エマは……泣き疲れて、泥人形のように眠っていた。 だから、僕が来るしかなかった。 リーダーだから。 そして、この残酷な事務手続きこそが、僕たちを生かすための唯一の手段だからだ。
ギルドの中は、相変わらずの熱気と喧騒だった。 昨日は気にならなかったその空気が、今は酷く鼻につく。 笑い声が耳障りだ。ジョッキのぶつかる音が、骨の砕ける音に聞こえる。肉を焼く匂いが、ガインの傷口の焼ける臭いをフラッシュバックさせる。
「……ウッ」
胃酸が込み上げるのを無理やり飲み込み、僕はカウンターへと歩を進めた。 背負った麻袋が、歩くたびに背中を叩く。 中に入っているのは、ゴブリン二十匹分の耳と、ホブゴブリンの角。 そして、ガインが身につけていた、血と泥で固まった認識票だ。
「いらっしゃいませ、レンさん。早いのですね」
受付嬢のミリアが、いつもの営業スマイルを向けた。 彼女は書類仕事をしながら、視線だけで僕の背後――いつもの定位置を探った。
「あれ? 今日はお一人ですか? ガインさんは? また『朝から肉食わせろ』って騒いで、外で待たせてるんですか?」
彼女の軽口。 それは鋭利なナイフとなって、僕の鼓膜を切り裂いた。
そうだ。いつもなら、僕の後ろには巨大な影があった。 馬鹿でかい声で笑い、受付嬢をからかい、僕に頭を叩かれる。それが『鉄屑』の日常だった。
「……いや」
僕の声は、枯れた木の枝が擦れるような音だった。
「あいつは、来ない」
僕は麻袋をカウンターの上に置いた。 ドサッ、という重く湿った音。 袋の底から、茶色く変色した血汁が滲み出し、カウンターの木目を汚していく。
「査定を頼む。……急ぎで」
ミリアは僕の異様な雰囲気を察したのか、笑顔を少し引きつらせて「は、はい」と袋を開けた。 強烈な腐臭が漂う。 切り取ってから一日経ったゴブリンの耳は、萎びて黒ずみ、蛆が湧き始めていた。 その中に混じって、ホブゴブリンの砕けた眼球と、脳漿が付着した角が出てくる。
「……ひっ」 ミリアが小さく悲鳴を上げ、口元を押さえた。 「こ、これは……随分と激しい戦闘だったのですね。状態が……」
「殺せればいいんだろう。形なんてどうでもいい」
僕はカウンターに指を這わせる。 添え木をしていない左手の中指と薬指は、紫色に腫れ上がり、奇妙な方向に曲がったままだ。その激痛だけが、僕の意識を現実に繋ぎ止めていた。
ミリアは青ざめた顔で査定を終え、銀貨と銅貨の山をトレイに乗せた。 ゴブリンの群れとホブゴブリン。ランクGの依頼にしては破格の報酬だ。 だが、その金額は、一昨日の宴会代にも満たない。 ガインの命の値段としては、あまりにも安すぎる端金だった。
「……ありがとうございます。えっと、それで」
ミリアはトレイを差し出しながら、再び僕の後ろを見た。 まだ、気づいていない。 あるいは、気づきたくないのかもしれない。
「ガインさんたちへの配分は、どうしますか? いつものように、ここで小分けにしますか? それとも……」
「要らない」
僕は即答した。
「え?」
「あいつの分は、要らない。……飲み代と、治療費と、新しい矢の補充で消える。それだけだ」
ミリアの目が泳ぐ。 そして、彼女の視線が、僕がカウンターの隅に置いた「小さな金属片」に釘付けになった。 血と泥でコーティングされた、銀色のプレート。 認識票だ。 死亡した冒険者の登録抹消手続きに必要な、唯一の遺品。
「……レ、レンさん……? それは……」
ミリアの声が震え出した。 彼女の脳内で、僕の「一人で来た」という事実と、そのプレートの意味が繋がり、最悪の結論へと至る。
「嘘……ですよね? だって、一昨日……あんなに元気に……」
「死んだよ」
僕は淡々と言った。まるで明日の天気を告げるように。
「ゴブリンの群れに囲まれて、落とし穴に落ちて、顔を食われて死んだ。半分も残ってなかったから、埋めるのに苦労したよ」
「……っ!」
ミリアが口を手で覆い、涙目で後ずさった。 周囲の冒険者たちが、聞き耳を立てていたのか、ざわめきが静まる。 「おい、あいつらの筋肉ダルマ、死んだのかよ」 「ゴブリンに? マジかよ、ダセェ」 「やっぱ『鉄屑』だな」
外野の声が聞こえる。 そうだ、笑えよ。 僕たちは鉄屑だ。使い捨てのゴミだ。 英雄になろうとして、泥の中で死ぬだけの道化だ。
僕は銀貨を無造作にポケットに突っ込み、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。 震える手で、ミリアの前に突き出す。
「……それと、依頼だ」
「い、依頼……?」
ミリアは涙を堪えながら、必死に職務に戻ろうとした。
「はい……どのような依頼でしょうか。討伐ですか? 採取ですか?」
「違う」
僕は、カウンターに置かれた羽ペンを手に取った。 インク壺にペン先を突っ込む。黒いインクが、血のように滴り落ちる。 僕は羊皮紙に、殴り書きのように文字を刻み込んだ。
【募集:前衛一名】
その文字を見た瞬間、ミリアが息を呑んだ。
「レ、レンさん……そんな、まだ一日しか……」
「空いた穴は埋めなきゃならない」
僕は彼女の言葉を遮り、ペンを走らせる。 ガリガリと、紙を削る音が響く。
【条件】
・体力に自信がある者。
・命令に絶対服従できる者。
・死を恐れない者、あるいは死に場所を探している者。
ペン先が震える。 『ガインの代わり』と書きそうになるのを、歯を食いしばって堪える。 違う。ガインの代わりなんていない。 僕が探しているのは、次の「肉の盾」だ。 僕の命令一つで死んでくれる、便利な駒だ。
「……レンさん、手が……血が……」
ミリアが悲鳴に近い声を上げた。 僕が強く握りしめすぎたせいで、曲がった指の傷口が開き、包帯から血が滲み出して羊皮紙を汚していたのだ。 黒いインクと赤い血が混ざり合い、募集要項を汚らしく染めていく。
「……構わない。その方が、分かりやすい」
僕は血のついたその紙を、ミリアの方へ押しやった。
「これを掲示板の一番目立つところに貼ってくれ。報酬は相場より高く出す。……『鉄屑』に入りたい物好きな自殺志願者がいれば、すぐに回してくれ」
「レンさん……」 ミリアの目から、ついに涙が零れ落ちた。 「無理です……そんな顔で、そんなこと……休んでください。少し、休まないと……」
「休んでる暇なんてないんだよ!!」
僕は叫んだ。 ギルド中の視線が集まる。 僕はカウンターを、折れた左手で叩きつけた。 激痛が脳を焼き、涙が出そうになる。
「休んだら腹が減るんだ! 宿代がかかるんだ! 生きてるだけで金がかかるんだよ! あいつが死んでも、僕たちは飯を食わなきゃならないんだ!」
呼吸が荒くなる。 視界が歪む。 ミリアの背後に、幻影が見えた。 大剣を担いで、ニカっと笑うガインの姿。 『レン、肉食おうぜ!』
消えろ。 消えてくれ。 お前がいると、僕は前に進めない。
「……頼む。貼ってくれ」
僕は掠れた声で言い残し、逃げるように背を向けた。 背後で、ミリアのすすり泣く声と、冒険者たちのひそひそ話が聞こえる。
ギルドの扉を開けると、外はまだ雨だった。 冷たい雨が、熱を持った頬を濡らす。
『募集:前衛一名』
その文字列が、僕の瞼の裏に焼き付いて離れない。
僕はポケットの中の銀貨を握りしめた。 冷たくて、硬い金属の感触。 これがガインの命の欠片だ。 そして、この金で、僕は「次のガイン」を買うのだ。
僕は泥道を歩き出した。 足取りは重く、行き先などどこにもないような気がした。 ただ、生きるために。 死んだあいつを過去にするために、僕は泥を啜ってでも前に進むしかなかった。




