王都の裏側
一階に降り、外へ出る。
――そこは、無法地帯だった。
家々は壁が剥がれ、窓は割れ、誰も住んでいないように見える。
けれど、道端には人が転がり、喚いたり、体を震わせたり、
あるいは……ぴくりとも動かない人もいる。
鼻を突く、強烈な匂い。
(……ごみの匂い?)
こんなにきついなら、相当な量が溜まっているはずだ。
(ごみ処理場でも、あるのかしら?)
それなのに――
太陽は、やけに綺麗に輝いて、廃街区域全体を照らしていた。
その光景が、妙に、現実感を失わせる。
ネズミちゃんは先に走り出し、私は小走りでその後を追う。
途中、瓦礫の上にカラスちゃんの姿を見つけた。
私は一瞬考えてから、
『ヒューッ』
と口笛を吹いた。
カラスちゃんは私に一瞬目を配り、すぐ私の前に降り立つ。
自分の無事をカイテルさんに伝えなければ。
私は急いで、カイテルさんが買ってくれた髪飾りを外した。
「この髪飾りを、騎士団本部まで持っていってくれる?」
カラスちゃんは、きょとんと首を傾げた。
(キシダン……ホンブ……?)
(……だよね)
騎士団本部なんて、知らないのよね。
「ごめんね。じゃあ、えーと……王城は知ってる?」
(シッテル)
「よかった……」
思わず、ふぅっと息が漏れた。
「王城の中に、赤い旗が立っている建物があるの」
私は、ゆっくり、噛み砕くように説明する。
「そこまで、この髪飾りを持っていってほしいの」
(ウン)
「その建物の中に入って」
(ウン)
本当は、カイテルさんのところまで直接行ってほしい。
でも、金髪の騎士なんて、きっとたくさんいる。
どう説明すればいいのか、わからない。
「その髪飾りを、人に見せて。騎士を……ここまで連れてきて」
(ニンゲンニ……?)
カラスちゃんは、明らかに嫌そうな顔をした。
「私、今……すごく危険なの」
声が、少し震える。
「お願い。助けて。騎士を、ここに連れてきて」
カラスちゃんは、ぶるぶると体を震わせ――
(……ワカッタ!)
私はすぐ、カラスちゃんの羽に髪飾りを結びつけた。
「ありがとう。お願いね」
カラスちゃんは力強く羽ばたき、王城の方向へ飛び去っていった。
私を待っていたネズミちゃんたちが、再び走り出した。
私も遅れないように、その小さな背中を追う。
途中――
じっと、こちらを見る視線に気づいた。
壊れかけの家の影、積み上げられた木箱の隙間。
そこに、この廃街区域に住んでいる人が立っていた。
目が合った瞬間、獣のような目つきになる。
「……っ」
次の瞬間、男がこちらに向かって走り出した。
襲われる、と本能が告げる。
私は反射的に剣を構え、地面を蹴った。
男が伸ばした手を弾き、体勢を崩したところに、容赦なく足を振り抜く。
「ぐっ……!」
男は呻き声を上げて倒れ込んだ。
私は息を整える暇もなく、すぐ前へ進む。
ネズミちゃんたちが、急かすように先を走った。
何回か角を曲がり、狭い路地を抜け、私たちは一軒の家の前に辿り着いた。
その瞬間、鼻を突く匂いが変わる。
ゴミの匂いが、さっきより、ぐんと強い。
(アマイニオイ……クサイ)
ネズミちゃんが、はっきりと鳴いた。
私は思わず眉をひそめる。
ごみの匂いが強すぎて、私には甘い匂いは感じられない。
けれど――
ネズミちゃんには、はっきりと"それ"がわかるんだ。
ネズミちゃんの耳が、ぴくりと動いた。
(ココ、アブナイヨ)
胸の奥が、嫌な予感で締めつけられた。
ここは、麻薬の場所、間違いない。
(堂々とこの玄関扉に入っていいもの、かしら?)
この家は両側に他の家とつながっていて、勝手口や裏口がなさそう。
(やめたほうがいいじゃない……かしら)
「ネズミちゃん、どこから入ればいいの?」
小さな声でネズミちゃんに聞く。
「扉は、ほかに、ない?」
(……サガシテ、クルヨ)
ネズミちゃんが俯いた。
明らかに近づきたくない。
ネズミちゃんは近くの狭い道へ走っていった。
道の真ん中で待つのは、目立ちすぎる。
逡巡した後、私はネズミちゃんの後を追い、狭い道に身を滑り込ませた。
壁と壁に挟まれた路地は、昼なのに薄暗い。
足元には割れた瓶、腐った布、何かの骨。
――そのとき。
ネズミちゃんたちが、急に立ち止まった。
(……チカイ)
ごくっと、無意識に唾を飲み込む。
背中を、冷たいものがぞくりと走る。
「近い……?」
(ヒト、イル)
私は、思わず息を殺した。
家の中に――
それも、壁のすぐ向こう側だ。
正面から入れば、鉢合わせになるかもしれない。
(さっき、玄関から入らなくて、正解だったわ)
(コッチ、ミテ)
ほっとしたのもつかの間、ネズミちゃんが再び鳴き、壁際の地面を示した。
身を低くして目を凝らす。
瓦礫に隠れるように、古い通気口がある。
錆びついた鉄格子の奥は、闇に溶け込んで見えなかった。
……人は無理だ。
私の体じゃ、入れない。
でも――
(アタシ、ハイルヨ)
一匹のネズミちゃんは、胸を張るように鳴いた。
私は、そのネズミちゃんの頭を撫でながら、頷く。
「……中、見てきて。人の数、わかれば教えて」
ネズミちゃんは、真剣に頷いたあと、小さな体を通気口の闇へと滑り込ませた。
私と残りのネズミちゃんは、狭い道をそのまま歩き出した。
足音を立てないよう、自然と歩幅が小さくなる。
狭い道を抜けると、また狭い道が左右に分かれていた。
似たような壁、似たような影。
(……迷路みたいだわ)
華やかな王都の裏側は、こんなところなんだ。
表の華やかさを支える、歪で複雑な裏道。
その角を曲がったとき、目に入った。
——通気口のある、あの家の勝手口。
(ここ……)
胸の奥が、きゅっと縮む。
正面玄関より目立たないが、だからこそ油断できない。
(入って、いいのかしら……)
(ヒト、イナイ、カモ)
ネズミちゃんが、小さく鳴いた。
まるで私の迷いを読み取ったかのような、ためらいのない声。
「……この扉の後ろに、誰もいないのね?」
(ウン)
短く肯定され、私は小さく息を吐いた。
覚悟を決め、ゆっくりと勝手口を押し開ける。
きぃ……と、かすかな音。
反射的に体が強張る。
中を覗くと、散らかった室内が見えた。
壊れた箱、転がる布切れ、空の瓶。
だが、人の気配はない。
(……今のところ、大丈夫)
中には扉が一つ。
おそらく、玄関側へ通じる扉。
——その横。
「あれ……?」
床が、下へ続いている。
階段だ。
暗く、冷たい空気が、そこから流れてきている。
(……怪しい)
そう思った瞬間、通気口に入っていたネズミちゃんが戻ってきた。
(ヒト、サンニン、イタヨ!)
「三人……」
思わず、眉をひそめる。
この距離、この人数。
正面からでは、分が悪い。
(私一人で、突破するのは……)
(まかせて)
別のネズミちゃんが鳴く。
(サッキノヒト、ミタイニ、ヤルヨ)
(……ちょっと、待って)
私が止めるより早く、一匹が裏道の奥へ走り出した。
胸がざわつく。
私はそのネズミちゃんを待つ。
時間が……どのくらいたったかしら。
そんな不安を抱いた。
——だが。
ほどなくして、足元がざわざわと動き出す。
振り向くと、十匹ほどのネズミちゃんたちが集まっていた。
その光景に、胸の奥がふっと軽くなる。
(……そうだ)
私は、一人じゃない。
こんなにたくさんの、小さな仲間がいるじゃない。
深呼吸をひとつ。
再び扉を開け、ネズミちゃんたちと一緒に中へ入る。
ネズミちゃんたちが先に階段を降り、私は息を殺して続いた。
——すると。
「うわぁぁ!ネズミが!」
「どこからっ!?」
男たちの叫び声。
次の瞬間、
『チリッ……パリン!』
『カタン!』
ガラスが割れる音。
棚から物が落ちる音。
混乱が、地下室を一気に満たした。
私は静かに階段を降り切り、部屋をそっと見渡す。
——小さな瓶。
無数に並んだ、見覚えのある形。
(……この瓶……)
麻薬の瓶だ。
カレル森の小屋と同じような、小さな麻薬の瓶。
息が止まりそうになる。
こんなに、たくさん。
しかも、王都のど真ん中で。
あんなに賑やかな中央街の、すぐ裏で、こんなものが。
王城から、目と鼻の先で。
(……なんてこと)
現実感が追いつかず、ほんの一瞬、ぼうっと立ち尽くす。
『ドン』
重い音がして、はっと我に返る。
男二人が床に倒れていた。
残る一人は、必死に剣を振り回している。
ネズミちゃんたちを蹴り、追い払い、切ろうとして——
明らかに、冷静さを失っていた。
(今)
(今しか、ない)
私は音を立てず、背後に回り込む。
男の意識は、完全に前方に向いている。
——蹴り。
首元を狙って、力を込めた。
「ぐっ……!」
それでも、倒れきらない。
私は迷わず、もう一歩踏み込み、顔面に拳を叩き込んだ。
男は、床に崩れ落ちた。
――ふぅぅ。
やっと終わった。
私はそんな風に安心してしまった。




