常識というもの
私はショーン大臣と別れ、ラシェルさんと一緒に保健省の職員室へ向かった。
部屋に入ると、セシルさんと例の辺境伯の息子が、すでにソファに向かい合って座っていた。
「お待たせしました」
ラシェルさんはそう言いながら、私にその男の向かいのソファを示した。
セシルさんは眉間にしわを寄せ、私とラシェルさんを交互に見た。
「では、聞き取りを始めてください」
ラシェルさんがそう言って、セシルさんの隣に腰を下ろした。
「この女が、いきなり私を殴ったんです!その後、また蹴りつけた!私は何もしていないのに!」
男は声を張り上げ、身振りを交えてまくしたてた。
(……大げさすぎるんじゃないかな?)
「そうですか?」
ラシェルさんは声を荒げず、淡々と続けた。
「ですが、目撃者の話では――
あなたは先にこのご令嬢を脅し、ご自分の地位を持ち出して、どこかへ連れて行こうとしていたそうですが?」
私はラシェルさんの言葉を聞き、横目で男の様子をうかがった。
なんて答えるのかな、と想像しながら。
男の言葉が、ぴたりと止まった。
一瞬だけ目が泳ぎ、それから勢いよく顔を上げた。
「そんなの嘘に決まってます!その目撃者は誰なんです?教えてください。私が直接――」
「何を言っているんですか?
あなたが自分で行ったら、それは“聞き取り”ではなく、“脅迫”でしょう?」
男のあまりにも馬鹿な言葉に、私は思わず、そう口に出していた。
「はぁーーっ!?そもそも、おまえが俺に暴力を――」
「……事実をお話ししてもよろしいでしょうか」
私はできるだけ落ち着いた声で言った。
「えぇ。どうぞ」
ラシェルさんが言った。
「順番にお話しします」
私は深呼吸して言った。
男がこちらを睨んだ。
その視線を受け止めながら続けた。
「あなたは、私に声をかけました。昼ごはんだとか、一緒に勉強だとか」
私はこの男を見据えた。
「私は、丁寧に断りました」
男が、わずかに視線を逸らした。
「するとあなたは、私の手首を掴みました」
「離してほしいと、何度も言いました」
「でも、離してもらえませんでした」
感情を入れないように。
事実だけを並べるように。
「――だから、私は抵抗しました。それだけです」
「……俺は、何もして――」
「“何もしていない”人は、相手の体に触りませんよ」
そう言うと、男は口を閉ざし、私に睨みつけてきた。
「断られた途端に、あなたは親の名前を出しましたよね?」
「それは、脅しです」
私は小さく首を傾げた。
「正直に言うと……少し悲しくなりました」
男が怪訝そうな顔をした。
「は?」
「大人の人が、自分の言葉じゃなくて、家の名前で相手を黙らせようとするのは……」
私はその男の目をじっと見て、はっきり言った。
「あまり、かっこいいことじゃないと思います」
沈黙が落ちた。
「子どもでも、嫌だって言われたら、手を離します」
「それが分からないまま大人になるのって……」
一拍置いて、首を振った。
「私は、寂しいです」
「てめぇ……」
男の声は低く、歯を食いしばっていた。
「断られることって、特別なことじゃありませんよ」
「大人なら、普通にあることです」
私は、ゆっくり言葉を選んだ。
「今日ここに来たあなたも、試験に落ちたら、この職場に断られるかもしれませんからね」
「だからって――っ!」
「まずあなたに必要なのは、仕事より前に――」
私はまっすぐ男を見た。
「常識です」
「相手が嫌がったら、やめる。それだけで十分なんです」
少し考えてから、付け足した。
「常識って、本で覚えるものじゃなくて……たぶん家で教わるものだと思うので……」
私はにっこりして、話を続けた。
「今日帰ったら、ご家族に聞いてみてください。“嫌だって言われたとき、どうするのが大人なのか”って」
「……てめぇ……勝手なことを」
男は吐き捨てるように呟いた。
「そうかもしれません」
私は胸の前で手を組み、少しだけ笑った。
「でも、あなたにとって今日は、社会の中で生きるための勉強の日だったんだと思います」
男は拳を握りしめ、唇を噛んだ。
もう反論の言葉は出てこないらしい。
謝罪はない。
あるのは潰された自尊心と、行き場のない怒りだけ。
部屋の空気が静まり返った。
「……辛辣だね」
ラシェルさんが呟くと、セシルさんが小さく吹き出した。
「……ですが、間違いではありませんね」




