転落の始まり
『ガシャーン!』
ブレイズ男爵家の寝室で、ガラスが壁に強く当たり、鋭い音が部屋に響いた。
「くそが――っ!」
ラウリー・ブレイズ男爵――元農林省大臣は、狂騒の表情で、誰もいない執務室に怒りをぶつける。
暑くもないのに汗が顔を伝い、目を見開いたまま、全身を震わせていた。その様子は異様だった。
彼は一人きりで、何度も罵声を吐き続ける。
「くそくそくそくそくそが――っ!」
ラウリーは震える手でもう一つのガラスを持ち上げ、『パリーン!』と壁に投げつけた。
「せっかく……せっかく十大大臣になれたのにっ!
なんで俺が、こんな目に遭わなきゃならないんだ――っ!」
なぜ俺がこんな人間になったんだっ!?
二週間前の定例会議の記憶が、彼の胸をよぎる。
「くそっ!なんでだよ!」
と叫んだ。
俺はずっと頑張ってきた……頑張ったんだぞ……父のように、
偉大な十大大臣になりたかったのに……。
でも、俺には――!
父親、ラルフ・ブレイズ元当主は、偉大な人物だった。
ブレイズ家はもともと、小さな低級男爵家に過ぎなかった。
しかし二十年前、ラウリーがまだ十歳だった頃、父は十大大臣に選ばれたのだ。
十大大臣とは、簡単に就けるものではない。
敏腕さ、頭脳、決断力、遂行力――国に貢献できる能力があって初めて、選ばれるのだ。
そして父は、それを成し遂げた。
ラウリーの誇りだった。
父親は十大大臣の激務に追い込まれても、文句ひとつ言ったことがなかった。
むしろ楽しそうに、いきいきと国の問題や民の困りごとを解決することを喜んでいた。
王様にも、他の十大大臣にも、民にも、部下にも――誰からも期待され、信頼され、人望が厚かった。
ラウリーも小さい頃から、父のようになりたいと願っていた。
そのため、社交界や遊びに興味を持たず、ひたすら勉強に打ち込んだ。
王城の図書室や屋敷の図書室に引きこもり、膨大な書物を読み漁った。
しかし――ラウリーには才能がなかった。頭も、ずば抜けて良いわけではない。
どれだけ熱心に学んでも、父のようにはなれなかった。
最初の頃、父はラウリーを励ましてくれた。
「学ぼうとするお前には、いつか必ず結果が現れる。
心配するな。これからもたくさん学べ」
しかし、何年経ってもラウリーは結果を出せなかった。
やがて父の態度は、少しずつ変わっていった。
「まあ、これはお前の道じゃないだろうな。別のことを探して、頑張ればいい」
柄の悪い貴族たちと付き合うようになり、彼らと同じように、
毎日賭け事に明け暮れ、女と遊ぶ日々を送る。
目指すものを失ってしまったのだから――仕方がなかった。
二十歳の頃、父の紹介で田舎の貴族と結婚することになった。
彼女もブレイズ家と同じ男爵家の出で、決して目立つ女性ではないが、穏やかで心優しい人だった。
父と口論したあと、彼女はいつもラウリーを励まし、味方でいてくれた。
その優しさに触れるうちに、いつしか彼女に恋をしていた。
「お父様はお父様、あなたはあなた、ですわ。
あなたには、必ずあなたの道があります。
一緒に、その道を探しましょう?」
彼女はいつもの優しい笑みで、そう言ってくれた。
その言葉に背中を押され、俺も――こんな自分を変え、自分の道を探そうと思った。
宝石の商売を始めた。
貴族とのつながりがあったおかげで、商売は思いのほかうまくいった。
「お前は、商人に向いているんだな。
相談したいことがあったら、いつでも来い。
これからも、頑張るんだぞ」
父は満足そうに、そう言った。久しぶりに、父に褒められた気がした。
――これが、俺の道なんだ。
そう思えて、心から嬉しかった。
「やはり、あなたはすごいですわ」彼女もまた、心から喜んでくれた。
まだ始めたばかりの商会は不安定だったが、俺は寝る時間も惜しんで働いた。
あちこちの街を巡り、貴族に宝石を売り、また宝石を仕入れる。
必死に、商会を運営していた。
半年後、彼女は妊娠した。
それは俺にとって、何よりの原動力だった。
彼女のためにも、これから生まれてくる俺の子どものためにも――
もっと頑張らなければならなかった。
俺はさらに仕事に没頭し、日に日に疲労を溜め込んでいった。
「あなた、たまには休みませんか?最近、とても痩せていますし……」
「心配するな。今のうちに商会をしっかり運営しておかないと、子どもが生まれたら、もっと大変になる」
「でも……」
「大丈夫だ。君こそ無理をするな。たくさん休め」
疲れなんて――彼女と子どものことを思えば、どうでもよかった。
しかし、ある日。
付き合いのある柄の悪い貴族から、小さな瓶を手渡された。
「この薬、知ってるか?けっこう効くんだ。
悩んだときとか、疲れたときに、これを燃やして吸えば、すげぇ落ち着く。
疲れも一気に消えるぞ。最近、仕事詰めなんだろ?お前には、ちょうどいい」
瓶の中の薬は、色鮮やかで、害のなさそうな見た目をしていた。
――疲労回復薬、そんな類だろう。
確かに最近、商売は順調で、各地の街を飛び回っていた。
忙しさのあまり、まとまった休みも取れない日々が続いていた。
俺は、その薬を受け取った。
その夜、薬を燃やし、煙を吸った。
――驚くほど、効いた。
吸った次の瞬間、心がすっと静まり返った。
翌日も、その次の日も、どれだけ仕事に没頭しても、疲れを感じなかった。
「……この薬、すごいな」」
心の底から、そう思った
しかし、気がつくと俺は――
その薬を吸いたくて、吸いたくて、たまらなくなっていた。
吸わずにはいられない。
苦しくて、辛くて、どうしようもない自分がいた。
翌朝、俺は目が覚めるなり、あの柄の悪い貴族のもとへ向かった。
薬を、手に入れるために。
「この前の薬、どこで買えるんだ?すごく効果があったから、またほしいんだが」
朝から叩き起こされたのが不満だったのか、貴族は露骨に顔をしかめた。
だが、俺の言葉を聞くと――ニタリ、と口元を歪めた。
「ふふっ、そうかそうか。あの薬、めちゃくちゃいいからな。簡単には手に入らないんだ」
彼は、わざとらしく肩をすくめる。
「ほしいなら、俺のところに来い。―――で、どのくらいほしい?」
「十本ぐらいくれるか?仕事が忙しくてな。少し多めにほしい」
その貴族は、さらに深くニタリと笑い、三本の指を立てた。
「一本、三百セル。十本なら、三千セルだな」
「さ、三千セル!?あの小さな瓶で!?冗談だろ!」
「効果がすごいんだろ?」
彼は、楽しそうに言った。
「あの小さな瓶一本作るのに、時間も手間も人もかかる。
だから、それなりに高いんだよ。
――ま、お前と俺の仲だから、この値段で済ませてやってるんだ」
そして、突き放すように肩をすくめる。
「払えないなら、無理に買わなくてもいい。俺は、強要なんてしないさ」
彼は、またニタっと笑った。
いくら商売がうまくいっているとはいえ、まだ始まったばかりだ。
商会は安定していない。
それなのに、あの薬のために三千セルも払うのは、あまりにも負担が大きい。
――わかっている。
だが、今の俺は、あの薬を吸いたくて、辛くて、どうしようもなかった。
三千セルなんて……そんな大金、持っていない。
「――――じゃあ、とりあえず一本くれ」
そう言って、俺は三百セルを差し出した。
屋敷に戻ると、執務室で少量の薬を燃やした。
甘く、どこか痺れるような香りが部屋に満ちる。
はぁ〜。
心が、すっと落ち着く。仕事のことも、父のことも、家族のことさえ――
一瞬、すべてを忘れさせてくれる。
(こんなに高い薬だと知っていたら、最初にもらった一本を、もっと大事に使うべきだったな……)
そんなことを考えながら、俺は煙に身を委ねた。
次の日も、その次の日も。俺は毎日、その薬を吸った。
最初のうちは、すべてが順調だった。
仕事もうまくいき、父との関係も悪くない。
生まれた息子は元気で可愛く、彼女と過ごす時間も幸せだった。
――だが。
次第に、薬の量が増えていった。
少しでも足りないと、手が震え始める。
胸が締めつけられ、心臓が早鐘のように鳴り、息が苦しくなった。
俺は、家族のために、事業のためにと貯めていた金に手をつけ、あの貴族から、何十本もの薬を買った。
「これ、かなり高いだろ?お前も大変だよな」
貴族は、わざとらしく肩をすくめる。
「だったらさ。お前も、これを売ってみたらどうだ?」
彼はそう言って、にやりと笑った。
「結構、利益が出るぞ。――ほら、俺を見ろ」
彼は自分の屋敷をちらりと見やり、そして、俺に視線を戻した。
俺は戸惑った。
だが――彼の屋敷と、その私生活を目の当たりにすると、やってみよう、と決めてしまった。
確かに彼は子爵にすぎない。
それなのに、その屋敷は広大で豪奢で、とても低級貴族の住まいには見えなかった。
最近、俺はあの薬のために、かなりの金を注ぎ込んでいる。
このままでは――将来、妻や子どもたちを苦しめることになる。
なんとか、取り戻さなければならなかった。
「……売るには、どうすればいいんだ……?」
彼は、ふふっと喉を鳴らし、気味の悪い笑みを浮かべた。
「紹介してやるよ。明日、またここに来い」




