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第5話

 工房の裏庭には、朝日の光を受けて伸び伸びと育つ薬草の群れ。今日もエルナは、その緑豊かな景色を見ながらゆっくりと背伸びをした。

 足の痛みはもうすっかり消え、歩くのにも不安はほとんどない。あの怪我に苦しめられた日々が嘘のように思える。工房の中からは、早起きしたアヤノが炉を調整する音がかすかに聞こえた。いつもの穏やかな朝の風景だが、エルナの胸の奥にはわずかな高鳴りが混ざっている。


(もう、足は完全に治った。森の中を歩いても、怖くない……うん、前ほどではない)


 自分自身へそう言い聞かせるように、エルナは少しだけ微笑んだ。以前までは、工房から一歩出るだけでも痛みや恐怖がつきまとったのに、今は散歩程度なら楽々とこなせる。強くなったね、と自分を褒めてみたくなる。

 すると、工房の扉が開いて、アヤノが外へ顔を出す。


「おはようございます、エルナさん。まだ少し肌寒いですね。」

「おはよう、アヤノ。今日は何をしようかって考えてたんだけど……そういえば、昨日調合した薬の仕上がり、うまくいった?」


 エルナが問いかけると、アヤノは嬉しそうに頷く。

 いまやアヤノも、立派な“弟子”のように調合を身につけている。工房へ戻るアヤノに続いて自分も中へ入った。


 落ち着いた空気が流れる工房で、二人が軽い朝食を取っていると、突然コンコンと扉を叩く音が響いた。

 やってきたのは、あの旅商人だった。深く被っていた帽子を脱いで口元に笑みを浮かべている。


「やあ、エルナさん、アヤノさん。ちょっと顔を見せたくなってね。妻も、あれからすっかり元気になってくれたんだ。お礼を言いにきたんだよ。」


 そう言って奥さんらしき人物を同伴している。見ると、たしかにかつて高熱と咳で苦しんでいたというのは嘘のように、顔色が良くしっかり立っているのがわかる。

 エルナは心から安堵し、「本当によかった!」と笑顔を見せた。アヤノも「回復されたんですね」と目を細める。奥さんは丁寧に頭を下げ、「本当に助かりました。あなた方がいなければ、今頃どうなっていたことか……」と何度も感謝の言葉を重ねた。


「俺たちはそろそろ次の街へ向かう。そこでしばらく商売する予定なんだが……ああ、そうだ、アヤノさん。もともと旅してたんだったんだよね?」


 旅商人がそう切り出す。


「ええ、そうです。まだ旅を始めたばかりでしたが。聖女として、人を癒すのが私の役目だと思っています。」


 旅商人は帽子をひらひらさせ、ちょっと得意げに言う。


「だったら、俺たちと次の街へ行かないか?」


 アヤノは少し思慮するも、「エルナさんの足も良くなってきたし、そろそろ出発の頃合いかも」と、少し心が動いていた。

 エルナはその様子を横目で見て、胸がぎゅっと締まる感覚に襲われる。


(アヤノは……もともと旅をしてたんだ。足が治すため、私といてくれただけで、旅立たないといけないんだ……)


 寂しさのような、切なさのような感覚が、エルナの胸に込み上げる。この工房でアヤノと日常を共有する時間が愛おしくなっていたからだ。

 アヤノは旅商人に向き合いながら、少し戸惑った笑みを浮かべている。


「……そうですね。私も、エルナさんの怪我が治るまではと思ってここにいましたが、足はもうほとんど完治したみたいだし……。」


 言いながらアヤノはエルナを振り返る。エルナはすかさず笑顔を作って、「うん、もう大丈夫よ。痛みはほとんどないから」と答えた。


「じゃあ……このまま旅を再開するのもいいかもしれませんね。よろしくお願いします。」


 アヤノはそう言って旅商人に軽く頭を下げる。

 旅商人は「よし、決まりだな」と軽く手を叩き、「明日の朝にはここを出るよ」と言い残し、工房を後にした。


 その晩、工房に静かな時間が戻る。エルナは調合道具や薬草の棚をじっと見つめながら、どこか落ち着かない。

 アヤノは、自分の荷物を整理し始めていた。もともと旅をしていたため、最低限の装備はコンパクトにまとまる。エルナの目の前で、アヤノがリュックに布や薬を詰める姿を見ていると、胸の内がチクリと痛んだ。


「……明日、行くんだね。」

「ええ。エルナさんの足も完全に治りましたし、私の役目も果たせたかなと思って。旅商人の誘いもありますし……。」


 エルナは椅子に腰掛けたまま、手を組んで黙り込む。アヤノが「どうしたんですか?」と問いかけると、エルナはようやく視線を上げた。

 そこには不安と何かの意志が混ざった表情があった。


「私、本当にここに残っていいのかな……。」

「え……?」


 アヤノは思わず言葉を飲み込む。

 工房の灯りが、二人を穏やかに照らしている中、エルナはゆっくりと口を開く。


「あなたが森に来てくれたおかげで、私は足も治って、外の世界にちょっとだけ興味を持てるようになった。でも、やっぱり外は、ちょっと怖いし、何かあったらどうしようって……でも、でも……。」

「でも……?」

「一緒に行ってみたいの。あなたと。あなたがそばにいてくれるなら。」


 声が震える。エルナはペンダントをぎゅっと握りしめながら、俯いた。アヤノは彼女の傍へ移動し、そっと肩に手を置く。


「エルナさん……本当にいいんですか?」

「うん。それでも、一歩踏み出してみたい。今までは、足が痛いから、魔獣が怖いから、って工房に閉じこもるしかなかった。でももう足は完治してる。あの魔獣が本当に凶暴じゃなかったとわかった。今ならできると思うの。」


 エルナは顔を上げて、アヤノをまっすぐ見据える。


「あなたが外に行くのを見送るなんて……考えたら、胸が苦しくなった。もし私も一緒に行けるなら、これからもっと広い知識を得られるかもしれないし、いろんな人を助けられるかもしれない。だから……連れて行ってくれない?」


 アヤノは一瞬、その言葉に息を呑む。目の前のエルナは、震えてはいるが、その瞳には確かな決意が宿っている。


「もちろん……。一緒に行けるなら、私は大歓迎です。一緒に行きましょう!」


 二人の笑みが、ほっとした空気を伴って重なり合う。エルナは「ありがとう……」と静かに呟く。

 旅支度をしていた部屋の雰囲気が、一気に明るく変わった気がした。


 翌朝、工房には心地よい朝日が降り注ぐ。エルナは寝床を整え、調合道具や薬草を必要最低限だけ袋に詰め込む。

 足首の包帯はもう外しても平気。杖がなくても歩き回れる自分に、やや感慨を覚える。アヤノは炉を片づけながら、一つひとつ装備を確認している。

 そして、工房を出ると、森の入口には旅商人たちと馬車がすでに準備万端で待っていた。彼らはエルナも来るとは思っていなかったようで、「エルナさんも来るのか?」と目を丸くする。


「足、もう大丈夫なのかい?」

「ええ、もうすっかり完治したから。ご心配なく!」


 エルナは胸を張って笑い、商人たちを安心させる。アヤノはその隣に立ち、少し照れくさそうに微笑む。


「私、一人で行くつもりだったんですけど……エルナさんが、一緒に来てくれるって。」

「そいつは頼もしいな! それじゃあ、遠慮なく一緒に乗っていってくれ。次の街までそこそこ距離があるが、道中は俺たちもいろいろ助けるさ。」


 エルナは「ありがとう」と軽く頭を下げると、森に伸びる小道を一瞬振り返る。

 過去に苦しめられた怪我。朝露の花。魔獣の和解……さまざまな思い出が脳裏をよぎるが、今は後ろではなく前を向いて歩き出せる。

 森の静かな風に背を押されるようにして、エルナは一歩、また一歩と進んだ。アヤノのそばにいると、不思議な安心感がある。困ったことがあっても、きっと、彼女が手を差し伸べてくれるだろう。


 馬車のそばで商人の奥さんが手招きし、「どうぞ、どうぞ」と笑顔を向ける。その姿はかつて病に苦しんでいたのが嘘のように活気があり、エルナはうれしそうに微笑み返す。

 一人旅になるかもしれなかったアヤノは、目を細めながら「エルナさん、ゆっくり乗ってください」とサポートする。


「ありがとう、アヤノ。よろしくね、これから……。」

「はい、私こそ、よろしくお願いします。」


 二人の視線が交わる。そこにはこれから始まる旅への想いがこめられた温かい光が宿っていた。旅商人が「さあ、出発だ!」と声を上げると、馬車がゆっくりと動きだす。

 工房の前で最後に振り返ったエルナは、「行ってきます」と挨拶をした。またいつか戻ってくるという思いもあるし、それ以上に「新しい世界を見たい」という思いが強いのだ。


 こうして、森での治癒を経て足を完治させたエルナと、旅を再開することになったアヤノが、ともに同じ道を歩み始める。二人が、外の世界でどんな出会いや発見をするのかは、まだ誰も知らない。

 馬車の揺れに身を任せ、エルナは風を感じながらそっと呟いた。


「私、やっぱり……アヤノと一緒なら、きっと何だってできる気がする……。」


 アヤノは笑って、それに頷く。ふたりを乗せた荷車は、森を抜けて続く広い道をゆっくり進んでいく。

これで第1章は終了です。

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