第三章
翌日から調査は開始された。
菫の要求では『ロボットを連れてくるように』とのことで、確かにその方が世間的には目立たない。
しかし、孝介は家のロボットを外に連れ出すことに、不安と羞恥を感じていた。
というのも。
「……随分、やんちゃなロボットですね」
「……でしょう?」
基本的に安定しているはずのロボットが不規則に蛇行し、しかも時々、路傍の石に乗り上げてはバランスを崩す。
『works965‐OL』シリーズからしたら、考えられない状態だった。
今もなお目の前で繰り広げられている珍妙な光景を受けて、もう我慢できないといったように、菫が言葉を漏らした。
そんな時でも婉曲に表現するのが、近藤菫という人間だ。
「どこか不具合でも――」
「仕様です」
「でも――」
「仕様です」
「……そうですか」
孝介の一辺倒な返事に、訊ねても無駄だと悟ったらしい。菫は前を行くロボットへと目を戻した。
カジュアルな格好の孝介の隣に並ぶ普段着の彼女は、長い髪を結わずに下ろしており、昨日とは雰囲気が違って見える。今日は眼鏡も掛けていなかったので、尚更そう感じるのかもしれない。それでも、改めて見ても綺麗な人だった。
IAC本社の最寄り駅から延びる大通りには最近流行のアパレルショップやシックな雰囲気のカフェなどが並んでおり、休日ということもあって、孝介たちの他にも多くの人やロボットが行き来している。二人も、その中に溶け込もうとしていた。
しかし、衆目を集めてしまうものが一つある。
孝介の連れているロボットだ。それがどういった性質の注目かは、四方から向けられる奇異の視線が如実に示しており、曲解の余地は無い。
モダンな通りには、休日を謳歌するアベックも溢れている。そのことを考えれば、孝介とスミレの二 人組みは目立つことなく風景に溶け込めるはずだった。が、生憎と奇怪な動きをするロボットのせいで逆に視線を集めてしまったのだ。
菫が孝介との距離を少しだけ詰めたのは、周囲からの視線の圧力故だろうか。
ギャラリーを意識から外すようにしながら、孝介は菫に尋ねる。
「……まだ着かないんですか?」
「もうすぐです。……あ、ほら。見えてきました」
菫が目で示すのは前方。三十階はある巨大な建築物だった。
ここから直線距離で五百メートルはありそうなのに、圧し掛かってくるような重圧を放っているその威容は、扇形を縦に伸ばしたような形状。南側に向いた曲面部分全てを太陽光発電パネルで覆っており、そこで一週間に創出される電力量は、一般家庭が一年で消費する電力量と同程度だという。
その成果として『環境に優しい企業』とまで称されるIAC。その裏の顔を、これから探りに行くのだ。
そう考えた途端、心臓の鼓動が早鐘を打ち始める。
飲み込んでも飲み込んでも口の中に溢れてくる唾液をそれでも飲み下しながら、孝介は固くなる足を動かした。
IAC本社の一階はミュージアムとして一般開放されており、無料で入退場することができる。会社の風通しの良さをアピールするためだろう。
入口に到着し、ロボットを先頭に自動ドアをくぐろうとした、その時。
左腕に絡んでくる熱を感じた。
「な!?」
その正体に気付いた瞬間、孝介の顔が熱くなる。
菫が腕を組んできたのだ。
「そんなに驚かないでください。こうした方が自然でしょう?」
平然としているように振舞う菫の頬も、心なしか朱に染まっているように見えた。
別の緊張に身体を硬くしながらミュージアムに入場する。
中を見渡してみると、確かに腕を組んでいる男女が多い。こんな場所がデートスポットとして成立していることに、孝介は驚いた。
ミュージアムでは、オルテガ=ラクスネスの略歴やロボット開発の歴史、さらにはロボット業界におけるIACの占めるシェアなどまで紹介されており、入場料をとってもいいような情報量だが、それでも男女が二人で見ていくには少々退屈な内容に思えた。
暗めの照明に、大理石の床。一歩を踏み出すたびにカツンカツンという足音が反響し、静謐な空気に解けていった。
「そういえば」
いつの間にか、別の思考に落ちていた孝介を菫の声が引き戻す。
「このロボットに名前は無いんですか?」
「名前?」
孝介は聞き返した。次いで目の前で動きを止めているロボットを見る。
……コイツの名前、か。
事務所にいるロボットには『ミラ』という名前がある。所長である源三郎が命名したのだ。どこかのキャバクラで熱を上げた女性の源氏名が元ネタらしい。
しかし孝介が連れているロボットには、まだ名前がなかった。
「決めてなかったです」
「なら付けてあげましょうよ。自己の独立性を認識する学習機能がロボットには備わっていますし、名前はそれをより明確にするアイデンティティにもなります。この子がちょっとだけ御転婆なのも、それが原因かもしれません」
非科学的な話を、あまりに真面目に菫が言うので孝介は苦笑した。
「それは無いでしょう。コイツを買った相手からも誤作動が多いとは言われていました。元々の構造のミスですよ」
「そういう工学的な意味ではありません」
菫は首を横に振る。あくまで表情は真面目なままで。
「ロボットは、声紋認証によりある程度の人物の特定が可能です。つまり、多く話しかけられている人の声はより明確な判別ができるようになり、多くの人の声が溢れる空間でもその人の声だけに焦点を合わせることができるんです。お分かりになりますか?」
「…………」
孝介は無言で首を振る。
「……私が言いたいのはですね、ロボットも人もそんなに違いは無いってことです。もちろん有機と無機の大きな違いはありますけど、個人を特定するし、学習もする。ロボットの方が人を明確に認識してくれているのに、人がロボットを独立した一個体として見ないのはフェアじゃないですか。ロボットも不具合起こしたくなるってものですよ」
孝介は目を丸くした。今の台詞は、菫の口から出そうにない内容だったからだ。
「随分と感覚的なことを言うんですね。昨日は、ロボットはあくまで機械だって言ってたのに」
「ええ、確かにそう言いました。でもあれは世界平和機関に勤める人間として、正確な状況把握に努めた結果としての言葉です。今とは違います」
「なら、今は誰としても言葉なんです?」
菫はロボットを見たままで。
「……一人の女子としての、です」
頬が紅潮していくのが分かる。しかし、その変化はお互いに起こった。
まるで、今は一人の女子として来ている、とでも言いたげな言動だったからだ。
「き、起動マニュアルを読まなかったんですか!? 私はそこに書いてあった事を言っているだけです!!」
怒鳴るように捲し立てる菫の印象は、孝介の中で昨日とは一変していた。
表情に出ないよう心の中だけで笑み、菫の詰問に答える。
「残念ながらコイツは中古品で、マニュアルらしきものは一切付属していませんでした」
孝介はポケットから折りたたまれた紙を出す。露天商の老人から貰った、詩文の書かれた紙だ。それを菫に差し出す。
「説明書だと渡されたものは、まあこの通りで」
何度も読み込んだお陰で、そらんじることもできるようになった内容を思い浮かべた。それでも意味不明な詩文に、思い出すたび苦笑が漏れる。
「……なんです? コレ」
やはり菫にも意味は分からないようだった。
「さあ?」
「さあ、って……。あ、でもちゃんと情報チップはあるじゃないですか。ちゃんとダウンロードしました?」
「自分、それの読み込ませ方が分かりませんで」
「…………」
冷たい視線が菫から送られてきた。
「……とりあえず、これをダウンロードしましょうか」
「面目ない」
返事は無かった。
……寒い、寒いぞ!
しょうがないので、停まっているロボットを呼ぶ。こういう時、名前が無いのは確かに不便だった。
「おーい、ちょっとコッチ来てくれ」
『かしこまりました』
孝介の声に反応し、ロボットがこちらへと向ってくる。その動きはどこか焦っているようにも見えた。
そのロボットが、孝介の目の前で停止する。
「それでは、このチップを赤外線センサーに掲げてください」
「え、それだけ?」
「ええ、それだけです。それだけなんです」
どこか険のある言い方に、孝介は肩を縮ませる。
……俺、これまで探偵らしいこと何一つしてない。ここまで彼女に頼りっきりだし。
そんな無力感を感じてしまい、肩を落とした孝介は素直に従った。
『…………』
「「……?」」
数秒ほど経過しても、ロボットの方から何もリアクションがない。やがて菫の額に光るものが浮かび始めた。
それが見えていないフリをしながら、孝介は呟く。
「反応ありませんね」
「……え、ええ。そうですね」
「どうしたんでしょうね」
「…………」
「調子悪いんですかね」
「……………………何か、言いたげですね」
その時。
『エラーです。エラーです』
と、警告音と共に機械音声が響いた。今度こそ、菫の表情が固まる。
「面白いですね」
「何がです!?」
孝介が素直な感想を述べると、菫はさらに顔に紅葉を散らし、それでも場所を弁えたのか抑え目に怒鳴った。
「もう! だったら早くこの子の名前を決めなさい!」
「は、はいっ」
突然の命令口調で、孝介の背筋は反射的に伸びた。菫の刺々しい視線に急かされながらロボットの名前を考えていく。
ふと思い浮かんだのは、このロボットを買った時の情景だった。
全てを染め上げる夕焼け。その色が鮮烈に孝介の脳裏に再現された。
「――アカネ」
「……茜、ですか? 随分と人間味のある名前ですね。ロボットには少し不似合いな気もしますが」
「コイツを買った時、ちょうど夕暮れ時だったんで」
「そうなんですか。私はてっきり昔の恋人の名前かと」
……そんなどっかのバカ義父みたいな真似するか。
「ともかく、お前の名前はアカネだ。異論はないか?」
一応、ロボットにも訊ねる。
『ございません。本日より本機体名はアカネとします。ありがとうございます』
了承も得、これで晴れてロボットの名前は『アカネ』となった。隣では菫も満足そうに頷いているので、とりあえず嵐は去ったと考えてもいいだろう。
結局役に立たなかった説明書を仕舞い、二人と一体はミュージアム内を歩き始めた。
展示を一通り見てまわる間に、ここからのミッションの進め方を説明された。
このミュージアム内には情報検索用端末として複数台のコンピュータが設置されており、そこからIACのマザーコンピュータである『NeW』にハッキングを仕掛ける、という段取りだった。
その際、ロボットの高速演算を利用するという。
「アカネでは少し不安ですけど……」
……だったら自分たちで用意すれば良かっただろう。
文句は口に出していなかったのに、顔には出ていたようだった。菫がジト目で孝介を見ると、溜息混じりに釈明を始める。
「世界平和機関に配備されているロボットのデータベースには、多くの国際機密が保存されているため、今回のような逆にハッキングされる可能性のあるミッションには向かないんです。もちろん国家機密級のプロテクトが掛けられていますが、そんなもの、日々技術革新の進む現代ではあまり信用できませんから」
端末の前に到着すると、タッチ式キーボードがモニターの前に浮かび上がった。
「アカネ、接続を」
菫が言うも、反応しない様子だった。
「彼女の指示に従ってくれ」
『かしこまりました』
アカネがモニターの前に移動し、赤外線でコンピュータへとアクセスする。元々赤外線誘導のための機械が設置されているので、ここまでは一般客が行っても問題ないようだ。直接自分のロボットに公開情報をダウンロードするためだろう。
しかし、自分たちが欲しい情報は、そんなものではない。
菫の高速タイピングで、あっという間に検索エンジンのウィンドウが開いた。
孝介の脚が震え始め、背中にも嫌な汗が伝っている。
「問題はここからです」
「……本当に、大丈夫なんですか?」
「破滅する時は一緒ですよ」
「……冗談ですよね?」
「私にも分かりません」
可愛らしく小首を傾げる菫だが、その指先が細かく震えているのに気付いた。大きく震えだすのを懸命に抑えているような細かさの震えだった。
それを見ると、孝介の心臓はある程度落ち着き始める。
これほど危険な綱渡り、彼女だって怖くないはずがない。それなのに腹を括って、この危険なミッションを遂行しようとしている。
……男の自分が恐怖を煽るようなこと言ってどうする。
今するべきは、首よりも腹を括ることだった。
だから今度はこちらから言った。
「破滅する時は一緒です」
「はい。不束者ですが、よろしくお願いします」
軽い冗談を言い合い、お互い微笑を浮かべ、そして。
「――では、始めます」
地獄の一丁目に踏み込んだ。
『コンプリート。正常に認証されました』
「「……………………」」
二人は声も出なかった。目まぐるしく表示内容を変化させるモニターを、ただ半眼で見つめるだけだ。
「……私、何かしましたっけ?」
「いえ……恐らくは、何も」
緊張感を持ってハッキングを始めたのは良かった。二人で困難に立ち向かうことによって妙な連帯感も生まれたりもした。
しかし、その緊張感も連帯感も、持続したのは一分程度。
職員用入口にアクセスし、そこでパスワードの入力をしなければならなかったのだが、目を閉じながらの深呼吸で心を落ち着けている間に、どういう理屈か既にパスワードが入力されていた。
しかもそれが認証されてしまい、意味が分からず二人の思考は停止する。
最初の関門を突破しても、次々に立ち塞がるファイアウォール。しかし、その都度勝手にパスワードが入力され、いとも容易く突破できてしまった。
モニター上では、明らかに情報の機密度が上がっていく。
その中で、一刻ごとに様変わりする画面のリズムに同調するものがあった。
「……まさか、コイツが?」
「そのようですね」
アカネの頭頂部にある明緑色のライトが高速で明滅していた。菫はモニターに向けていた胡乱な瞳の矛先を、まずはアカネに、続いて孝介に変更した。
「一体この子は、どんなハードウェアを積んでいるんですか?」
「知りませんよ、そんなの!」
言い合っているうちに、画面は目的の内部情報データベースに到達していた。
「ともかく! 早いうちに情報かっぱらって帰りましょうよ! アカネの検証はその後でもいいでしょう!?」
「…………。……それもそうですね」
「何です、今の一拍の間?」
「機械弄るのって興奮すると思いませんか?」
「何が!?」
「今から楽しみです」
「だから何が!?」
噛み合ってないような遣り取りの中でも、菫の指は止まっていなかった。片っ端から情報を全て携帯端末にコピーすると、辿った痕跡を消していく。
動作は、ものの数秒で完了した。
「ふぅ、終わりました」
「良かった。それじゃ――」
「お客様」
突然背後から声を掛けられ、二人はビクゥ!! と肩を縮み上がらせる。
「……っ!」
一瞬にして痛いほど心臓が跳ね上がる。その鼓動に触発されたように、全身の震えがぶり返してきた。
引き攣る顔面をどうにか繕いながら恐る恐る振り返ってみると、そこには笑顔を浮かべた男性が立っていた。年の頃は二十代後半から三十代前半といったところか。スーツを着ていることからして、ここの従業員だろう。
威圧感のない体格に、邪気のない笑顔、人懐こい声。少しだけ孝介は気を抜いた。
「何かお困りでしょうか?」
「あ、い、いえ! 大丈夫ですっ。もう済みました」
孝介は立ち上がり、菫を促す。
「それでは、自分たちはこれで……」
咄嗟に菫の手を引き、早足で男性の横を通り過ぎる。その際も、男性は目を細めた笑みを浮かべていた。
そのまま数歩を歩き、出口は目の前。
窮地は脱したかと一息つこうとした、その時。
「何っ!」
抑え切れなかった驚きの声が聞こえてきた。それは、確かに人懐こいと感じたはずの男性のものと同質の声。
次いで起こったのは、何か硬質の小物が大理石の床に落ちる音。それは丁度、歩を止めた孝介の足元に転がってきた。掌よりも少し大きく、バチバチという薪が爆ぜるような音を伴って、先端から出る二つの端子の間に青い光を走らせるもの。
スタンガンだった。
「「……!」」
孝介はそれを見て目を見開く。
男性が悔しそうに、孝介の足元にあるスタンガンを見ている。それから、いつの間にか強化炭素コードを伸ばしていたアカネを睨んだ。
状況から考えて、背後から孝介を襲おうとした男性のスタンガンを、アカネが弾き落としたのだろう。
そこまで思い至り、現状ですべきことを一瞬のうちに判断した。
「アカネ! お前も早く来い!」
『かしこまりました』
返事を聞くや否や、菫の手を握ったまま孝介は走り出した。出入口は目前だったので、さしたる時間も掛からない。
……どうにか逃げ果せるか……!
一縷の希望に縋って、目を焼くような太陽の下に躍り出た、瞬間。
「……くっ」
希望は断ち切られた。
「両手を頭の後ろで組め」
出入口は、武装した男たちに包囲されていた。リーダーらしき男が拳銃を構えながら、顎で指示してくる。官制が敷かれたのか、一般人の姿は通りにも見えなかった。
それでも悪足掻きに後戻りしようとするのだが、そちらからも人の駆ける足音が響いてきた。大理石の床が、少しだけ恨めしかった。
せめてもの見栄として、菫を背後に隠すようにしながらリーダーと睨み合う。そして指示に従おうとしたところで。
「っておい。ちょ――」
菫が孝介よりも一歩を前に出た。
「私は世界平和機関の捜査官です」
身分証を掲げると、俄かに男たちの間からどよめきが起こる。同時に息を呑む気配も伝わってきた。国際機関の職員に銃口を向けていることに気付いたらしい。
「この度はIACに掛けられた、とある嫌疑を調査するためにやってきました」
言うと、男たちはハッキリと動揺し始めた。自分たちの勤めている会社が、国際機関から睨まれるようなことをしているのかと疑いだしたようだ。
動揺があれば隙も生まれる。闇に消えかけた道が、再び灯火の下に出てきた。孝介の中にも淡い期待が芽生えた。
ところが、その芽は簡単に踏みにじられることになる。
「あら酷い」
孝介たちの背後。ミュージアムの中から聞こえてきた妙に艶かしい声によって。
「まるで、あたしたちが重罪人みたいな言い方ね。失礼しちゃうわ」
二人は振り返り、声の持ち主を見て、絶句した。いくらロボットに疎い孝介でも、顔を見たことがあった。今日日、ニュースでロボット関連の話題が報じられない日はない。そこに必ずと言っていいほど、顔を出している人物。
「な、なあ。コイツって……」
「ええ。IACの最高経営責任者、ガートルード=バーナムです……」
以前からIACは、本社こそ日本に置いているものの、経営の拠点は日本からアメリカに移していた。その関係で、現在では重役のポストに就く人間も国籍は様々である。
その中でもガートルード=バーナムはIAC初の女性役員であり、近年再び減少傾向にある女性雇用にとって希望の星とも言われる人物だった。
特徴的な薄緑色の瞳は切れ長で理知的。長身の身体に纏うのは赤のエナメルスーツと、そして同色のハイヒール。春の風によって舞う黄金の長髪が派手に彩る顔には笑い皺が浮かび始めており、三十代後半に見える。しかしこちらは、菫とは逆にもっと上だと言われても納得できそうだった。年齢を重ねて見えるのは、おそらく笑い皺の質の問題だろう。
こうして生で見るのと、ニュース映像で見るのとでは、抱く感想が百八十度違った。
「なぜ貴方が日本に? 今はアメリカで取締役会真っ最中のはず……」
返ってきたのは流暢な日本語。
「あら。あたし、日本って好きよ。だって馬鹿ばっかりなんだもの。こんなに優越感に浸れる国も無いわ」
テレビの中のガートルードは、決してこのようなことを言わない。人を食ったような笑みを浮かべたりもしない。二次元に映し出されるのは、あくまでも女性たちの憧れであるカリスマだった。
ただ、他人が畏怖して寄り付かなくなることをもカリスマと呼ぶのなら、実際に見るガートルードもカリスマには違いない。
「質問に答えてください!」
「いま答えたじゃないの。お・バ・カ・さん。でも……そうね。別の答えとして、愚かなユダを裁きに来た、とでも言っておこうかしら」
菫の怒声を涼しい顔で往なすガートルード。
「それよりも。そこのおバカさんは、世界平和機関って言ってたかしら?」
視線で菫を射竦めた。
「え、ええ」
男である孝介でさえ、ガートルードの威圧感に気圧されている。気丈に言い返す菫も、決して平気ではないだろう。
「残念ねぇ。あなたの行動は全て徒労に終わることになるわ」
「……殺す、と?」
「半分正解。でも、もう半分は不正解よ。この世界はね、おバカさんには知り得ないところで大きく動いているの」
「ど、どういう事です!?」
「貴女たちが泥棒した、その情報を見れば分かることよ。見る機会があれば、だけれど」
ふふふふふふ! という、聞きたくもないのに脳に浸透してしまうガートルードの笑声が辺りを包む。重なるように、陣形を立て直した男たちが銃を掲げた。
ガートルードの槍のような視線は、次に孝介を捉えた。
「そっちのおバカさんは、面白いおもちゃを持ってるのね」
生まれてこの方、感じたことのないような寒気に襲われ、肌が粟立った。
「それ」
ガートルードが気だるげに腕を持ち上げる。
「どこで手に入れたのかしら?」
指差したのは、孝介のすぐ目の前に停まっているロボット――アカネだった。
孝介の唇は動かない。正直に答えていいものかどうか判断できず、また判断できたとしても、尋常じゃないほどの唇の震えで言葉を紡ぐことはできなかった。
「ふん、まあいいわ。映像記録を見れば分かることね」
それを見て、ガートルードは面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「あたし飽きてきちゃった」
黄金の髪を広げながら、ガートルードは背を向ける。
「あたしがエレベーターに乗ったら、殺しちゃっていいわ。ただし――」
顔だけをこちら側に向けて、先ほどのリーダーらしき男にウィンクを送った。送られた男の方はというと頬を染めるでもなく、無表情を保つでもなく、顔を強張らせていた。
「あたしのおもちゃを傷つけたら、承知しないわよ? あと、お片付けもよろしくね」
リーダーだけでなく全ての男たちを震え上がらせながら、ガートルードはヒールを大理石に打ち付けるようにしながら歩き去っていった。
後に残された、孝介、菫、アカネ。そして銃器を携えた男が多数。
ガートルードの一歩一歩が命を削るタイマーとなり、その歩みがエレベーターに吸い込まれ、止まったとき。孝介たちの命脈が尽きる。
愉快に跳ねるような、踊るようなステップは止まることを知らない。孝介たちは、刑の執行を待つ死刑囚のように、唇を噛んで待つことしかできなかった。
……くそ、どうにかできないか。
菫が浮かべているのは無表情で、その奥にある感情は汲み取れない。どこぞの神仏に祈っているのか、それとも諦観したが故に平静なのか。
ガートルードがエレベーターに乗り込むまで、あと数歩。時間にして十数秒ほどだろうか。ご丁寧にも、ロボットがエレベーターを開けて待っていた。
……こんな僅かな時間に、何ができる?
心に暗雲が立ち込め、絶望と並ぶ諦観が未来への視界を覆い始める。
しかし、ふと。ガートルードの最後の言葉が、脳裏に甦った。
その言葉で身を震わせたのは、孝介たちではなく、むしろ孝介たちを取り囲む男たちの方だった。それはなぜか。
……思い出せ。
『あたしのおもちゃを傷つけたら、承知しないわよ? あと、お片付けもよろしくね』
後半は関係ない。憂鬱になることこそあれど、この言葉で恐怖は感じないはずだ。
だとしたら。
気付いて間もなく、孝介は行動に移した。
気休めかもしれない。死ぬまでの時間がほんの数秒、伸びるだけかもしれない。
……でも――。
アカネの傍に駆け寄りつつ菫の手を取り、自分の胸の中に来るように導く。驚愕に目を見開いている菫には、向こうで謝ろうと決めた。
承諾なしで抱きしめてしまったことを。
腕に力を込める。すると、シャツの胸元をギュッと握るような感触が帰ってきた。
生まれて初めて感じる感触に、自然と笑みがこぼれる。
……最期には、悪くないかもな。
『孝介様』
「アカネ。どうにか菫さんだけでも、守りきれないか?」
『不可能です。我々の概念プログラムでは「片方の人だけを助ける」ということはできません』
ロボットの基礎プログラムだ。この緊急事態ですっかり失念していた。
ここに来て、更なる追い討ち。孝介はもう諦観の笑みしか出なかった。
「これは、本当にただの気休めになりそうだな」
それでも、男たちはガートルードへの恐怖から、アカネに傷を付けることが出来ない。アカネの側に寄っていれば、彼らも引金を引くのを躊躇するかもしれない。些細な可能性の話だが、縋れるものはこれしかなかった。
これでもう、できることはなさそうだった。
孝介は、目を閉じた。
『孝介様』
しかし、呼ぶ声がする。
『ダウンロードをお願いします』
アカネだ。
『ダウンロードをお願いします』
こんな時に一体なんだ、とは思いつつ、何度も言ってくるので、孝介は懐から説明書を取り出す。
「でも、これさっき読み込めなかったんだけど?」
『今ならば可能です』
一切の間がなかった。よほどの確信があるらしい。
「これが、一発逆転の鍵になったりしないかね」
そんなことがある訳ないのに自嘲ぎみに言いつつ、しかし何かが起こりそうな予感もした。情報チップをアカネの赤外線センサーに近づける。
時間的には、そろそろタイムリミットだ。ガートルードがエレベーターに乗り込むかどうかといったところだろう。これが本当に最後の行動になる。
思えば、昔の自分なら考えられないことだった。
最後の最後にロボットに頼るなんてことは。
この数日の間。轍に諭され、アカネを買い、菫と出会い、ロボットへの認識が変わっていった。
両親の事件は、孝介の中で未だに終わっていない。負の感情が一掃された訳でもない。
それでも、世界は動いている。
自ら停滞を望む者は、容赦なく過去に取り残す。それが、日に日に進歩していくこの世界の在り方だった。
食わず嫌いだった部分がある。意地を張っていた部分もある。もしかしたら孝介自身、誰かに背中を押してもらえるのを長い時間、待っていたのかもしれない。
……卑怯な男だ。
ピー、という電子音が鳴る。
『ダウンロードを開始します』
エラーにはならず、正常にダウンロードが開始された。
それと同時に、男たちが緊張の面持ちで銃を構えなおす音が聞こえる。どうやら、タイムリミットはもう間もなくらしい。
……これは、間に合わないかもな。
もう一度、菫を抱きしめる。するとまた、向こうからも力が返ってきた。
素直に、失いたくないと思った。
『ダウンロード完了』
その思いに応じるように、アカネが電子音を響かせる。
『個体名・アカネ。モルト=プログラムを遂行します』
その瞬間だった。
「な、何だ!?」
引金に指をかけていたリーダー格の男が、突然の事態に声を荒げた。
アカネから、スモークが噴出したのだ。
白色の煙が瞬く間に辺りを包み、すぐに手の届く範囲すら見えなくなる。
男たちと同じように視界が塞がれ混乱した孝介は、菫を抱く手に力を込めた。すると、その手が何者かに掴まれる。
「コッチです!」
聞いたことのない女性の声。声の高さからして、二十歳にも達していなさそうな少女のものだった。声の主は呆然とする孝介たちを一気に引っ張り上げると、手を握ったまま先導していく。
元いた場所から数歩分離れた時、一発の銃声が響いた。錯乱した男の一人が発砲したらしい。まさしくそれが引金となって、皆が銃を乱射する阿鼻叫喚の騒ぎか起こった。
「止めろ、撃つな! ロボットに傷が付いたらどうする!」
一人冷静だったリーダーが叫んでも、重なる銃声に掻き消される。
孝介たちはその混乱に乗じ、死が散乱する空間から、少女の導きによって命からがら逃げ出すことに成功したのだった。
スモークの中から抜け出してすぐ路地裏に逃げ込み、入り組んだ道を所々曲がりながらさらに十分ほど走り続けて、ようやく少女は足を止めた。
「ふう。お二方とも、お怪我はありませんか?」
少女が笑顔で聞いてくる。まるで、旧知の間柄に向けるような笑顔で。
孝介よりも頭一つ分身長の低い少女は、見慣れない服装をしていた。全身を覆うのは青いラインの入った白いタイツのようなもので、その上から腰や胸元に白い薄い装甲を装着している。
しかし、さらに特徴的だったのが髪の色。
地面まで届きそうな艶のある長髪は――鮮やかな茜色をしていたのだ。
と、そこで孝介は気付いた。孝介の両手は塞がっていて、片方は菫の手を、もう片方は少女の手を握っている。
「あ、アカネ!」
「はい」
「アカネがいな……、……は?」
少女が、孝介の言葉に反応した。それから穏やかな笑顔を浮かべる。
「アカネはここにいますよ」
「は?」
孝介の目の前にいるのは、人間の少女。どこをどう見間違ったとしても、ドラム缶型の金属ではない。清潔感のある白い肌。生命力を感じさせる瑞々しい瞳。澄んで透き通るような声。淀みなく滑らかな挙動。それから、手を握った時の感触。どれをとっても人のそれにしか感じられなかった。
訳が分からず目を白黒させていると、自分がアカネだと名乗った少女は、孝介に何かを差し出した。
それは、折りたたまれた紙片。情報チップ付きの説明書だった。どこかで取り落としてしまったのを、少女が拾っておいてくれたようだ。
「このチップに入力されていたのは『モルト=プログラム』というものを発動させるキーコードだったんです」
孝介はアカネが最後に言った言葉を思い出した。
「『モルト=プログラム』……。そうだ、それアイツも言ってた。何なんだ、それ?」
「モルト……。和訳すると『脱皮』、ですか」
菫も混乱しているようだが、必死に状況を把握しようと頭を捻っている様子だった。
「そうです。『モルト=プログラム』により、私は文字通り『脱皮』しました。今頃、中身のなくなったロボットの抜け殻だけが、あそこに残ってますよ」
少女は得意げに人差し指を立てる。その姿は、ますます人間にしか見えなかった。
「じゃ、じゃあ、どうして最初に情報チップを掲げた時は、このプログラムが発動しなかったんだ?」
ドラム缶型のアカネにしか答えられないはずの疑問を、少女に投げかける。
すると少女は少し怒ったように、可愛らしく頬を膨らませて見せた。
「それは、孝介様が私にいつまでも名前を付けて下さらなかったからですよ。『モルト=プログラム』は、私の固有性が明確にならないと発動しないんです。個体を明確に識別するものである『名前』と、……あと、私をちゃんと識別してくれる『人』。あのプログラムには、この二つが必要だったんです」
「あ、そうか。あの時はまだ名前を付けてなかったから……」
少女に証拠を突き付けられ、そろそろ信じざるを得なくなってきた。
「じゃあ君は本当に、あのアカネだっての?」
「初めからそう言ってるじゃないですか。ロボットの言うことも信じてくださいよ」
まるで人工物のように整った顔で笑顔を作る少女――アカネ。未だに信じきれていないがやはり、この少女は人型のロボットとなったアカネなのだろう。
それにしても、人型のロボットなど聞いた事がなかった。
見分けなど付くはずがない。ロボットだということを明かされた今でも、下手をしたら人間なのではないかと疑ってしまいそうなのだから。
「お前は――」
「待っていました」
いきなり強く言うと、アカネは孝介と真っ直ぐに目を合わせた。
髪の色、そして名前と同じように茜色の瞳だった。
「私を目覚めさせることのできる唯一の人を。ずっと」
そして、次のアカネの言葉で孝介の表情は完全に固まった。
「副島英介博士と副島棗博士のご子息である副島孝介様を、待っていたんです」
「なっ……!」
衝撃が、来た。
どうして両親の名前を知っている。これまで誰にも――轍や、義父である源三郎にすら明かしてこなかったはずなのに。
アカネは、露天商の老人から買った。自分に似合いの物がある、と。
あの老人は一体誰だったのか。自分の両親の名前と素性を知るロボットを、ピンポイントで孝介に売りつけた、あの仙人の如き老人は。
考えても分かることではない、が――。
その時にも感じた、何かのシナリオに沿って自分が踊らされているような感覚。
得体の知れぬ大きなうねりに巻き込まれているようで、全身が震え上がった。
「ど、どうして――」
「ちょっと、よろしいですか?」
震える手をアカネに伸ばそうとした時、菫が口を挟んできた。咳払い付きで。
「とりあえず、今はこの場を離れません? まだ現場も近いですし、どこか安心できる場所へ移動しましょう」
「あ、ああ……。そう、ですね」
孝介は挙げかけた手を下ろそうとして――その手をアカネに掴まれた。
「参りましょう、孝介様」
人と変わらぬ手の感触。そして見たことのないほど綺麗な笑顔を見せられ、孝介は心和むと同時に、何かに化かされているような心地だった。
向ったのは、桜井探偵事務所だった。
菫は世界平和機関日本支部に戻ろうとしたのだが、支部の人間から連絡が入り、そちらにはマスコミが殺到しているとの事だった。孝介たちに逃げられたと判明したすぐ後、IACが世界平和機関に抗議文書を送付したらしい。それを耳聡く聞きつけたマスコミのカメラが、ターゲットとなる人物の到着を今か今かと待ち構えているのだそうだ。
世界有数の大企業であるIACが何らかの事件を起こしたとなれば、それはマスコミが黙っていない。しかし逆に世界平和機関が虚偽の嫌疑を掛けていたとしたら、こちらも格好の的になる。
マスコミにとっては、どちらにしたって甘い蜜なのだ。
「……大丈夫ですか?」
「え、ええ。……何とか」
名乗らなかったのがせめてもの救いだが、IACが相手では菫の名前の調べがつくのも時間の問題だろう。そうなれば、菫の行動は著しく制限されてしまう。
なにより、この先どうなるかという恐怖が尋常ではないだろう。
「いざとなったら、ここで寝泊りしてください。一応シャワールームとか仮眠用のベッドもありますから」
「あ……ありがとう、ございます」
「それでも心配なようでしたら、まあ自分も付き合いますし……って、そっちの方が心配か。あ、あははは……」
気の利かない冗談に乾いた笑い声を上げる。それでも菫は「くすっ」と笑ってくれた。
そこに、コーヒーを淹れた二つのカップを盆に載せて、アカネが歩いてきた。今は孝介のロッカーにストックしてあったスーツに着替え、床まで届きそうだった茜色の髪を結んでポニーテールのようにしている。
「どうぞ」
「ど、どうも」
菫は緊張した様子でそれを受け取る。きっと、まだ認識が混淆しているのだろう。
コーヒーを淹れる際、アカネは確かにロボット用の機械を操作していた。どうも目から指令の赤外線を照射しているようだった。
それからアカネは、当然の如く孝介の隣に腰掛けた。そちらに目を向ければ未だ見慣れぬ茜色の髪の少女。しかしその少女は、紛うことなく孝介の買ったロボットであるアカネなのだ。
「それで孝介様。これからどうなさるのですか?」
「そうだな……」
このままじっとしていても埒が明かない。それに、対面で沈みきった表情をしている菫を解放するには、自分たちのやったことが間違いでないと証明することが必要不可欠だ。
ならば、今後の方針も変わらない。
「調査を進めよう。それしかない。……菫さん?」
「はい、私は大丈夫です。やりましょう」
言って、鞄から携帯端末を取り出す。
「どこかのおバカさんも、この中には馬鹿の知り得ない世界の動きが入ってると言ってましたし」
菫は、気を取り直すようにガートルードを皮肉る。
「今頃、ハンカチでも噛み締めて悔しがってるんでしょうね。いい気味です」
嫌味すら敬語で言ことに孝介は引っかかりを感じた。
ふと、これまで訊いてこなかった、とある質問を投げかけてみる。
「菫さんって」
「はい?」
「年、幾つ?」
「…………」
菫は閉口した。
……しまったぁ! これは地雷踏んだか!!
間を置いて返ってきたのは、こんな質問だった。
「……幾つに見えます?」
……お、女ってコワ!
どんな回答を望んでいるのか見当が付かない。普通に考えたら下に見られる方がいいと思うのだが、菫のような真面目な人間は嘘を見抜く気がする。
正直に答えるしかなさそうだった。
「に、二十……五?」
恐る恐る菫の方を見ると、向こうもこちらに胡乱な目を向けていた。
……違ったか!
しかし、やがて。
「……ぷっ」
急に菫が相好を崩し、噴き出した。
「や、やっぱ違いました!?」
「ふふ、まあ」
とは言っても、菫の表情に不穏な色はない。
「ただ、正直な人だなぁって思っただけです」
「そ、それはどうも……」
「正解を言いますと、私まだ二十二歳です」
「あ、あらー……」
……三つも上に言ったか、俺。
ただ、実年齢は孝介と一つしか違わないことが分かった。
「菫さん」
「はい?」
「俺、二十一なんですけど」
「ええ」
「敬語やめません? お互い」
菫は嫌味を言う時すら敬語を使う。きっとこれは癖のようなモノなのだろうと思うのだが、それではいつも気が抜けないだろうし、使われている方としても仲良くなれている気がしない。
提案が受け入れられるかどうか内心ドキドキしながら菫を見ようとして、
「それもそうね」
……やめるの早っ!
菫は、これまでのイメージに無いような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「抱きしめ合った間柄なのに、敬語使うのも変よね」
上目遣いで孝介を見る。
望んだ結果のはずなのに、どうしてか孝介の背筋には冷たい汗が伝っていた。
「孝介様」
「は、はいっ!」
そんな時。横合いから別の女性の声で名を呼ばれ、咄嗟に背筋を伸ばす孝介。見れば、満面の笑みを浮かべたアカネがこちらを見ていた。
その笑顔に翳が差して見えたのは、気のせいだろうか。
「始めましょう」
「あ、ああ。そうだな」
半ば急かされるようにパソコンの前へと移動する孝介。そこに苦笑しながらの菫がついてくる。
背筋を伝う冷や汗は不快だが、菫の苦笑が戻った対価だと思えば安いものと思えた。
携帯端末の赤外線送受信をオンにし、ハードディスクと繋げる。そこからの主導権は、孝介よりパソコンに強い菫に譲った。
携帯端末に保存されているのは、IACの内部情報。
手際よくファイルを開いていくと、昨期の監査報告や経常利益、他社との契約書類など様々な文書が現れる。しかし、この辺りは自分たちの望むものではない。
続けてファイルを開いていく。
そして、見つけた。
ファイル名は、『今期以降の経営方針』。他のものとはデータの大きさが違った。軽く数十倍は下らない。このファイルだけで、携帯端末の容量の三分の一近くを占めていた。
「……怪しいな」
「ええ、そうね」
経営方針なら、今後のIACを左右する数多の情報が記載されていることだろう。例えば今後の商品販売戦略や――ロボット開発計画なども。
菫が早速クリックする。
しかし、モニターに現れたのは別のウィンドウだった。
「……パスワード入力?」
「やっぱりこれだけフィルタリングが厳重ね。たぶんビンゴよ」
ただ、一つ問題があった。
「……パスワード……って、……何?」
「……さぁ」
二人にはパスワードなど分からなかった。加えてウィンドウには、入力は三回までと表示されている。それ以上間違えれば、ファイルが自動的に消滅する、と。これでは『下手な鉄砲も数打てば当たる』の考えも使えない。
目標物が目の前にあるのに、手の届かないもどかしさに二人が頭を抱えていると、別の声が沈鬱な空気を破った。
「……『new-world』です」
アカネだった。
「『new-world』……新世界か?」
「はい。IACは公的な企業理念として『人類の生活に貢献する技術開発』などと謳っていますが、今代にも受け継がれている上層部の根源的な思想は『新世界の担い手となる』ことです。IACのマザーコンピュータである『NeW』も、この『new-world』を短縮して名付けられました」
記憶を辿るように、アカネは目を閉じている。
「その新世界を実現するための計画進路とも言える経営方針のファイルのパスワードは、起業した当初より『new-world』から変更ありません」
「……なんでお前が、そんなことを知ってる?」
このデータを奪取する際も、アカネは数々のパスワードを解除していた。当然の疑問だった。
それに――。
「お前は、俺の両親のことも知っていたな。どういうことなんだ?」
「そういえば、お答えしてませんでしたね」
孝介の正面で居住まいを正すと、アカネは熟年のメイドのように丁寧に両手を重ねた。
「お話します。私の記録している全てを」