第一章
空が白い。
その色彩は雲のそれではなく、青の彩度を極めて高くした結果としての白だ。
人々が空を見上げ『青空』と表現しなくなったのはいつからだろうか。ふと、そんなことを考える。
ともあれ本日は天気晴朗。
春の歩道には様々な年代の人が溢れ、紫外線遮断用の極薄フィルムでコーティングされたガラス窓を挟んでいても、外の喧騒が聞こえてきそうだ。
風が街路樹の新芽を揺らす。
パステルカラーで埋め尽くされた、海外ブランドの支店やトレンドショップが雑多に立ち並ぶメインストリートの一画。そこにある中高層ビルは外装こそモダンなガラス建築だが、内部の雰囲気は外の華やかさとは縁遠い。
静寂に包まれた五階にて、窓枠に肘を突いて眼下を眺めていた男が不意に息を吐いた。
重たい呼気が解けていく二百平米ほどのフロアの窓。そこには大きく『桜井探偵事務所』という文字があった。
「おいおいなんだ孝介、構って欲しそうな溜息ついて」
声のした方に胡乱な目を向けた副島孝介は、コーヒーを持って近づいてきた、ひょろ長い男の姿を認めた。
「俺に話してみ。子供あやすのは得意なんだ。こう見えても俺、保育士の資格持ってんだぜ。おうっと! あやす以前に子供が俺の顔見て逃げるのがショックだからって嘘つくんじゃねえみたいなツッコミは止めろ。聞き飽きた!」
コーヒーの湯気の向こうで同じように揺らめいて見える天然パーマの男は能天気な笑顔を浮かべ、どうしてか胸を張る。
「前に甥っ子に訊いたことがあるんだが、俺の顔がアニメのキャラに似てるらしい。そのキャラ見た親御さんから放送局にクレーム殺到したって話だ。曰く『あの磯臭そうなキャラどうにかして! 鼻腔の奥まで塩がこびり付きそう!』だと。いやはや、相変わらず日本のアニメは世界を牽引してるな。作画のリアリティはどこまで進歩するんだか!」
「……そうと知ってて、なんで髪型変えようとしないんだよ、轍?」
孝介も正確な年齢を知らない男、邑井轍は饒舌に捲し立てる。それだけ気にしているということだろう。孝介はチェアを回転させ轍と正対する。
構って欲しいのはどっちだ、とは思うに留めた。
「最近のストパーは遺伝子構造いじるから金が掛かる。それに、この天パが無くなったら俺のアイデンティティはどこにあるんだ?」
一転、轍はニヒルに笑ってコーヒーを一口啜る。苦々しく表情を歪めた。
「ふっ、話が逸れちまったな。君の話を聞こうじゃないか」
「誰かが自虐ネタ滑ったせいで空気止まってるがまあ気にせずいこうか。簡潔に言えば…………そうだな、日本人の国民性について」
日本人は危機感に疎い、と他国の人々は口を揃える。
世界では今、国際的な緊張が高まっている。アジアや中東の核保有国が結託し、共同で新たな核兵器開発を進めているという情報が流れたのだ。
国連からも即刻中止するよう声明が出ているが、それらの国は一向に開発を止めようとしない。国際平和機関に属する平和維持軍が軍事制圧するのも時間の問題である、という見解がマスコミの大勢だった。
そんな状況であるのに、改めて外に目を向ければ、買い物に興じる人々は気楽な笑顔で語らっている。日本が戦争放棄を基本理念とした国家であるのに加え、過去唯一の被原爆国家であることを盾に欧米諸国からの圧力を撥ね退け戦闘の不参加を明言したのも、今なお一般人が気楽でいる理由の一つだろう。
しかし、国民の問題意識が低いと揶揄されるのは、この辺りの態度が原因となっているのは間違いない。
「小難しいこと考えやがって。んなことウダウダ言ったところで眉間の皺が増えるだけってな。もっとアホになれよ。根暗がバレるぜ。コーヒーでも飲んで呑みこんじまえ」
轍は何者かに手招きした。
応じるように近づいてきたのは、ドラム缶と同程度の寸法をとる銀色円筒形の物体であった。磨き抜かれたアルミニウム製の円筒は、接地面に取り付けられた四つの球状回転機構で自在な方向転換や速度制御、姿勢制御を可能にし、デスクや床に積み上げられた書類を巧みに避けながら二人の元へとやって来た。
「ミラちゃん、この真面目腐った哀れな男にコーヒー出してやって。今の顰め面が潰れるくらいトビッキリ苦いのをよろしく」
『かしこまりました』
ミラと呼ばれたその物体はロボットだった。
注文を聞くと正面にある発声器から機械音声で返事をし、動力確保のためのソーラーパネルが埋め込まれている頭頂部のライトが緑色に点滅して正常に記憶した事を告げる。
ドラム缶に似た胴部には開閉する箇所があった。人でいう手と同様の機能を果す物理作業用の強化炭素繊維を束ねたコードがそこに格納されている。
ミラは胴部を回転させて、無数の閉空間計測用赤外線を全方位に照射。反射の有無や戻ってくるまでの時間によって空間を三次元的に把握し進行方向を設定すると、ドリップコーヒーとポットのある区画へ移動していく。
そんな金属光沢を放つミラを見送りながら、しかし孝介は憮然としていた。
「……コーヒーくらい自分で淹れるっつうの」
「またロボットアンチテーゼか。今の時代、ロボットいなかったら生活できねえぞ」
孝介は軽く唇を噛む。轍の言葉通りだったからだ。
最近の住宅はアパートメントすら至るところにロボット用のアクセス端末があり、キッチンなど生活に不可欠な設備をロボットも操作できるように設計してあった。ソフト次第で料理のレシピなどもインストールできるので、キッチンがロボットの独壇場になっている家庭も多いと聞く。
ロボット用端末の無い部屋を探すほうが難しくなった時代の背景には、ロボット普及率の上昇がある。家庭単位で見た場合、途上国ではまだ百パーセントに届いていないところも多いが、先進国ともなれば家庭に複数体は当たり前。経済の中心であるアメリカに至っては核家族一人当たりに一体のロボットを購入している家庭も少なくないのだ。
過去の国際問題の折、先進国として模範的なイニシアチブをとることのできなかった日本が、今も先進七カ国に数えられる大きな理由。その一つが、このロボットを実用化した工学技術であった。
かつての精密機械工学の師、オルテガ=ラクスネスが開発したロボット用のAIを実用できる機構を各国の技術者たちは模索してきたのだが、長年に渡る研究開発をもってしても、時代性を無視したようなオーバーテクノロジーAIの演算機能に対応できるだけのものには手が届かなかった。
しかし、それを成し遂げたのが日本の企業『IAC』である。
この企業は、高性能ICチップなどの精密機械を開発する傍ら、ロボットの開発研究も進めていた。そのIACが十一年前に発表したのが、現在世界各国に普及している『works965‐OL』シリーズである。副島の視線の先、赤外線により電気ポッドに指令を伝え、カップに湯を注いでいるミラもこのシリーズに含まれる機体だ。
著作権フリーとなっていたオルテガ=ラクスネスのAIを基にし、二足歩行のような製作コストの掛かる機能を排した『works965‐OL』シリーズは、発売当初の価格も比較的安価に抑えられていた。企業の開発競争も盛んになった昨今は、さらなる価格競争により値段が下がっている。
当初こそロボットに頼る事に抵抗のあった人々も、いち早く購入した新奇好事家の情報発信によってその利便性に魅せられ、今ではロボットに依存して生活している。
それが、今の世界の姿だった。
「科学が発展するたびに人は怠惰になってく。盛者必衰とはよく言ったもんだ」
「古典を引用したところで、人の考え方なんざそう簡単に変わらねえさ。そうだな、文藝復古大好きなお前にはこの言葉をくれてやろう」
コーヒーで唇を湿らせた轍は一つ咳払いを挟み、言った。
「『体育の授業の時に一人だけブリーフを穿いてるヤツは間違いなく渾名がブリーフになる』! どうだこの俺の表現能力! 恐れ入ったか!」
「ああ恐れ入った。日本にこんな語彙の少ない大人がいるっていう事実に震えが止まらない。ほれ見てみ、この鳥肌」
「オウ、チキンスキン!」
孝介は本気で轍の将来が心配になった。その空気を察したのか轍はもう一度咳払いすると、気を取り直すように話を戻した。
「ともかくだ。ロボット工学の先駆国である日本に暮らす人間が、ロボット嫌いでどうする。日本はなあ、第二次世界大戦直後には四次元構造を概念的に検証してロボットに実装させようとする研究が始まってたんだぞ」
「……んなアホな」
四次元構造の解明は現代科学の一番の難題とされており、多くの研究者によって様々な論文が発表されている。しかし、そのどれもが信憑性に乏しく、絶対の真実として市民権を得るまでに至っていない。
もしも轍が言ったような研究が第二次大戦直後なんて時代に行われていたとしたら、多大な学術的意味を持った史実として残っていてもおかしくないはずだが、孝介はそんな話を聞いたことがなかった。
それに類するような事柄にも思い当たらず首を捻っていると、轍は得意げに続けた。
「そのシミュレーションがなんと、紙媒体で行われたっていうから驚きだろ。その研究は漫画という日本の大衆芸術にカムフラージュされて、逆に人に知られぬまま進行していたんだ!」
真面目に聞くのを止めた。
「タイトルは確か『ホラえもん』とか言ったか。主人公のホラえもんが居候してる家の一人息子に実はポンコツな秘密道具渡しつつホラ吹き込んで、ボスガキの返り討ちに遭ったところに止めの一言『あんまり他人を信用するもんじゃないよ』と教訓を与える、教育色バリバリの漫画でな。コイツが人気爆発した時にゃ、いつシミュレーションだとバレるか研究者も肝を冷やしたらしい」
「親からクレームが来なかったことに驚きだ」
孝介はますます日本人の国民性が分からなくなった。
「『ホラえもんは法螺吹きだ』なんてパラドックス付きだぜ」
「とりあえず謝った方がいいんじゃないか? 数多の知識を積み上げてきた先人に」
「それでよ」
「聞いちゃいないのね」
「このホラえもんってのが四次元空間に道具を格納する高性能ロボットでよ。しかも、鼠に齧られた悲しみで体色を変化させるみたいなアバンギャルドな感情表現機能を搭載してたんだ。画期的だろ? ちなみに好物は『法螺焼』。法螺貝のつぼ焼きってやつだ。つうか法螺貝って食えるんだなぁ」
これは俺の突っ込み待ちなんだろうか、と孝介は轍の頭を叩いてみる。すると轍は驚いたように目を見開いて、こちらを見た。
「き、嫌いか! そんな引っ叩くほどロボット嫌いか!!」
「だいぶ食い違っているが、まあそう理解してもらっても構わん」
冷めた対応に気勢を削がれたのか、轍は肩を竦めると息をついた。
続いて、真っ直ぐこちらと目を合わせる。
そこに何も考えていなさそうな今までのおちゃらけは見当たらなかった。
一転して真面目な雰囲気に、孝介は息を呑んだ。
「そこまで嫌うのには何かしら理由があるんだろうが、……そろそろ意地張るのやめないと、お前が周囲から叩かれることになるぞ」
心配してくれているらしい轍の言葉に、不覚にも感じ入るものがあった孝介は目を伏せた。いつの時代でも、集団において人は少数の者を排除しようとする心理を得る。古くは宗教や民族に関連した問題がその大多数を占めていたが、現代社会での排斥対象はロボットアンチテーゼの人々になりつつあった。そんな世論を鑑みての配慮だ。
轍が桜井探偵事務所に勤め始めたのは四年前。どういった経緯でこの事務所に来たのかは不明だが、子供をあやすのが得意だという言葉や保育士の資格を保有しているという自己申告は確かに本当なのだろう。子供が逃げるとは言うが、それにも拘わらず保育士を志したことにこの男の本質があるように孝介は思う。
本当に楽天的なだけの人間だったら誰も寄って来はしまい。
孝介は、轍と話している時の自分が驚くほど平静なことに気が付いた。一緒にいて心休まる人間というのは貴重だ。これも彼の人徳に違いなく、轍の認識を孝介は改めた。
「……確かに、そうだよな」
そこへ、扁平な頭部にコーヒーカップを載せたミラがやって来た。カップの中の黒い液体には波紋一つ立っていない。
轍の心遣いに報いてやるためにも、湯気を立てるカップを受け取った孝介はロボットのミラに対してこう言った。
「……ありがとうな」
『どういたしまして』
素っ気ない音声に慣れるには、まだ少し時間が掛かりそうだった。浮かんだ苦笑を呑み込むようにコーヒーに口をつける。
その時、轍が口端を吊り上げたことに孝介は気付かなかった。
「っ!」
噴出さないようにしているために、腹を抱えて爆笑している轍に文句を言うことも叶わず、どうにか黒い液体を舌に触れさせないよう喉に流し込むと、孝介は叫んだ。
「にげえぇ!」
孝介が桜井探偵事務所に拾われてから、かれこれ十二年が経つ。
両親が会社の業務中の事故で死亡したのが九歳の時。
過労認定をさせようと弁護士が裁判を起こしたが、会社側が親の勤務記録を抹消していたため、認めさせるには至らなかった。結局、労災で入ってきた金さえ弁護士に搾り取られ、後に残ったのは両親が積み立てていた定期預金だけ。
おそらく弁護士も本気で勝てると思っていなかっただろう。ただ、いい金づるがいたから寄って来ただけだ。
家の中にいるのが嫌だった。昨日まで三人で暮らしていたはずの我が家にはしかし、帰ったところで自分以外の誰もいない。耳に痛いほどの沈黙の中できつく目を閉じ、気付くと朝になっている。目覚めたくないと願うのに目が覚めてしまう自分が恨めしかった。
両親が勤めていた会社――IAC。
ロボット稼動実験中の事故だったそうだ。実験中に何らかの理由でロボットが暴走し、詰めていた研究員を皆殺しにした、と。
その研究員の中に両親も含まれていた。
当時のロボット研究はIACの中でも極秘裏に行われていたらしく、会社側からの情報統制によりニュースになることすらなかったが、それはそれで良かったとも思う。自分の両親が死んだというニュース原稿をキャスターが無感情に読み上げる場面を想像したら、吐き気を催した。
家の中にいては両親のことを否応無く思い出してしまう、と外へ飛び出してみても、そこには信用なんてとてもできない他人という悪魔が溢れている。内にも外にも灯火はなく視界は闇に染まった。
気付くと人気のない路地裏に飛び込み、家と同じように闇の中で蹲っていた。
そこから孝介を無理矢理引っ張り上げたのが、当時小さな探偵事務所を立ち上げたばかりの男。年齢に似合わずがっしりした体型の、桜井源三郎という中年男性だった。
暴れる孝介を笑顔で昏倒させると、次の孝介の記憶は事務所のソファから始まる。
その時は一瞬誘拐かと身を強張らせたが、よく考えてみると自分は誘拐されても何ら問題がなかった。
それに自宅に帰らずとも源三郎は食事を三度与えてくれるし、寝床も提供してくれる。
孝介も次第に心を開き、その後正式に養子として引き取られた。
高校を卒業して以降は源三郎の手伝いをするようになり、助手という肩書きを得て今に至っている。
「…………ふぅ」
不意に己の過去を追想してしまったのは、あれだけ嫌悪していたはずの人ごみの中を歩いているからか。もしくは轍に己の感傷を諭されたからか。
午後五時。燃えるような夕日の朱が他の色を包み隠す時間帯だ。昼から夜へと変わるこの時間には全てのものが一つに溶けあう。おそらくは、今と昔の記憶すらも。
しかし、孝介が脳裏に描く過去と明確に違うものが、現代には二つある。
人々と並んで移動している多数のロボットの姿と、空の厚さだ。
中国の産業排気が偏西風に乗り日本上空を覆うことで、十二年前と比べてもより厚く、低くなった空。昼間に見たなら白くなっていることも分かるだろう空を見上げながら、孝介は自宅への道程を進む。
車道を排した大通りには多種多様な店舗が軒を連ね、所どころには露店も並んでいる。
そこを歩いていた時。
「ちょいとぉそこな」
通り過ぎようとしていた孝介に横合いから嗄れた声が掛かった。目を向けると露店の一つ、中古の家電製品を扱っている露天商の男だった。
地べたに胡坐をかく男の年齢は明らかに還暦を超えている。
薄汚れた長衣。あらゆる毛が伸ばしっ放しにされた風貌は、古代中国に存在したという仙人を髣髴とさせた。
ある程度の清潔感を保っている他の露店と比べて明らかに小汚いその一画には人が寄り付かず、空間がぽっかりと空いてしまっている。
そんな浮浪人らしき老体に声を掛けられ、孝介は足を止めつつ眉を顰めた。
長い髭や眉毛によって口元や目元が隠され、表情は読み取れない。しかし孝介が反応をした際、老人の髭が揺れたように見えた。
「ちこう寄りんさい」
手招きされては立ち去るのも忍びない。押し売りを断れない年でもないだろうと腹を括り、老人の方へと歩を進めた。
「……何か?」
「いやのう、あんさんがえろう景気の悪う顔しとったもんで。老いぼれとしちゃあ黙っとれんかったんさ」
ゆらゆらと髭を揺らす様子に孝介は溜息をつき、
「……それだけでは無いんでしょう?」
仕方なく先を促す。
「ふぉっふぉ、話を省けて助かるわい。この年になるともう喋るのも億劫でなあ」
なら話しかけなければいいだろう、と孝介は内心悪態をつく。
「何か、買っていかんかえ?」
「結構です」
きっぱり断り、孝介は老人に背を向ける。視界の端に一瞬捉えた老人はしかし、髭を揺らしていた。
何故か寒気を感じて早足になりかけたところで、予感は的中する。
「あんさんに、そりゃあ似合いのものを置いとるんだがのう」
その言葉は、一つの商売が生死を分ける露天商の常套文句だったに違いない。
なのに孝介は、今の言葉にそれ以上の意味を疑ってしまった。
年功による言葉の重みがそう思わせたのかもしれない。まるで自分の中身を見透かされているような薄気味悪さが、孝介の足を速めるのでなく逆に止めてしまった。
「ふぉっふぉ。そう急くなえ、若人」
「…………」
黙って再び近づいていくと、老人が緩慢な動作で立ち上がって背後を向く。
そこにあったのは下に何かが隠してあるらしい青いビニールシートだった。老人はそれをゆっくりと引いていく。
現れた『それ』を見て、今度こそ孝介は気味悪さに背筋を凍らせた。
円筒形のドラム缶のような物体。磨きぬかれた金属光沢は鏡のように夕焼けの世界を映し、孝介の強張った表情まで見せ付ける。
『それ』は世界を変えたもの。今も孝介の周りを動き回っているもの。
そして、孝介が遠ざけ続けていたもの。
「どうかのぉ、自慢の一品なんじゃが」
老人の示した『それ』は――ロボットだった。
「流行りものらしいのじゃが、どうも誤作動が多かったそうでのぉ。買い方を探しとったそうじゃけぇ、わしが安く買い取ったんじゃぁ」
誰から、とは言わなかった。
轍との会話が思い出される。あの会話で轍は、ロボットを嫌い、世界の流れから取り残されつつある孝介に、ある種の警告をした。
――いつまでもロボット嫌いのままじゃ世間を敵に回すことになる。
対して自分は何と返答したか。
――確かに、そうだよな。
こう答えたはずだ。
今日は孝介の中で大きな意味を持つ日だ。それを孝介自身も自覚している。
何せ、これまで十二年間忌避し続けていた物に、自ら手を伸ばそうとしたのだから。
そして今。伸ばした掌の中にするりと『それ』が滑り込んできた。
恐ろしいほどにタイミング良く。
まるで、何かのシナリオに沿っているかのように。
「どうじゃあ、このみすぼらしい手に磨かれとうたとは思えんじゃろう?」
ちこう寄って見んさい、と手招かれるままに孝介はふらふらロボットに近づいていく。
表面の艶からは新品としか思えなかった。外見から判断できる特徴を取ってみても、確かにそれは今現在世界各国で最も出回っている機種『works965‐OL』シリーズに間違いない。しかし、機体の頭頂部後ろ側に書かれている機種名には、
「『OR』…………?」
数多ある他の機体とは明確に違う表示、『works965‐OR』と書かれていた。
『works965‐OL』の『OL』とは、高性能AIを開発したオルテガ=ラクスネスのイニシャルをとったものだ。
単純に見えるこのミスにも何か意味があるのかと問いの目を向けてみるが、老人は相変わらず目と口を隠している。気付いていないのか、気付かないふりをしているのかさえ分からない。どちらにせよ、答える気配はなかった。
その代わりに、別の言葉が孝介の耳朶を震わせた。
「わしの見立ては正しかったかのう?」
鼓膜にじわじわと沁みこんでくるような声を聞いた孝介は何かに操られているように、気付けば首肯していた。
ふぉっふぉ、と楽しげな老人の笑い声。続けて言った。
「五千円でどうかえ?」
孝介は頭を跳ね上げて老人を見る。現在の『works965‐OL』シリーズの相場は八万円前後と発売当初に比べて大分値段が下がった。しかしそれでもまだ八万なのだ。どんなに安い中古品でも桁を一つ下げることなどあり得ない。
不良品か粗悪品か。ややもすると、近頃アジアの一部で出回り始めている『works965‐OL』シリーズの海賊版かもしれない。
「……どういうカラクリです?」
「誤作動が多かったと、はじめに言ったえ若人。老いぼれの言葉はどんな与太話でも聞いておくもんじゃ」
「…………」
孝介は沈黙を返すしかない。
向こうが値段を提示したのだから、もう交渉は大詰めだ。後はこちらがイエスかノーかを答えるのみ。
孝介はしばらく沈黙を保ち、その間老人は愉快そうに髭を揺らし。
やがて、孝介の唇が動いた。
住宅街の中でポツポツと伸び上がっているマンションの一室、1LDK。そこが孝介の自宅だ。
源三郎の助手としてそれなりの金額の給料が支払われるようになって、孝介は一人暮らしを始めた。ちょうど二十歳になりたての頃で、物件探しから自分でやりたかったのだが何かと孝介を構いたがる源三郎が優良物件を先に確保してしまった。
養父の気遣いを無下にもできず、以来そこで暮らしている。
当時新築だったこのマンションは駅から多少遠い立地条件もあって賃貸料が安かった。加えてこの広さを考えれば十分に費用対効果でいい値を弾き出すだろう。
ただ。
こちらも例に漏れず、至るところがロボットの操作可能な設備となっていた。
入居当時はロボットに関するもの全てを目に入れないようにしていたので、日用家電はロボット用端末が無い製品を中古品屋で確保した。
しかし、それらはとうに生産中止になっており、製造年を見る人に郷愁を与えるほど年季の入った代物だ。それもあって最近、不具合も多い。寿命が近いのだろう。
随分と俗的な、しかし何より生活に密着したこの問題は、まだ肯定しないまでも、孝介にロボットへと目を向けさせた一因とも言えた。
ところが、実際に自分の部屋にロボットがいる光景など想像できない。
事実、自宅のはずの空間が、まるで他人の部屋のように見えた。
「…………そんなにすぐ変わるものでもないよなぁ、心って」
感情と理性が対極に位置することを孝介は身をもって実感していた。
溜息をつき視線を上げれば、家の中の端末の位置を把握しているのか、忙しく動き回る金属製の円筒形が見える。
自分の部屋にロボットがいた。
結局、先ほどの露天商から買っていたのだ。五千円ならポケットマネーから出せたし、向こうもその程度の値段に当たりをつけて言ったのだろう。しかも五千円なら、いざ不良品となった時でも精神的ストレスが少ない。
孝介はそんな、状況と裏腹な鬱屈したことを考えていた。
やはりまだ、ロボットと生活を共にするということに抵抗がある。
確かに一人ではこの家の広さを持て余していた。ふとした時に一抹の寂しさを感じたりもした。でも、いざそこに自律的に動く何かがいるとなるとこんなにも鬱陶しく、しかもそれが未だ心にしこりを残すロボットであるためなのか、尚更煩わしく感じてしまった。
長い年月をかけて凝っていたこの暗い感情は、一朝一夕の感情変化では到底太刀打ちできるものではない。
これからはこのロボットとともに生活しなければならない。自分で買っておきながら義務的なことを考えるのは、感情の自己防衛本能だろうか。己から手を伸ばすには時期尚早だと、心が伝えているのだろうか。
懐から一枚の折りたたまれた紙を取り出す。ロボットを買い取る際、老人から『取り扱い説明書のようなものじゃ』と渡されたものだった。
内容は以下の通り。
『――其は願う者
――遠来より来たりし遺風を纏い
――地雨にその身を枯らすことなく
――末世に救いを希う者
――此の者と共にあるべき者
――雨露に光を奪われようと
――廃ることなく光を求め
――決してその身の朽つることなく』
……これのどこが取り扱い説明書だ。
何度読み返しても、ただの詩文としか思えなかった。
その詩文の書かれた紙の下の方、申し訳程度にロボット読み込み用の多情報同時発信赤外線チップが埋め込まれていた。
……どうすんだよ……。
天上を仰ぎ見て、力なく紙をひらひらと揺らす。
見えない己の行く末に、孝介はもう一度盛大な溜息をついた。
しかし、自身にも届くほどの呼気音を出したはずなのに、音は鼓膜には届かなかった。
ドガアン! という轟音が、それを掻き消したからだ。
「な、何だ……?」
音のした方に目を向けると、そこで孝介は信じられないものを見た。
「…………」
束の間だけ面食らい、絶句。
「…………ぷっ」
やがて、そのシュールな光景に笑い声が漏れた。
――ロボットがフローリングの床で転倒し、起き上がろうとモゾモゾ蠢いていた。
「は、ははははっ!」
最近の家庭では、褒められないことをした子供を躾ける際にロボットを引き合いに出すという。それはつまり、ロボットが人の言いつけを守り、完璧に仕事をこなす存在だということが、人々の間で通念になりつつあるということだ。
しかし今、そのロボットが孝介の前で見事に転倒した。綿密な力学計算を繰り返し、絶対的な安定性と安全性を確保されたはずのロボットが、転倒というまず考えられないミスをしたのだ。その上、ロボットは起き上がることに手間取って悪戦苦闘している。
孝介は笑いが止まらなかった。
やがて、向こうの方から機械音声を掛けてきた。
『助けて下さい』
事務所で聞いた、仕事を例外なく完遂するミラのものと同じ機械音声のはずなのに、言っている内容が天と地ほども異なるせいで、こんなにも違って聞こえる。
先ほどの不安が嘘のように、孝介は安堵していた。
もしここにいるのが、全ての命令を何事もなく遂行してしまうロボットであったなら、きっと何かしらの理由をつけて放棄していただろう。
――これだけ完璧なくせに、どうして両親は死んだのか。
今のロボットの完璧が、両親の犠牲の上にあるということは、頭では理解している。それは誇りとしてもいいほどの偉業に違いない。
しかし見当違いだと分かっていても、未だに消化し切れていない陰鬱な感情はどうしようもなかった。
……でも、こいつなら。
『誤作動が多い』らしいこのロボットなら、孝介も何だか許していける気がしていた。
これは一種のリハビリなのだ。
孝介の心も自己防衛本能から開放されて、今は平静を取り戻している。
……これからゆっくり慣れていけばいいか。
そう思って立ち上がる。
まるで誰かの助けを待っているかのように床を転がっているロボットを、人である自分が助け起こすために。