武蔵国幻想風土記稿 祇祐堂の怪
武蔵国秩父郡は上野国との国境近くに、名主ヶ谷戸と呼ばれる谷戸があった。伊弉諾尊を祀った男山の中腹、地滑りの瓦礫が散乱する荒廃した谷戸で、入口の平場には小さな御堂と村の墓場がある。
俚人によれば、ここに、坂之上という土豪が住んでいた。
坂之上氏は、田村麻呂将軍の末裔を名乗っていた。
将軍が蝦夷東征の折に休息のため、当地に陣を敷いたというのが言い伝えで、その時、この地に住み、地元の民を苦しめていた大蛇を退治したという。討たれた大蛇は、そのまま放置されたため、やがて身が熟れて、腐り、毒気を放ちながら沢を流れたという。
将軍は休息の陣中で、土地の娘との間に男児をもうけ、「坂之上」姓を与えた。そして、陣を敷いた谷に屋敷を建て、一帯の土地を男児に与えて、名主とした。館には東征の軍に従っていた八人の兵士を置き、娘と児を守護させた。
男児が長じて、坂之上氏は栄えた。
将門の乱に際しては、将門を援け、敗走してきた弟の平将平を保護し匿ったと伝えられる。
天正から文禄の頃だ。
梅雨時に大きな地滑りが起こり、谷戸の館を襲った。
土地では地滑りを「蛇抜け」と呼び、土中にわだかまっていた大蛇が抜けるために起こると信じていたから、館を襲った地滑りは田村麻呂将軍の討った大蛇の祟りであると、今さらながらに恐れた。
残された家人は将軍の討った大蛇の供養堂を建てた。
偶々、放浪の老僧がその堂に立ち寄った。老僧は生き残った坂之上の家人の願いに応え、「土地の神が里人を扶けるように」という意味で「祇祐堂」と名付けた。
坂之上の家人は、この老僧に、大蛇の霊の供養と蛇抜けに巻き込まれて死んだ者の弔いを続けるため、この地にとどまることを懇望した。老僧は祇祐堂の隣に庵を結び、大蛇を祀り、蛇抜けの死者を弔った。
老僧は「宜祐上人」と呼ばれた。
上人の死後間もなく、坂之上の生き残りは散り散りになり、家は絶えた。俚人たちは、この谷戸を名主ヶ谷戸と呼んで敬い、畏れ、濫りに近づかぬようになった。
いつの頃からか、祇祐堂は無主の堂となり、名主ヶ谷戸は墓場の谷となった。
祇祐堂は死者を安置する喪屋を兼ねるようになった。
死人が出ると家族たちが祇祐堂に集まって七日間のもがりを行う。
もがりは長い。
暑い時期には死人の腐敗が進み、臭気も耐えがたくなる。そこで、まず、死人に柿渋を塗る。そして、杉の皮を水車で搗いてこさえた粉を練って、この土地独特の弔いの香とし、七日の間、この煙で遺体を燻し、堂に焚き染めた。
長年、杉の香で燻された祇祐堂内は真っ黒に煤け、漆で塗ったように黒光りをしていた。祇祐堂が、建立以来、徳川時代を通して、腐朽せずに残ってきたのは、杉の煙に燻されたおかげであろう。
喪が明けると、下の村から僧侶を呼んで、皆で読経する。読経の音声の中、村人が穴を掘り埋葬する。
谷戸の墓場は少し掘るだけで、水が湧きだし、穴の底に溜まる。死人をいれた棺桶は水に浮いて沈まない。雨の日はなおさらであった。村人は、頭ほどもある転石を、谷底から抱え上げてきて、遺骸に抱かせる。
蓋をした棺を男3人がかりで踏みつけて穴に沈め、その上に泥を被せて、ようやく埋めるのである。
維新のあと、祇祐堂は荒廃した。
廃仏毀釈によって、本尊の大日如来像は手足をもがれ、御堂の縁の下に放り込まれ、不動明王像は谷戸の奥の岩屋に打ち捨てられた。ひきずり降ろされた煤けた天蓋は売り払われ、木魚は焼かれた。祇祐堂は板の間ばかりの御堂となった。
それから間もなく、祇祐堂から、夜中、声が聞こえる、闇の中、ありもしない木魚を叩く音が聞こえるとの噂が流れた。
「狐狸の仕業ではないのか・・・」
そう怪しんだものたちが祇祐堂に近づいて、戸の隙間からのぞき込む。
がらんとした板敷きの間は真っ暗だ。
その闇の中から、男の低い声で読経するのが聞こえたり、女の泣く声が聞こえる。読経が聞こえる時には、間もなく村の男が死に、女の泣く声が聞こえた時には、村の女が死ぬ。
俚人は恐れ、仏像を打ち毀したことを悔いた。仏罰を恐れ、いよいよ、名主ヶ谷戸に近づく者はいなくなった。
2
明治17年の立夏の頃だ。
中耕地の五兵衛のところで、患っていた老姥が死んだ。
「中耕地」は屋号である。
この辺りではどこの家にも屋号がある。屋号は、中世の村の成立以来、その家の持ち分の耕地がある場所の名前に始まって、商売や家の場所、方角などに基づいて名前が付けられた。
「耕地」の屋号を持つ家は、村の草分で、本耕地、前耕地、中耕地、北耕地、南耕地、上耕地、下耕地、諏訪野耕地などがあり、以下、鍛冶屋、綿屋、糸屋、籠屋、鉄沓屋、鍋屋、角屋、塩屋、西、東などの屋号があった。
「中耕地んが家も、大変だ」
村人たち、各々がそう呟きながら葬列を見送る。
五兵衛の家族は村のしきたりに従い、 祇祐堂に籠ってもがりをすることになった。
村人が同情するのは無理もなかった。村は陰鬱不穏な空気に覆われていた。
この頃、秩父郡では天変地異が相次いだ。
名主ヶ谷戸の周囲でも、災害が続いていた。
御一新で江戸が東京という名に改まった。
江戸から訪れる商人が「とんきょう」などというものだから、皆、それに倣って「とんきょう」と呼んだ。
天子様が江戸城内に入城されると、とんきょうの整備のため、山国、秩父郡の資源開発が進んだ。
材木が盛んに切り出され、鉱山開発が進み、貨幣経済が浸透した。
秩父では養蚕も盛んにおこなわれた。大宮郷は大宮町と改められ、街の発展は華やかであった。
秩父の生糸は欧州に輸出され、フランスはリヨン生糸取引所で、「Chichibu」の名を知らぬ者はいないほどであった。
明治10年、薩摩国で西郷参議が反乱を起こした。
翌、明治11年3 月 22 日の大火で、大宮郷の307戸、447軒の家が焼失した。その放心状態がおさまらぬうちに、今度は、繭価格の暴落が起こった。
政府内では有力者の失脚・追放が相次ぎ、薩摩士族あがりの松方公爵が大蔵卿となると、不況が深刻化した。
高利貸しが横行し、農家が貧困にあえぐようになると、「自由民権」、「義侠」を掲げる、侠客らが跋扈し、高利貸しを脅迫するなど、郡内には不穏な空気が充満した。
そのころ、秩父の山川溪谷で、立て続けに「蛇抜け」が起こった。
それは名主ヶ谷戸の辺りでも同様だった。
特に、東岡下の金ヶ沢沿いは頻りで、御諏訪様の祠下にある、諏訪野耕地を襲った。大切な畑を押し流された村人は嘆いた。
金ヶ沢は、元来、人の住まない地勢であったが、ただ一軒だけ、東岡下の金ヶ沢沿いで水車小屋、炭焼き、柿渋絞りを生業にしている仙蔵という男がいた。
元は村の草分けの一軒で、「下耕地」と呼ばれた。だが、仙蔵の祖父の代に火事を出して、家を失った。当時、火事を出すことは村の掟に触れた。耕地はもちろん、入会権を失い、村はずれの東岡に追放された。仙蔵の家の耕地の大部分は、火事の被害を受けた家に対する弁償のために処分された。
その後も、残された耕地は下耕地の家族が口に糊するために、切り売りされ、仙蔵の代になった時には、何も残っていなかった。
仙蔵は活計を建てる唯一の手段として炭焼きと水車小屋を営んだが、入会からも外された仙蔵は原木を得る手段もない。水車小屋と言っても米麦の搗精を頼むものもいない。
仕方がなく、水車小屋では杉の皮をもらいあつめて粉について、仏さんの香を作った。また、活計を立てるためにと、柿渋絞りを強いられた。嵐のあと、川を流れてくる木を丹念に拾い集めては、窯で焼き、質の悪い木炭を作って街に売りに行くのだった。
その、仙蔵の小屋が蛇抜けに呑まれた。仙蔵の遺体は、炭焼き窯の影から見つかった。炭を焼いている最中だったのだろう、そのことが幸いして、仙蔵の遺体は激しい損壊は免れていた。
村ではしきたりに従って仙蔵を祇祐堂に安置し、村の家々が縁者のいない仙蔵のために、六文づつ銭を出して、村の若衆組にもがりの伽をさせた。
明治の新幣制のもとでも、江戸期の銅銭は有効で、なじみ深い寛永通宝は昭和の戦後まで、使用を認められていたのである。
六文の銭は、死者に三途の川の渡し賃を出そうということであったが、実際のところは、伽を務める若衆組の者の、清め代の足しにされていた。
集めてもわずかな銭である。若衆組のものたちは、普段から除け者にしていた無縁仏仙蔵を嫌がり、碌に伽もしなかった。
その様を、村役たちにとがめられた若衆たちは、もがりの最後の晩、憂さを晴らすために、集めた銭で酒や食い物を買い、祇祐堂に持ち込んで騒いだ。
翌日、下の村から呼んだ僧侶と共に村の者たちが見たのは、ことごとく枕を外されて、広間に転がっている若衆たちの姿であった。
なんと、全員、首の骨を折られて絶命していた。
「まくら・・・流しだ・・・」
僧侶は顔を真っ青にし、反吐を吐いた。
「枕流し」とは、「枕返し」との呼び名で知られる妖怪である。その正体は付喪神とも死霊であるともいわれる。
「仙蔵に・・・やられたんかぁ・・・」
莫迦のように口をあけたまま唖然とする村人たちの傍らで、中耕地の老姥がうめいて、倒れた。
中耕地は、仙蔵の祖父の失火の際に、万座の中で土下座する一家を強く詰り、東岡への追放を主導したのである。
葬儀の最中、中耕地の老姥は青ざめ体の震えが止まらなかった。
そして、帰宅後、体調の不良を訴え、そのまま病みついたのだった。
「せ、仙蔵がぁ・・・来るぅ」
中耕地の老姥は、仙蔵の幻覚に悩まされながら衰弱していった。
ほどなくして中耕地の老姥は死んだ。
五兵衛ら親族は、祇祐堂でのもがりの仕来りに従って、まず、男山山中にある柿山部落から柿渋を取り寄せた。
秩父分地を流れる荒川、赤平川では投網による川魚漁が盛んであった。投網は木綿糸をより合わせて強化した水糸で編み込むのだが、生のままの水糸は耐久性に劣り、何度も水に漬けられているうちに朽ちてしまう。
この腐敗を抑制するのがタンニンを含む柿渋で、投網を編む糸や編みあがった投網を、漬け込んで、糸に渋を定着させるのである。こうして、柿渋に漬けられたものは腐朽しにくいうえに、水切れもよくなった。
人によっては、猟師に頼みこんで、イノシシの血をもらう。鍋の中にその血を張って網を煮るのである。これを血渋という。これからも同様の効果を得られたが、川漁師の中には、柿渋よりも、血渋が勝るというものもいた。
柿渋は臭う。渋を採ることは嫌がられていたが、生活に欠かすことのできぬ資材であったから身近でつくるものがいることは便利であった。
柿渋は、夏の終わりごろ青柿を集め、臼で搗いてつぶし、桶に集めて水を加えて発酵させるのであるが、この時の饐えたような発酵臭を里人は嫌がる。ゆえに柿渋生産は男山山中にある柿里が独占していた。
ところが、名主ヶ谷戸では、一時、柿渋を東岡の仙蔵に絞らせたため、そのおかげで、男山の山中にある柿里衆から抗議を受けた。
名主ヶ谷戸が開き直ったことに柿里衆は怒り、今後、渋を売らぬと決めた。
仙蔵のいない今、渋は柿里から取り寄せる以外になくなり、村の者たちは柿里に頭を下げて詫び証文をいれた。それでも「許さぬ」という強硬な柿里の衆を説き伏せて、普通より三割高い値で売ってもらうことで折り合ったのである。
「高くつくのう・・・」五兵衛はため息を吐いた。
ようやく運ばれてきた二樽の柿渋を、風呂桶ほどもある大きな桶の中に開けて、水を加える。桶の六分ほどに増やしたところで、死体を漬けこむのである。
中耕地の家のものは死後硬直の起こった老姥の関節をへし折りはじめた。枯れ木のような体は、音を立てて折りたたまれた。
歯のほとんどなくなった口を指でこじ開けてから竹の輪切りを咬ませ、柿渋の中に沈めていく。死体の口から、体内に柿渋が流れ込み、体内に泊まった気体が漏れ出して、ぶくぶくと泡を出した。
「ばあさま、臭せえなあ・・・」
漏れ出て来る気体の臭いに、五兵衛たちは鼻を覆った。
柿渋から引き上げられた死体は、木組みの三脚の間に太い竹を渡して、肩を縛って吊るされる。こうすると、死んで緩んだ尻の穴から、柿渋と腹の中の糞便が排出される。この汚れを真水で流し、再び柿渋の中に沈める。これを都合三度繰り返すのだ。
こうした葬祭における奇妙な風習は、宝永年間のころに、天狗や山野の妖怪を捕えて木乃伊を作るという怪しい法師が、偶々、当地を訪れたおりに、「没薬の秘法」とかいいながら、伝えたものである。
はじめは、渋を塗って杉の樹皮の煙で燻して、もがりの間に腐敗が進むのを止めるだけであった。
だが、それだけでは、内臓の腐敗を抑えることはできない。
夜中、死んだはずの家族の腹が「ぐぅ」とか「ぶぅ」とか音を立てたるのは当たり前のことであった。
ひどいときには、もがりの間に、腹が膨れて破れたり、尻の穴から糞便や悪臭が漏れ出したりするのである。これを、皆、嫌がった。
この処理は、遺体の損壊の烈しい事故死、疫病による死などの異常な死者には施さないと、掟書きによって決まっていた。
そこで、柿渋を使って処理をしないことは、死に方にかかわらず、異常死であることを意味するようになった。遺族は、異常死者を出したと陰口をきかれるのを嫌がり、内心辟易としながら、この風習を守って来たのである。
柿渋ですっかり赤銅色に染まった中耕地の老姥は、薄い帷子を着せられると蓮台にのせられ、村人や縁者男性8人に担がれて、祇祐堂へと運ばれていった。
3.
雨戸をあけ放つと、1年ぶりの光が祇祐堂に差し込み、燻臭い堂内を新鮮な風が抜けて行った。堂内は天井から柱まで杉の香の煤で真っ黒になっている。
祇祐堂は、坂之上氏に建立されてから、400年ほど経つ仏堂なのであった。
徳川将軍の治世の頃、時折、訪れる修験者たちは、「黒は胎蔵界を表す色である」と村人に語り、「このような古い仏堂が、創建の頃から無事に残っているのも、仏の加護であり、ありがたいことだ」とほめた。
このような古い仏堂が、数少ない修繕だけで、谷戸の湿気と風雨に耐えてきたのは、杉の香の煙が、屋根や柱の腐朽や獸虫の害を防ぐ薬品的な効験を持っていたからである。修験者が胎蔵界の色と賞した真っ黒な堂内も、杉皮の香のおかげである。そのような意味では、祇祐堂がここまで残されてきたのも、たしかに仏の加護であったに違いなかった。
中耕地の老姥の遺体は、堂内の蓮台に安置された。この台は、堅牢な栗の材でつくられ、「すのこ」のようにすき間が採ってあった。この台の下で、杉の皮の香を焚き、遺体をいぶしながら夜伽をするのだ。
堂内の埃を掃き出し、廃仏毀釈の騒動の後、改めて村で購った小さな大日如来三尊の前に供え物などして、もがりの準備を済ませ、「おう、おまいら、お茶にすんべえ」と、五兵衛は声をかけた。
皆、だまって湯呑の茶を啜る。
五兵衛がため息を吐いた。
せがれの甚四郎がつぶやいた。
「枕流しっつうのは、本当に出るんかなぁ・・・」
「おめえ、もがりっつうのはな、死んだん坊の死体を守るっつうのが本当の意味だ・・・。若い衆組が、枕流しにやらいたんも・・・、なんだなぁ・・・、仙蔵の死骸をほったらかしていて、化けもんに付け入られたからだぁ・・・。だから、怖がったらいけねえ」
五兵衛は村の口伝を一つ、一つ確認するように言った。
その口調は、家族に、何より自分に言い聞かせるようであった。
「上州には、くわしゃっつう化けもんがいんだ。そいつぁ、葬式の時に、空から死骸を取るっつうこったぁ」
口を尖らせて、真剣なまなざしで、五兵衛の女房が言った。
女房は、名主ヶ谷戸よりもさらに北西、上州との国境、平将門が乱の合戦の、最後の砦と言われる城山の奥にある、太田部の出で、上州の噂話に詳しかった。
「くわしゃっていうのはどういうもんなんだべ」と、せがれが言った。
「黒い雲のようで、大きな人の形をしているそうだ。安中藩の剣術使いに斬られて、それから現れなくなったつうな」
何かに聞かれるのをはばかるように、五兵衛の女房は、声を潜めた。
「結局な、ここみてえな、もがりをしねえから、そういう、化けもんに付けこまれたんだんべぇ。もがりを、しっかり済ますことが大事だっつうことだんべぇ」
五兵衛の言葉に家族の皆がうなずいた。
もがりは、日中は、家族のひとりが、番をしていればよく、家族は、仕事の合間を見ては、入れ替わり、立ち替わりして、番をすればよい。
問題は夜の番である。
家族全員が祇祐堂に詰めて、夕方6時から、一刻ごとに経を唱える。夜、子の刻の読経を最後に、誰か一人が不寝番をしなければならないのだ。
初めの晩は、家長の五兵衛が不寝番をした。
家長の責任感から出たのだろう。五兵衛は誰とも交代せずに不寝番をやり遂げたのだが、これがよくなかった。翌朝、五兵衛は激しく咳き込み、それが昼過ぎまで続いた。杉の皮の香で、のどを痛めたのだ。
血の気は引き、顔の日焼けがかえってどす黒く曇って、一夜を通しての寝ずの番ができるような状態でなくなった。
二日目の不寝番から、一刻ずつ交代で、五兵衛、五兵衛の女房、分家した五兵衛の弟の茂三郎、五兵衛のせがれの甚四郎、甚四郎の女房、の順に不寝番をすることになった。
しかし、七日目の晩になった時には、昼間の仕事もあって、家族は疲労困憊。とても体がもたぬということになって、若い五兵衛のせがれが、最後の一夜の不寝番を通しですることになった。
子の刻の読経の後、甚四郎が勝手口から表に出た。
「茂おじ、わりぃがぁ、ちっとんべえ、涼ましちくれぇ」
夏と言えども、子の刻を過ぎれば、山肌を滑り降りてきた冷気が名主ヶ谷戸に集まってくる。木の枝には、山蛍がいっぱいに集っている。
甚四郎は井戸からくみ上げた水を桶に開け、のどを鳴らして飲んだ後、急須に水を入れ、残りの水で手ぬぐいを湿してから、体をぬぐった。
締め切った堂内は、杉の皮の煙が立ち込め、息苦しいのだ。
「さあて、今夜で終めえだ」
甚四郎が堂内に戻ると、茂三郎が蓮台の傍らで、経を唱えていた。
「茂おじ、水ぅ汲んできた」
「おう、ありがてぇ」
「茂おじ、この堂に、枕流しっつうのはいるんかねぇ」
「仙蔵のことが気になるんか?」
「んー、あぁ。まあ、あれだけ若い衆が死んだからなあ」
「いいか?下耕地が落ち目になったんなあ、うちのじいさまの意見が大きかったんなぁ本当だぁ。だがなあ、あれは、火事を出した家だかんな。村の決まりだ、仕方ねんだ」
茂三郎は湯呑に水を注いでグイと一息に飲んだ。
「おお、ちべてえ。水が、んめえや。さすがに、堂内にこもっているんなぁ息が詰まるかんなぁ」
堂の暗闇の中、茂三郎は甚四郎に向かって、にやりと笑うと、「今夜で終いだから・・・」とつぶやいて板の間の隅の布団に這っていき、ぐらりと倒れこんだ。
疲れていたのだろう。茂三郎はすぐにヒューヒューと寝息を立て始めた。杉の皮の香の煙で鼻が詰まるのだろう。苦しいのだろう。時々、胸をはだけて苦しげに口を開けて喘いでいるが、やがてその動きも収まった。
堂内には、親族が枕を並べて眠っている。
杉皮の香の燃える暗い炎以外に、頼りになるものはない。
甚四郎は、煙が多くなりすぎないように、少しづつ香をくべていく。煙が目に染みて、濃い目ヤニが目頭にたまったのを手拭いで拭うと、脇の湯呑に手を伸ばして、冷えた茶をすすった。
不図、堂の隅に気配を感じた。
「誰か起きたのか・・・」
振り返ると、堂の隅、香を焚くかすかな明かりも届かぬ暗がりに、何かが座っているようであった。
「誰だぁ、おめえは・・・」
年のころは、15、6。散切り頭の男の子のようだ。
やせこけた真っ黒い長い脚を抱え込んで、上目遣いに甚四郎を覗いている。
甚四郎はめまいを感じた。
堂内の、400年も燻しぬかれた真っ黒い板壁の中に、真っ黒い少年が溶け込んでいく。白い眼が中空に浮いて、甚四郎を上目遣いに睨みつけている。
その白い目も、真っ黒い板張りの壁に吸い込まれていくように感じられた。
「あっ・・・・・」
甚四郎の手から湯呑が落ちた。湯呑は冷えた茶をまき散らしながら転げて、蓮台の下で止まった。
翌日、もがりが明けても祇祐堂から出てこぬ一家を不審に思った村人が見たのは、五兵衛たちの遺体であった。皆、枕を外され、首の骨を折られていた。
一人、甚四郎だけは、目を開いたまま、蓮台の前でうつぶせに倒れていた。
杉皮の練り香は燃え尽きて、残った灰は、もう冷え切っていた。
祇祐堂の怪事のうわさは、たちまちに広まった。折からの不景気にあえいでいた俚人たちは、世が大きく乱れる予兆と感じて、いよいよ不安を強くした。
甚四郎が見たものはいったい何だったのか・・・・・。
その年の10月末日、地元の侠客たちが、武装蜂起し、秩父の豪商らを襲撃する秩父事件が勃発した。わずか、10日間の反乱であったが、明治政府は驚愕し、秩父に官憲を派遣し風紀・治安を乱すうわさ話を取り締まった。
祇祐堂の怪事のうわさも取り締まりの対象となり村人は口をつぐんだ。しかし、祇祐堂の怪事はひっそりと伝えられ、名主ヶ谷戸に近づく村人は、いまも、いない。