婚約破棄された鷹匠令嬢、山で狩りをしていたら公爵令息を拾う
「ルニス・エラクス、お前との婚約を破棄する!」
伯爵家の令息ザロック・オーグは、子爵家の令嬢ルニスに対し、オーグ家の屋敷にて言い放った。
ルニスは長い黒髪、キリッとした目鼻立ちで、鋭い美貌を持つ非常に凛々しい令嬢だった。ドレスも白を基調とした質素なものだ。いわゆる貴族令嬢らしい華やかさはさほどない。
なにしろ彼女のエラクス家は代々山での狩猟を生業とする家系で、それも鷹を用いた狩り“鷹狩り”を得意とする。
非常に厳しい訓練を要する狩りであり、華やかというより、勇ましい容姿になるのは当然といえた。
ルニスは努めて冷静に返す。
「私とあなたの婚約はすでに正式な手続きも済んでおります。それをなぜ今更になって破棄されるのでしょうか」
ザロックはその長めの鼻からフンと息を漏らす。
「鷹匠風情がいっちょ前に反論してくるのか」
鷹狩りを行う“鷹匠”は、国や文化によっては非常に高貴な存在として扱われる。
しかし、この王国ではその限りではない。どちらかといえば「鳥を用いて狩りを行う邪道な存在」という価値観の傾向にある。
ザロックもまた、そのような価値観の持ち主であった。
「まあいい、答えてやる。お前との婚約を決めた決め手は、お前んとこの土地だった。お前と結婚すれば、お前らの家が狩場として所有してる広大な山々が手に入るわけだからな」
だが、と舌打ちする。
「実際にその山を見てみたら木がボーボーに生い茂ったそれこそ狩りぐらいしかできそうにない山だ。あんなもん手に入ったところで、なんの役にも立たねえ! だから破棄するんだよ、破棄」
一方的に意見を叩きつけられたが、それでもルニスは冷静だ。
「私としてもオーグ家との繋がりにメリットを感じ、婚約した部分があります。こんな一方的な主張が通るとお思いですか?」
「通るさ」
ザロックが手を上げると、周囲を十数名の兵が囲った。
いずれも主人に似て、どこか粗暴な顔立ちをしている。
「オーグ家自慢の私兵たちだ。婚約の破棄を了承しなければお前はここから無事に帰れない。それどころか、お前の父親もどうなるか……」
「あなたという人は……!」
ザロックは力技で婚約破棄を押し通すつもりだ。
こうなってはルニスになすすべはない。とても武力ではオーグ家に太刀打ちできないのだから。
「分かりました……婚約破棄を受け入れます」
「そうか。だったら手続きに入ろうか」
ザロックは嬉しそうに頬と唇を歪める。
ルニスはザロックに何一つペナルティを負わせることもできぬまま、婚約破棄を受け入れることになった。
***
山の麓にある邸宅に戻ったルニスは、父に婚約破棄の報告をする。
「父上、申し訳ありません。ザロック様から婚約を破棄されてしまいました」
「そうか……」
ベッドに横たわる父ルイード。
ルイードも優秀な鷹匠であったが、近年は体を壊し、ほとんど狩りにも出られないという状態だった。
「あまり気にするな」
「しかし、父上……」
「ザロック殿との相性が悪かった。それだけのことだ。それより、このことをあまり引きずるでないぞ」
「父上……」
ルイードは娘を一切責めなかった。
領地の殆どが山であるエラクス家は、近年厳しい生活を強いられている。
狩猟で生計を立てるわけだが、畜産業の台頭で、その需要は年々減ってきている。
山に生い茂っている木も林業に使えるようなものではない。
このままでは貴族としての体裁を保つことも難しい。そんな中舞い込んだオーグ家との縁談は是が非でも成功させなければならなかったが、残念ながら破談となった。
それでも娘に励ましの言葉のみをかける父の優しさがルニスの身に染みた。
ルニスは動きやすい狩猟用の装束に着替える。長袖のチュニックとズボン、軽く頑丈なブーツ、自慢の長い黒髪もこの時は後ろで結わう。
「クート、行くよ!」
ルニスの右腕に一羽の大きな鷹が降り立つ。
銀色の毛並みに覆われた美しい鷹であった。
ハクギンタカ――通称シルバーホークとも呼ばれる種で、鷹の中でも極めて高い知能と戦闘力を誇る。
小動物はもちろん、時には大型の獣を倒してしまうこともある。
このハクギンタカの“クート”が鷹狩りにおけるルニスの相棒であった。
彼は普段は邸宅の近くを旋回しており、狩りになるとルニスに付き従う。
山に入ったルニスは狩りを開始する。
「行けっ、クート!」
ルニスが命じると、クートは翼を広げまっすぐ獲物に飛んでいく。
その鋭い爪で鮮やかにイノシシを仕留めてみせた。
雄叫びを上げるクートに、ルニスは笑顔を向ける。
「よくやったわ!」
腕に戻ったクートを存分に褒め称える。
婚約破棄という苦汁を味わったが、狩りをしているとそんな悩みからも解放される。
この日の夜、ルニスは命に感謝しつつ、父や使用人らとともにイノシシの肉を味わった。
***
しばらく経ち、ルニスの心の傷も癒えた頃、日課の狩りに向かおうとする彼女に父ルイードが声をかける。
「先ほど報告を受けたのだが、今日は入山希望者が一人いたという。狩りの時はくれぐれも気をつけてな」
「承知しました、父上」
エラクス家領地の山は険しいため、とても登山を楽しむような山ではなく、来訪者は滅多にいない。
ところが、時折こうしたこともある。
山に入り、ルニスはクートとともに狩りを始める。
順調に野兎や狐などを狩る。
そろそろ下山しようかという時、クートがルニスの目の前で慌ただしく羽ばたく。
これはクートが何か異変を察知した時の合図であり、ルニスもすぐに察する。
「何かあったのね。案内して!」
クートはそのまま森の中に飛んでいく。ルニスもすぐさま後を追う。
そこには――
「人……?」
赤みのある茶髪で、登山服を着た青年が木に寄りかかるように倒れていた。
彼が父の言っていた入山希望者だと判断し、ルニスが声をかける。
「大丈夫ですか!」
「これはお恥ずかしいところを……」
ルニスは一目で状況を判断する。
「どうやら、滑落して足を挫いたようですね」
「面目ない……」
「その足では歩けないでしょう。私におぶさって下さい」
ルニスがしゃがんで背を向けると、青年は恐縮する。
「いや、それは悪いよ。なんとか自力で下りる」
「そうはいきません。私はこの山の領主ルイード・エラクスが一人娘ルニス・エラクス。遭難者を見かけた以上、私には救出の義務があります」
強い口調で告げられると、青年も観念したようにつぶやく。
「……分かった。お言葉に甘えよう」
ルニスは青年を背負うと、クートに指示を出す。
「クート、屋敷に要救助者があったことを知らせて」
クートは飛び去り、ルニスはそのまま危なげない足取りで下山を開始する。
人一人を背負っているにもかかわらず、歩くペースは安定している。
「すごいね……」
「これぐらいでないと、エラクス家の娘は務まりませんので」
「なら、私も安心して運ばれることにしよう」
青年はルニスに体を預けるような姿勢になり、ルニスも信頼されたことが嬉しいのかフッと笑む。
ルニスはそのまま下山する。
麓にある屋敷ではクートが知らせたことで、すでに医療の心得がある面々が待機していた。
青年は屋敷の中に運ばれ、手厚い治療を施された。
***
エラクス家の屋敷。客室のベッドで青年は横たわる。右足首には包帯が巻かれている。
「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。ところで、あなたの名前は?」
「これは失礼。私はアルゼン。アルゼン・シュタインという」
アルゼンは胸に手を当てて名乗る。瞳の色は赤く、鼻筋の通った精悍な顔立ちである。ルニスよりやや年上であろうか。
一方、ルニスは自分の記憶を探っていた。
「シュタイン、どこかで聞いたことが……あなたは貴族では?」
アルゼンは少し照れ臭そうに答える。
「シュタイン家は公爵家だ」
「まあ……」ルニスは少し驚く。「公爵家の方がどうしてこの山に?」
「私は山が好きでね。今回も許可を取って、山歩きを堪能していたのだけど、景色に夢中になってしまい、そうしたら足を滑らせて……」
「そういうわけだったんですか」
「山歩きは慣れているはずだったんだけどね」
「あなたを背負ったので分かります。かなり鍛えてらっしゃる方だな、と」
「だけど、いくら鍛えていても怪我をしてしまうことはある。肝に銘じておくよ」
不意にルニスは笑みをこぼした。
「……ん?」
「あ、いえ、すみません。あなたが無事だったことと、それと山の景色に夢中になって下さったことが嬉しくて、つい……」
申し訳なさそうにするルニスを見て、アルゼンも微笑む。
「いや、君が笑ってくれて嬉しいよ。迷惑をかけてしまったと思っていたから」
「そうですか……よかった」
鷹狩りを日常とする令嬢と、好んで山歩きをする令息。
互いに喋りは得意ではないが、同じ空間にいるだけで、二人は何か癒されるようなものを感じていた。
そして、ルニスは父ルイードにシュタイン家について尋ねてみた。
「シュタイン家といえば、王家に連なる名家で、代々北部の山岳地帯を領地としている一族だ」
「だからアルゼン様も、鍛えられていて、山歩きが得意だったのですね」
「そういうことだな。我々と同じく山を歩くことが日常になっていただろう」
ルニスはアルゼンが鍛えられている理由に合点がいった。
「しばらくお屋敷で休ませてあげようと思うの」
「そうだな。彼は山が好きなようだし、山を愛する人間には親切にせよというのは我が家の家訓でもある」
「はい、父上」
こうしてアルゼンは傷が癒えるまで、屋敷に留まることになった。
***
アルゼンの回復力は驚異的だった。
常人ならば一、二週間は安静にしていなければならない怪我だったが、二、三日で歩けるようになっていた。
ルニスも笑みを浮かべ褒め称える。
「すごい回復力ですね」
「いや、手厚い看護を受けたおかげだよ。料理も美味しかったし」
料理を作ったのは自分だったので、ルニスはほのかに頬を染める。
程なくして、ルニスが外出の支度を始める。
「おや? どこへ?」
「ひと狩り行こうかと思いまして」
「だったら私も同行させてもらえないかな?」
ルニスはためらうような表情を見せる。
「一度鷹狩りを見てみたかったんだ。リハビリがてら歩いてみたいし。もちろん迷惑はかけない。約束する」
「分かりました。では一緒に行きましょう」
ルニスは狩人の装束に、アルゼンは自身の登山着に着替える。
屋敷を出ると、ルニスはクートを腕に呼び寄せた。
「私を見つけ出してくれたのは彼だね。美しい鷹だ」
「ええ、ハクギンタカのクートっていうんです」
「クートか。私はアルゼンっていうんだ。よろしく」
クートはキュイイと声を発した。
「まあ、珍しい」とルニス。
「え?」
「クートは気位が高く、見知った人間以外には滅多に愛想を見せません。なのにこうして返事をするなんて」
「ありがとう、クート」
しかし、クートは顔を背けた。これにルニスは「コラ」と言い、アルゼンは笑った。
クートを伴い、二人は山に入る。
アルゼンの足取りは軽く、ルニスのペースを乱すことはなかった。途中、ルニスの指示にもしっかり従う。
ルニスは「いい人だ……」と思った。
見晴らしのいいところで、ルニスがクートを放す。
「行けっ、クート!」
クートはまもなく野兎を仕留めた。
「よくやったわ、クート!」
「素早く動くウサギを……鮮やかなものだな」
ルニスに頭を撫でられたクートはというと、アルゼンの肩に乗った。
「ん?」
「これも珍しいことです。クートが私と一族の者以外に懐くなんて初めてです」
「だとしたら嬉しいな」
しかし、アルゼンがクートを撫でようとするとすぐ肩から離れてしまった。
「クート!」
「いや、今のはなんとなく分かるよ。いわば主人の客である私に一定の敬意は払うけど、撫でられるとか、そういうのは求めてないってことが」
「アルゼン様ったら、私よりもクートの気持ちが分かってるみたい」
「これは男同士ゆえの感覚かもしれないね」
その後も獲物を仕留め、日没近くになり、ルニスたちは下山の準備を始める。
「こうして狩った獲物はどうするんだい?」
「自分たちで食べるのはもちろん、捌いて食肉として販売します」
「なるほど、そうやって生計を立てているわけか」
「ですが近年はなかなか厳しいですね。畜産が発達して、安くて美味しい肉が出回っていますし、エラクス家も新たな道を模索する時が来ているようです」
「……」
ルニスは鷹匠であることを誇りに思っているが、それだけでは先細りする一方。
アルゼンもルニスの抱える厳しい内情を察して黙り込むしかなかった。
それからも毎日、二人はクートとともに狩りに出向く。
時にはクートはアルゼンに獲物を運んでくるようにもなった。
「ありがとう、クート」
アルゼンが礼を言うと、クートは得意げにキュイイと鳴いた。
***
アルゼンが屋敷に来てから、一週間が経った。
すっかり足が治ったアルゼンは、ルニスの許可を取り、一人で山を歩いていた。
そして岩が突出した一角を発見する。
「……ん?」
アルゼンの顔に驚きの色が浮かぶ。
注意深く岩の黒い部分を触る。
「これは、まさか……!」
アルゼンはすぐにルニスを呼んだ。岩の欠片を見せる。
「この岩の欠片がどうかしたんですか?」
「これはアルハイル鋼じゃないだろうか。いわゆる“レアメタル”の一種だ」
「レアメタル……」
アルハイル鋼は金属の一種で、加工がしやすくなおかつ軽くて頑丈ということで、武器や農具、工具、さらには建築材として注目されているとのこと。
ただし天然の含有量は多くなく、非常に高値で取引されている。
「ルニス、これがあればもしかするとエラクス家を救えるかもしれない」
だが、ルニスはあまり浮かない表情だ。
アルゼンもすぐにその心の内を察する。
「分かってる。例えばこの山をレアメタル採掘場として開拓するようなことをすれば、山としての性質は大きく変わってしまう。それが怖いんだろう?」
「はい。もちろん家のためになると分かっているのですが……」
「だからここは我がシュタイン家に協力させてもらえないだろうか?」
「アルゼン様のお家が?」
「我々も山に関する知識は豊富だし、我々なら無理のないレアメタル採掘を進めることができる。同時に公爵家として持つ流通ルートを使って、あまり派手にならないようにレアメタル販売を進めることができる。この美しい山にむやみに手を入れてしまうのは、私も望むところではない」
ルニスとしては願ってもない提案だった。
仮にルニス自身がこのアルハイル鋼に気づいたとしても、それを売りさばく伝手はなかったのだから。商売下手を見抜かれ、安く買い叩かれてしまうのがオチだったろう。
「それに私は……エラクス家の、いや君の力になりたいんだ」
若干の緊張をはらんだまっすぐな眼差し。これが本心であるとすぐに分かった。
ルニスは顔をほころばせる。
「どうかよろしくお願いいたします」
ルニスはこの山に眠るレアメタルの採掘や販売を、アルゼンに託した。
父ルイードも、「シュタイン家に託します」と賛成し、ただちにビジネスが動き始める。
***
アルゼンはレアメタル“アルハイル鋼”の販売を開始した。
しかし、エラクス家の生業はあくまで狩猟。それに山をむやみに掘り進めたくないという思惑もあり、ごく限られたルートでの販売に絞った。なおかつルニスの意向で、価格もむやみに吊り上げることはしなかった。
この試みは上手くいき、山はありのままの姿を残したまま、エラクス家の領地は少しずつ息を吹き返していった。
ところが――
このレアメタルの件は静かに進められていたにもかかわらず、かつての婚約者ザロックは目ざとくこの話を聞きつけていた。
いまいましげに顔をしかめる。
「あの山からレアメタルが出るとはな……」
彼がゴミの山だと判断した山は、とんだ宝の山だった。
しかも、ルニスはその宝で大儲けしようとはしておらず、地道な商売をしている。それが余計にもどかしい。宝の持ち腐れをしているとしか思えない。自分ならもっと……という気持ちが湧き起こる。
かといって、ルニスに今更「また婚約しよう」などと言って通じるわけもないのは分かっているし、公爵家であるシュタイン家も関わっている。この状況を穏便に解きほぐし、自分の利益にするのは難しい。
そこでザロックが出した結論は――
「だったら無理矢理奪えばいい」
オーグ家の私兵らに命じる。
「ルニスが狩りをする日程は分かっている。20人ほど連れて山に入るぞ。そしてルニスを殺し、あの山をオーグ家のものにする。あいつの親父はくたばりかけで、当主は実質ルニスだからな」
私兵の隊長が言う。
「しかし、シュタイン家の関与もありますが、そちらはいかがいたしましょう?」
「いくら公爵家といっても、大昔に山岳地帯に追いやられたカスみたいな家だろ? 恐れることはない。そいつらもまとめて始末し、事故として処理してしまえばいい。それぐらいのことをする価値が、あの山にはある」
「それもそうですな」
「では行くぞ! ルニスの首を取る! 死体は山に埋めてやればあの女も本望だろ!」
兵を率い、ザロックが動き出した。
***
ある日の午後、ルニスとアルゼンは山にいた。
目的は狩りであるのだが、二人の間にはどこか甘い雰囲気が漂っている。
二人はいつしか好き合うようになり、今日も狩猟を兼ねたデートのような散歩をしていた。
並んで山を歩いているだけで楽しい。実に心地よい時間が過ぎていく。
ところが、ルニスの肩に止まっていたクートが不意に騒ぎ出す。
獲物を見つけた時とはまた違う、尋常ではない興奮を見せる。
「どうしたの、クート!?」
アルゼンの顔つきも険しくなる。
「どうやら何かを感じ取ってるようだ。それもあまりよくないことを」
すると――
「見ィつけた」
声とともにザロックが現れた。山だというのに、貴族としての普段着。後ろには鎧をつけた私兵を引き連れている。
「ザロック様……!?」
普段は冷静なルニスにも、声に動揺が見られる。
ザロックはニヤニヤとした表情を浮かべつつ、視線をルニス、そしてクートに移す。
「こんな宝の山を持ってるのに、未だに鷹匠やってるのか。いくらでも裕福な暮らしができるだろうによ。ホント変わってるよな」
「なんの用ですか?」
ルニスは毅然と言い返す。これにザロックは肩をすくめ――
「この山、レアメタルが出たんだって? アルハイル鋼、今最も注目されてる金属だ」
「なぜそれを……!」
「限られたルートで販売してたのにってか? 俺たちの情報網をナメるなよ」
この時点でルニスにはザロックの用件が分かっていた。だが、一応尋ねる。
「それで、レアメタルが何か?」
「何か、じゃねえよ。まさかさ、かつて婚約破棄した相手の土地からそんなものが発見されるとは思わないじゃん。俺としても誤算だったよ。ああ、もったいない。時間を巻き戻したい、って気分だ」
ザロックの目が鋭さを帯びる。
「だからさ、この山……俺にくれないか?」
断れば後ろの奴らをけしかける、というのは明らかだ。
ルニスとしてはこんな争いにアルゼンを巻き込んでしまうのはなんとしても避けたい。
「もし譲るというのなら、大人しく帰って下さるのですか?」
「もちろんさ。婚約破棄の時と一緒だな」
だが、アルゼンは警戒の姿勢を崩さない。
「ルニス、彼の言葉を信用するな」
「!」
「君がどう返事しようと彼は我々を殺すつもりだ。もし本当に交渉するつもりなら、わざわざこんな場所まで来はしない」
ザロックの目論見をアルゼンは看破する。
「ふん、よく分かってるじゃねえか」
「ザロック様……!」
「ここでお前らを殺し、所有権が宙に浮いたところで話を上手く転がせば、この山はオーグ家のもんだ」
ルニスとアルゼンはアルハイル鋼の販売を慎重に行っており、良くも悪くも世間の目を引いていない。ここで二人を始末し、ザロックが強引に事を進めてしまえば、山を手中にするのも決して不可能ではない。
「待って下さい! 私はともかく、アルゼン様は関係ありません! 見逃して下さい!」
「そうはいくか。まとめて死んでもらう」
「でも、アルゼン様は公爵家のお方なのですよ!? そんな方の命を奪えば……!」
「所詮は僻地に送り込まれた、無駄に格だけある田舎貴族だろ? そんなもんを恐れる俺じゃねえよ」
ザロックは家柄で怯むことはない。
ルニスは歯噛みするが、アルゼンには余裕がある。
「大丈夫」
「アルゼン様……?」
「その証拠にクートは君の肩から動かない。彼は賢い。もし今の局面がピンチだと判断すれば、彼は連中に飛びかかっていただろう。それがなぜ動かないのか……」
アルゼンが前に進み出る。
「私の実力を信頼しているからこそ、クートは動かずにいてくれるのだろう」
「クートが……?」
「ああ。クートはおそらく今までに私が“自分の主を託せる男か”を見定めていた。そして、今のこの状況は私で十分だと判断してくれている」
アルゼンは近くに落ちている木の枝を拾った。
「おいおい、あんなのでやろうってか!?」私兵の一人が笑う。
「お前たちなどこれで十分だ。来い」
アルゼンが枝を構える。
ザロックは「バカが」と言葉を吐き捨て、兵士たちに命じる。
「まずあの田舎貴族を片付けろ! その後はルニスとペットの鳥だ!」
私兵たちが猛スピードで殺到する。
だがアルゼンはそれ以上の凄まじい速さで駆け出し、瞬く間に三人を打撃で倒す。
ここは山の中、土や斜面で私兵たちはいくらか動きが鈍っているが、アルゼンはまるでそれを感じさせない。
それどころか生えている木などを蹴り、跳躍し、人間離れした身軽さで敵を打ち倒していく。
「な、なんだこいつは……!?」
狼狽するザロックにアルゼンが答える。
「一つ教えておいてやろう。我がシュタイン家は王家から北の山岳地帯の守備を仰せつかった一族だ」
「守備……!?」
「以来200年、我々が北からの脅威を通したことは一度たりともない。我々もそれをいちいち誇示したりはしないから、知らない者も多いようだがね」
ザロックの顔面が汗まみれになっていく。
「シュタイン家が誇る山岳部隊は山の戦いでは世界最強を誇る軍団だ。そして私は現在、その軍団の長を務める。山の中で私を倒すことは諦めた方がいい」
言葉通り、オーグ家の私兵は相手にもならなかった。
枝しか持たぬアルゼンに傷一つつけられず、ついには隊長も倒され、あっけなく全滅してしまった。
しかし、戦いの最中に敗北を悟ったザロックは逃げてしまっていた。
「逃げたか……。だが、兵隊たちは捕まえたし、このことは王家にも報告する。彼も彼の家も終わりだろう」
アルゼンが枝を地面に放ると、ルニスは呆気に取られた顔をしていた。
「アルゼン様って……こんなに強かったんですね」
「まあね」
「それも山の戦いでは最強を誇るなんて……」
「少しは驚いてくれたかい?」
「はい。でもそれなのに、私と出会った時は足を滑らせてしまったんですね……」
「うぐっ……。ま、まあそれだけこの山が美しかったってことだね」
世界最強の山岳兵が、山で景色に見とれて足を滑らせ大怪我を負う。まさしくあれは珍事中の珍事だったのだ。
二人は笑い合った。
だが、ルニスは自分の肩からいつの間にか“彼”がいなくなっていることに気づく。
「あれ……クートは?」
***
部下を置いて逃げたザロックは一人、山をさまよっていた。
「くそ、くそ、くそっ! 自慢の兵たちが……! 化け物め……!」
その眼は敗北感に打ちひしがれていたが、まだ陰湿な光を宿していた。
「俺はもう終わりだ……! だが、奴らも道連れにしてやる……! 屋敷に火をつければ、ろくに動けねえルニスの親父ぐらいなら殺せるだろ……! 泣き叫ぶルニスが目に浮かぶぜ……!」
ヤケクソといっていい計画を立てる。
貴族としての人生が終わりだと悟った彼は、むしろ開き直り、とことん不幸をばらまく悪魔になってやると決意する。
あまりにも後ろ向きな、前向きな決意。
だが、そんな彼の眼前に――
「なんだ?」
クートがいた。木の枝に止まっている。
彼はまるでザロックをあざ笑うように、キュイイと鳴く。
「なんだ、このクソ鳥は……」
たちまちザロックは怒りの形相になる。クートの鳴き声は収まらない。
「俺をバカにしやがって……!」
クートは翼を広げる。挑発するかのように。
「ブッ殺してやる、このクソ鳥!!!」
目を血走らせ、クートを無我夢中で追い回す。
その時――
「あっ!?」
ザロックは足を滑らせる。登山に適さないブーツを履いていたので、当然だった。
「うわあああっ!!!」
そのまま彼の体はみるみる斜面を落下し、その果てにはルニスさえ知らない山の裂け目があった。
裂け目の中には暗黒が広がっている。
ザロックは吸い込まれるように、深い深い奈落の底に落ちていった……。
彼が見つかることは決してないだろう。
それを見届けたクートの眼は、まるで――
『主人たちに仇なす者は許さぬ。それにしても愚かな人間だ……』
と言っているかのようであった。
この件の後、ルニスとアルゼンは正式に婚約し、結婚に至る。
鷹匠の令嬢は、晴れて公爵家に嫁ぐことになったのである。
***
しばしの時が流れた。
シュタイン家の加護の下、エラクス家の領地も自然の姿を保ったまま、少しずつ潤い始めている。
寝たきりだったルニスの父ルイードも、領地の景気と連動するかのように、体調が快方に向かっており、山を散歩するぐらいはできるようになった。
シュタイン家に嫁いだルニスは頻度こそ減ったが、鷹狩りを続けている。クートは今でも彼女にとって大切なパートナーだ。
小さな雲が漂うのどかな昼下がり、ルニスとアルゼンは夫婦でデートをしていた。
シュタイン家領地は山岳地帯なので彼らのデートコースは山道になるが、二人にとっては苦ではない。
アルゼンが妻にささやく。
「こうして山を歩いていたら怪我をして、君とクートに救われて、今はこうして夫婦になった。人生って不思議だね」
「ええ、私もこのまま鷹匠をしていていいのかなって思った時期もあったけど、結果としてそのおかげであなたと出会うことができた」
なだらかな山道が続く。
「人生は山登りみたいなものだ。危険も多く、油断すれば大怪我する。だけど、得られるものも多い。私は君となら、生涯に渡っていい山登りができると思っている」
「私もです。あなたとならきっと……」
どこからかクートの鳴き声が聞こえた。
「おっと、彼のことを忘れてはならないね」
「そうね。空と山と大地を見渡せるクートは、私たちになくてはならない存在だもの」
少しの沈黙の後、アルゼンがささやく。
「愛してるよ」
「私もです」
そんな二人を、高い木に止まるクートはどこか優しげな瞳で見つめていた。
完
お読み下さいましてありがとうございました。




