8>> 開かれる世界
最初の頃はクレアはただ日がな一日何もせずに過ごした。
天気が良い日は外で、天気が悪い日は家の中で。
義母の仕事は家事と内職だったので、仕事が一段落したらクレアを呼んで散歩をしたり話を聞かせたり絵本を読んであげたり一緒におやつを食べたりした。
太陽が沈みだし、空が赤みを帯びだした頃に義父が仕事から帰って来る。義父は家で少し休憩した後にワンの散歩も兼ねてクレアと一緒に外を歩いた。男の人と手を繋いで歩く。大きな手の温かさと自分の手が優しく包まれる感触。クレアはその内その時間を楽しみにするようになった。ワンは牧場犬という仕事から解放されたからか、楽しそうに駆け回る。クレアの顔を何度も見上げて嬉しそうに目を輝かせる。
義父が短い棒を投げるとワンが尻尾を振って追いかけて、そして同じ棒を咥えて戻って来る。クレアの前に。義父は最初の頃は「僕が投げたのに……」と眉を下げていたが、その内クレアの前に棒を落とすワンに合わせるように棒を拾っては投げていた。
楽しそうに笑っている義父とワンの姿をクレアはただ見る。何も言うことはなかったが、クレアの表情はとても穏やかだった。
クレアの口から「もうしわけありません」という言葉が出なくなった頃、義母はクレアに家事の手伝いを頼みだした。
最初は掃除から。義母が箒を使い、塵取りをクレアが担当する。洗濯物を干す時はクレアも一緒に干す。食事の時はクレアがテーブルにお皿などを並べる。洗い物を義母が洗う横でクレアが拭き、それを義父が棚に仕舞う。義父が本を出してクレアに読み聞かせた後はその本をクレアが元の場所に戻す。義父が薪を割ったらその割れた薪をクレアが拾って並べる。
クレアが何かをすると2人はクレアに「ありがとう」と言った。そうして時々クレアを優しく抱き締めた。温かく柔らかい他人の身体にくっつかれることがクレアは嫌ではなかった。
ある時、クレアは思い切ってワンに抱き着いてみた。もふもふふわふわとするワンの体毛は気持ちが良く、顔に当たるとくすぐったいだけではない不思議な気持ちになった。ワンの体温はクレアより温かく、気持ちが良かった。
「ワン!」
そう言ってワンはクレアの顔を舐める。それはちょっと嫌だったが、クレアはワンに抱き着いていると自分の頬が少しだけ柔らかくなる感触が分かった。
「………………わん……」
ワンの体毛に顔を埋めながらクレアはワンの名前を呼んでみた。それはとてもとても小さな声だったが、ワンの耳にはちゃんと聞こえた。
「ワン!!」
嬉しそうにワンは尻尾を振る。
その仕草が『喜び』なのだと、クレアは感じた。
◇
その日の夕方、クレアは自分の中の異変に気付いた。
「ただいま、マーサ」
「おかえり、ジン」
仕事から返って来た義父が義母にいつも通りの挨拶をした。
そして義父はクレアの方まで来ると、
「クレア、ワン。ただいま」
そう言ってクレアに微笑み、ワンの頭を撫でた。
いつものやり取り。
この場所に来てからほぼ毎日同じやり取りをしていた。なのに何故か今日は……
今日はなんだか鮮明に聞こえた気がした。
マーサ。ジン。
義母と義父の名前。
最初に会った時に聞かされた言葉。義母と義父がお互いに呼び合う名前。
もう、聞き慣れた音……
なのに何故か今日はその音が気になった。
いつもなら気にならないのに。
何故か今日は気になった……
「……おかえりなさい……、ジン……」
クレアは何となくそう言ってみた。
“おかえりなさい”はいつも言っていた言葉だった。そう言うのだと、教えられたから。だから馴染みの……ただ言うべき言葉、だったはずだった……
なのになぜだろう……その後に名前を言うだけで、なぜだかクレアの心臓が少しだけ強く鳴った気がした。
「……!」
クレアの言葉を聞いて義父は目を少しだけ見開いた。
驚いた顔。
クレアかそう思った時、義父の顔は花が咲くように変化して、泣きそうな、それでいて声を出して笑い出しそうな、でも泣き出しそうな、そんな、良くわからない顔をして、義父は笑った。
「……あぁ……
ただいま、クレア」
義父の声は震えていた。そしてクレアを抱き締めてくれたその体温は、本当にあたたかかった……
それから、クレアは義父と義母の名前を口にするようになった。
ジン。マーサ。
養父母はクレアに自分たちのことを父や母と呼ぶことを強要しなかった。2人はクレアが呼びたいように呼べば良いと思っていたし、何より『母親』との記憶にまともなものがないクレアに、『母』と呼ばせることには思うところがあった。まだ知っていることが少ないクレアが混乱してもいけないとも思っていたのもある。
そしてなにより、マーサもジンも『無理に母親や父親を意識しなくても、一緒に居れば、自然と“家族”になれる』と思っていた。
自分を父と思わなくてもいい。
自分を母と思わなくてもいい。
ただ、クレアの中で『家族』になれたら嬉しい。
クレアが自然と『頼りたい』と思える存在になりたい。
そう……2人は考えていた。
◇ ◇ ◇
その日は昼前からクレアは義母と義父とワンと全員一緒に草原に来ていた。
とても陽の光が気持ちの良い天気だった。
クレアは暖炉に当たっている時のように温かくなる身体とフワフワサワサワと身体に当たる見えない風を全身で感じながら立っていた。
目の前に広がる外の世界。
どこまで続いているのか分からない青い空。森、林、草。広がる緑。
クレアは養父母たちから教わった『色』の名前を当てはめながら見る。
匂いが、クレアの鼻をヒクヒクとさせた。その匂いの元を探すが見当たらない。そんな不思議もクレアにとっては『不思議』だった。
クレアの足元をワンが駆け回る。
クレアは最初、そんなワンには気付かなかったが我慢できなくなったワンが
「ワン!」
と大きな声で吠えたので、クレアは肩を揺らしてワンを見た。
ワンはハッハッハッと嬉しそうに舌を出してクレアを見ていた。前足を前に出して頭を低くしてお尻を上げた状態で尻尾をプンプン振り、そしてまた体勢を戻したかと思うとまた頭だけを低くしてクレアを見ていた。尻尾はブンブン揺れている。
クレアはワンがどうしたいのか分からずに小首を傾げてワンを見ていた。
ワンの望みに気付いたのは義父だった。
義母の横に立ってクレアたちを見ていた義父はパッと笑顔になると駆け出した。
そしてそのままの勢いでクレアの手を取ると、クレアを引いて走り出した。
「クレア! 走ろう!!」
「?!」
手を引っ張られて自然とクレアの足は義父に付いて行く為に走った。
温かい義父の手と、頬に当たる風の感触。髪が動く感覚。身体が弾む感覚。
クレアは驚いた表情のままに少しの間、義父に引かれて走った。
流石にクレアの体力を考えて義父は直ぐに走るのを止めた。それでもクレアの息は上がる。足の感じが何か違う。
「……っ!? は……っ……?」
クレアは自然と忙しなく動く自分の胸元に手を置いて不思議に思った。そんなクレアを少しだけ肩を揺らしながら義父は嬉しそうに見つめる。
「これが、“走る”、だよ、クレア」
義父の言葉をクレアは心の中で反芻した。
「ワンワン!!」
そんな二人を少し離れた場所からワンが呼ぶ。
その声に義父がワンを振り返って声を掛けながら近付こうとした。
「ほらワンもおいで」
そう言った義父を見てワンは……背を向けて全速力で走り出した。
「ワン?!? どこに行くんだ?! ワン!!!」
慌てた義父はワンを追い掛ける。
そんな義父を見てクレアは目を丸くした。
「戻っておいでワン!?! ワンー!!!」
義父は頑張ってワンを追いかける。ワンは一応牧場主から預かっている形を取っているので、万が一にも何かあってはいけないと義父は焦っていた。しかしそんな義父の心の内など分かる筈もないワンは、恐ろしいほどの全速力で一瞬クレアの視界から消えた。しかしまた直ぐに全速力で戻って来て今度は逆方向へと走って行った。
「ワン!! おい!? ワンー!!」
義父は一生懸命追い掛ける。全然追い付けてはいないのだが、義父は必死でワンを追いかけた。
「……あ……」
クレアはどうしていいのか分からずに立ち尽くしていたが、そんなクレアを義母が呼んだ。
「クレア。こっちに来て手伝ってくれない?」
「……うん」
そう言ってクレアは義母の側まで歩いた。
いつの間にかクレアの返事は「はい」から「うん」に変わっていたが、クレア自身は気付いてはいなかった。義母たちもわざわざ指摘したりしない。『自然に変わっていくこと』を養父母は楽しんだ。
義母はお昼の準備をしていた。手元を見ながら義母はクレアに話す。
「久しぶりにたくさん走れてワンも楽しくなっちゃったのね。
ちゃんとクレアの側に帰って来るんだから、ジンも追い掛けなくてもいいのにね。追い掛けるからワンも楽しくて仕方がないのよ」
そう言ってフフフと義母は笑った。
クレアの後ろからは「ワン〜! 待ってくれ〜!!」と義父の声が小さく聞こえる。
クレアは何となく振り返ってワンと義父を見た。
ワンは絶妙な距離で義父から逃げ回り、そんなワンを義父が必死に追い掛けている。クレアはワンの顔と義父の顔を見た。ワンは舌を出して大きく口を開けている。義父も大きな口を開けているが眉間にシワを寄せて汗がたくさん出ていた。クレアはその違いを不思議がり、でもずっと見ていたいとも思った。
◇
疲れ切った義父が仰向けで動かなくなった横で、クレアと義母はお昼ご飯を先に食べることにした。たくさん走って満足したワンは水を飲んで今はクレアに寄り添ってしゃがんで毛繕いをしている。
「今日はクレアにして欲しいことがあるの」
「?」
義母は木の皮を編んで作られた蓋付きの籠の中からクレア用の食事を出しながら話し出した。
クレアの前には小さなサイズに切られたパンが3つ並べられた。そして義母はその3つのパンに違う色のジャムを塗った。3色のパンがクレアの前に並んだ。
「この3つを食べて、残りのパンにどのジャムを塗って食べたいかを、考えて欲しいの」
そう言って義母はクレアの前に何も塗られていないパンと3種類のジャム入り瓶を出した。
「4つ目のジャムは、クレアが選ぶのよ」
そう言って義母は笑った。
クレアは3つの色のパンを見て無意識に呟く。
「えらぶ…………」
“選ぶ”とは何か、をクレアはもう知っている。多分クレア自身も無意識下では『選んで』来ては居たはずだった。だが、改めて言われると、クレアは『それをどうすればいいのか』困ってしまっていた。
でもそんなクレアを義母は微笑んで見ている。
まず食べましょう。そう言ってクレアにパンを食べることを勧めた。そして義母自身もパンを食べた。
クレアはまだたくさんを食べられない。栄養を取らないといけないが、胃が受け付けないのだ。だからクレアの食事の量はとても少ない。1日の間でちゃんと食事の時間を決めつつクレアは間食を細々と取っている。でもそれもまだ義母たちがこれを食べなさいという形で出している状態だった。家にはクレアの食べていいお菓子やジュースやお茶などを置いてあるのだが、クレアはまだそれを『自分で選んで』取ることができないでいた。
今日はその練習も兼ねているのだ。
義母なら一口で食べられるサイズのパンを3口程使って食べたクレアは、自分の前に置かれた3種類のジャムの瓶を見て困っている。悩む、ではなく、困る、という表現が合ってしまうクレアに、義母の眉尻が少しだけ下がった。もっと『悩んで欲しい』と、『悩めるような自由さを教えてあげなければ』と義母は密かに思う。
そんな義母の心情に気付くこと無くジャムの瓶をジッと見ていたクレアは、遂に一つの瓶を持ち上げて義母に渡した。
「これ……」
少し不安げに差し出された瓶を義母は受け取る。間違いを怖がっているかのようなその仕草に、義母は気づかないふりをして笑顔をクレアに見せた。
「じゃあこれをパンに塗るわね。
そうねぇ…… 今日は後2つ食べましょうか。おやつもあるしね」
「……うん」
パカッとジャムの蓋が開く義母の手元を見るクレアの頬が少し上がっている気がする。『自分で選んだ』というこの小さな行為が少しでもクレアの自信に繋がっていればいいなと義母は思う。
クレアが選んだジャムは他の2つよりもより甘味の強い物だった。やはりクレアは特に甘い物を好むのだと義母は思う。
──司祭様に頼んで地方の砂糖菓子を取り寄せてもらおうかしら──
そうすればクレアは自分からお菓子を食べたいと手に取るかもしれない。
義母はできることが一つ増えて嬉しくなった。
クレアにはまず『好きなこと』を知ってもらうことが大切だから。
次は何をしようかと、義母は楽しく思うのだった。