7>> エーの新しい世界
※この話は全て作者のノリで書かれているものです。そして作者は専門家でもカウンセラーでもないことをご理解して頂いた上でお楽しみ下さいませ(; ˊ∀ˋ )
エーはどうしたらいいのか分からなかった。
ずっと『居た場所』から連れ出されたらたくさんの人が居て、知らない人たちばかりが周りに居て、初めてのことばかりが目や耳から入ってくる。
連れて行かれた部屋で『座っていい椅子』と『排泄場所』が知ってる感じの物だったので、エーは内心無自覚に安心していた。
無理矢理着せられていた『動きにくい服』を脱がされ、薄い、動きやすい服を着せられた。
椅子に座らされたエーに「この水は飲んでいいのよ」「これも食べていいのよ」「眠たかったらここで寝ていいのよ」などと色々言われたが、エーはよくわからずに返事もしなかった。
少ししてエーだけを部屋に残して皆居なくなった。ただじっとして動かないエーを心配して、一人の方が落ち着くかもしれないという配慮からだった。
「ゆっくりしてね」
そう言われたけれど、エーにはその意味は分からなかった。
誰も居なくなってやっとエーはトイレに行けた。
素早く出るものを専用の場所に出す。
ちゃんと決まった場所に出さないと怒られるとエーは覚えているからだ。
そして戻った部屋で、最初は座らされた椅子に座ったエーだったが、疲れた身体がエーを眠りに誘った。
目を開けていることができなくなったエーは椅子から立ち上がると部屋を見渡した。そして扉から一番離れた壁に椅子を運ぶと、その椅子を壁に付けて置き、その下に頭が入るように潜り込んで床に寝た。
壁際の椅子の下、顔を壁側に向けて、胎児のような姿勢になってエーは寝た。
顔を壁側に向けるのは、蹴られても顔面は守れるからだ。
エーの様子を見に来た聖女の一人がそんなエーの姿を見つけて驚いた声を上げるまで、エーは少しの睡眠を取った。
聖女の声に目を覚ましたエーは直ぐ様立ち上がって聖女に向かって頭を下げた。
「もうしわけありません」
エーの言葉に聖女ルディは青褪める。
ルディは驚いただけだ。エーを責めた訳じゃない。
だけどエーは謝罪する。頭を下げる。
それがエーの処世術なのだと分かってルディの目頭は熱くなった。
直ぐにエーの側に寄り、エーと視線を合わせる為に床に膝を突いた。そして優しくエーの両手を取ってエーと目を合わせる。
「こちらこそごめんなさい。驚かせてしまったわね。
眠たかったのよね。気付かなくてごめんなさいね。こちらにいらっしゃい。床で寝るより柔らかいわ」
そう言ってルディはエーの手を引いてソファーの側まで来ると、何をすればいいのか分からないエーの身体に柔らかく手を添えてソファーに横になるように誘導した。エーの身体は緊張の為に少しだけ硬くなっていたが抵抗することはなかった。
……抵抗すれば怒られると思っているからだ。ルディはそれが分かり心が苦しくなる。そして絶対に変な男をこの子に近付けさせないぞと心に誓った。
ソファーの上に仰向けに身体を横たえたエーはどうすればいいのか分からずにずっとルディを見ていた。
そんなエーの目元にルディは優しく手を添えて、エーの目元を暗くした。
「ここで寝ていいのよ。
今日は疲れたわよね……色々あって……
大丈夫よ……って言っても、……分からないのかもしれないのよね……
貴女が少しでも安らげますように……」
ルディはもう片方の手でエーの手を取ると、目を閉じて聖女の力を使った。
この子に少しの安らぎを……
この子に少しの癒やしを…………
温かい光がエーを包み、ルディの手の下でまだ開いたままだったエーの瞼を自然と下げさせた。
少しして、エーから微かな寝息が聞こえた。ルディはエーの目元に当てていた手を離して両手でエーの手を握る。
「おやすみなさい。私たちの新しい妹。
貴女が良い夢を観れるように私たちも頑張るからね……」
眠るエーに優しく囁きかけたルディは、ずっとエーの側に寄り添った。
◇
大聖堂に隣接していた建物内で保護されたエーは、それから数日はそこに居た。
普段は国中に散らばっている聖女が、今はこの一箇所に集まっていたのも理由だった。
聖女たちは本来ならば色々やることがあるのだが、誰もがエーを放ってはおけないとほぼ全員がエーの側にいた。
だが今までエーがどんな生活をしていたのか誰にも想像ができないし、誰かが居るとエーはほとんど自分から動こうとはしなかったので、これではいけないとエーが一人で居る時間も作られた。
エーにバレないようにこっそりとエーの様子を覗い、安全を確認する。その間に聖女たちは仕事をするのだが、みんなエーが気になって気になって仕方がなかった。側に居たところで何もできないとはわかっていても、だ。
部屋に一人になったエーは、何もしない。
部屋の中に水もお茶もお菓子も絵本も玩具も勉強の本もノートもペンもベッドもあっても、エーは基本壁に背を預けてしゃがみこんでいる。時々寝ている様だったが姿勢はほとんど変わらなかった。エーが動くのはトイレに行く時だけだ。そこはしっかりと躾られているようだった。きっと掃除が面倒だったから、だろう……
お風呂にエーを入れた人が見たのは、エーの身体の至る所にできた胼胝(たこ)だった。ずっと何年も変わらない姿勢でいた事の証拠だった。
エーはこの場所に来て初めてベッドの上で寝ることになったが、寝方が分からず最初の数日は寝ていない様だった。だから昼間に床の上で寝る。聖女たちがエーと一緒に寝ようとしても、エーは『人が一緒にいることに緊張して』眠らないので、ベッドでの寝方を教えることもできなかった。
まずエーが緊張しない環境作りをしなければならないと皆が気付いた。
既にエーに関して色んな話し合いがされていたが、エーが想像以上に『人の生活を知らない』ことが分かり、話し合いは難航した。
最初は誰もここまでとは思わなかった。
あの家族から引き離し、安全な場所に置いて、身綺麗にしてお腹いっぱい食べさせて、温かな部屋で柔らかいベッドで好きなだけ寝て次の日には綺麗な花に囲まれた庭で日向ぼっこでもすればエーはそのうち笑ってくれるだろうと皆が思っていた。
だけどエーは駄目だった。
部屋の中ではただ一箇所に座り続け、ご飯は少量しか食べられず、ベッドではただ横になるだけで、花を見せてもただ“見る”だけ。甘いお菓子と甘いジュースはどうやら好きな様で視界に入ると目で追って、自分が食べて良いと知ると少し嬉しそうにするが、それを自分から自己主張することは絶対にない。
喋る言葉は「はい」「わかりました」「もうしわけありません」。
身体の傷や痣やたこはポーションで治せたが、聖女の癒やしでも心を正常に戻すことはできなかった。
そもそもエー自体が『正常な状態』を知らないから。
聖女が側に居ればその内どうにかなるだろうという甘い考えは早々に打ち切られた。
◇ ◇ ◇
エーは今、王都から離れた自然豊かな場所に居た。
森、平原、湖に暖かく柔らかな風。花々や木々の香り、生物たちの様々な声。
エーはそんな場所で生活することになった。
側には“新しい家族”。
事故で子供を亡くした30代の夫婦がどうしてもエーの側に居たいと教会に乗り込んで来たのだ。亡くした子供の代わりにする気はないが、子供を虐待する親が絶対に許せなくてそんな親に育てられた子供に『そんな奴らは親ではない』と教えてあげたいのだと目に涙を浮かべながら力説した。
エーを保護している教会側も、エーには『彼女だけに寄り添える存在』が必要だと考えていたのでここは一つ頼ってみようと夫婦をエーの養父母になることを認めた──当然、身元調査はしっかりとされている──。
王都では人が多く、新しい聖女であるエーを人々が放っておけないだろうということで、住まいも自然豊かな辺境地が選ばれた。エーを守ると誓った夫婦は側にある教会の仕事や少しの農作業をしながらエーを支え、見守っていくことが決まった。教会には時々聖女もやってくる。聖女は一箇所にずっと居ることはできないが、教会の側ならば顔を出しやすくなると聖女たちも納得した。
だからエーは今、養父母たちと、そして柔らかい毛が特徴の愛玩生物であるムロフン──犬──の一匹と生活している。
そしてもう一つ変わったのが、
エーの名前だった。
エー。
この世界の文字列の最初の一文字の音。
ペットにすら付けないような『名前』。
エー本人が自分を『エー』としか認識していなかった為に皆が『エー』と呼ぶしかなかったが、その名前を呼ぶ度に皆なんだか気持ちが暗くなる気がした。『あだ名』であれば気にならないのに、これが『本来の名前』だと思うと、皆が悲しい気持ちを覚えた。
エー本人がそれを何とも思ってはいなくとも、このままではいけないと皆の気持ちが一致して、エーは改名することになった。
そして付けられた新しい名前が
『クレア』
可憐で美しい見た目の小さな白い花の名前だった。
それをエーは新しい名前として貰った。
「貴女の名前はこれから“クレア”よ。
“エー”ではなく“クレア”。
貴女が覚えられるように、これからはみんなが貴女を“クレア”と呼ぶからね」
そう言われたその日から、“エー”は”エー“と言う音を殆ど聞かなくなった。
え〜っと……、と言うのはどうやら自分を呼ぶ音ではないようだった。
クレア。
クレア。
クレア。
自分を見ながら皆がそう口にする。その時の自分を見る“人”の目が温かいと“クレア”は思った。
◇
クレアの1日は義母に起こされることから始まる。
最初はベッドの上では眠れなかったエーだったが、「ここで寝るのよ」と義母に言われてベッドの上に仰向けに寝かされると、その左右に義母と義父が横になり、強制的に寝る態勢にさせられた。2人はクレアに「おやすみ、クレア」と言って目を閉じる。そんな二人に挟まれて、クレアはただ横になった。
二人はクレアに眠りを強要しない。目を閉じろとも言わない。ベッドに仰向けになることだけを、クレアにさせた。クレアはただ天井を見上げる。そして聞こえてくる二人の寝息に、クレアの瞼は自然と下がった。
そんな日が何日か続くと体の方が自然に馴染んだ。
ベッドの上で誰かが横に居ても、気付けばクレアは眠りに落ちていた。隣から規則正しく聞こえてる他人の寝息が、いつの間にかクレアも眠りへと連れて行くのだ。
クレアは目を閉じた“他人”がスウスウと規則正しく息をしているのが不思議だった。時々義父の身体がビクウッと跳ねたり義父の口から謎の言葉が発せられてクレアを驚かせたが、ビックリするだけで、クレアは自分の心が震えていないことに不思議がった。
「ワン!」
朝はペットのムロフン(犬)が必ず一鳴きした。義母や義父はムロフン(犬)に毎日「ワン。おはよう」と言ってムロフンの頭を撫でた。
ワンと言うムロフンのことをクレアは『自分の名前を言う存在』と認識していた。クレアが『“ワン”と自分の名前を言っているのではなく、ワンと鳴くからワンと名付けられた』と気付くのはまだ先だったが、クレアはムロフンのことを気付けばちゃんと『“ワン”という名前』だと認識していた。
ムロフンはクレアがここに引っ越して来た次の日に様子を見に来た近所の牧場主が連れてきていた牧場犬の一匹だった。
ワンはクレアを見つめてその匂いを嗅ぐと何故かクレアから離れようとはしなくなった。とても賢い子なのだと牧場主は言っていた。クレアの事情を聞き、それならばムロフン(犬)が側にいた方が心に良いと力説してクレアの養父母を説得した。教会の司祭からもむしろ有り難いと喜ばれてムロフン(犬)の“ワン”がクレアの家族となった。
余談だが、ワンの正式名は『ワンドリアド゠ガロム』だ。3匹兄弟の長男で、次男は『ワンレディア゠ジオン』、三男は『ワンジュラルダ゠ゼダス』という名前だった。飼い主である牧場主(名付け親)から最初にワンの名前を聞かされた時、クレアはそもそも聞き取りすら出来なかった。牧場主は正式名で呼んで欲しそうだったが、流石に無理だとなり(誰も覚えられない)、『ワン』となった。ワン当犬も“ワン”と呼ばれる方が嬉しそうだったのが印象的だと義父母は思っていた。
そんなワンはクレアに預けられた時から常にクレアの側から離れなくなった。
何かを察しているのだと皆が分かった。
クレアがワンの名前を呼ぶことはまだなかったが、クレアもワンが側にいること、ワンのフワフワモコモコの体毛が自分の身体に触れていることを好んでいるように見えた。
一人と一匹はそれからずっと一緒に居た。
ワンはクレアの護衛騎士だなと皆が微笑ましく思った。