4>> 彼女の言葉
アシュフォードは少し考えてから膝を折ってエーの隣に膝を突き、エーと視線を合わせた。
14歳にしてはとても小さいエーは膝立ちになったアシュフォードの視線とあまり変わらない。エーが少しだけ見下ろす様な状態で二人は向き合った。
表情の変わらないエーにアシュフォードは優しく微笑む。14歳くらいの年頃の女子であればそれだけで頬をピンクに染めて恥ずかしがったりするのだが、エーには一切そういった心情の変化は見られず、ただ命令を待つ召使いのようにジッとアシュフォードを見ていた。
「エー。何か言いたいことはあるか?
ビャクロー夫人……、君の“お母様”や”家族“に対して、何か、“言うことは”あるかい?」
エーがどんな単語を覚えているのか分からないのでアシュフォードは“家族が使いそうな言葉”を選んでエーに話しかける。
エーはアシュフォードをジッと見たまま、
「言うこと……」
と、呟いた。
それを聞いたアシュフォードはエーの手を引いて演壇の前へと連れて行った。そこは聖堂内から一番見やすく声が通りやすい場所だった。
そこでアシュフォードはもう一度エーに伝える。
「エー。お母様や家族に言いたいことがあるなら言いなさい」
「…………」
アシュフォードに促されてエーは今は離れた場所にいる“家族”に視線を向けた。
エーの家族は“母親”と“姉たち”だった。
エーは“父親”の顔を知らなかったし“父親という存在がある”ということすらも知らなかった。
娘と視線が合わないことにランドルは気付き戸惑う。そしてその戸惑いの気持ちを共有できるかと自分の妻と娘たちに視線を向けるが、その妻や娘たちは戸惑いだけではない焦りと恐怖を感じているような表情を浮かべていてランドルは驚いた。
何だ? と思うランドルの前でカリーナが騎士を押しのけるように前に進み、エーへと必死に手を伸ばしていた。
「エーっ! 止めなさい! わたくしの言葉を聞きなさいっ!!」
微動だにしない騎士を押しのけることもできずにカリーナは無意味に藻掻く。折角綺麗にセットされていた髪は今はもう解れて無様だった。
その母親の姿にサマンサとシャルルも思うことがあったのか二人で寄り添いながら青褪めた表情でエーに声を掛けた。
「エー! お母様の言うことを聞きなさい!!」
「エー! アンタ! 分かってんでしょうね?!」
周りの視線などお構いなしに姉妹は叫んだ。
だが演壇上のエーはその姉たちの言葉にも反応しない。先程アシュフォードに『私の言葉を聞いて』と言われたのでそれを忠実に守っているのだ。それは“人”としての感覚ではなく“強者に従う獣”のような本能からくる感覚だった。
だからエーは口を開く。
“お母様”や“家族”に向けて『言えと教わっていた言葉』を。
「“おかあさま。
おかあさまをフコウにするためにうまれてきたわたしをどうぞバッシテください。
おかあさまのカナシミはわたしのせいです。
おかあさまをクルしめているのはわたしです。
おかあさまはなにひとつワルくありません。
わたしがワルイのです。わたしはアクマのコです。わたしがゲンインなのです。
おかあさまゴメンナサイ。
おかあさまのためにどうぞわたしをバッシテください”」
その言葉に聖堂内にいる全員の息が一瞬止まった。エーの言った言葉はカリーナがただ自分の気持ちを落ち着かせて自己憐憫に浸る為だけにエーに言わせていた言葉だった。
一瞬静まり返った聖堂内にカリーナの「止めなさい!!」という絶叫が響いたが、その声よりも皆の耳には小さなエーの声の方が響いた。
そしてまたエーが口を開く。
「“おねぇさま、モウシワケありません。
わたしがうまれたせいでカゾクをこわしてしまってモウシワケありません。
ウツクしくソウメイなおねぇさまのオテンとなってしまってモウシワケありません。
ゴミでウジでカスでヘドロでガイチュウイカでキモチワルイいもうとでモウシワケありません。
まちがってうまれてキテしまってモウシワケありません。
イキていてモウシワケありません”」
それはシャルルとサマンサがエーに言わせていた言葉だった。母親が末娘に言わせていた言葉を真似してサマンサが思いついてシャルルが台詞を考えた言葉だった。二人はエーにこれを言わせてつまらない優越感に浸って自分たちの自尊心を満たしていたのだ。『エー』が悪いのだから『していい』のだと『自分たちにはその権利がある』のだと、シャルルもサマンサも本気で思っていた。
しかしシャルルもサマンサもエーに言わせたその言葉が『自分たち以外の人』に知られてはいけないということもちゃんと知っていた。第三者にこのことが知られると『自分たちの印象が悪くなる』とちゃんと理解していたのだ。
だから今、シャルルとサマンサは地獄に落とされたような気持ちだった。『妹』に『裏切られた』気持ちで、怯えた表情の下では二人共沸騰しかけのお湯のような怒りを感じていた。
母や姉たちの気持ちなど気づけるはずもないエーが、言い終わると静かに床に膝を突いて頭を床板に押し当てた。それは祈りの姿勢というよりも最大限の謝罪の時にする姿勢だった。
その姿勢のままにエーは、
「もうしわけありません」
「うまれてキテもうしわけありません」
と繰り返した。
それを見せられた一部の者たちはあまりの気持ちの悪さに吐き気を催して口を手で押さえた。一部の者はもう泣いていた。途中で耳を塞ぐ者も居た。
聖堂内では演壇上の発言者の声が全員に聞こえるようにエーの居る位置に術式が組み込まれていた。その為にエーの小さな声で聖堂内に居る全ての人の耳に届いたのだ。
◇ ◇ ◇
演壇上で蹲って謝罪し続けるエーに聖女たちが駆け寄りその小さな体を全員で抱きしめた。エーが少しだけ不思議そうな顔をする。
いつもならこれを言った後はカリーナに蹴られるかサマンサやシャルルに頭を踏み付けられて終わるのだが、今日はそうではなかった。だからエーは不思議がった。
そんなエーを聖女たちが泣きながら抱き締める。口々に「もういいのよ」「もう大丈夫よ」「頑張ったわね」とエーに声を掛けていたが、エーにはそれの意味は1つも分からなかった。
そんなエーや聖女たちの横に立ったアシュフォードが心底冷え切った視線をビャクロー侯爵家の面々に向ける。
「ビャクロー家の方々には話を聞かなければならないだろうな。
丁重に王城までお連れするように」
その一言で騎士たちや王家の使用人たちが動き出す。
ランドルやカリーナやシャルルとサマンサの側には有無を言わせぬ気迫を背負った騎士たちが立ち、自分たちに同行するように迫ってきた。
「は、話など……」
ランドルは焦るが、この人目がたくさんある状況で王太子から『話が聞きたい』と言われたことに対して抵抗するのは逆に自分の立ち場を悪くするだろうことが容易に想像でき、反論らしい反論すらできなかった。
カリーナは演壇上で聖女たちに囲まれているエーに殺したいほどの憎しみを感じていたが、それを顔に出せば自分が不利になることが分かっていたので奥歯に血が滲むほどに噛み締めて、表情には『純粋に娘と引き離されて、疑われていることに心痛めているヒ弱な母親』に思われると思う顔を作って涙を流していた。
「あぁ……なにかの間違いです……こんな……こんな…………
あぁ……エー……
エー……弱い母を許してね、エー……
今、貴女を抱き締めて上げられない、駄目な母を許して………」
ハラハラと涙を流しながらそう呟くカリーナを周りの者はただただ訝しんだ目で見ていた。しかし一部の者は心を痛める。今までの一連の流れを見聞きしていた筈なのに『か弱い女性が泣いている』という事だけで『可哀想だ』と感じてカリーナを不憫に思った。
そしてそんな人々の視線を目敏く感じ取ったカリーナは、自分の保身の為だけに涙を流す。今のカリーナは『王太子の権力で娘から無理矢理引き離された可哀想な母親』だった。
側に居た騎士たちはこういう女性に騙されないように日々精進に励もうと、冷めた目でカリーナを見下ろしていた。
騎士たちに囲まれた理由が分からないシャルルとサマンサは自分たちの周りに増えた王家の紋章入りの甲冑を着けた騎士たちに怯えて身を寄せ合っていた。
「何? 何なの……っ?」
サマンサは周りからの視線にただただ混乱する。
そんなサマンサと強く手を握り合いながらシャルルはそれでも気丈に周りに自分の言い分を主張した。
「あ、あれはあの子が勝手に言っているだけですわ?! わたくしたちには関係ありません?!? わたくしたちが言わせたことではありませんわ!?! そんな目で見ないで下さいませ!?!
あの子が勝手に言っていることです! 騙されないで下さいまし!!!」
必死にそんなことを言うシャルルに向けられる視線は冷たい。それに気付いてシャルルは息を呑む。体の奥底から押し寄せる震えにシャルルはただただ早く家に帰りたいと願った。
ビャクロー侯爵家の関係者は使用人含め全員が王家の関係者によって同行を求められた。
一人で大人しく席に座って父を待っていたオルドランは保護される形となった。オルドランが侯爵家の邸に戻されると同時にビャクロー侯爵邸は王家の騎士隊により出入りを禁止されることになる。
突然の事態に聖堂内は騒然となった。
演壇近くに居た者たちや話が聞こえていた者たちは事態を把握出来ていたが聖堂内にいる殆どの人が理由の分からない状態だった。
そんな中でアシュフォードが演壇の前に立つ。それと代わるようにエーは数人の聖女に手を引かれてその場所を離れていた。エーは未だに何も分からずに不思議そうな表情をしていたが、ただ言われるままに聖女たちに付いて行った。
アシュフォードと3人の聖女が演壇の上に残った。
そしてアシュフォードが口を開く。
「皆、騒がせてすまない。私もこんなことが起こるとは想定もしていなかった。
だが何も心配することはない。新たな聖女はまだ幼く、今後どんな成長を遂げるか誰にも分からない。彼女が健やかに大人になることを皆も祈って上げて欲しい。きっとそれは彼女の力となろう。
さぁ、少し悪くなった空気は聖女が癒す。皆は盛大に新しい聖女の誕生を祝ってあげてくれ!」
アシュフォードが両手を広げてそう言うと3人の聖女たちが微笑んで祈りの姿勢を取った。そうすると彼女たちの体を中心に浄化の光が柔らかく広がっていく。それに合わせて止まっていた音楽隊の音楽が祝いの曲をリズミカルに奏で出した。
そしてそれを受けて王太子妃や第二王子や王女が座っていた席から立ち上がって拍手を打ち始める。王族たちが全員柔らかく微笑んで皆を見ている姿を見て、聖堂内に居た人々からも徐々に不安な気持ちが引いていく。
──これ以上恥をかきたくないなら静かに同行せよ──と、言われたビャクロー侯爵家の面々は弁解も訴えも助けも何も言えないままに静かに騎士たちに囲まれて聖堂内から連れ出されていた。
貴族の大人たちはビャクロー侯爵家の終わりを悟ったが、今日この場に一緒に来ていた子どもたちから嫌な気持ちを消し去る為に直ぐに気持ちを切り替えて周りに笑顔を向けて笑い合った。
聖堂内に漂っていた不穏な気配が無くなり、楽しげな音楽と聖女の癒しの力が届いた聖堂の周りでは、活気が戻り新しい聖女の誕生に盛大な祭りが始まった。
楽しげな音と人々の歓声を遠くに聞きながら、エーは自分の手を握ってくれる“温かな”手のぬくもりと、背中に添えられている“温かな”手のぬくもりを感じていた。エーはそのよくわからない感じを不思議がりながらも拒絶する気持ちは少しも感じてはいなかった。
不思議なことばかりが起こる。
それだけがエーの感情にあった。
……今この時より二度と家族とは会わなくなるなんてエーには知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
エーは保護された。
ビャクロー侯爵邸には直ぐに騎士や調査に当たる人々が向かい、エーの専属の侍女やメイドで『エーを愛している者』が居ればエーの傍に呼び寄せようと手配された。
別邸に居た女が自分がエーの世話をしているメイドだと名乗り出たが、その女に騎士たちは困惑した。侯爵家の令嬢の専属メイドが貧民街の住民などと想像もしていなかったからだ。
そのエーの乳母改め現メイド、貧民街の住人であるノノンは突然の押し掛けてきた騎士たちに血の気が引きまくっていた。最初に騎士を見た時は咄嗟に謝罪の姿勢を取って何も悪いことなどしていませんと頭を下げた程だった。
そんな、互いに困惑していた騎士たちやノノンだったが、今日何が起こったかを説明し、エーが聖女であり教会に保護されたと聞いたノノンは泣いて神に祈りを捧げた。
「やっと……やっと助けて頂けたんだね……」
そう言って号泣するノノンに騎士たちは少しだけホッとしていた。この家にも彼女の味方が一人でも居たことに安堵したのだ。
直ぐにノノンにエーの側に行ってもらおうと思ったのだが、しかしノノンは顔を暗くした。
「アタシはあの子の世話をしてましたけど、奥様からあの子と話すなと言われていて、ほんとに最低限のお世話しかしてませんでした……引き継ぎした前の人からもあの子のことはお嬢様ともエー様とも呼んじゃダメだって言われてたし……」
ではどうやって声を掛けていたんだ? と聞かれたノノンは、
「“ねぇ”……と」
その答えを聞いた者たちは一瞬言葉を失った。
侯爵家に生まれた娘が、貧民街の住人の女性から「ねぇ」と呼ばれる。この貴族社会で、そんなことが在って良いのだろうかと皆の気持ちを戦かせた。
ノノンは言った。
「アタシが側に居てもあの子の何の役にも立てないです。毎日顔は見てたけどそれだけ……
変にあの子と話をしてるのが奥様にバレたらドヤされるから用件以外の話なんかしたことなかったし……、です。
だから……あの子が良いとこに行けたのならそれこそそこで良い人たちに囲まれて優しくされた方が良い、です。
だってあの子は……、あの子は本来アタシなんかが声を掛けちゃいけない筈の生まれなんだから…………」
そう言ってノノンはつらそうに顔を歪めた。そんなノノンを無理矢理エーの下へ連れて行こうと思う者は居らず、ノノンはその日の夜には職を解かれ家族の下へと返された。
ノノンが帰る時、後払いの給金はどうなるのかと青褪めながら聞いてきたので幾らだと騎士が聞くとあまりにも安い金額をノノンが口にしたので聞いていた騎士たち全員が唖然とする程だった。本来ならば後払いの給金など今の時点で出るはずもないのだが、その金額の低さにその場に居た騎士が自分の財布からノノンに渡してやった。それほどにノノンの給金は低かったのだ。侯爵令嬢の専属のメイドだったというのに……
ノノンが居なくなればエーが暮らしていた侯爵家の別邸からは人が居なくなる。その誰も居なくなった別邸を騎士たちは隅々まで調べたが、別邸の部屋の殆どは本邸から出てきたであろう不用品が押し込められていてホコリが積もっている物置と化していた。
エーの持ち物と思われる物は古くなった衣服だけで、これならまだ貧民街の住人の方が持ち物が多いだろうと騎士たちの気持ちを暗くさせた。
これがきっとエー嬢の持ち物だろうと思われる物を一箇所に集め、袋に詰める。侯爵令嬢の私物が小さな袋一つに収まるだけしかないことも騎士たちを嫌な気持ちにさせた。
それを見ていた現場の隊長が口を開いた。
「……動物であれば、自分の匂いの付いた物が側にあった方が安心するだろうが、それを彼女の下へ持って行って、彼女は本当に喜ぶのだろうか……」
そう言われてその場に居た全員が沈黙した。
要らないだろう──
それが全員の気持ちだった。言葉にせずとも全員の気持ちが伝わり、エーの持ち物として纏められた荷物はまたそっと部屋の隅へと置かれることとなった。
この別邸にはエーが住んでいた形跡はあるが、愛情と言えるものの形跡は何一つ無かった。そのことがただただ担当した騎士たちの気持ちに影を落とした。
◇
エーは知らない場所に居た。
そもそもエーが知っているのは“自分が居た建物”の中とそこの窓から見える景色だけなので、それ以外の場所はエーにとっては全てが知らない場所になるのだが、エーはその“知らない場所”でもただ前だけを見てただジッとしていた。
座ってと言われて座らされた椅子に自分の体が当たる部分がなんだか柔らかくてエーには不思議な感覚だった。
不意に気になる匂いがした。
エーは少しだけ視線を下げてその“匂い”への反応を示したが、直ぐに元の視線へと戻した。
そんな小さなエーの変化を見ていた聖女が悲しげな顔をした。不思議に思うことに『そんな反応しかできない』エーに悲しくなった。
「お腹が空いているんじゃない?
私はお腹空いちゃった」
そう言って聖女の一人が大きめの鍋と食器を配膳ワゴンに載せて運んできた。気になる匂いはその上から漂って来ているものだった。
「私もお腹空いてたのよ」
エーの傍についていた聖女二人も嬉しそうに動き出して皆でテキパキした動きで机と椅子を用意して食事が取れるように場所を作った。
エーはただただ言われるままに動く。
気付くとエーと四人の聖女がお互いの顔を見ながら食事を取れるように机を囲んで座っていた。エーの前にはお皿とスプーンと、そしてお皿の中にはエーにとっては初めて見る物が入っていた。
エーの横に座った聖女が優しく微笑みながらエーの手を取ってエーにスプーンを持たせた。
「これはね、スープにパンが浸されて柔らかく煮てあるの。
“ゆっくり、食べて”、ね」
“指示”されて、エーは「はい」と返事をした。
『食べて』『食べろ』『食べなさい』、そう言われてエーは食事をしてきた。毎日一度出てくるスープの他に、食べた後にお腹が痛くなる物や食べている最中からどうにも喉がせり上がる感じがしてどうしても飲み込めない物など色々あったが、今回の目の前にある皿の中のスープの様な物体は、エーの鼻を刺激して、不意にエーのお腹から音がしてエー自身を驚かせた。
「あら? 可愛い音」
「お腹“空いてる”よね〜」
「食べましょ食べましょ!」
そう言って聖女たちも皿に載ったソレをスプーンで掬ってどんどん口に入れていた。
エーはそれを見て不思議な気持ちになりながらも自分も指示された通りにスプーンで掬って口に入れた。
「……っ!????」
スプーンを口に銜えたエーが目を開いた。そしてその目を数回パチパチと瞬きさせるとモグモグと口を動かした後に喉を鳴らし、そしてジッと皿の中にあるものを凝視した。
その反応に周りの聖女たちは微笑む。
初めてエーの瞳が煌めいて見えたのだ。
「“おいしい”よね」
エーに言われた言葉だったが、エーは『自分の名前が呼ばれていないことには自分のことだと分からない』ので、エーはただただ皿の上のスープを見つめてまたゆっくりとスプーンで掬っていた。『ゆっくり食べて』と云われたのでゆっくり食べるエーを皆が見守る。一緒に食べるのは必要以上にエーに警戒心を抱かせない為だった。『エーの為に特別にされた事』ではなく『皆でする自然な事』だと聖女たちは振る舞う。今はまだエーが意図を理解できなくてもいい。これから、始めるのだと……その場に居た全員が考えていた。
「これホントに美味しいわ」
特別にエーを気にする素振りも見せずに自然な態度で聖女の一人が反応する。それに続くように他の聖女も微笑みながら会話をした。
「えぇ。美味しいですわ」
「おいし〜い!」
聞こえてくる幸せそうな声がエーの頭にも伝わる。
『おいしい』
おいしい。そう頭で言いながら食べる物はなんだか不思議な感じがしてエーの頬を自然と柔らかく上げさせた。ほんのりと自然な赤みがエーの頬を染めていく。
口から入った物がお腹の中に届いた頃にエーはなんだか知らない感覚に満たされていた。
周りを見れば知らない人たちが居て、その人たちが皆柔らかい顔をしている。
エーを“嫌な顔”で見てこない。
エーに優しい音で話し掛けてくれる。
痛いこともまだされない。
誰も大きな声を出したりしない。
誰も物を投げたりもしない。
エーはただただ不思議な感覚の中でそこに居た。