5>> さらなる変化
「……オデット……」
「アルフレド様っ?!」
居間に入って直ぐに母を呼んだ男の人の声にオデットがアルの知らない名前を呟いて動きを止めた。
え? と思ったアルが見上げた先でオデットが一点を見つめたまま両手で口を押さえている。つられるように視線を動かした先でアルが見たのは、初めて見る男の人の姿だった。
外見は平民だったが腰から剣を下げていた。だがその柄が平民が使うには似つかわしくない装飾が見えてアルの不安を誘った。
なによりその名前。
オデットが言った“アルフレド”という名前がアルの心をざわつかせる。
『アル』……オデットが“一番信頼している男性”の名前から思いつき付けられた名前……目の前に現れた『アルフレド』と呼ばれた男性……
視線をオデットに戻せば、母はその目から大粒の涙を流して泣いていた。
「……オデット……、久しぶり……」
優しい声で男性が声を掛ける。オデットは返事もできないようだった。
そんな二人を見て村長はそっと動きアルの肩に手を触れた。
「……少し二人にしてあげよう……
さぁアル……君は少しだけ私と来てくれるかな」
「…………うん……」
村長に促されるままにアルはオデットから離れた。心臓が早鐘のように鳴っている。離れたくないと思う気持ちと見たくないという気持ちが同時に湧き上がったがアルは何もできなかった。
……オデットの顔を見たら、自分はここに居てはいけないのだと思ったから……
居間から廊下に出て、隣にある台所でそこに居た村長の妻に水を出して貰って飲んだ。ただ黙ってアルは床を見つめた。自分の手が冷たくなるのが分かった。でも“我が儘”は絶対に言わないでおこうと思った。
母さんを……絶対に悲しませない……
自然に噛み締めていた下唇にも気付かずに、アルはこれから起こるであろうことを考えて覚悟を決めていた……
◇
どれくらい時間が経ったのか分からない。長いのか、短いのか……居間からオデットの声が聞こえて村長と一緒にアルは居間へと戻った。
部屋に入った時にオデットと男性が幸せそうに寄り添っている姿を見たくなくて無意識にアルは下を向いたまま歩いていた。居間に入っても上を向けないアルにオデットが優しく寄り添いアルの握りしめられたままの手を両手で握ってくれた。
あれ? と思って顔を上げたアルの視線の中に優しく微笑むオデットの顔が見えた。
不思議そうな表情をするアルにオデットが話し掛ける。
「取り乱しちゃってゴメンね。
お母さんのお友達を紹介するわ」
そう言って視線で促された先で男性がアルに軽く頭を下げて微笑みかけた。
「フレッドだ。これからこの村に住むことになった。宜しくな」
その言葉にまたアルは驚いた。
さっき聞いた名前と違う。
え? とした顔をするアルにただオデットは微笑む。泣いたことが分かる程に目元は赤くなっているのにその顔は本当に穏やかだった。だからアルは言葉に詰まる。言いたいことがたくさんあるのにどれも言葉にできなかった。『お母さんはこの人と一緒に住むんじゃないの?』なんて言葉にしてそれが本当になったら困るのはアルだからだ。
え? 恋人じゃない? 友達……?? 母様は行かないの? 連れに来たんじゃないの??
この人が母様の大切な人なんじゃないの……??? だからこれからは二人で…………
疑問だけがアルの頭を占めたがオデットの顔を見たら何一つ言えなかった。だって捨てられたくないから…………
そんなアルに村長が伝える。
「彼は今日から村に引っ越してきたんだよ。仕事は村の警備をしてもらえることになったんだ。まぁ小さい村だからね、警備だけって訳にはいかないけれど」
ちょっと苦笑いしながらそう言った村長に、フレッドと名乗った男が続ける。
「人手が欲しい人の手助けをするのも仕事らしいんだ。……アル君も何かあったら気軽に声を掛けてくれ」
そう言って笑ったフレッドの目元に涙の跡が見えてアルは何も言えなくなる。
そんなアルの返事は気にせずにフレッドは村長とオデットに挨拶をして帰って行った。彼は三軒隣の家に居候する事になっていてこれから住む家を建てるのだと村長が言っていた。アルに向かって伝えられているその話をアルは聞いているのに聞いていなかった。オデットの手を強く握り返してフレッドの出て行った玄関の扉から目が離せなかった。何で母さんを連れて行かないの? そんな理由の分からない思いがアルの心に湧き上がる。見上げたオデットの顔は穏やかで、それにもアルは分からなかった。
アルは今握っているオデットの手を絶対に離したくないと思っているから、オデットの側を絶対に離れたくないって思うから……
だから、やっと再会できた大切だと思える人と、簡単に離れられるフレッドとオデットが、……アルには理解できなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
<幕間>> オデットとアルフレド >
パタン、と戸が閉まる音が聞こえてもオデットもアルフレドもその場を動くことはなかった。
オデットは溢れ出る涙を止めることができずにただ身体を震わせて泣いた。
名を、呼ぼうとしても、声は喉から出て来なかった。
先に動いたのはアルフレドだった。苦しそうに眉間に皺を寄せて大股で歩いてオデットとの距離を詰めた。その両の腕はオデットを抱き締めようと持ち上げられていた。
しかしアルフレドはオデットを抱き締めることはなかった。
少し離れた場所で止まり泣きそうに顔を歪めると、開いていた手を握り締めた。そして目を閉じて静かにオデットに頭を下げた。
「……君を助けることができなくて、すまなかった」
「……っ!」
その言葉にオデットは息を呑む。そして強く顔を左右に振った。
「お止め下さい……っ、あ、貴方にその責任はありませんでしたっ!
……わ、忘れて下さればよかったのに……っ!!」
オデットは悲痛に顔を歪めて目を閉じた。
アルフレドとオデットは婚約者だった。家同士の繋がりの為の婚約だったが、同じ歳で七歳の頃から婚約していた二人は喧嘩をすることもなく仲を深めていた。二人の時間はとても穏やかに積み重ねられ、ただ微笑み合うだけで幸せになれる関係だった。この人となら幸せな家庭が作れるのだと互いに思っていた。好きなのだと……これが恋心なのだと二人ともが暖かくこそばゆいその感情を大切に抱き締めて幸せになれる関係を築いていた………オデットがビャクロー侯爵家当主に目を付けられるまでは。
オデットは涙が止められなかった。身体の震えも止められない。嗚咽が出そうになるのを止めるのだけで限界だった。
そんなオデットを頭を上げたアルフレドが見つめる。その目は悲しげで、涙に濡れていた。
「忘れられる訳がない」
「忘れて欲しかった……っ、
だってわたくしたちはただの政略の為の婚約で、あ、貴方には、関係がなかったのに……っ!!」
「そんな風に言わないでくれ……っ、
私は……、いや、俺は、
君を好きになったんだ。
愛した女性がツライ目に遭っていると分かっていて無かったことにできる程、俺は非道にはなれないっ!」
「そんな……っ、貴方には関係がなかったのです……、
婚約を解消してしまえば……、貴方には関係がなかったのに……っ!」
両手で顔を覆ってしまったオデットを、アルフレドは抱き締めたいと思った。その震える身体を支えたいと思った。
だけどできない。
その資格がないから……
無意識に彼女の方に伸びた手をアルフレドは悲痛な顔で止めた。
「……俺が、嫌だったんだ。
惚れた女を護れもせずに、助け出すこともできずに、自分だけが幸せになるなんて……そんなこと、できる訳がないじゃないか……っ」
「わたくしたちの関係は、親が決めた……」
「政略なら好きになっちゃいけないのか?
俺は君だから……、君だったから愛したんだ……っ!」
「っ……!!」
オデットは無意識に握っていた両の手を耳に当てた。
聞きたくなかった。
聞いてもどうにもできないから……
「わ、……わたしにはアルが……」
溢れ出たオデットの言葉にアルフレドが少しだけ柔らかく笑う。
「彼に“アル”と付けたんだね」
その優しい声にオデットは『あっ』と思う。隠すことなどできないそれを、今更ながらに“知られてしまった”と思った。アルと付けたとしても知られることなんてないと思っていたのに、本人に知られてしまったことに、オデットは急に恥ずかしくなった。
だってそれは、オデットの中でその名前が忘れられないものだったと証明するようなものだったから……
「オルドランの新しい名前が“アル”だと聞いた時……、なんて言えばいいんだろうな……、何故か凄く……本当に凄く“嬉しかった”んだ……
君が付けたって分かったから。
アルフレドから、付けたんだろう?」
「……他に……知らなかったから……」
そんな分かりやすい嘘にアルフレドは笑う。他に知らない訳がないのだ。男性名など、父の名前でも親族の名前でも使用人の名前からでもいくらでも探せたはずだった。
だけどオデットは息子に“アル”という名を贈った。
そこに大した意味などなかったとしても、アルフレドは嬉しかったのだ。自分の名前の一部がオデットの側にあることが……
自分の名前の一部が『オデットの息子』へと、引き継がれていることが……
「嬉しかったんだ。
本当に……嬉しかったんだよ……」
「アルフレド様……」
アルフレドの優しい声音にポロポロと、いまだに止まらない涙を流したままオデットはアルフレドを見た。
ずっと会いたかった人が目の前にいる。
ずっと聞きたかった声が自分に向けられている。
ずっと見たかったその瞳を、今見つめ返すことができる。
オデットは唇を震わせるしかできない声でもう一度愛しい人の名前を呼んだ。
ただそれだけで涙はまた溢れ、心が締め付けられる。
手を伸ばせは触れる距離に居る。
抱き締めて欲しくて心はせがむ。
アルフレドはただの政略結婚の相手で、親が決めてきただけの人だったのに……
一目惚れなんてロマンチックなものではなかった。ただ互いに何気ない会話をして側に居て、手紙を交わして記念日には贈り物をして……、そんな普通の関係を続けて友人となっていつかは結婚して家族になるのだと思っていた。燃えるような恋心ではなく、器に水を注ぎ足すように……ただゆっくりと心を重ねた関係だった。手が触れただけで恥ずかしくなって、初めて抱き締めて貰えた時はお互いが顔を熱くしてどうしていいのか分からなくて小さく震えて……
だから……
そんなだから……
離れてしまえば簡単に冷めて消えてしまうものだと思っていたのに……
離れたからこそ固着してしまったのか。淡い恋はその淡さを捨て去ることもせずにただ心の中に居座って消えてくれなかった。
手放せば幸せなのに。
幸せになる為に手放すべきだったのに。
無かったことにして、新しくやり直せばいいだけだったのに。
アルフレドの優しさが彼自身を苦しめていることにオデットは悲しくなった。
そんな彼の優しさが好きだったのに、彼の優しさが彼自身を傷付けてしまったことにオデットの心は軋んだ。
「……私は……息子を、一人にはできません……」
意識していなければ彼に伸ばしてしまいそうな両手を胸元で握ってオデットはそう伝えた。
本当なら違う言葉を言いたかった。
会いたかった。会えて嬉しかった。来てくれて嬉しい。私も貴方を愛している。
そう言ってその胸に飛び込めたらどれだけ幸せか。
だけどオデットはその足を動かさない。
愛する男を目の前にして、その心を押し込める。ただ息子の為だけに。
だって今オデットが心のままにアルフレドの手を取ってしまえば確実にアルの心が傷付くから。今のアルにはまだオデットしか頼る者が居ないのに、その“母親”が他の手を取ってしまったら、きっとアルは“残された”と思ってしまう。“捨てられた”と思ってしまうかもしれない……そんな気持ちを、息子には感じてほしくなかった。
だからオデットは、どれだけ自分の心が求めようとも目の前の愛しい人の胸に飛び込むことができなかった。
そんなオデットにアルフレドは優しくし微笑む。
「分かっている。
君をあの子から引き離したいなんて思っていない。
……これは俺の我が儘なんだ」
その言葉にオデットの心は小さく跳ねた。アルフレドの顔を見返したオデットにアルフレドは真剣な眼差しを向けた。
「俺が君の側に居たいんだ。
近くに居て、会いたい時に君の顔を見たい……
ただ、それだけなんだ……」
「アルフレド様……」
溢れるようなオデットの声にアルフレドは困った様に笑う。
「ハハッ、重いだろ? 弟にも考え方がちょっと重いって言われたんだけどさ……」
そんなアルフレドにオデットは何も言えずにただ小さく「いぃえ」と返した。
愛が重いなんて思えないから。
むしろその愛を自分へ向けて貰えることにオデットの心は喜んでいる。側に居たいのはオデットも同じだった。ただその想いを形にできないだけ。伸ばされた手を掴み返すにはオデットは汚れていた。汚れているのだと、オデット自身が思っていた。
「わ、私には……」
向けられた好意を受け取ることができずに戸惑うオデットにアルフレドは心が痛む。
今の自分達には何も障害は無いはずだった。互いに平民となり、家という柵も義務も無い。オデットたちがこの場所を離れられないだけで再婚やオルドランの結婚を禁止しているとは聞いていない。それなのにオデットはアルフレドの手を取ろうとはしない。
だけどそれは分かっていたことだった。両親の元へ戻ることを拒絶して子供と共に居ることを選んだオデットに、自分が直ぐに受け入れられるとは思っていない。
だから。
「俺もこの村に住むことにしたんだ。身分も既に平民だ。明日からは俺も君たちと同じ村人なんだ。
だから、……これから新しく始めさせてくれないか?」
「新しく……?」
不思議そうに見つめてくるオデットにアルフレドは右手を差し出した。
「あぁ。新しく。友人として。
オデット。また一から始めさせてくれ」
そう言って自分の前に差し出された右手をオデットはジッと見つめる。それは友愛の挨拶。
「友人として……」
オデットは自分の口から出た言葉に少しだけ心が軋んだのが分かった。
……受け入れられないのは自分なのに、愛している人から『一歩距離を置いた友という関係』を提示されたことにオデットの本心が悲しんでいる。心の底ではその腕に抱きしめられたいと思っているのにできない自分に苦しんでいる。
だけどオデットがアルフレドを選んでしまえば息子が傷付くのが想像できた。『3人で一緒に』なんて都合よく簡単に収まる話ではない。アルフレドと共に居ることを選んだ時点で息子は自分の母親が自分より男を選んだと感じショックを受けるだろう。自分より愛しい人と時間を作る母親に寂しさを感じるだろう。だから、アルフレドを受け入れることはできない……
でも……友人としては……?
オデットはその一枚布を被せたような柔らかな関係に固く握っていた手の力が緩む気がした。
「友人……」
オデットの呟きにアルフレドが頷く。
「あぁ。俺のことを昔馴染みの友人として接してくれ。困ったことがあったら気軽に声を掛けられる相手ぐらいに思ってくれたらいいんだ。
君もアルくんもここに来たばかりで不安に思うこともあるだろう。俺も来たばかりだから立場は同じだけど、側に“知り合い”が居るってだけで心強いと思うんだ。
俺は君たちの手助けがしたい。
だから……、友人として、やり直そうオデット」
アルフレドの真剣な眼差しに見つめられてオデットの目からはまた涙が溢れた。見捨てられてもおかしくない自分に対して、アルフレドはその手を伸ばし続けてくれる。決して心を受け入れることができないオデットのことを理解して、その上で側に居てくれようとするアルフレドに、オデットの心は嬉しいと喜んでいる。優しさに甘えている後ろめたさを感じつつもオデットはアルフレドの申し出を拒絶するなんてできない。どうせアルフレドがこの村に住むことが決まったなら同じ村人として顔を合わせるのだ。必要以上に拒絶する方がおかしくなる。
友人なら……、昔の知り合いとしてなら…………
オデットはアルフレドの側に居られる気がした……
“女”として身体は汚れてしまったけれど、“友人”としてなら…………
オデットは差し出されていたアルフレドの右手を握り返した。
「……お友達として……
よろしく、お願いします……」
少し震えているオデットの右手をアルフレドはしっかりと握り返して微笑んだ。
「あぁ。よろしく」
そう言ったアルフレドの目元に涙が浮かんでいてオデットの心を少しだけ軋ませる。だけどそれには気付かないふりをしてオデットもアルフレドに微笑み返した。
「……そうだ。
アルくんが居るのに新しく来た俺が“アルフレド”だと変に思われるかもしれないだろ? だから俺も改名しようと思うんだ」
「名前を……?」
「そう。アルフレドの“アル”は彼に上げたんだ。
だからこれからは、俺は“フレッド”と名乗ることにするよ」
「フレッド、ですか?」
「そう、アルフレドから文字ってフレッド!
安直だけと分かりやすいだろ?」
「……そこまでして頂いて……、ありがとう……ございます」
「いいって。俺がそうしたいんだ。きっとその方がアルくんの為にもなるだろうし」
「フレッド様……」
「様は要らないよ! 同じ立場なんだ……これからは、気軽に頼ってくれ」
「……はい。よろしく、お願いしますね、フレッド」
「あぁ!」
オデットは微笑み、フレッドも笑った。
触れ合っていた右手の温かさが互いの心を温める。
ただ側に居る。
それだけのことで、やっと二人の時間がまた動き出した気がした。




