3>> 真実
──僕は侯爵夫人の子供じゃないの?──
オルドランはそれをオデットに聞くことができなかった。
『えぇ、そうですよ』
そう言われたらどうしたらいいのか分からなかったからだ。
『じゃあ誰の子なの?』
『道に捨てられてたんですよ。きっとどこぞの平民が捨てたんでしょうね』
そんな言葉が返ってきたらオルドランの心臓は止まってしまうような気がして怖かった。
突然自分の居場所が無くなった気がした。
ビャクロー侯爵家の跡取りとして生きてきたのにその全てが嘘で、本当なら下民の子供だったかもしれないという想像がオルドランのプライドを凍らせる。知りたいのに知りたくない。聞きたいのに聞きたくなくてオルドランは口を閉ざした。
オデットもその話には触れないようにしているようだった。きっとオルドランが問えばオデットは教えてくれるだろう。それが分かってはいても……オルドランは『母』のことを、『カリーナが言った言葉の意味』を聞くことはできなかった。
しかしそんなオルドランの心の葛藤など全く気にかけようともしない父ランドルが事も無げに言った。
「ん、なんだ? オデットから聞いていなかったのか?
オルドランはオデットの子だと。
別に隠すことでもないぞ? 国にはちゃんとオルドランは養子だと届けているからな。皆オルドランがカリーナの子じゃないと知っている。
何も恥じることはないぞ。貴族の家には男児は絶対に必要だからな。産める者に産ませたまでのこと。
ははっ! なんだ? そんなことを気にしていたのか? 母と引き離しては可哀想だと乳母として側に置いてやっていたのに、私の気遣いが伝っていなかったとは悲しいな!
まぁそういうことだ。だからカリーナはオルドランの母じゃない。アレは男児が産めず苛立っているからなぁ。近付かない方がいいぞ。癇癪持ちの女は怖いからなぁ!
オルドランは気にせずオデットとの時間を楽しめ。後数年もすれば流石に一緒に居させる訳にはいかんからな」
ハハハッ! とランドルは笑う。その軽さから本心からランドルはこの話題を大したことのない軽い話だと思っていることが伝わる。そのことにまたオルドランは衝撃を受けた。
オルドランはこんなにも傷付いているのに……っ!?
オデットを見ると、オデットの顔も驚きに染まっていた。
乳母が母?
オデットが……かぁさま……?
オルドランは直ぐには理解することができなかった。
◇
オデットと二人、呆然としたまま部屋に戻って来てもオルドランの頭の中はただただ混乱していた。
いきなり乳母を母だと言われても直ぐには受け入れられる訳がなかった。
ずっと側にいた。
ずっと使用人だと思っていた。
そんな相手が今更『母』と……?
そんなことをグルグル考えていたオルドランは不意に昔のことを思い出した。
オデットのことを『母』だと思っていた一番最初の記憶を…………
「……オデットが僕を産んだの?」
気付けばそう口にしていた。
見上げたオデットの顔は泣きそうに歪み……そしてその目はつらそうに閉じられた。
オデットの震える唇が開く。
それと同時に開けられた瞼の下からは涙が流れていた。
「はい…………はい……
坊ちゃまは、わたくしが産みました……」
ただその言葉だけで……オルドランは涙を流していた。
そして体は勝手に動いていた。
「…………っ、おかあさま…………!」
泣きながら自分にしがみつくオルドランをオデットは抱き締める。今まで何度も何度も繰り返してきた行為だった。
だけど何故か……その抱擁は初めてのように二人の心を温かく、何よりも深く愛おしく互いを包み込んだ。
◇
オデットは乳母として雇われている。
だからそんな自分が、自分の口からオルドランに説明するのは立場的にも駄目なのだとオデットは思っていたと言う。伝えるにしてもオルドランがもっと成長して、物事を深く知れるようになってからの方が混乱も減って良いだろうとオデットは思っていたのだ。
そのことでこんなにもオルドランを不安にさせるなんて想像もできなかったとオデットはオルドランに謝罪した。
こんなことならもっと早くに教えておけば良かったとも……
落ち込むオデットにオルドランはオデットが気にすることじゃないと伝えた。本来ならランドルから聞いているべきことだったとオルドランは思った。オルドランが養子で、カリーナが母親じゃないのなら、父であり当主でもあるランドルがもっと物心付く頃に教えてくれていれば良かったのだ。それは乳母の役目じゃないとオルドランは憤った。
そしてそんなことよりオルドランの気持ちを支配する感情があった。
母だ。
母親が今自分の隣に居るのだ。
ずっとずっと抱き締めて欲しいと願っていた『母親』が今オルドランの手の届く場所に居るのだ。
そのことがオルドランをソワソワさせた。
その母親が今までずっと側にいたオデットだというのに。何故か心は緊張した。
オデットは何も変わらないのに。
オデットには何度も何度も抱き締めてもらっているのに。
その温もりを知っているのに。
この人が自分の母なのだと思ったら、それだけで、オルドランの心は震えて緊張した。
「お、お母様……」
緊張で視線を彷徨わせながら震える声でそう声を掛けたオルドランに……
オデットは苦しそうな目をして顔を伏せた。
「坊ちゃま……」
その呼び方にオルドランの心は傷付く。
「お、オデットは僕のお母様なんだよね……? だ、だったら僕のことも」
「いけません」
言葉を硬い声で遮られてオルドランは泣きたくなった。
「いけません、坊ちゃま」
その強い拒絶にオルドランの心は凍る。
「な、なんで……?」
震える声でそう問えばオデットの体も小さく震えていた。
「……わたくしが乳母だからです。
乳母如きが侯爵家の後継者であるお方のお名前を敬称もなく呼ぶなど許されないことです……」
「そんなぁ!?」
「申し訳ありません、坊ちゃま……」
弱々しくそう言ったオデットは名前を呼べない代わりかのようにオルドランを抱き締めた。
温かい体。心が落ち着ける嗅ぎ慣れた匂い……
それなのに満たされない心にオルドランは泣いた。心は母様母様と呼ぶのにその母からは決して名前を呼ばれない。他人行儀な呼び方にオルドランはオデットとの近付けない距離を感じてただただ寂しくなった。
そうして……ふとオルドランは思い付く。
「……なら……
オデットが呼べる名前を僕に付けて?」
「え?」
良いことを思い付いたとオルドランの口元には笑みが浮かぶ。抱き着いていたオデットの体からガバッと自分の体を離してオルドランは少しだけ頬を上気させてオデットを見上げた。
「坊ちゃまじゃなくて……っ、僕に、……オデットだけの名前を付けて! そしたら呼べるよね? 侯爵家の跡取りじゃない名前!
母様と僕だけの名前!」
泣きそうな顔で笑って自分を見上げるオルドランにオデットは息を呑む。
そこに居たのはただ純粋に母の愛を求めることに必死な子供だった。
坊ちゃまなんて他人みたいに呼ばないで。
オルドラン様なんて使用人としての距離を置かないで。
──息子として僕を見て……っ!!──
オルドランの期待する瞳に、オデットの中で乳母としての立場で蓋をしていた母として心が揺れ動いた。
◇
乳母と後継者の男児。
幼い頃から誰よりも近くに居ても、二人の間には決して踏み越えてはいけない溝があり、オデットはそれを決して超えようとはしなかった。
オデットはちゃんと理解している。
自分が『金で買われた愛人』で『雇われている乳母』であると。
だからいくら自分が産んだ子供だとしても、その子供はもう『オデットから離れている』のだと。『家格が上の大切な他家の御子息』なのだと、ちゃんと理解していた。
自分如きが母親面をしてはいけないのだと、ちゃんと弁えていたのだ。
引き離されてツラくなるだけだから…………
だけど今、そのオルドランから乞われているのだ。母として。
そのまだ幼い手に力を込めて、震えながらも絶対に離さないというようにしがみつき、どうにかして母の愛を得ようと踠いている。
「二人だけの時ならいいでしょ!?」
「誰にもバレなきゃ……っ!」
「父様にも秘密っ……!!」
目にいっぱいの涙を溜めてオデットを見つめてくる。オデットにとってはとても甘く抗えない誘惑。
オルドランを『自分の子』だと愛してもいいのだと、本人から許可されている。
「…………かぁさま……」
震えるその幼い声をオデットは振り払えない……
だってそれは、ずっとオデット本人が望んでいたことでもあるのだから……
「……誰にも……バレてはいけませんよ?」
オデットのその言葉にオルドランの顔が花開く様に輝く。
「……っ!? うん……っ!!」
返事と共に零れたオルドランの涙にオデットの心臓が跳ねる。動いた気持ちが『喜び』なのだとオデットも分かっていた。
「……っ、誰かに聞かれてもいけません。……この部屋の中だけ……本当に二人っきりの時に……」
「……うん! 絶対っ!!」
オデットの言葉に、オルドランは空が晴れるかのように眩しく、それでいて無邪気な幼い笑顔で嬉しそうに笑った。
◇
二人だけの秘密の名前を付けるのにオデットは少し悩んだ。
オルドラン自身がオルドランから捩るのを嫌がったからだ。何か特別な……初めての名前がいいと、オルドランが望んだ。
困ったオデットは悩んだ末に口を開いた。
「……アル……、とはどうですか?」
「アル?」
「……そうです。わたくしはあまり男性の名前を知りませんので……わたくしが一番信頼している男性の名前から思いついたのですが……」
申し訳無さそうに眉尻を下げるオデットに、逆にオルドランは目を輝かせた。
「それはオデットが好きな人?」
「っ!? ……そ、それは…………っ」
オルドランの言葉に少しだけ頬を染めて驚いた顔をしたオデットを見てオルドランは嬉しくなった。
ずっと暗い顔をしていて、笑っていてもどこか淋しげだったオデットの、始めて見た素の表情のようにオルドランには見えたからだ。
自分の父親がランドルだとは分かっていても、自分の母がオデットだと分かった今、その母が好きな人がランドルじゃなかったとしてもオルドランは気にならなかった。『愛し合う両親から生まれた子供』なんていう発想はそもそもオルドランには無い。『愛し合う両親』なんてものはオルドランには無縁だったからだ。だから母が自分の知らない男性に想いを馳せていると知っても何とも思わないし、むしろ逆に、オデットへの愛のないランドルとは違う、まだ見ぬ『オデットが信頼する男性』への期待にオルドランの心は跳ねた。
「その人は優しい人?」
何故か目を輝かせてそんなことを聞くオルドランに少しだけ困りながらオデットは頷く。
「はい……とても……とても優しい方でした……」
言いながら淋しげに瞳を揺らすオデットにオルドランは決意する。
「決めた……! 僕は今日からアルだよ! 母様だけのアル!
ね! 母様! 呼んで!」
自分にギュウゥッと抱き着いて、そして満面の笑みでそう言ったオルドランにオデットは困ったように笑い……そして初めてその口から我が子を呼んだ。
「アル……」
「……うん!」
「アル……」
「うん!」
「アル…………」
「……お母様……っ!!」
二人しかいない部屋で抱き合う二人の時間は、今初めて母子としての時を刻み始めた。
秘密の……秘密の関係……
誰にも……父親にも知られてはいけない触れ合いだったけれど、
オルドランにとっては今まで生きてきた時間の中で、初めて心から安堵できる時間となった。




