2>> 得体の知れない恐怖
7歳の時。
それは突然だった。
「あぁ、オデット。ここにいたのか」
昼も少し過ぎた頃、オルドランの部屋に父ランドルが突然やって来てそう言った。
「っ?! だ、旦那様? どうされたのですか?!」
オルドランの部屋でオルドランと二人で居たオデットは突然現れたランドルに慌てた。
そんなオデットを気にすることなくランドルはオデットに近付き、少しだけ怯えるオデットの手首を掴んで歩き出した。
オルドランには目もくれなかった。
「来いっ!」
「だ、旦那様?!」
腕を引かれて連れて行かれそうになるオデットは慌て、引き攣った顔でランドルの動きを止めようと自分の足を踏ん張ったが、ランドルの勢いを止めることは出来ずにふらつきながら引っ張られて行った。
そんな二人を見てオルドランも青褪め息を呑む。
そんなオルドランを一瞬見たオデットが青褪めながらもランドルに震えた声を掛けた。
「旦那様っ!! ぼ、坊っちゃんが居ります!! ご、御用とあらば直ぐにそちらに向かいますので、少しっ、少しだけお待ち下さい!!」
抵抗を見せたオデットにランドルは腹を立てたのか眉間にシワを寄せた顔でオデットを振り返ると、その表情のままオルドランを見た。
「……っ!?」
父親からの今まで向けられたことのない表情を見てオルドランは更に怯える。そんなオルドランを見てランドルは眉間にシワを寄せたままで無理矢理に口角を上げて息子に笑って見せた。
「な〜に、お前ももう幼児じゃないんだ。一人で部屋で勉強できるよなぁ」
そう言われた声の強さにオルドランは無意識に首を上下に振っていた。怯えたオデットを連れて行って欲しくはなかったけれど、父親に反抗できるような気持ちはオルドランにはなかった。
「な〜に、直ぐに誰かが来るだろう。お前は少し私に付き合いなさい」
ランドルの言葉にオデットは体を硬直させた。だがオデットの後ろにいるオルドランにはオデットがどんな表情をしているかまでは分からない。でもきっと怖がっている表情をしているだろうということはオルドランにも分かった。なのにそんなオデットの顔が見えているだろうランドルは何も気にすることなく独り言を言うように呟き扉へと歩き出した。
「は〜、今日は特に苛つくことが多い。発散せんと夜の集いにも行けぬわ」
そう言って服のボタンを外しながら歩く父の後ろ姿をオルドランは見送ることしかできない。
オデットは逃げることもできずにただ連れて行かれる。何度も何度もオルドランを振り返ってはその怯えた表情にオルドランへの心配を滲ませていた。
そして何とか部屋の外に出る前にオルドランに伝える。
「お、お部屋の外に出てはいけませんよ!! わ、わたくしが戻るまで、決して……っ! 決して!!」
そんなオデットを無理やり部屋の外に引っ張り出したランドルが父親の顔で部屋の中に居るオルドランに笑い掛け、
「大人しくしておくんだぞ」
そう言って部屋の扉を閉じた。
閉じた扉の外からまだ声が聞こえた。
『っ!? いけません旦那様!? こんなところでっ!? ぼ、坊ちゃまにっ!』
『偶には趣向を変えても楽しいだろう?』
『だっ!! ダメですっ!! いけませんっ!!』
『はは、お前のそんな反応が見れるとは一つ良いことが知れたなあ!』
『っ……! 旦那、さま……っ!!』
『………、……、』
オルドランはその声が聞いてはいけない声のように思えて慌てて扉から離れた。そして扉とは反対側の壁まで行くとそこで蹲って両耳を塞いだ。何が何だか何も分からなかったのに、体は震えて心は怖さで怯えていた。
父が何故オデットを連れて行ったのか分からない。オルドランのオデットなのに。二人が何をしているのかも分からない。
だけどオルドランは父と乳母のオデットが他の使用人たちとは違う関係なのだとは既に理解していた。父とオデットの距離が他の人たちとは違って近いことも分かっていた。だけど、今回のように父が無理矢理にオデットをオルドランの前から連れて行ったことは初めてだった。
あんな……あんなオデットの怯えた表情も……
──オデット……っ、オデット…………っ!──
オデットは間違いなく怖がっていた。嫌がっていた。オルドランはそんなオデットを助けたいとも思ったけれど混乱と恐怖心はオルドランからその勇気を奪った。父に歯向かう気持ちにはなれなかった。震える足は動かず、喉は引き攣って声も出なかった。だからオルドランは強く目を瞑ってただただ時が過ぎるのを待った。待つしかできなかった。
それしか、オルドランにはできなかったから……
オルドランが両耳から手を離した時、もう室内は静かだった。廊下からも物音一つしない。人の気配もない。
ホッとしたオルドランは暗い顔のまま窓の外を見た。本を読む気も勉強する気にもならなかった。
ただぼうっと空を見上げる。
父と乳母のことを考えたくなかった。……考えちゃいけない気がした…………
ふと視界の隅で動きを感じてオルドランは庭に視線を向けた。
窓から見える侯爵家の中庭。季節の花々が綺麗に植えられているその花壇の間に。
侍女を連れたカリーナの姿が見えた。
◇
遠くに見えたカリーナの姿にオルドランの心はトクンと鳴った。
「お、かぁさま……」
無意識に零れた自分の言葉に想いが溢れる。
今そこに母が居た。
見える場所で、母が楽しそうに微笑んでいる。
その優しい笑みにオルドランの幼心が溢れる。
お母様お母様お母様お母様…………っ!
オデットが連れて行かれて、父の見たこともない父とは思えぬ表情を見せられて、オルドランの心は得体の知れない怖さと一人にされた寂しさで揺れていた。誰かに側に居て欲しかった。抱きしめて欲しかった。
そんなオルドランの前に母が現れたのだ。
オルドランの気持ちは抑えられなかった。
お母様、お母様、お母様……っ!!
部屋には誰も居ない。きっと廊下にも誰も居ない。
今オルドランを止められる者は誰も居なかった。
気付けばオルドランは走り出していた。
気持ちはもう母親のことで一杯だった。
走ってその胸に飛び込めば、母はきっとオルドランを抱き締め、その優しい声で愛し気に名前を呼んでくれる。
オルドランが母と引き離されて寂しかったのと同じように、母だってオルドランと引き離されて寂しかったはずだから。冷たくされていたのもきっと理由があっての事。オルドランが手を伸ばせば必ずその手を取ってくれるはず。だってオルドランのお母様だから。
驚くかもしれないけれど、カリーナはオルドランを絶対に受け入れてくれるに決まっている。
オルドランは母に抱き締めてもらえる喜びで自然と口元に笑みを浮かべていた。
初めて感じた恐怖心と極度の寂しさからオルドランは一度頭に浮かんだことだけしか考えられなくなっていた。ただ抱き締めて欲しい。他の誰でもない。愛しい母に。今、抱き締めて欲しいのだ。
──お母様っ!!!──
花に囲まれた母は女神のように美しかった。
◇
ドキドキする心臓を隠してオルドランはゆっくりとカリーナに近付く。
カリーナは花を選んで摘んでいるようでオルドランが近くに来ていても気付きはしなかった。
そんなカリーナにオルドランは緊張と嬉しさで頬を上気させながらおずおずと母に声を掛けた。
「お、……お母様…………」
その声にカリーナは振り返った。
『まぁ……っ、オルドランっ! 会いたかったわ……!!』
そんな声がオルドランの頭の中で響いた。
それと同時にオルドランの顔に衝撃が走ってオルドランは尻もちをついた。
「っ?!!」
驚きで声も出ないオルドランが一瞬眩んだ目を瞬くと、自分の視界の中には数枚の花びらが見えた。そして徐々にピリつき出す頬に頭は更に混乱した。
混乱した頭で前を……視線を上に向けると、……そこには絵本の中に描かれていた悪魔のような顔をした女性が居た。
そしてその女性は持っていた数本の花の束をオルドランの頭の上に叩き付けた。
バシンッ、とも、バサンッ、とも取れない音がオルドランの耳に届く。そして感じる痛み。
叩かれたのだとやっと理解した。
そして次に襲ってきたのは恐ろしい程に響く女性の声だった。
「なんで……っ、なんでこの子がここに居るのっ!? なんでこの子がっ!?! なんのつもりなのっ!?! わたくしをっ……、わたくしを馬鹿にしに来たのっ?! わたくしが、わたくしがどれほどっ……!!! あの女の差し金ね!?! あの女がこんなことをしたんでしょう?!! わたくしを馬鹿にして楽しんでいるのねっ?! なんて酷いっ! なんて酷いのっ!!!!」
酷い酷いと言ってカリーナはオルドランを花の束で叩いた。直ぐに花びらは飛び散り葉も潰れて茎だけになった弱々しいそれは、それでも力一杯に振り回されれば小さなオルドランには凶器となった。
暴れてオルドランを叩き続けるカリーナを慌てて侍女やメイドたちが止めてオルドランを引き離た。そしてオルドランは直ぐに邸内へと連れて行かれて手当てを受けた。
叩かれている最中は呆然としていたオルドランは、衝撃が止むと混乱のままに大泣きした。痛くて理由が分からなくて涙が止まらなかった。
そんなオルドランの耳には部屋に入るまでカリーナの金切り声が聞こえていた。
「母などとっ?! お母様などと呼ばないでっ!!! お前なんかに呼ばれたくもないっ!!! お前なんかにっ!!!!
あぁ!! 穢らわしいっ!! 穢らわしい子!!! お前なんかわたくしの子じゃない!!!
お前なんかわたくしの子じゃないわ!!!!!」
母の絶叫は剣のようにオルドランの心を切り裂いた。
◇
家令に傷の手当てをされた後、オルドランは吐いた。
カリーナが言った言葉が頭の中をグルグル回る。ずっとずっと憧れて、いつか抱きしてくれると信じていた存在に拒絶されてオルドランは混乱した。
──何で? 何で? 何で??!?!?!──
答えなど出る訳も無くてオルドランの精神は許容範囲を越えた。
「あ……、ぁあ……あぁあああアァアあぁあ!!!!!!!!!」
嗚咽と吐き気と混乱に襲われたオルドランは、叫び声を上げて気絶した。
目を開けたオルドランが見たのは泣き腫らした目をしたオデットの顔だった。
「坊ちゃま……ごめんなさい坊ちゃま……」
涙を流しながらオデットはただオルドランに謝罪した。ごめんなさいと……それだけを言いながら、オデットはオルドランを抱き締めるように体を寄せた。
何に対しての謝罪なのか分からない。
だけれどオルドランの目からは涙が溢れ、またオルドランの口から嗚咽が漏れた。
「あ、あぁああぁあ〜……っ、か、があさまがあ〜……っ、おがぁざまがあ〜〜っ!!!!」
泣くオルドランをオデットは抱き締める事しかできない。
「ごめんなさい……、ごめんなさい坊ちゃま…………」
そんな言葉しか言ってくれないオデットから仄かに石鹸の匂いがして、何故かそんなことすらオルドランを嫌な気持ちにさせた。




