12>> 愛おしい世界
平凡で、穏やかな日々が過ぎ去り。
あれから3年が経っていた。
クレアはもうすぐ18歳になろうとしていた。
この国では18歳で成人となる。聖女も親元を離れる歳となるのだが、クレアはその慣例から除外されていた。親元を離れると言っても長期旅行のようなもので、実家を離れたくない者は住まいを実家に残していてもいいのだが、クレアはまだ自発的に聖女の力を使えないこともあって『聖女の活動』そのものがまだ保留扱いとなっていた。
教会関係者の一部は20歳くらいには〜……と思っているのだが、無理に何かをやらせてクレアの心の傷が開いては元も子もないので、聖女として独り立ちできなくても、“聖女の力が使える”だけで御の字だと皆が思うことになっていた。
クレアの後にも一人、聖女が見つかっている。
彼女の成人は3年後だが、彼女は既に一人で力が使えるので、家の近くならば活動範囲として瘴気を払っている。
一人の聖女が結婚する為に引退したが、今いる聖女の一人は一生を聖職者として生きることを、一人の聖女は同性愛者なので自分は一生純潔だから安心しなと宣言しているので──彼女はある時「聖女の身体が男になったらどうなると思う?」と言って大騒ぎになったことがある。恋人に怒られて実行に移すのは止めたようだ──、今は百年程前に聖女が一斉に結婚を発表した時よりは安泰だろうと思われている。
誰もクレアに『聖女』であることを求めない。持っている力の使い方は教えているが、そこに付随する責任を背負わなくとも、ただ幸せに生きてくれたらそれでいいのだと皆がクレアを見守っていた。
クレアも、自分が聖女だということを意識したことはなかった。
そんなある日……
家の隣にある教会が騒がしかった。
クレアはワンを連れて教会を訪れ、何やら人が騒いでいる聖堂内を覗いた。
そこには男の人が数人居て、何やら揉めている様だった。司祭と義父も困ったような顔をしてそこに混ざっていた。
どうしたのだろうとクレアは思った。
「あぁっ!! ここに来れば聖女様が居ると聞いて来たのにっ!!」
嘆く男性に司祭が沈痛な面持ちで寄り添っていた。
「3日前までは居たのです」
司祭の言葉に義父が続けた。
「既に連絡に走っています。直ぐに引き返してきてくれるでしょう」
そんな言葉に男性は床に膝を突いて頭を抱えた。
「何日経つ?! ここからウチまで1日以上掛かるのにっ! 森が……っ、先祖から引き継いできた森が枯れてしまう!!」
どうしようっ、と男性は泣いた。
瘴気は風と一緒だった。どこにでも現れ、誰にも予想できない。“風”を予知できないのと同じように。
その為に聖女が色んな場所で祈りの力を使って予防線を張るように瘴気が現れるのを抑えているのだが、時々その予防線を超えて瘴気が現れる。
現れた瘴気は『枯らす』のだ。草木を、土を、水を……瘴気は枯らしてしまう。人も長く瘴気に当たっていると体を壊すのだが、人々が最も恐れるのはやはり土地が壊れることだった。
「シュレーの木は実るまで3年は掛かるんだっ! 木が枯れてしまったらどうすればいい?! ウチには3年も待つ余裕なんてないのにっ!!」
「落ち着いて……っ、瘴気といえども直ぐに森を枯らす威力はありません。今はまず落ち着き、最善策を考えましょう」
司祭が男性たちを宥める為に落ち着いた声で話しかける。しかし他所から来たと思われる男性たちは焦る気持ちをどうにもできずに口々に話していた。
「身重の妻が居るんだ……っ」
「村には動けない年寄りが……」
「森が……っ、枯れてしまったらどうしたらいいんだ…………っ!!」
男性たちも自分たちが騒いだところで何にもならないということは分かっている。だけど黙って座って待っていることなどできそうになかった。焦燥感に駆られ、心が押し潰されそうだった。
「聖女様……っ」
「どうかっ、……聖女様っ!!」
聖堂内の女神像に向かって祈りを捧げだした男性たちの小さくなった背中を、クレアは遠くから見ていた。
くぅ〜ん……、とクレアの足元でワンが心配そうに見上げてくる。
だけどクレアは、今はワンよりも苦しむ男性たちの震える背中が気になった……
──聖女様──
教会で会い、クレアに優しくしてくれた女性たちがそう呼ばれていた。彼女たちは皆あたたかく、一緒に祈るとなんだかいつも不思議な感じがしていた。体の奥から温かくなってふわふわと、何かが遠くまで届くような、いつも不思議な感覚がしていた。それは聖女たちの力の影響だと思っていたのだけれど…………
クレアには忘れられない記憶があった。
世界が『明るい』のだと気付いた日のこと。
温かな手に自分の手が握られた日のこと。
『おめでとう。君は聖女だよ』
そう……優しい微笑みと共に言われたことを…………
クレアの記憶に、強く残っていた。
「聖女…………」
クレアの記憶は『クレア』になる前のことが少し曖昧になっていた。自分の心を守る為、必要以上に攻撃されない為に、エーは外からの刺激を無意識に遮断していたのだ。見ない、聞かない。考えない。そうすれば苦痛も不快感も強く感じることはない。全てが“薄く”“曖昧”に……
“知らなければ”、“思うこと”も、無い。
そんな生き方から、知らないことを知ろうと意識して生活するクレアに変わった。
“濃く”て“明瞭”な日々の中で、クレアには明るく幸せな知識と記憶が詰め込まれていく。暗く冷たかった時の記憶は場所を追われてどんどん隅へと押しやられていく。『消えることは決して無い』が、それでも『記憶の底へ』と仕舞われていった。
そんな『今のクレア』が変わったことを意識した時に、一番最初に思い出すのが『聖女』と言われた記憶だった。
あの時会ったあの男の人とはあれ以来会ってはいないが、でもあの人が持っていた逆らってはいけないような雰囲気は今でも鮮明に思い出せた。
「おめでとうって、言ってくれた……」
それが祝いの言葉だと今は知っている。『聖女』であると、祝われたのだ。クレアが。
だったらクレアは…………
そう思った時には、クレアの身体はもう動いていた。
隠れていた教会の扉の影から出て、聖堂内へと入って行く。
そして自分に気付いた人たちにしっかりと向き合って、クレアは立った。
「……私……、やってみたい……!」
胸の前で手を組んで、震える身体でそれでも真剣な面持ちでそう言ったクレアに皆が驚いた。
「っ!? クレア!?」
飛び上がって驚いた義父が直ぐにクレアの側まで来てクレアの肩に手を添えた。自分を不安気な顔で見下ろしてくる義父にクレアは真剣な瞳を向ける。
「……私……、やらなきゃ…………っ」
その真剣さに義父は息を呑む。止めなきゃと思う気持ちと、クレアの成長に驚き歓喜する気持ちが同時に沸き起こり、義父から言葉を奪った。
そんな義父の後ろから馴染の司祭がクレアに声を掛ける。
「……貴女が無理をする必要はないのですよ。聖女は直ぐに動きます。今はまだ貴女は力を一人で使えるように祈りましょう。今はそれが……『貴女のやるべき役目』、なのです」
眉尻を下げた、少しだけ困ったような……悲しげな笑顔で司祭はクレアに語り掛ける。必要はないと言われてしまいクレアの顔に悲しみが浮かんだ。でもそれは、司祭が“クレアを想って言ってくれた言葉”なのだと今のクレアには分かるから……、だからこそ……クレアは自分に対して『悔しい』と感じた。クレアが……一人では“できない”、から…………
そんなクレアたちのやり取りを男性たちが心配気に見ていた。
クレアを見る目は涙で濡れて、目元はみんな赤くなっていた。
彼らは助けを求めている。助けられるのは聖女だけ。今すぐ人が死ぬ訳じゃない。だけど彼らが育てた植物は死ぬだろう。彼らが、彼らの先祖が長年かけて育ててきた大地は死ぬだろう。そこに生きる生物にも影響が出るだろう。
数日。たった数日待てば聖女の誰かが駆け付ける。瘴気の威力は分かってはいないが、数日なら影響も最小限で抑えられるだろう。枯れるのは……広範囲ではないだろう…………
でも……、クレアは思う。
でも、それでも……、とクレアは考えてしまう。
──影響が出るなら、それは、『誰かが悲しむ』こと……
その『悲しみ』が少しでも減らせるのなら……
『聖女』は、動かなきゃいけない…………──
──クレアは、聖女なんだから……──
クレアは自分の手を強く握って、司祭と向き合った。
◇ ◇ ◇
クレアは義母と瘴気の出た村に来ていた。
どうせ祈るのだ。
ならば『必要とされている』場所で練習をしても、何も違いはないのではないかと、司祭を説得したのだ。義母が。
母は強し、とどこの言葉だっただろうか。心配した司祭と同調していた義父もまとめて義母が納得させた。
心配なのは分かるがクレアの気持ちを1番に考えるべきだと。ここで『自分の主張を拒絶された』という記憶を与えてはいけないと、義母は言った。
結果はどうあれ、まず『行動する』ことがクレアの今後に影響するはずだと、義母は強く訴えたのだ。
瘴気は怖い。危ない物である。が、瘴気自体が直接的に攻撃してくる訳ではない。先輩聖女も直ぐに駆け付けると分かっているのなら尚更、『少しだけクレアが一人で頑張ってみても』いいのではないかと義母は言った。
それがクレアの成長に繋がるのではないか、と。
義父はそれでもまだ早いのではないかと言っていたが、最後はクレア自身のお願いに渋々首を縦に振った。『自分の為ではなく、人の為にできることがしたい』と震える身体で訴える娘を悲しませてまで駄目だと言うのは、ジン自身もおかしいと頭では理解していたからだ。だけどやっぱり……、心配なものは心配で。できれば危ないところになど行かないで欲しいと思っていた。
……そう思い過ぎて態度に出し過ぎた所為か、義父はお留守番となった。
義母から「誰かがクレアにおかえりを言って上げなきゃいけないでしょ」と言われた。心配しかしていない貴方を一緒に行かせることも心配だとも言われてしまった。
不安な顔で、それでも頑張って笑顔を作って見送った義父に初めて手を振って、クレアは義母と共に瘴気が出た村へと来たのだ。
◇
瘴気は既に土地の一部を枯らしていた。森の一部分が不自然な色をしていて遠目からでも異変が分かった。
「……あぁっ!」
村の男性がそれを見て嘆いた。泣くのを我慢しているのか唇が震えていた。
「すまない爺さん、すまない……俺がもっとちゃんとしてたら………っ」
彼は悔しげに呟いていた。司祭から、『瘴気はどこに出るのか誰にも分からず、そこに理由はない』と言われたのにも関わらず、彼は『自分に問題があって瘴気が出た』と思っていた。もっと清く正しく生きていれば……と。そんなことは『関係がない』のに、人は『自分を責めてしまう』のだ。彼も、先祖代々受け継いできた森を、自分の代で瘴気に枯らされてしまったことを自分の所為だと考えてしまっていた。
そんな人たちを間近に見て、クレアも心が締め付けられていた。
『自分にはどうすることもできないことはある』
とクレアは知っている。何もしていなくても嫌なことが自分に襲いかかってくることがある。何も言っていないのに責められることがある。クレアはそれらがただ過ぎ去るのを待っていることしかできなかったが、“考えることを知っている人たち”が、それらを全て受け止めてしまった後に……最後に出てくる『答え』はなんだろうか? クレアにはまだそれはわからなかったが、良くない……とても良くない結果になる気がした。
自分を責めないで欲しい……
これ以上悲しまないで欲しい……
そう思ってもクレアには彼らにとって『良い言葉』を伝えることはできそうになかった。もう『気休め』という言葉も意味も知っている。そんな言葉を言われても気持ちは晴れないと知っている。
だから少しでも……少しでも『自分』にできることを……
クレアにできることをしたい、と……
クレアは強く思うのだった。
「クレア、大丈夫?」
クレアに寄り添い手を握ってくれていた義母がクレアと目を合わせて聞いてきた。
それにクレアはしっかりと目を合わせて頷く。
やりたいと思うばかりで本当に自分にできるかなんか分からないけれど、クレアが聖女なら、やらなきゃいけないんだと、クレアはギュッと手を握った。
「……クレア」
義母にまた名前を呼ばれた。
目を合わせた義母は心配気な……それでいて優しい微笑みを浮かべていた。
「ねぇ、クレア。
貴女は聖女よ。それは間違いない。
でもね、それに囚われてはいけないわ」
「え?」
いけない、と言われてクレアは驚いた。そんなクレアに義母は困ったように眉尻を下げて笑った。
「瘴気は聖女にしか消すことができない。それは事実よ。
でもね。だからってね。瘴気の所為で誰かが泣いていても、それを聖女が背負う必要はないの。
聖女は『癒やす人』よ。癒やすのが遅くなったことで失望して怒る人もいるかもしれないけれど、でもそれで、怒りの理由が『聖女の所為』になったりはしないの」
「…………」
「自分にできることを全力ですることはとても良いことよ。それで誰かが笑顏になるのならやった方がいいでしょう。
でもだからって、『やらなければ駄目なんだ』、なんて思っちゃいけないの。そんな『責任』を、貴女が感じる必要はないのよ」
「責任……」
真剣に言われた言葉にクレアは戸惑う。責任という言葉はもう知っている。そんな風に考えていた訳ではないが、クレアはやらなければいけないと思っていた。『聖女』だと、『君は聖女だよ』と言われたから……だから…………
「クレア。
私は貴女が好きよ。貴女が、貴女として生きていてくれていることが嬉しいの。
クレアは聖女だけど、聖女である前にクレアは“クレア”なの。貴女という“一人の命”なの。
だから貴女は、“貴女の為に生きていい”の。聖女だからとか、誰かに言われたからとかに縛られないで」
「縛られる……」
「ねぇ、クレア。
貴女が瘴気をどうにかしたいのは、貴女が聖女だから? それとも、“クレア”だから?」
その言葉にクレアは少しだけ目を開いた。考えてもいなかったことだった。
だってクレアは『聖女』だから。
『聖女』がやらなきゃいけないことは、『クレア』もしなきゃいけないと思ったから。
「クレアは、聖女じゃなかったら、ここに来たいとは思わなかった?」
「……っ?!」
その義母の言葉はクレアにとっては衝撃だった。
そして瞬間的に『違うっ!』と思った。
聖女だから、じゃない。
聖女じゃなくても、クレアはあの人たちが気になった。
何もできなくても、クレアは、何かをしたいと思った。
「わたし…………っ」
驚いた顔をして、クレアは義母を見返した。自分の両手を胸元に置き、何かに気づいたように浅い息を吐いた。
「……私……聖女じゃなくても何かしたい…………
私は……私として、できることを、したい……っ!!」
心からの想いを、クレアは口にした。
言葉にしてみると、想いは明確な形となってクレアの中に現れた。
聖女だからじゃない。誰かに言われたからじゃない。そうしろと教えられたからじゃない。
クレアは、自分の考えで、そうしたいと思った。
強くなった想いがクレアの中から溢れ出る。
温かく柔らかい光がクレアの意思とは関係なくクレアの胸から広がって、風のように流れた。
「……クレア……」
義母の目からは自然に涙が流れた。周りにいた人たちは唖然としてクレアを見ていた。ワンは興奮してクレアたちの周りを走っていた。
「……私……助けたい…………」
──みんなが私を助けてくれたように……──
クレアは自然と祈りの姿勢をとって目を閉じた。
想いが……力が湧き水のように体の奥から溢れてくる。
初めて手を握ってもらった感触や、初めて優しく抱き締めてもらえた感覚、優しい言葉をかけてもらえた時の気持ちに、愛されていると実感できた時の感情、誰かから与えられるあたたかさ…………
ただ“生きていた”だけの時間よりも短いのに、今のクレアを形作っている全ての思い出が、クレアの心を温める。
クレアに笑顔をくれた人たちの笑顔がたくさん、本当にたくさんクレアの中にあった。
「……私……私はみんながスキ…………」
心のままに呟いた言葉を乗せて、クレアの聖女の祈りが輝きを増して広がった。貰った“あたたかさ”を誰かに分けて、今度はクレアが誰かの手をあたためられるように。教えてもらった“幸せ”を、今度はクレアが誰かにあげられるように。
クレアの想いを乗せて、光が、広がっていった…………
温かな光が辺りを包み込み、瘴気は消えた。
後から来た先輩聖女が涙を流して喜んだのは言うまでもない。