11>> 広がる世界
その子は突然やって来た。
「タット兄はアタシと結婚するんだからね!!!」
クレアの家にやって来て、庭で花壇作りの作業をタットと一緒にしていたクレアに、小さな少女がクレアを指差しながらそう叫んだ。
クレアはめちゃくちゃ驚いた。
そしてそんなクレアより飛び上がって驚いたのはタットだった。
「おわぁ?! 何言ってんだよアンナ!? 俺がいつそんな約束したよ?!? つか何でここに居んだよ?!」
「ヒドイわ、タット兄!! アタシというものがありながら、他の女の家に通うなんて!!!」
「だーっ?! だから何言ってんだよ、お前はあっ?!?!」
ぎゃあぎゃあと突然始まったやり取りにクレアは理由も分からず身体を固まらせていた。
それに気付いたタットが申し訳無さそうにクレアを見た。
「ごめんな、突然。こいつ俺の家の横に住んでるアンナって言うんだ。何か訳分かんねーこと言ってっけど、気にしなくていいから。俺も意味分かんねーし」
そう言ったタットにアンナと紹介された少女は年齢には似つかわしくない態度で怒った顔をした。アンナは7歳。タットからすれば『異性』ですらなかった。そんなアンナが両手を腰に添えてふんぞり返っている。
「意味わかんないとか何よ!? 約束したのに!! ヒドイわ!! アタシを騙したのね!! この女ったらしー!!!」
そう叫ぶとアンナはダッと走り出した。小さな体の割には凄い速さだった。
「は?! 誰が女たらしだ!?!! おまっ!? 変なこと言うんじゃねーよっ!!!!」
タットはアンナの背中に叫んだがアンナは止まることはなかった。
「なんだい、タット?! 騒ぐんじゃないよ!!」
離れた場所で作業をしていたヴィッキーと義母が慌ててやって来た。しかしもうアンナの姿は見えなくなっていた。
「俺じゃねーよ!?! アンナが来てたんだよ! 俺がなんかとか、俺となんとかとか勝手に騒いで直ぐに帰っちまった!」
「なんとかってなんだい?! ほら! クレアちゃんが驚いて置物みたいになっちまってんじゃないか!」
「クレア。大丈夫?」
義母がクレアの肩に手を置いてその顔を覗き込む。クレアは驚いた表情はしていたが、嫌な感じではなかった。
「……だぃ……じょぶ……」
目をパチクリしながらそう返事をしたクレアにヴィッキーが眉尻を下げた笑顔を向けた。
「ごめんよ〜クレアちゃん。うちの息子が騒がしくって」
「だっ?! 俺の所為かよ?! アンナが来てたんだって! なんか俺が『女たらし』とかなんとか……」
「はぁ?! ……あぁ、なるほど。
アンナちゃん、アンタに惚れてたからね。まぁ、小さい時は優しくしてくれた年上の男の子が全員王子様に見える時期だから。その気の迷いに後悔すんのよ」
はーやれやれ、と頭を振る母にタットは何とも言えない顔をした。“気の迷い”は分かるが、“後悔”とまで言われると……なんか腹立つ。
「……いや?! 年下に優しくするのは誰でもだろ?! そんなことで惚れてたらきり無いぞ?!」
「そういうもんなんだよ。私も子供の頃は隣のお兄ちゃんが世界で一番格好良く見えてね……、でも近所のお姉さんのスカート覗こうとしてるの見ちゃってそれから男ってもんが信じられなくなったもんさ……そんな私をアンタの父さんが」
「何の話だよ?! 聞いてねーし!!」
タットとヴィッキーが母子のやり取りを始めた横で、まだクレアは驚いてドキドキした胸に手を添えてアンナの走り去った方を見ていた。
小さい人だった。家の外で見かけることはあったけれど、ちゃんと向き合って挨拶以外の声を掛けられたのは初めてだった。
クレアより小さいのに、クレアよりハキハキと話す姿がクレアには印象的だった。
クレアの肩に手を添えてクレアに寄り添うマーサに、タットから聞いた話から何となく察したヴィッキーがマーサに知っていることを話した。
「アンナちゃんのお母さんね、あの人も本を読むのが好きなんだけど。その内容が、“略奪”? “不倫”? “三角関係”? っていうの? そういうのみたいでね。
夜に自分が読む序にアンナちゃんへの読み聞かせにも使ってるみたいで、アンナちゃんも完全にそれに染まっちゃってるのよ」
ヴィッキーが話し出した話にマーサはちょっと困った。そうそう聞かない単語が出てきたからだ。
「そ、そうなのね……」
そんな返事しかできないマーサを気にすること無くヴィッキーは話し続ける。
「ウチも前に旦那が買い物に出た日にアンナちゃんが私の前に来たと思ったら、『おばさん! おじさんが不倫してたわ!!』って言うから驚いちゃったわよ。ウチの旦那にそんな甲斐性あったかしらって。帰って来た旦那も大慌てで笑っちゃったわ!
まぁ娯楽が少ないからそういう話はみんな好きなんだけど、アンナちゃんみたいな幼い子に言われるとね〜。
ほら、どこまで理解してるのか聞く訳にもいかないじゃない?」
「それはそうね……」
困ったように微笑みながら相槌を打つ義母は早い段階でクレアの両耳を自分の手で塞いでいた。流石にまだクレアには言葉の説明もできない。
クレアは耳が温かくなって気持ちいいのか目を閉じていた。
タットがそんな二人に直ぐに気付いて自分の母の脇腹を肘で突いた。
「母さん! 二人が困ってるだろ! もうちょっと言葉を選べよ!」
「あら、そう?! ごめんなさいね〜クレアちゃん!
フフ! そういう訳だから、アンナちゃんが変なこと言っても気にしなくていいからね! タットで遊んでるだけだから!」
「俺かよ?!」
クレアの家にヴィッキーとタットが来ると毎回賑やかになる。義父も義母も普段は落ち着いているから、普段の会話が騒がしいヴィッキーたちのやり取りを見るのは毎回新鮮で、クレアは好きだった。
二人の声は時にはとても大きくなってクレアの耳を震わせたが、心は……一度も固くなったりはしなかった。クレアにとって、その時の『ドキドキ』は、嫌なものではなかった。
ヴィッキーたちの声を聞きながら、『アンナちゃん』に、また会えたらいいなぁとクレアは思った。
◇ ◇ ◇
アンナは思いの外直ぐにクレアの前に現れた。
手作りお菓子を持って、クレアの家に謝罪に来たのだった。
「この前は騒がしくしちゃってゴメンナサイ! これ、お母さんと一緒に作ったタノレって言うお母さんの田舎のお菓子よ! すごくおいしいから食べてね!」
アンナの母親もクレアのことは知っていた。むしろ教会の側に越して来たクレアたちのことはこの村の住人なら全員が耳にしていることだった。クレアが『訳あり』であることは一目見たら全員が分かる。でもそんな彼女が側の教会と縁付いていることもまた、直ぐに分かることだった。
クレアたちのことは村人全員で話し合った訳ではないが、それぞれ知り合いと話をして『そっとしておこう』となっていた……のに、アンナが突撃した上におかしなことを口走ったと聞いたので、アンナの母親はとても申し訳無く思っていた。
アンナの母親は少し義母に興味があった。アンナの母親が本を買っている行商からクレアの両親もここら辺では珍しく本をよく買うと聞いていたからだ。もしかしたら『読書仲間』になれるかもしれないと少しの下心を持ちつつ、アンナの母親はアンナを送り出していた。……義母本人は別に不倫モノや略奪愛には興味が無いので“同志”になれそうにはなかったが……
「まぁ、クレアさん! お勉強してるのね!」
アンナはダイニングで字の練習をしているクレアを見つけて目を輝かせた。
アンナの喋り方は母が読む本に出てくる貴族の女性の影響を諸に受けていた。小さな貴族令嬢のような喋り方をするアンナに義母は苦笑して家の中へと招き入れた。
「アタシも早く文字を覚えたいわ!」
アンナは興味津々でクレアの前に座ってクレアの手元を見た。
そんなアンナにジュースを出しながら義母が聞く。
「学校はいつから?」
「来年!」
この国の平民は8歳から10歳までの2年間で文字の読み書きや簡単な計算と地図などの読み方など、生活に必要な最低限のことを学校で習う。貴族への礼儀も教えられるが、それはもっと小さい頃から親が教えるのが普通だった。勿論留年等はない。本当に生きる上での最低限の教育だけを教えられるのだ。
しかし本や新聞などは望めば手に入ることから、知識を得たい者は本を買ったり教会で司祭などから話を聞いて、必要な知識を得ていた。
本に関しては、娯楽小説なども外国から入ってきており、歴史の中で生み出されてきた物がたくさんあることもあって充実していた。
「あら? あれはもしかして“絵本”?!」
部屋の中を興味深そうに見渡していたアンナが本棚に気付いて目を輝かせた。
「そうよ」
アンナの子供らしい反応に義母は小さく笑いながら返事をした。
「ねぇ! 見てもいいかしら?!」
「えぇ、どうぞ」
アンナは跳ねるように本棚まで行くと絵本を取り出しながらその表紙を見た。
「ステキ! なんて書いてあるのか分からないけれど、絵がキレイだわ!!」
そう言ってアンナは絵本を見始めた。
そんなアンナをクレアは手を止めて見つめた。『小さな女の子』はずっとキラキラしていた。着ている服はクレアと対して違わないのに、アンナはキラキラしていたのだ。それがクレアには不思議だった。
そして不意にキュゥッとクレアの胸が縮んだ気がした。何故か急に……本当に急に……『義母たちもあぁいう子が良いのだろうか?』と、それに近い感情がクレアの中に浮かんだのだ。『可愛い子』『明るい子』『元気な子』、絵本の中に登場する子供たち。クレアとは違う、子供たち。……義母や義父もそういうのが好きかもしれない。
……『好かれる』とは、あぁいう人のことを言うのだろうか?
浮かんだ不安にクレアは無意識に義母を見た。
そして優しく微笑む義母と目が合った。
義母はクレアを見ていた。アンナではなくクレアを……
「……アンナちゃんは楽しい子ね。
きっとクレアとお友達になれるわ」
「……ともだち?」
クレアにはまだそれは分からなかった。
だけどアンナは『嫌』ではないと思った。アンナと居れば『ともだち』が分かるのだろうかと思った。
義母がクレアを見てくれていると分かるだけでクレアの身体は気が抜けたように緊張がなくなる。『ほっ』と……する……
気にしていたことが急に気にならなくなって、クレアは『ともだち』について考えた。浮かんだ不安は、義母の優しい眼差し一つで居なくなっていた。
少し考え出したクレアに義母は目を細めて微笑んだ。
クレアは『知る』ことを嫌がらない。むしろ今まで知らなかったことを知ろうと頑張っている。義母も義父もそれを全力で手助けするつもりだが、だが『大人』で『親』の立場である義母たちには、どうしても教え難いものもあった。『対等な立場』などは、“子ども同士”でしか体験できないことでもあるだろう。アンナはクレアより年齢は下だが、おませさんなアンナと知識的に幼いクレアは、意外と合うのではないかと義母は思った。
それに……
「ねぇ! ここにはたくさん本があるわ! アタシの友達も連れて来てもいいかしら? きっとあの子も喜ぶわ! それでね、それでね!? 絵本を貸しても欲しいの!! お母さんに読んで貰うわ!! 絵がこんなにもキレイなんですもの! きっとステキなお話の筈だわ!!」
頬を上気させて話すアンナの言葉に、義母はクレアのこれからを考える。『新しい出会い』『物の貸し借りで起こる繋がりと問題』『性格の違う人たちとの会話』『多人数での会話の仕方』……マーサとジンではクレアに教えることができないことが、アンナによってもたらされそうな予感がする。
クレアの『社会』がこの家から広がっていく。
義母にはそれが楽しみで仕方がなかった。
「絵本は全てクレアの持ち物なの」
その義母の返事に驚いたのはクレアだった。
「え? ……わ、たしの……?」
そんなクレアの反応に義母も少し目を大きくしてクレアを見た。
「気付いてなかったの? この家にある絵本は全てクレアの物よ」
「私の……もの…………」
全然意識していなかったことが急に気になることに変わった。義母や義父の物だと思っていた物がクレアの物だったことにクレアは純粋に驚いた。
この家にある絵本は『クレアの物』なのだ……
そう考えるだけで、何故か『特別』になった気がした……
「ねぇ、クレアさん! アタシに絵本を貸して下さいな!」
義母の言葉を聞いたアンナがクレアの前まで来てクレアの目を期待に満ちた目で見つめて来た。
「え?」
突然のことにクレアはどう返事をしていいのか分からない。戸惑うクレアに思うことがあったのか、アンナが「あ! そうね!」と言って手を叩いた。
「いきなり来たのに“貸して!”なんて困るわよね! そうだわ! アタシの大切なヌイグルミを預けるわ! アタシちゃんと自分のぬいぐるみに名前を入れてるのよ! おばあちゃんが刺繍が得意なの! 大切なヌイグルミだけど“新しい物語”の為なら少しの間クレアさんに預けるわ! これなら信じてもらえないかしら?
ね! どうかしら?」
「え? え?」
興奮しているアンナは少しだけ早口に喋った。その勢いにクレアは考えも追いつかずに慌てる。
クレアのその珍しい反応に義母は眉尻を下げて笑い、アンナを見た。
「アンナちゃん。少しクレアに時間をくれるかしら? 突然だからクレアも驚いちゃって、直ぐにはお返事できないみたい」
そんな義母の言葉にアンナも同意を示すかのように首を縦にブンブン振った。
「そうね! アタシもちゃんとお母さんに言わなきゃ! “貸し借りは慎重に!”って、お父さんにも言われてるもの!
クレアさん! 貸したくなかったらそう言ってね! 大切な御本なんだもの! 仕方がないわ!
でも、遊びには来てもいいかしら? 友達も誘って! アタシまだ文字が読めないからクレアさんに読んでもらいたいわ!」
“楽しみ”を楽しむようにアンナは満面の笑みでクレアに話す。その笑顔に気圧されながらもクレアはそんなアンナが嫌ではなかった。だけど義母や義父たち『大人』と喋るのとは違うこのやり取りに、クレアはどうしても戸惑いが抜けない。
何一つ“嫌な気持ち”にはならないが、アンナへの返事をどうすればいいのかクレアには判断がまだできないでいた。
◇
アンナが帰ったその日の夜。
クレアは絵本を何冊か出してその表紙を見つめながらどうしたらいいのだろうと考えていた。
そんなクレアを義父と義母が優しく見守る。
義父がワンを撫でながらクレアに話しかけた。
「絵本を貸すか断るか、どうしても選べない時は僕たちが選んで上げるよ。
だけどそこにある絵本は“クレアの物”だ。その絵本を“どうしたいか”をよく考えて。
貸したらクレアの手元から一時的に絵本は無くなるけれど、また戻って来る。そしてアンナちゃんはきっと喜ぶだろう。
断ったら、アンナちゃんは悲しむかもしれないけれど、その時はこの家の中で絵本を楽しんで貰えばいいんだ。
それに。絵本を貸した後に、もしかしたら絵本が“戻ってこない”ことや“無くしてしまう”なんてこともあるかもしれない。貸さなければその心配は無い。
でも、絵本が戻ってこなくても、また買えばいいんだ。“大切な絵本”でも、“二度と手に入らない物”ではないんだ」
義父の言葉を聞いていて尚更困ってしまったのかクレアの眉間に少しだけシワが寄った。
クレアが……“悩んだ”顔を、したのだ。
悩むクレアに義父は嬉しくなる。『知らない』『関係ない』『興味ない』『うるさい』そう言って人によっては切り捨ててしまうこともクレアは“ちゃんと考える”。“考えられる”子なことに、義父は嬉しくなるのだ。
──悩んで、困って、そして自分で答えを出して……
そしていつかは、クレアの中での『大切な自分』を見つけて欲しい……──
義父も義母も、そう願っていた……
……その日、夜遅まで悩んだクレアは、『絵本を貸す』という、答えを出した。