10>> 理解する世界
ヴィッキーたちが庭作りに来るようになって数日経った夜のこと。
義父が真剣な表情をしてクレアに話しかけた。
とても言いづらそうに、何度か口を開いては閉じたりをしていた。
そして意を決したように話し始めた。
「クレア。僕は今から君に不安を与えるかもしれない。
嫌な気持ちにさせると思う。
だけどこれは大切なことなんだ。
クレアが絶対に覚えなきゃいけないことだ。
まだ早いと思っていたけど、そうも言っていられなくなった」
義父は眉間に目一杯にシワを寄せてクレアに向き合っていた。その横に居た義母も少しだけ困ったような顔をして、それでも少しだけ口元には笑みを作ってクレアを安心させるように微笑んでいた。
クレアは少しだけ戸惑いながら義父からの言葉を待った。『不安』『嫌な気持ち』、今なら意味も分かる。だけども義父の口から出る言葉なら“安心できる”とクレアは自然と思っていた。
ジッと義父の言葉を待っているクレアに、義父は深呼吸してから話し始めた。
「クレア。世の中には色んな人が居る。それは外見の話だけじゃなくて、“内面”の話でもあるんだ。
会って話をして、優しいと思った人。怖いと思った人。何となく嫌な人。そう思う気持ちも大切だけど、だからと言って『怖いと思った人』や『何となく嫌な人』が『本当に悪意を持ってクレアに危害を与える人』かどうかは分からないんだ。
怖いと思った人が、顔が怖いだけで本当は小さな花が好きな人かもしれない。何となく嫌だと思った人が、たまたまその時に機嫌や体調が悪かっただけで普段は凄く素敵な人かもしれない。
『人』というのはとても『複雑な心』を持っていて、『自分自身ですら、本当の自分の気持ちが分からない』ことだってあるんだ」
義父の言葉をクレアはジッと聞いていた。だが……実のところもう既に細かな部分はよく分かってはいなかった。
そんなクレアに気付いてはいたが、義父は大切な話だと、伝えることを続ける。
「ずっと『優しかった』人が、急に『怖い』人に変わることもある。『優しい』言葉を使いながら、『悪意を持って』接してくる人もいる。『これはアナタの為だから』と言いながら、自分勝手な考えを押し付けてくる人もいる。
『優しい人』の本心が『優しいとは限らない』。
『怖い人』の本心が『ただ怯えて怖がっているだけ』かもしれない。
『人』というのは本当に『色んな顔を持っている』んだよ」
そこまで話して義父はクレアに手を伸ばした。手のひらを上にして伸ばされた手に、クレアは自然と自分の手を重ねた。クレアは義父と手を繋ぐのが好きだった。温かくて、包み込んでくれるから……
「だからね。クレア。
どうしてもこれだけは絶対に覚えていて欲しいんだ。
相手がどうしたいかじゃない。
相手の顔色なんか見なくていい。
『クレアの心に少しでも不安があったら、嫌がって』
“嫌”だと、“駄目”だと、“止めて”と、
“それは嫌い”だと、言って欲しい」
真剣な目と声で言われた言葉に、クレアの身体が少し緊張する。クレアの心臓の辺りが締め付けられているかのような感じがする。
何も知らないのに、何も分からないのに……クレアはそれを知っている……
──嫌がってんじゃないわよ!!──
──何、抵抗してんのよ?!──
──避けてんじゃないわよ!!──
──逃げたら殺すわよ!!!──
それは声のようで声じゃなかった。
クレアの頭の中でぐるぐる回るその“嫌なモノ”に、クレアの心が引っ張られる。目の前に居る義父や義母の顔が遠くなる。温かかった手の感覚が無くなる気がした……
「クレア……?」
変わらない表情のまま、クレアの血の気だけが下がった気がして、義父と義母は慌ててクレアの身体を抱き締めた。
「クレアっ?!
ごめんよ!? まだ早かったね?!
でも……、……でも、大切なことなんだ!!」
「クレア!!」
「大丈夫だから! 大丈夫だよ!!
僕たちが居る! ワンも絶対にクレアの側を離れないからっ!! だから安心していいんだ!!」
「そうよクレア……! 安心して……、大丈夫だから……、ゆっくり呼吸をして……、私たちの体温を感じて……
私の手を握って。
クレア……、クレア……」
義父と義母、二人に抱き締められ、足元に居たワンがクレアの足を守るように身体を擦り寄せていた。
急激に冷えていたクレアの体温が外からの体温に温められる。じんわりと染み込んでくるあたたかさにクレアの思考が引き戻される。見えていた物が見えなくなっていたかのように、目の前にある義父の顔と義母の顔がはっきりと見えた。
クレアは見えたままを口にする。
「……マーサ……、泣いてる?」
義母の頬に手で触れて、指先が濡れたことにクレアは不思議に思った。
義母は困ったように笑ってクレアに顔を寄せた。
「フフ……、ちょっと驚いちゃった。
でもクレアがこうしてくれてたら、もう大丈夫」
そう言って義母はクレアの手を取って自分の頬に添えた。クレアの手に義母の頬のあたたかさが伝わる。
「ごめんよクレア。きっと嫌なことを思い出してしまったんだね……」
眉間にシワを寄せて、ツラそうな顔をした義父がクレアを見ている。そんな義父に視線を合わせたクレアが口を開いた。
「……いや……がるな、って……言われた……
よけるな……、って……」
その言葉を聞いて義父と義母の顔が悲痛に歪む。義父は堪らずクレアを強く抱き締めた。
「……っ、そんなことは忘れていい!! 間違ってるんだよ!! それは間違いだ!! 嫌がっていいんだ! 避けていいんだ! 逃げていいんだ!! 抵抗していいんだよ!!」
クレアの手を握っていた手で義母はクレアの頬に触れた。
「……今のクレアには、周りに必ず誰かが居るわ。ワンも絶対に居る。
クレアは“誰かに”助けを求めていいの。
嫌がっていいのよ。
受け入れる必要なんかないの。
クレアは、クレアの心を優先していいのよ」
クレアの目をじっと見て、強くそう伝えてきた義母の目をクレアはじっと見る。涙を溜めながらも揺らがないその義母の瞳に、クレアの心が小さく鳴った。
「……必要、ない……
優先…………」
反芻するように呟かれたクレアの言葉に義母も義父も力強く頷く。
「「クレアの“心”を一番に守って」」
言われた言葉と抱き締められている身体の温かさが、クレアの中を染み渡るように満たした。
◇
義父は自分が焦ってしまったことを強く強く反省した。
……娘の側に現れた男子に、警戒心を抱いたのだ。
──タットくんは良い子だけど……、万が一……っ、万が一にもっ!?! 思春期の好奇心とかアレやコレやの男子としての行動力がアレして…………っ!!!?!!! これはいかん!!!!!!──
クレアに万が一タットくんが迫って来た時には抵抗できるように教えなければと思ったのだが、そのことを教えるのがとても……とても難しいと痛感した。そもそもタットくんが『そんなことをする』とは限らない。『男の子』だから、と、『男としての先輩』の記憶から『あり得る!』と断言はできても『じゃあタットくんがするのか?』と言われれば答えられない。
タットはクレアの2歳程下だ。生まれ月の差があるだろうが、大体タットは今12歳というところだ。丁度『女体』が気になる年頃だ。義父は自分を振り返ってアレやコレやと考えてしまう。ジンだってそのくらいの年齢の時には「異性に興味なんかある訳が無い」なんて格好付けていた癖に、いざ自分の娘の側にいる男子だと思うと『自分とは違う生物』だと思ってしまう。
──クレアを守らねばっ!! しかしタットくんがそんなことをする訳が…… しかし……っ!! 万が一があっては……っ!!!!──
義父はモンモンとして頭を悩ませた。
そして悩みに悩んだ義父は……
タットに直接話をして言質を取った。
真っ赤になりながらも、絶対にそんなことはしない! と言い切ったタットを見た義母は、タットの母親のヴィッキーに頭を下げた。『何があっても娘に迫らないでくれ』なんて、だいぶ失礼な話だった。
ヴィッキーは笑って、
「女の子の親ってのも大変だねー! ウチもしっかり教えとくから!」
と許してくれた。
◇ ◇ ◇
……クレアは『見知った』部屋に居た。
その部屋は暗く、床は薄汚れていてとても冷たかった。
見下ろした視界に小さな裸足の足が見えた。持ち上げた手も小さく、骨張っていた。
クレアが部屋を見渡そうと顔を上げた時、
視界の端に『黒い』『影』が見えた。
「!?」
クレアは咄嗟に蹲って頭を守るように両腕を頭の上で交差させた。
その直後、クレアの背中に衝撃が走る。
バシッッッ!!!
聞き慣れた音が響く。
そして、聞き慣れた嫌な声が鳴り響いた。
「アンタが生まれてきたからいけないのよ!!!!」
金切り声で、女性が怒鳴る。
「アンタがっ!!」
「アンタの所為で!!!」
バシッ、バシッ、と背中に細長い棒を振り下ろしながら、その女性は怒鳴り続ける。
クレアはそれを……
ただ終わるまで待った。
終わるのを待つことしかクレアは……エーは知らなかったから……
それしか、許されていなかったから……
クレアは終わるのを待った。
…………
……不意に痛みと音が止まった。
そして、クレアは何か柔らかい……あたたかいものに包まれた。
「…………?」
不思議に思ってクレアは顔を上げた。
クレアが見たのは、
しゃがんだクレアを抱き締めるように覆い被さる義母と義父の姿だった。
「!?」
二人はとても優しい笑みでクレアを見ていた。クレアの身体の二人が触れた部分から温かさが伝わってくる。
「大丈夫よ」
義母が微笑む。
「大丈夫だよ」
義父がクレアの頭を撫でた。
クレアが二人を見上げた……
その二人の後ろに黒い影が揺らめいた。
「……あ」
黒い影の女性は貴族が着るドレスを着ていた。宝石に飾り立てられた身体は見えるのに、……顔が、クレアには見えなかった。
そんな黒い女性の身体がどんどんと膨れ上がる。大きくなる。黒い黒い嫌なソレがエーたちを嫌っているのが伝わってきた。
「お前が……っ!!!」
頭の中に響くような嫌な嫌な声が、大音量で世界に響く。
鳥肌が立つ程に嫌悪感を含んだ視線が黒い闇からエーたちに向けられていた。
そして、黒い大きな影の女性が、木の幹のような大きな棒を、エーたちに向けて振り落とした。
「あっ……!!」
クレアの目に大きな棒が降ってくるのが見える。
そんなクレアを守るように、マーサとジンがクレアを安心させるように微笑んでいた。
そんな二人の背中に、大きな棒が振り下ろされる。
クレアを守ってマーサとジンが鞭で叩かれようとしていた。
エーの代わりに…………
「……っ、ダメーーー!!!!」
気付けばクレアの喉から声が出ていた。
小さな手足を伸ばして義母と義父を守ろうとするけど、逆に小さなクレアの身体は、義母と義父の二人の身体で抱き抱えられて守られた。
「っ! ……っ、ダメーッ!!!」
クレアはあたたかさに包まれながら、踠いた。
ワンワンワン
遠くで鳴き声が聞こえた。
ワンワンワン!!
鳴き声が近くで聞こえた気がした……
「……、クレアっ!!!」
「……っ!?!」
義母の声で、クレアは目を覚ました。
「クレア、大丈夫? 魘されていたのよ? 夢を……見たのかしら?」
「……? ……ゆ、……め……?」
クレアは混乱していた。
呆然と義母の顔を見返した。
「ワン!」
クレアを見つめながらワンが鳴いた。
「ワンはクレアをずっと呼んでいたんだよ。
ほら、ワン、ここにおいで」
義父がベッドの下に居たワンを呼んでクレアの横のベッドの上を数回叩いた。
ワンは義父が手で示した場所に来てクレアに身体を寄り添わせた。触れたその柔らかな体毛が、クレアの冷えた手を温める。
「…………ワンの声……聞こえた…………」
そう言ったクレアの目から、涙が溢れた。
「え?!」「……っ!?」
義父と義母が目を見開く。
クレアも混乱していた。
「……棒……、が……
嫌……だった……
ふたりが…………っ……」
震える唇でうまく喋れないクレアを義母と義父がギュッと抱き締める。義父はワンも一緒にクレアを抱き締めていた。
クレアの冷たく震える身体があたたかさに包まれる。
目から水が出るのが止まらない。それが『涙』だということはもう分かるのに、どうすれば止められるのかをクレアは知らなかった。
何故、自分が泣いているのかも分からなかった。
ただ『嫌』だった。
『不快』だった、『嫌悪』した。
凄く、すごく……怖かった…………
クレアは心の底から『怖い』と、思ったのだ……
義父と義母が傷付けられるのが…………
「嫌……だっ、たの……
ダメって…………っ!」
しゃくり上げて、息の仕方を忘れたかのように泣くクレアに義母と義父が寄り添い、抱き締める。
夢の中で小さなエーにそうしてくれたように……
「怖かったのね……」
「大丈夫……、側に居るよ」
「くぅ〜ん」
クレアを包むあたたかさに、クレアの冷たく硬まりかけた気持ちが解けていく。涙と共に嫌な気持ちも流れていくように、ただあたたかさが身体に染み込んでくる。
幼子のように泣いたクレアは、初めてちゃんと『泣く』を知った気がした。