1>> ビャクロー侯爵家
ロウフォーデン王国は毎年、14歳の少女を集めて聖女選定の儀が執り行われる。
この国の始祖が女神だと言われており、その子孫である国民の女性の中から稀に女神の力を使える者が現れるのだ。
聖女はその力で瘴気を払い、瘴気からくる病を癒やす。
その力は万能ではないので、酷い傷や病気といったものは治せないが、暖かく優しいその力は皆の心を柔らかく癒した。
今年、ビャクロー侯爵家の三女、エーは14歳となる為、聖女選定の儀へと参加しなければならなかった。
その為に母親はエーを着飾り化粧を施していた。
「あぁ! 汚い肌! ボロボロの肌!! ちゃんと化粧が乗らないじゃない!!
こんなことなら一年くらいはちゃんとした食事をさせるべきだったわ!! もうっ!! キレイにならないわ! 腹立たしい!!」
エーの肌に力任せにファンデーションを叩きつけながら、母親のカリーナは怒り続けていた。
そんな母と妹を見ながら次女のサマンサは、メイドが一生懸命に梳かしているエーの髪を見て笑った。
「見て! お母様! ボッロボロの髪!! 糸の方がまだ艷やかだわ! こんなの、いくら梳いても無意味よ!! ねぇ、オイルで一纏めにしたら?」
そんなサマンサの案に長女のシャルルが呆れた視線を飛ばした。
「バカねぇ。そんなことしたら前髪で顔を隠せないじゃない。
は〜〜〜……、仕方ない。わたくしが使ってるヘアローションを使いましょ。あれ貴重だから本当は心底、心底嫌だけどっ! でもこれがバレるくらいなら、ヘアローションくらい貸してあげるわ」
シャルルは本当に、心から嫌そうな顔をして、自室にヘアローションを取りに行った。そんな姉を見送って、サマンサはエーに視線を戻す。その目は汚物を見るような色をしていた。
「あんたの所為でお姉様の大切なヘアローションが減っちゃうじゃない! ちゃんと謝りなさいよ!!」
その言葉にエーが口を開こうとした。
「ちょっと! 動くんじゃないわよ!!」
母カリーナがそう言うのと同時に、バチンッ、と音がしてエーの顔が横を向いた。カリーナがエーの頬を叩いたのだ。
「あー! もう! あんたの所為でわたくしの手のひらにファンデーションが着いちゃったじゃない! ほんと! 信じらんない!!」
ヒステリックに怒るカリーナを見てサマンサは妹を馬鹿にしたように笑う。
「ほらまた。あんたの所為でお母様に迷惑が掛かった!」
「……もうしわけありません」
エーは謝罪の言葉とともに顔の向きを元に戻す。そして目を閉じて沈黙した。
「謝るならやるんじゃないわよ」
サマンサはエーの足を爪先で蹴る。エーは少しよろめいたが、それだけだった。
「ちょっとやめてよ。動いちゃうでしょ!」
「ごめんなさーい」
カリーナは次女を困った愛娘を叱るように叱った。そんな母に次女は軽く笑いながら謝った。
そこに長女のシャルルが戻ってくる。
「ねー、さっさと終わらせて行きましょうよ。こんなのにそこまでしなくてもバレないわよ。
今年はレムダ侯爵家のナルレニーニア様が参加されるのよ。これに注目する人なんていないわよ」
シャルルの言葉にカリーナは頬に手を当てて思考を巡らせる。
「そうねぇ……、今年の14歳の中から聖女様が出るとしたらナルレニーニア様しか居ないものねぇ……あんなにも美しいのだから。
これは病弱ってことで人前に一度も出したことがないし、うちに娘が3人いることすら知らない人の方が多いのだから、注目すらされないわよね……
なら顔はこれくらいで充分かしら?
後は髪で顔を隠せばいいわね」
「そうよ」「それで十分よ」
母の言葉に長女と次女は賛同して、それを受けて母カリーナは三女の顔にファンデーションを厚く厚く塗り込む行為を止めた。
「なら、最後の仕上げに髪型ね。
ほらお前、常に下を向いて、顔を上げるんじゃないわよ」
カリーナは三女の頭を叩きながらそう指示した。
「はい。わかりました」
エーは顔を下に向けて返事をした。
その状態のエーの髪を、メイドが整える。シャルルが持ってきたヘアローションを多めに付けて髪のパサツキを誤魔化し、下を向いた顔が横からでも隠れるように髪を切り揃えた。
エーがまともに髪を切り整えたのは、これが初めてのことだった。
◇ ◇ ◇
「…………準備ができたのなら行くぞ」
姦しい母親たちを玄関で待っていた父親は、全員が揃っているのを見ると、長男の手を引いて先に自分たちの馬車へと乗り込んだ。
その背中をカリーナは苛立たしく睨みつけ、エーを振り返るとその足を踏みつけた。
「……ほんと……腹立たしいわ……」
「お母様……っ」
「お可哀想っ、お母様っ!!」
心を乱した母を長女と次女は痛々しげに見つめて声を掛ける。
そんな娘たちにカリーナは悲しげに笑ってみせた。
「いいのよ。シャルル。サマンサ。
母は大丈夫です……
さぁ、わたくしたちも行きましょう。
今日はこれと一緒の馬車ですが、二人共、我慢して頂戴ね」
「分かっておりますわ、お母様」
「我慢できますわ、お母様」
長女と次女は優雅に笑って見せた。その、淑女として完成された美しい微笑みに、母であるカリーナは幸せを感じて自然と頬が緩んだ。
その母の瞳に三女の姿は映らない。
三女のエーはただただ流れに身を任せていた。
ビャクロー侯爵家は父ランドルを当主として、母親のカリーナ、長女のシャルル18歳、次女のサマンサ17歳、三女のエー14歳と、養子で唯一の男児であるオルドラン11歳の、6人家族である。
3人の娘はカリーナが産んだ。
しかし三女を出産した時、問題が起きてカリーナは死にかけた。それが原因かと思われるが、カリーナはそれ以上子供を産むことができなくなってしまった。
その為、当主であるランドルは愛人を作り、男児であるオルドランを産ませ、それを養子にした。
愛人である女はネアアス子爵家の次女オデットで、今は乳母としてオルドランの子育てをしている。勿論住んでいるのはビャクロー侯爵家の本邸内。カリーナたちとは極力顔を合わせないように配慮された結果、カリーナたちが本邸の部屋を移動させられるという事が起こった。
オルドランはビャクロー侯爵家の後継者なので部屋は当然当主であるランドルの近くだ。そして勿論オルドランを育てなけれはいけないのでその乳母でありランドルの愛人のオデットは、まだ幼いオルドランの隣りの部屋で生活している。
これで平静でいられる本妻はあまり居ないだろう。自分の部屋は夫から離れた場所に追いやられたのに、愛人の部屋は夫の側にあるのだ。
男児を産めなかった負い目から、カリーナはランドルへ何も言えなかったが、怒りと悲しみと嫉妬は消えることはなく、その捌け口をランドルではなく『男児を産めなくなる原因となった』三女に向けた。
三女が生まれるまではランドルもカリーナも、姉たちも全員が子供が生まれるのを楽しみにしていた。全員が本当に楽しみにしていたのだ。
男児が生まれてくることを。
しかし産まれたのは女で、母体であるカリーナは死の淵を彷徨った。せめて男児であればカリーナに起こった事も仕方のないことだと皆気持ちを受け流したかもしれないが、既に二人もいる女児が更に増えた上にもう次は望めないと知った全員が落胆し、生まれてきた三女に幻滅した。そして次が望めなくなったカリーナの絶望は、計り知れなかった……
『お前が生まれてきたから悪いんだ!!』
カリーナは自分を殺しに来た死神のように三女エーを憎んだ。
産まれたばかりの赤子を殺そうとする母親を見てしまった長女シャルルと次女サマンサは、殺されそうになっていた三女を『生まれてきてはいけないモノ』だと認識した。
ランドルは心底落胆してカリーナから距離を取った。長女と次女は可愛いが、娘はもう要らないと思った。
だが捨てるわけにもいかない。
カリーナのお腹の中に子供がいた事をたくさんの人が目撃している。カリーナ自身も『次はきっと男児だ』と嬉々として色んな人に話してしまった。今更、妊娠していませんでした、なんて言えなかった。
死産だったことにしたかったが、この世界では『子殺し』は神の罰が下る。
言い伝えでもなんでもなく、子を殺した親はそれが他者に頼んだことだとしても、放置による餓死だとしても、ただ捨てただけだったとしても、子を見捨てた親には神の罰が与えられる。
その罰により親は気が狂い、その後廃人となって糞尿を垂れ流しながら生きることとなる。そんな者が歴史上何名もいる為、ランドルもカリーナも生まれた女児を殺すことができなかった。だから仕方なくランドルは三女が生まれた事を国に報告するしかなかった。
その時、必要に迫られて付けられた名前は【エリス】だったが、誰もその名前で三女を呼んだ事はない。彼女が理解している自分の名前というものは『エー』という音だった。
エー。この世界の文字列の最初の一文字の音。三女は家族からその『音』で呼ばれていた。
ランドルはできるなら名前など付けたくなかった。名前をつけるという事は、家族と認めるということになる。ランドルは必要に迫られて嫌々付けた名前など、すぐに忘れてしまった。
カリーナは最初から三女を『エー』と呼んでいた。ランドルからエリスと名付けたと聞かされた時にも「まぁ、贅沢な名前だこと」と言って顔を顰めた。アレなど『エー』で十分だ。個体を判別できれば番号でもいいほどだとカリーナは思っていた。
親がそれなのだから当然姉二人も親に従い三女をエーと呼んだ。いや、姉二人は三女の名前が本当に『エー』だと思っていた。『エリス』なんて名前、聞いてもいなかった。
そんな扱いのエーは、ビャクロー侯爵家の別邸で軟禁されながら育った。
◇ ◇ ◇
エーの乳母は毎年替わった。
ランドルが侍従に指示して、毎年お金に困っている平民の女性を見つけてこさせてそれを雇い、別邸に住み込みで住まわせてエーの面倒を見させた。
一年契約で大金──と言っても平民からすると、であって、侯爵家からするとはした金だったが──を手に入れられるその仕事に、貧民街の女たちは飛びついた。邸内で見聞きした事を一生誰にも喋らないと契約魔法で契約し、エーの食事の世話から身の回りの世話、そして最低限の教育──生活の仕方や謝罪の仕方、口の聞き方や立ち方など──をした。
ビャクロー侯爵家の人間がエーを居ないものとして扱ってくれたなら、まだ乳母たちも動きようがあったのだが、カリーナやその娘たちは暇を持て余しては別邸にやって来て、エーを玩具やストレスの捌け口にした。
カリーナたちは乳母たちを蔑み馬鹿にしたが一定の距離を保っていた。それは単純に小汚い下賤な平民女に近づきたくなかっただけなのかもしれないが、そのお陰で乳母たちは物理的な被害を受けずに済んだ。
しかしエーはそうではなかった。
カリーナはエーを憎んで鞭で叩いた。その鞭は躾用に作られた物で、痛みを与え酷い音を立てたが決して傷を残すことはなかった。だからカリーナは安心してエーを鞭で叩いた。
長女のシャルルは勉強が大変だとエーの髪を引っ張ってエーを引きずり倒した。次女のサマンサはドレスが気に入らなかったとエーを罵って足で何度も蹴った。
平民の、貧民街出身の乳母たちにはどうすることもできなかった。逆らえば自分の身や、更には自分の家族や知り合いたちの身にも危険が及ぶかもしれないからだ。貧民街から来た平民など、侯爵家に掛かれば簡単に生きてきた形跡さえも消し去ることができると、乳母たちは怯えて、幼子を守れない罪悪感に苛まれながらもエーから距離を取った。
エーは読み書きを教えてはもらえなかったが、自分に向けられる言葉の数々から言葉を覚えていった。乳母を見て、覚えられる事は自然と覚えた。
食事は乳母が作る野菜スープと黒パンだけだった。乳母は本邸の使用人食堂から食事を貰えたが、エーは絶対に乳母が作った、本邸から渡される前日の野菜くずから作られるスープと、硬い黒パンだけしか与えられなかった。それだけを食べてエーは育った。だからエーの体はガリガリで、まともに成長が出来ずにその見た目は実年齢よりも幼かった。
甘い物は食べたことはない。お菓子の存在は知っているが、姉が見せびらかせに来て見せてくるお菓子の見た目と姉たちが『あまい』と言っていた感想でしかお菓子というものを知らなかった。『あまい』とはなんだろうとエーは思っていたし、食べたことがない物を「うらやましいでしょう?」と言われても、言っている言葉の意味さえ分からなかったので、エーは何も思わなかった。あれが『おかし』と言うものなのだなということだけは覚えた。
当然飲み物の味は水しか知らない。乳を貰って育ったはずだが、そんな昔の記憶を覚えているほどエーは特殊な子供ではなかった。姉や乳母が色の付いた物を飲んでいるのを知っているが、エーにはそれが泥水に見えていて不思議だった。
風呂は基本水だが、冬は凍死してはいけないと乳母たちが暖炉の火でこっそりお湯を用意してくれていた。どうせ夜に本邸の人間は別邸には来ない。寒い日には暖炉の薪を必ず焚くので、エーはそこから『温かい』を覚えた。『温かい暖炉』『温かいお湯』『温かいスープ』『温かい布』。エーが知っている『温かいモノ』というのはそれだけだった。
そんなエーが、初めて住んでいる場所から外に出られることになったのが14歳の聖女選定の儀だった。
朝から無理矢理連れて行かれた本邸の部屋で、着たこともない綺麗なドレスを着せられて、エーはただただされるがままに事が終わるのを待った。
初めて乗る馬車。
閉じ込められた狭い部屋で、自分にいつも酷いことをする人たちに囲まれて座っていなければいけない。何故か揺れる。ガタガタと外から音がする。周りに居る人たちが喋っている声がうるさい。顔に塗られた何かが気持ち悪いし臭い。
エーはただ下を向いたままで時が過ぎるのを待った。
エーができる唯一の事がそれだけだった。