告白できなかった女の子に再会した日、車に轢かれそうな子供を助けたら、自称天使が『人生をやり直したくはないですか?』と言ってきた。
簡潔なタイトルが思いつかなかった……。
疲れた体を引き摺り家路を辿る。
空を見上げても星は見えず、自分の心と同じように、薄く敷き詰められた雲が、月さえも覆い隠している。
いつからだろう。
それは決して晴れる事無く、いつも心の中は、薄く霧がかかったかのように霞んでいる。
何をしても楽しいと感じられない。
どんな景色を見ても、その鮮やかな色に心躍る事も無い。
俗に言う、『灰色の世界』という奴を、俺は生きている。
解っている。
原因は自分の中にある。
疾うの昔に置いてきたはずの気持ち。
伝える事が出来ないまま、あの時置き去りにしてきた筈のそれが、消し去った筈のそれが、今でも心の片隅で燻り続けている。
いつまでも消えない残り火のあげる煙が、薄く、だが晴れる事無く俺の心を曇らせる。
―― もしもあの頃に戻れたなら、やり直せたなら、こんな思いをせずに済むだろうか。 ――
そんな埒も無い事を考えながら、疲れた体をベッドに投げ出し、泥のように眠る。
―― せめて眠っている間だけは、綺麗な空が拝めますように。 ――
そう祈りながら……。
§
「同窓会……か」
手に取ったそれを眺めて、無意識に呟く。
それは、ポストに詰め込まれたチラシの中に埋もれていた一通の往復はがき。
差出人は、高校三年生の時のクラス委員の連名。学年全員を集めて盛大に開きたいなどと、所謂『陽キャ』だったアイツ等が喜んでやりそうな事だ。
たかが同窓会のお知らせ。電話でもメールでもSNSでも、いくらでも手段はあるだろうに、態々往復はがきなどという大仰なものを選択する辺り、些細な事でも大袈裟に誇りたがる彼等の性根が透けて見える気がした。
少しだけ震える筆先で、『参加』に丸をつける。
―― もしかしたら、彼女も来るかな……。 ――
そんな思いが、体を動かしていた。
§
彼女と出会ったのは高校一年生の時。
生徒全員が何らかの委員会に所属しなくてはならないという学校の規則により、余り物の図書委員に入ったのが始まり。
初めての委員会で隣の席に座った彼女は、本が好きだと言っていた。
外国の本を、原文で読めるようになりたいのだと、笑顔で語っていた。
空いている席に座っただけの相手に、臆することなく話しかけてくるその笑顔に、世界が少しだけ鮮やかに色付いた様に感じた。
胸を張って夢を語るその言葉に、特に意味も興味もなく図書委員会に参加している自分が気恥ずかしく感じて、少しだけそっけない態度をとってしまった事を覚えている。
所謂『学年一の美少女』とか『学園の女神様』なんて呼ばれるような美貌を誇っていた訳でも無い。
普通の、ごく普通の女子高生。
それなのに、後から思えばその笑顔に、心奪われていたのだろう。
月並みな言葉で言えば、一目ぼれ。というやつだったのだろう。
全ては、後になって気付いた事ではあるけれど。
高校一年。
今にして思えば、きっと彼女に会える事を期待していたのだろうが、委員会へは毎回参加していた。
図書委員の当番が重なり、二人でカウンターに並んで座っていると、なんだか気恥ずかしいような、胸が高鳴るような感覚を覚えていた。
ただ、その感情にはまだ名前は無かった。
繰り返し並んで座れば多少の友誼は生まれるもので、ややぎこちないながらも言葉を交わす。
彼女の好きな本、面白かったと語る本を、図書室の書架から探し出しては読み漁った。
或いは、共通の話題を求めていたのかもしれない。
果たしてそれは功を奏し、お互いに感想を語り合うことで、彼女との距離が縮んだように感じた。
自分と違う感想に対しても否定する事無く、『そういう感じ方もあるんだね』と、時に驚いたように、時に感じ入るように、ころころと表情を変えた。
それでも最後は必ず笑顔となり、その笑顔を見て、また自分の胸が高鳴るのを感じた。
高校二年。
彼女が居る事を期待して図書委員へ立候補する。
面子の入れ替わった委員会の中で、去年から継続した者同士、他のメンバーよりも少しだけ距離が近くなる。
カウンターに並んで座れば、違和感無く他愛の無い会話を交わす程度には仲良くなれていたと思う。
折しもそこは思春期真っ只中。好いた好かれた振った振られたなどという話は、たとえ会話に参加していなくても勝手に耳に入ってくる。
その感情に『恋』という名前が付き、それを自覚したのはこの頃。
掃き溜めに鶴。などとは失礼な表現だとは思うが、さして人気の多い訳でも無い放課後の図書室にいる彼女は、ある種神秘的にも見えるらしく、本の貸し出しにかこつけて告白されている場面を見た事がある。
まぁ、隣に座っていたので、否応も無く見えてしまった訳だが。
自分が告白された訳でもあるまいに、動悸が激しくなったかのように感じる。
口の中が乾き、見届けなければという謎の義務感を覚えながら、もし彼女がそれを受けてしまったらと思えば、逃げ出したくなる衝動にも駆られる。
結果として、彼女は真面目な顔をして頭を下げながら、お断りの言葉を紡ぎだす。
若さゆえの勢いか、あるいはこれで彼女が出来れば儲けもの、程度の気持だったのか、さして傷ついた様子もなく去って行く男子生徒の背中を見送り、それが扉の向こうに消えたところで彼女に尋ねる。
何故断ったのかと。
後で思えば失礼極まりない質問ではあるが、興味と焦燥で塗りつぶされた感情はそれに気付けない。
彼女は困ったような顔をして少し考えた後、柔らかく微笑みながら、ただ一言、
『誠実でいたいから』
そう答えた。
高校三年
いよいよ『進路』の二文字が重く圧し掛かってくる。
カウンターに並んで座れば、話の話題も自然とその流れとなる。
彼女のは地元から少し離れた、外国文学に明るい文系の大学を目指しているのだと語っていた。
俺はと言えば、特に希望も展望もなく、無難に自分の学力で入れそうな大学を探していた。
そして、彼女への気持ちを自覚していながら、それを伝える事が出来ないまま悶々とする日々を繰り返していた。
彼女との距離は誰よりも近いと自惚れ、彼女の隣に座る事を特権か何かだと錯覚する、いかにも子供らしい、言ってしまえば童貞臭い思考。
そんな滑稽な頭の中に、彼女の言葉が繰り返され、その度に惨めな自分を自覚する。
自分の気持ちは彼女に対して誠実であるだろうかと。
そして、想いを口にしてしまった後、彼女とのこの心地良い距離が壊れてしまうのが怖かった。
所詮は自惚れであると、自分に言い訳をしながら気持ちを隠し、諦めたふりをしながら、それでも、あるいは、と、何かを期待しながら今日も彼女と並んでカウンターに座る。
そんな事を繰り返しているうちに日々は過ぎ、気付けば受験も終え、彼女は希望通りの大学へ、俺は彼女よりも地元から離れた大学へと進路が決まっていた。
最後の当番の日、相も変わらず人気の少ない図書室で彼女と並んでカウンターに座る。
何か言わなければと焦る心とは裏腹に、臆病な心が動かす口は、相も変わらず当たり障りのない事を垂れ流す。
望むと望まないと時は流れ、図書委員として彼女と過ごした時間が終わる。
いつもならどちらかが鍵を返しに行くのだが、最後だからと並んで廊下を歩き、職員室へと向かう。
職員室で顧問の先生に鍵を返し、三年間の労いの言葉を貰う。
それから並んで昇降口へと向かい、それぞれのクラスの下駄箱へと別れて靴を履き替える。
なんとなくならんで校庭を歩き、校門を出たところで別れを告げる。
それで彼女との三年間は終わりを告げた。
考えてみれば当然の事。
クラスも違えば通学路も違う。
そんな彼女と、三年間もカウンターに並んで座る事が出来たのは、ある意味奇跡のようなものだったのではないかと、自分とは反対方向に歩いて行く彼女の後姿を見送りながら、実感の無いままに考えていた。
進路さえ決まってしまえば自宅学習の機会も増え、彼女と会う事も無く日々を過ごす。
彼女の笑顔で色付いていた世界は、今はなんだか酷く色褪せているように感じた。
無為に過ごせば余計な考え事も増える。
結局のところ、彼女にとって俺は三年間図書室で並んで座っていただけの存在だったのだと。
彼女にも図書室の時間以外に過ごす時間と場所があり、そこでは俺以外の人間との交友も当然あるはずだ。
一度は告白を断るところを見ているが、あの後に恋人が出来ていないとも限らない。
そもそも、ただの委員会メンバー同士でしかない俺に、色恋沙汰を話す義理など無いのだから。
そんな考えが頭を過り、一度考えてしまえば思考は負の螺旋へと落ちていく。
すっかりいじけた頭で卒業式を迎え、校長先生のありがたいお話と、送辞答辞を聞き流す。
卒業証書は各クラスの担任が受け取り、後程教室で手渡されるらしい。
式次第に則り卒業式は進み、順番通りに立ち上がり、列をなして行儀良く体育館を出る。
先を歩く列の中に、彼女の姿を見た気がした。
体育館を一歩出てしまえば、列はたやすく崩壊し、後は三々五々に教室へと戻る。
担任の言葉に多少の感傷を覚えながら卒業証書を受け取り、締めの言葉を残して教室を出て行く担任を見送る。
やれ打ち上げだ、卒業旅行だと盛り上がる級友の合間を抜け、何故だか足は図書室へと向かっていた。
誰も居ない静かな図書室を見渡す。
そこに在ったのは、彼女との日々の思い出。
そう、ただの思い出だけだった。
そんな、斜に構えているつもりの思考で佇んでいると、背後に人の気配を感じた。
振り返れば、そこには驚いたような顔をして、小さな声をあげた彼女の姿があった。
二人並んでカウンターの内側に座る。
椅子はやや間を開けて置かれ、貸出作業をしていても、互いが触れ合う事も無い。
これが、俺と彼女との距離。
「きっと、三年間楽しかったんだと思う」
ぽつり、と、彼女が言葉を漏らす。
「俺も……楽しかった。と、思う……」
本当は違うことを言いたかったけど、最後まで勇気を出せなかった俺は、ただ彼女の言葉に追従して言葉を返す。
「そっか……」
少し嬉しそうに。そして少し寂しそうに彼女が呟く。
あの時の彼女は、どんな気持ちで、どんな言葉を待っていたのだろうか。
自分は、それに応える事が出来たのだろうか。
いや、そんな考えすら自惚れだと、あの時の自分は考えていたはずだ。
「よし……っと」
暫くの間無言で過ごしていた彼女が、気合を入れるように立ち上がる。
「それじゃ、私行くね」
そう言い残し、彼女は図書室を出て行く。
引き留める勇気もなく、俺はそれをただ見送る。
「じゃ、元気でね」
図書室を出たところで、彼女がそう言って振り返る。
初めて会った時と同じ笑顔で。
「お互いにね」
―― 笑顔がぎこちなくはないだろうか。 ――
内心、そんな見当違いの心配をしながら一生懸命の笑顔でそれに応える。
「うんっ」
俺の言葉に返してくれた姿、記憶にある最後の姿は、やはり俺の好きな、好きだった笑顔だった。
彼女を見送り、ややあって窓際へと歩み寄る。
図書室の窓を開け、少し強い風を感じながら、空を見上げる。
―― ハンカチ忘れたからさ、涙が零れたら困るんだ。 ――
鼻を啜って、そう自分に言い訳しながら……。
§
大学生活は特筆するような事も無く過ぎた。
サークルに所属する事も無く、友人と馬鹿をやるでもなく、ただ卒業の資格を手に入れる為に単位を積み重ねる日々。
灰色の世界でただ課題をこなすだけの生活ではあったが、そのお陰で上々と言ってよい成績を修められたのは、怪我の功名というやつだろうか。
そこそこ名の知れた会社から内定を貰い、報告の為に一時帰省する。
変わらない自室と、ほんのちょっと変わった街並みの中で、少しだけ老いた両親と数日を過ごす。
淡い期待を抱いてはみたが、そんな都合の良い事は起こるはずもなく、地元へと戻る事になる。
就職してからは、仕事に忙殺される日々。
覚える事は山ほど有ったが、一年、二年と過ぎれば大分慣れる。
人間の慣れとは怖いもので、先輩や上司に理不尽に叱られる事はあったが、それも軽く聞き流せるようになっていた。
同期と称される人間が幾人か辞め、、それを埋めるように新入社員が入ってくる。
人が入れ替われば送別会だ歓迎会だ、それでなくともアフター5などという古臭い因習を押し付けてくる人達は居る。
特段理由もないのだけれど、なんとなく億劫で、誘いを全てを断っているうちに、『人付き合いの悪い奴』という、至極真っ当な評価を頂く事になった。
高校卒業のあの日から、世界はなんとなく灰色で、あの時彼女に別の言葉をかけていたら、去り行く彼女の手を取ることが出来たなら、世界はもっと鮮やかなもので在り得ただろうか。
そんな、後悔にも似た気持ちを抱え、ただ会社とアパートを往復する日々。
そんな日々の隙間に差し込まれた同窓会の誘い。
やたらと瀟洒な封筒で届けられたA4用紙に印字されていたその日付を、気付けば指折り数えていた。
§
「久しぶり~!」
「見違えちゃった~!」
そんな言葉が飛び交う同窓会当日。
懐かしの、というには聊か早い気がする母校の体育館。
よくもまぁ使用許可が下りたものだと、彼らの行動力に感心する。
ケータリングを呼んでの立食パーティー形式。壇上で幹事が乾杯の音頭をとれば、あとは当時仲の良かった人間同士の集まりが出来上がる。
幾人かの顔見知りと当たり障りのない言葉を交わしながら、会場内をあてどなく彷徨う。
幾つかのテーブルを遠目に覗いたところで、彼女の姿を見付けた。
少しだけ近寄って彼女の姿を伺う。
薄く施された化粧。控えめなアクセサリー。
過ぎ去った年月は、その相貌も含めて彼女を少女から大人の女性へと変えていたが、友人と語り合うその笑顔は、あの頃と変わらないように見えた。
声をかけようか、だが友人とお喋りしているところに割り込むのも気が引ける。
そんな言い訳を自分にしながら、或いは向こうが気付いて声をかけてはくれまいか。
時ここに至っても、未だ踏み出せない自分に苛つきながら、彼女の動向を伺う。
「え~! もうお母さんやってるの?」
そんな声が聞こえて耳を疑ったのは、彼女の様子を伺い始めてから少しだけ時間が経ったころ。
よくよく見れば、照れくさそうにスマホの画面を提示している彼女の左手薬指には銀色の指輪。
何の事は無い。
自分が歩みを止めていた年月の間に、彼女には既に家庭が出来ていた。
ただそれだけの事。
ただそれだけの事なのに、何故だか裏切られたような気分になり、足早にその場を離れる。
会場の中央からは離れた、休憩用にと設けられた壁際の席。
そこに腰かけて、好きでも無いビールを呷る。その苦味が、今まで飲んできたどんな良薬よりも苦い気がして、自虐的な笑みが漏れた。
「ここ、空いてるかな」
そんな声に顔を上げたのは、手に持った紙コップのビールが空になって少し経った頃。
見上げてみれば、そこには果たして、忘れようにも忘れられなかった彼女の顔があった。
「よいしょっと」
俺の返事も聞かずに、彼女はそんな掛け声と共に俺の隣へと腰を下ろす。
「少しおばさん臭かったかな?」
30前にして、冗談めかしながらそんな事を呟く彼女。
そんな彼女の顔を、まともに見る事が出来ず、紙コップを手にしたまま、少しだけ俯く。
そのまま言葉も無く。二人並んで居た。
「そ、そう言えば……」
「ん?」
沈黙に耐え切れず、上ずる声を振り絞って言葉を発する。
「お子さん……出来たんだって?」
「あ、うん。去年の春にね」
「そ、そうなんだ……」
そうしてまた静寂が訪れる。
「あの……さ」
今度は彼女が声を発する。
「卒業式の日、図書室で貴方と会えて、嬉しかったんだ……」
彼女のがどんな気持ちでその言葉を発したのかは窺い知れようも無い事で、ただ、その言葉に触発されるように、自然と言葉が零れる。
「あの時、君の手を取る事が出来ていたら、違っていたのかな……」
主語も定かではないあやふやな言葉。
それでも、彼女には通じると思いたい。
「そう……だね……」
俺の言葉に彼女は俯き、考えるように、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「そうかだったもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。ただ確かな事は、貴方は手を取らなかったし、私も手を伸ばさなかった。だから、きっとそういう事なんだと思う」
彼女の言葉もまた、代名詞だらけのあやふやな言葉。
それでも、その意味は受け取る事が出来たと思いたい。
「そっか……」
二人並んで前を向く。
あの時並んで座っていたカウンターの席よりは近い距離。
あの頃と同じように、視線は同じ方向を向いていたが、それ故に交わる事は無い。
そして、未来もまた、交わる事は無かった。
「よし……っと」
暫くの間無言で過ごしていた彼女が、気合を入れるように立ち上がる。
「それじゃ、私行くね」
あの時と同じ彼女の言葉に、既視感を覚える。
だから、彼女は俺に手を伸ばさない。
俺も彼女の手を取らない。
「今、幸せ?」
ただ一言、あの時とは違う言葉を彼女にかける。
「うん!」
振り返り、迷いなく答えた彼女の笑顔は、やはり俺の好きな、大好きな笑顔だった。
§
幹事の挨拶と共に宴も終わりの時を迎え、参加者は三々五々に散って行く。
振り返る事無くタクシーに乗り込み、去って行く彼女の背を横目で見送り、二次会の誘いを断って実家への道を歩く。
飲み慣れない酒のせいで火照った顔に夜風が気持ち良い。
結局のところ、彼女とはご縁が無かった。ただそれだけの事。
それが解っただけでも、今日は来て良かったと思う。
それが詭弁でしか無い事は解っていたが、そうでも思い込まなければ、行き場の無い想いを抱え込む事が出来そうに無かった。
赤信号で立ち止まる。
少し間を開けて、幼い子供を連れた母親が並ぶ。
楽しい事があったのだろうか、子供が盛んに母親に話しかけ、母親も笑顔でそれに応えている。
彼女もいずれ、自分の子供とこんなやり取りをするのだろうか。
ふとそんな考えが頭を過り、未だに彼女の事を考えている自分の未練がましさに辟易とする。
信号が青に変わる。
「あ、こらっ!」
それと同時に走り出した子供。
それを咎める母親の声。
そして、止まりようの無いスピ-ドで横断歩道に突っ込んでくる車のヘッドライトが見えた。
§
「気付きましたか?」
そんな声に目を開けると、そこは真っ白な空間で、目の前には一人の女性が立っていた。
自分の置かれた状況が掴めず、とりあえずは目の前の女性を観察する。
金色の髪。青い目。貫頭衣という奴だろうか、白い質素な衣服を身に着けている。
極めつけに、頭の上には蛍光灯が浮かび、背中には羽のようなオブジェを背負っている。
何かのコスプレだろうか。
「あ、今とても失礼な事を考えましたね?」
女が拗ねたような表情で、声を発する。流暢な日本語だ。
ここはどこだろうか、目の前のコスプレイヤーから視線を外して辺りを見渡す。
どこまでも白い空間。壁も天井も無く、座り込んでいるという事は床があるという事だろうが、感触があるだけで床という存在が不明瞭だ。
「無視しないで下さいよぉっ!」
けったいなコスプレイヤーの咎めるような声に正面を向く。
腰に手を当てた、いかにも『怒っています』といった様子で俺を見ているコスプレイヤーが居た。
「やっぱり失礼な事考えていますね?」
そう言った女は、『やれやれ』と言った風に居住まいを正す。
「さて、本題に入る前に、貴方のおかれた状況を確認しましょう。貴方、ここに来る前の状況をどこまで覚えていますか?」
にっこりと笑いながら問いかけてくる女の声に、自分の置かれている状況を思い出す。
確か、同窓会に参加していた記憶が有る。
その後、一人で実家への道を歩いて居る途中で信号に捕まり、その後……。
「ぐっ……!」
咄嗟に押えた口から呻き声が漏れる。
青信号で歩道に躍り出す子供、母親の声、視界に映るヘッドライトの明かり、そして……。
「はい、ちゃんと思い出せたみたいですね」
混乱する俺に、にっこりと笑いかけると、女は人差し指を立てて語り出す。
「貴方は、轢かれそうになった子供を助ける為に横断歩道へ駆け出し、子供を突き飛ばした後、子供の代わりに車に撥ねられました」
言葉にされることで、その瞬間の痛みを思い出して身震いする。
「あ、子供は無事ですよ、貴方に突き飛ばされて少しだけ擦りむいたようですが、その程度の怪我です。車に撥ねられる事を考えたらなんてことはありませんね」
女は『良かったですね~』と、なんてことも無い調子で笑いかけてくる。
「で、貴方の方ですが、残念ながら亡くなってしまいました」
「は?」
一瞬、何を言われているか解らずに間抜けな声をあげる。
「ですから、子供を庇って車に撥ねられてお亡くなりになりました。轢死というやつですね。どぅ~ゆ~あんだすた~ん?」
なんて事の無いように笑いながら、とんでもない事を言い出す胡散臭いコスプレイヤー。
「いや、死んだって……現にこうして俺は……」
そう、呼吸もしてるし会話もできる。手足の感覚はあるし、動かす事も出来る。
「質の悪い冗談は止めてくれ。大体ここは何処なんだ? 車に轢かれたって言うけれど、病院ではなさそうだし……」
そう言ってから再び周囲を見渡す。そこには、相変わらず白いだけの空間が広がっていた。
「ここはですね、所謂『あの世とこの世の間』です。亡くなった方があの世に行く時に通過するところですが、貴方の魂が通り過ぎそうになったのを、ちょいと捕まえてここに留めた訳ですね」
相も変わらず訳の分からない事を得意げに語る女。
「あ、ちなみに私は所謂天使という存在です。見てのとおりですね」
彼女のその言葉に、背負っていたオブジェが羽ばたくかのように動く。
「は? 天使?」
「ええ、そりゃあ亡くなった人の魂を捕まえるなんて芸当、人ならざるものでなければ出来ませんよね」
薄い胸を反らして自慢げに語る自称天使。
「おかしな話だな、ここは日本だ。俺が本当に死んだとして、それなら出てくるのは八百万の神様の誰かじゃないのか? なんで外国の神様の使いである天使なんかが出てくるんだ」
「あ~、それはですね、日本の神様は数は多いのですが、代わりに部下っていうんですか? 手足になって働く存在が居ないんですよ。で、上の方で色々とお話合いがあってですね、私たち天使がこうして神様達の代わりにお仕事をしている訳ですね。あれです、所謂アウトソーシングって奴です」
自身を神聖な存在だと自称しておきながら、神聖さのかけらもない事を得意げに語る自称天使。
「まぁ、そんな事はどうでも良いじゃないですか。とりあえず、貴方は子供を庇って車に轢かれてお亡くなりになりました。それは理解してもらえましたか?」
「だから、訳の分からない事を言わないでくれ、俺は死んでなんて ――」
「あぁ、もう良いですから、とりあえず御自分の手を見てもらえますか?」
俺の言葉を遮り、先程までの軽薄な笑みは消えた、むしろ冷たさを感じるような視線と言葉に促され、自分の手に視線を移す。
「こ、これ……」
そこに在ったのは確かに俺の手ではあったが、その手を通して、向こう側の景色が透けて見えていた。
いや、手だけではない。腕も、足も、目に映る俺の体全てが半透明で、凡そ真面な人間の体ではなくなっていた。
「これで解りましたか? 時間も勿体ないので手短にいきますね」
唖然としている俺を他所に、自称天使が語り始める。
「理解しようがしまいが貴方の勝手ですが、貴方は亡くなりました。これは変えようの無い事実です。ですが、子供を庇ったという貴方の善行に対し、神様は一つの御褒美を用意しました」
そこで言葉を一旦切ると、その顔に再び軽薄そうな、胡散臭い笑顔を浮かべる。
「なんと! 貴方の望むところまで時間を巻き戻して生き返らせて差し上げます!」
大袈裟に両手を広げて彼女がそう宣言すると、俺の周りに何処からともなく紙吹雪が舞う。
「……は?」
さっきからコイツの言っている事は理解し難い事ばかりだが、そこに来てこの発言である。
真面な神経をしていたら一笑に付すところではある。が、
「誰にだってあるじゃないですか、『あの時こうしていれば』とか『どうしてあの時こうしなかったのか』とか思う事が。今なら、その時に戻ってやり直せるって事ですよ。凄いですね!」
続くその言葉に息を呑む。
もしもあの時、あの卒業式の日、彼女の手を取っていれば、彼女は俺の手を握り返してくれたのではないか。
もし彼女に想いを告げる事が出来ていたなら、俺の世界はもっと色鮮やかなもの足り得たのではないか。
そんな考えが頭を過る。
「おやぁ~? やっぱりあるみたいですね。心残りが、戻りたい瞬間が」
自称天使が目を細めてその手を差し出す。
「その瞬間を思い浮かべながら、私の手を取って下さい。それで貴方は、貴方の望む瞬間に行く事が出来ますよ」
天使の声が甘く響く。
そんな事があるはずもないのに、なぜか吸い寄せられるように彼女へと向かい、その手へと手を伸ばす。
もう少しで彼女の手に触れる、そうすればあの時に戻れる。
そう思った刹那。
―― 「今、幸せ?」 ――
―― 「うん!」 ――
彼女と交わした最後の言葉が、変わらぬ大好きだった笑顔が心に浮かび、手が止まる。
「どうしました?」
手を止めた俺を、不思議そうに見ながら天使が訊ねてくる。
「いや……」
こちらに手を差し伸べたまま、完全に動きの止まった俺を見て不思議そうに首を傾げる。
「あのさ、もしアンタの手を取らなかったら、どうなる?」
俺の問いに、天使は目を瞬かせる。
「そうですね。別に特別な事は何もないですよ。貴方はこのまま『あの世』に行って、新たな命として生れ落ちるまで、そこで過ごす事になる。他の人と何も変わりません」
「そっか……」
止めた手を引っ込め、天使に正対して顔をあげる。
「ならそれでいいいや」
「えっ?」
俺の言葉に、天使が目を丸くする。
「い、良いんですか? 今なら貴方の好きな時間に戻れるんですよ? やり直したい事があればそれが叶うんですよ?」
「ああ、構わない」
正面から天使と視線を合わせる。
時間が戻るのなら、もしかしたら彼女との人生を歩めるのかもしれない。
それはとても魅力的で、甘やかな誘惑に満ちて、とても光り輝いて見えて。
だがあの時、俺も彼女もそれを選ばなかった。
その選択の先で、彼女は前を向き、幸せを手に入れたと笑っていた。
それを否定するような事はしたくない。
それは、彼女の選択を侮辱する事だから。
そして今、彼女の腕に抱かれているであろう彼女の子供。
その存在が消えるという事。それは、その子を殺すに等しい行為。
子供を一人助けて、代わりに一人の子供を殺す。
質の悪い冗談だ。
「色々後悔してばかりの人生だったけど、最期の選択位は自分に誇れるものでありたい。だから、俺はアンタの手を取らない」
迷いも無く、淀みも無くそう言い切った俺を見て、天使は目を瞬かせる。
ややあって、
「そうですか」
そう一言呟くと、俺に微笑みかける。
先程までの胡散臭い笑顔とは違う、優し気なまなざし。
「それでは、貴方を在るべき所へお送りします」
そう言って彼女は指を一つ鳴らす。
周囲に光が満ち、景色が、視界が、そして意識が白く埋め尽くされて行く。
「貴方の新たな人生に、幸多からん事を」
意識を失う直前、彼女のそんな声を聞いた気がした。
§
「よっ、大変な目にあったな」
会社に残っていた、数少ない同期の一人が、病室に入ってくると同時にそう声をかけてくる。
あの時、俺が目を覚ましたのは病室のベッドの上だった。
聞けば、あの子を庇って車に撥ねられてから一週間が過ぎていたらしい。
なんでも一時は心肺停止しており、お医者さんの懸命な処置のおかげで息を吹き返したのだとかなんとか。
それだけの事故でありながら、内臓に傷を負うような事も無く、頭を打ってはいたもののそちらは切り傷が出来る程度で異常は無いとの事。
流石にあちこち骨折はしていたが、どれも綺麗な折れ方をしており、リハビリすれば以前と変わらぬ生活を送れるとの事だった。
事故の規模を考えれば、奇跡のようだと、お医者さんは言っていた。
「それじゃ、そろそろ行くわ」
軽い会話を交わした後、そう言って同期の男が腰を上げる。
「ああ、復帰したら全快祝いでも開いてくれよ」
俺の軽口に、彼は驚いたように目を瞬かせる。
「どうした?」
「いや、お前がそんなこと言うなんて珍しいと思ってさ。いつも飲み会やらは全部断ってたろ?」
彼の言葉に苦笑する。
「ああ、まぁ、ちょっとした心境の変化って奴かな」
「そっか……。わかった。適当な連中に声かけておくわ」
そう言って笑うと、彼は後ろ手に手を振りながら病室を出て行く。
「ふぅ……」
彼の出て行った扉から、部屋の窓へと視線を移す。
目を覚ましてから、心が少し軽くなった気がする。
世界の色を感じられるようになったと思える。
なんて事は無い。
ようやっと自分は、正しく失恋することが出来たのだ。
あの日から何年も経ってから彼女と会話して、そのうえであんな荒唐無稽な夢まで見て。
それでようやく、彼女に遅れる事数年。やっと前を向く事が出来たのだ。
我ながら情けないというか、未練がましいというか。
それでも、自分で選択したこの道を、顔をあげて歩いて行こう。
見上げた青空の中を、白い羽が一枚、風に舞うのが見えた気がした。
GW=溜まっていた仕事を邪魔されずに片付けられる期間。