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作者: むーい

1話完結の短編です。

仲間とお題を出し合い短期間にとにかく一作書き上げる!という趣旨で書かれたものです。




*プロローグ




 嵐の中、わたしは自転車を漕いでいた。


 目指す場所は長い間町のシンボルになっていた海辺の灯台。幼い頃、大人達に内緒で何度か立ち入ったことのある遊び場の一つだ。

 でも、あのどこかワクワクする潮の香りも、優しい波音も、今はちっとも感じられない。

 それは強い雨風の所為だけではなかった。


 がむしゃらにペダルを動かすわたしの両目からは、涙が溢れ続けていた。止めどなく、これまでの嫌なこと全部を清算するみたいに。


 わたしの世界には苦しみしかなかった。

 だから苦しみのない場所へ行きたかった。

 そこに何もなくてもいい。

 わたし自身がなくてもいい。

 わたしなんて元々ないのと同じ。

 この苦しみから解放されるなら、もう何だっていい……。


 轟々と吹く向かい風は、まるでそんなわたしに「早まるな」と叫んでいるようだった。

 いつもは優しくて、時には怒りん坊な風。叱ってくれるのはあなただけ。


 ありがとう。


 何となく、心にぽつりとその言葉が灯って、最後にほんの少しだけ嬉しくなれた――――。







 虐めがいつから始まっていたのか、わたしはよく知らない。

 何となく気付いたのは高一の夏頃。クラスのみんなの態度が変だなと感じることが多くなった。

 朝挨拶しても教室から返事はなく、体育で思わず吹き出しちゃうような恥ずかしいドジをしたって誰一人見向きもしない。笑っているのはドジをしたわたしだけだ。

 教科書を忘れた隣の子に見せてあげようとしたときも、その子は聞こえていないような素振りでわざわざ前の席の子に助けを求めた。

 そんな調子で、わたしの存在を無視されるような小さな出来事が何度か起こった。

 でも、わたしはもともと影が薄い。声は小さく、おどおどしていて、自分から何かを主張することだって滅多にない。

 おまけに暗いし、地味だし、特別仲の良い友達もおらず大体独りでいる。

 だから、そんなわたしにみんなが反応しないのはその日の"たまたま"。他の何かに気を取られていたからとか、本当に声が聞こえなかったからとか、とにかく気のせいだと思うようにしていた。

 そしたらある日、下駄箱から上履きが無くなっていて、代わりにそこには赤いボールペンで「空気ちゃん」と書かれたノートの切れ端があった。

 ああ、そうなんだ、と、胸の奥がすうっと冷え、徐々に息苦しくなっていったのを覚えている。

 自覚してからははっきりと、自分が意図的にみんなから無視されていることがわかった。

 まるで目に見えない幽霊のように扱われている気分だった。

 いや、無視されるだけならまだいい。そこには明確な悪意が示されたのだ。

 プリントをわたしの席だけ一個飛ばしにされたり、班分けで売れ残っているのに話が先に進んだり、課題の発表で一人だけ拍手されなかったりといった嫌がらせを連日受けるようになって、引っ込み思案な性格はますます臆病に、卑屈になっていった。

 他人と関わるのが怖くて先生にも相談できない。

 世界がわたしを見てくれないなら、もう、いっそのこと、空気に徹しよう。

 何をされても反応しない。感情も表に出さない。

 別にそれで死ぬわけじゃないのだ。自分が辛いのは自分が我慢すれば済む。だからそれで良いと諦めた。

 ところが……わたしが反応しないのが面白くなかったのか、虐めはそれまでの空気的扱いからエスカレートし、机に落書きされたり、ノートを捨てられたり、背中に貼り紙されたりという、より直接的な攻撃を含むようになっていった。

 わたしはついに学校へ行かなくなってしまった。2年生になってからのことだ。


 彼女――――"宮町茜"が2年B組に転校してきたのは、わたしが不登校になるほんの数日前。

 教室に現れてすぐ、みんなの関心が一点に集中するのがわかった。

 茶と赤の中間みたいな赤毛は名前とぴったりで、目の色は青空と同じ深いブルー。ハーフということらしい。

 顔立ちはアイドルに負けないくらい可愛らしいし、まとう雰囲気も明るくて、そこにいるだけで世界をキラキラ輝かせる誰が見ても魅力的な女の子だった。

 花にたとえるなら、ひまわり、といったところだろう。

 雑草のようなこのわたし、風見めぐとは何もかもが正反対の、光の国のお姫様に見えた。

 だから……そんな彼女がわたしに興味を抱いたことには本当に驚いた。



 わたしは不登校になってしばらくしたある日、学校近くの河原で一人絵を描いていた。

 絵は何の取り柄もないわたしの唯一の趣味だった。

 きっと、引っ込み思案なわたしでも、ペンになら素直な感情を乗せることが出来たからだと思う。

 格好良く言えば、キャンバスに描かれるのはわたしの心だ。

 綺麗。嬉しい。悲しい。切ない。

 誰の目も気にせず、誰の声にも邪魔されず、素直な気持ちを表現する。それが許される絵が大好きだった。

 その日、わたしは夕焼け空を描いていた。

 綺麗だけど何だか胸が締め付けられるようなその景色を、わたしはよく絵にしようとしたのだ。


「あの~……隣、いい、かな?」


 背中にかけられた声に驚いて振り向くと、スケッチブックを抱えた女の子の、様子を伺う顔があった。宮町茜だった。


「えっ、あっ……は? えぇっ?」


 わたしはパニックに陥った。

 理由はいくつかあるが、一番は、こんな風に人から話し掛けられたことだ。

 前述の通りわたしには友達がいない。それどころか空気だし、虐められてさえいる。

 転校生の宮町茜がわたしの境遇を知らない可能性もあるが、学校をサボっていることくらいは認知しているだろう。

 いかに宮町茜が"トクベツ"な女の子と言っても、お互い顔を見たのは数回だし、不登校の訳ありクラスメイトにわざわざ話し掛けてくる物好きには思えなかった。

 なのに。


「驚かせてごめんね。よいしょっと」


 信じられないことに、宮町茜はわたしの返事を待たず隣に腰を下ろすと、スケッチブックを膝の上に広げた。

 そのときものすごく良い香りがしたものだから、わたしはそれが自分のような下賤の民には決して吸ってはならない尊い空気に思えて、 草むらを転がるように飛びのいた。

 宮町茜が愛らしい瞳を丸くする。


「そ、そんなに嫌だった? ごめん」

「!!」


 わたしは首が折れるのではというくらい思い切り頭を振って、全力で否定の意を示した。伸びきった黒髪がばしばし顔に当たって、痛かった。

 宮町茜は一瞬ポカンとしたけれど、すぐに笑顔を見せる。


「なら、よかった」


 絵を描く準備を再開する彼女。どういう気紛れか知らないが、どうやら本当に隣で描くつもりのようだ。

 彼女も絵が好きなのは知っていた。転校してきたときも、前の学校で美術部に入っていたと言っていた。

 しかし作品を見たことはない。

 一体どんな絵を描くんだろう……。

 …………。

 って、ダメだダメだ。

 宮町茜は、わたしとは別世界の住人。関わり合いになったら、最後はきっとお互い不幸になる。

 そう思ったわたしは、なるべく彼女を意識しないよう夕焼けの描写に打ち込むことにした。

 集中、集中。絵に集中すれば、隣に誰がいても一人と変わらない。

 そう念じながら黙々と絵を描き始めて、10分くらい経ってからだろうか。ふと強い視線に気付いたわたしは、隣を見てまたしても驚いた。

 何と、宮町茜がこちらに身体を向けて手を動かしているではないか。


「なっ、何してるのぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」


 思わず奇声を上げてしまったわたしである。

 こんなに大きな声を出したのは何年振りだろうか……。


「何って……風見さんを描いてるの」


 しれっと宮町茜。


「どどどどうして!?」


 わたしは湯気が出そうなくらい火照った顔で彼女に迫る。

 名前を覚えてくれていたことも衝撃だが、わたしを絵のモデルに?

 有り得ない。いきなり何の冗談だ。

 しかし大混乱なわたしとは反対に、宮町茜は落ち着いた様子だった。


「うーん……えとね。正確には、風見さん、というよりも……」


 彼女はわたしのことを真っ直ぐに見て、笑顔でこう言ったのだ。


「風を描きたいんだ、あたし」

「風……?」

「そ、風」


 宮町茜が澄んだ瞳を遠くへ向ける。

 つられてわたしも同じ方向を見る。

 視線の先には夕日に染まった茜空があるだけだった。


「風見さんには見える?」

「何が……?」

「風」

「見えるわけないよ」

「だよね」


 宮町茜はくすくすと笑う。

 わたしは訳がわからず、話の先を待つしかない。


「あたしね、目に見えないものを絵にするのが好きなの」

「目に見えないもの……」

「そう。たとえば、感情とか、温度とか、命とか、夢とか……」


 可憐な指を一本ずつ折りながら、彼女は思い出すように語る。まるでこれまでそういったものを描いてきたかのようだ。

 目に見えないもの、か。

 わたしは冗談交じりに訊ねてみた。


「……じゃあ、お化けとかも描いちゃう?」

「ホ、ホラーはNG!」


 彼女はバッと手のひらを突き出して、ストップの意思表示。どうやら転校生は怖い話が苦手のようだ。

 わたしは黙って話の続きを待った。


「とにかくそれでね、今は風をね、描きたいなーって」

「……ふぅん……。でも、目に見えないのにどうやって?」


 思った疑問を口にすると、宮町茜は言葉ではなく、さっきまで描いていたキャンバスを見せて質問に答えた。

 そこに描かれていたのは、わたしの横顔と、風を受けてさらさらとなびく長い黒髪。簡単なラフスケッチだ。

 しかし、わたしは言葉を忘れて惹き込まれた。その絵の中には、まさに、吹いていたから。

 それは紛れもなく"風"を描いた一枚だった。


「どうかな? 良い風吹いてる?」

「…………」

「? おーい、風見さん?」

「あ……ご、ごめん!!」


 絵に見惚れていたわたしは、目の前で手をヒラヒラされてようやく気が付いた。

 慌ててスケッチブックを突き返し、赤くなった頬を隠すように俯く。


「す……すごいね。めちゃくちゃ上手……」

「ほんと!? 嬉しいな」


 彼女は素直に喜んだ。

 ちらりと横目でその表情を盗み見て、ドキッとしてしまう。

 こんなわたしの感想でも、こんな顔、してくれるんだ……。


「……宮町さん才能あるんだね」

「それね、よく言われる」


 彼女は「んー」と伸びをしてから「でも」と続けた。


「風見さんにだってあるじゃん、才能」

「え? わ、わたし?」


 慣れない褒め言葉につられて顔を上げる。


「だって好きなんでしょ? 絵」

「ま、まあ……うん、それなりには」

「ほら。好きこそものの上手なれ、だよ」


 そう言って、彼女は笑顔で親指を立てた。


「じゃ、あたし今日はこれで!」


 宮町茜は立ち上がり、ポカンとするわたしを置いて土手の草むらを駆け上がって行く。

 呆気に取られながらその後ろ姿を見送っていると、彼女は上に着いてから最後にこちらを振り返り、元気よく手を振った。


「明日もまた来るね! 待ってるから! とっても風の似合う風見さん!」

「あ……うん」


 思わず手を振って応えてしまうわたし。

 彼女は大きく頷き、再び駆け出して土手の向こうへ消えた。


「…………」


 わたしは自分の絵を完成させることも忘れて、宮町茜の余韻に浸った。

 誰かとあんな風に喋ったのはいつ以来だろう?

 あんな風に声を掛けて貰ったのは。

 あんな風に、笑顔を向けて貰ったのは……。

 不思議だ。他の人達といるときは胸を締め付けてくる不安や恐怖を、先程のやり取りでわたしはこれっぽっちも感じていなかった。


 宮町茜との二人だけのお絵描き会は、こうして始まったのだ。







 翌日、勇気を振り絞って学校へ行った。

 と言っても授業や出席の為ではない。どうしても見てみたいものがあったのだ。

 幸いこの時期はテスト期間で、生徒の多くはお昼過ぎにはほとんど学校にいない。

 だからわたしは夕方になってから、残っている先生や僅かな生徒に見つからないよう、こそこそと忍び込んだ。

 そしてわたしは――――赤く染まった静かな美術室の一角に、目当てのものを見つけた。


 "「怒れる空」"

 "「Cold Memory」"

 "「誕生火」"


 作者名はいずれも宮町茜。

 彼女が描いた絵だ。昨日のラフとは違う、完成作品。

 すごい。月並みだが、これが、センスというものだろうか。

 素人目に見ても、他の部員たちの作品とは一線を画すレベルであることがわかった。

 彼女が言っていた"目に見えないもの"を描くということ。それらが本当にキャンバスに顕れている。

 絵を見てここまで心が動かされるという体験は初めてかもしれなかった。

 タイトルの下には、作品が描かれた年月日、彼女の名前、それぞれの受賞歴が添えられている。どれもこれも、10代の女の子が受賞するには畏れ多いようなものばかりだ。

 天才、という陳腐なワードが脳裏に浮かぶ。

 宮町茜。

 アイドル並みに可愛く、性格も非の打ち所がなく、おまけに絵の才能まで飛び抜けているなんて。

 天は二物を与えずと言うが、三物以上は与えるんだなと思った。

 やっぱりわたしなんかとは何もかもが違いすぎて、比べることすらおこがましい。

 わたしは感嘆とも諦観ともとれる深いため息を吐き、美術室を後にした。

 すると。


「どうだ? 宮町の次の絵のこと、何か聞き出せそうか?」


 廊下を出て階段へ向かおうとしたところで、美術部顧問の黒屋先生の背中が見えて、慌てて身を隠した。

 別に隠れる必要はないのだが、日々の虐めで磨かれた危機回避能力が、勝手にわたしを目立たない場所へと追いやるのだ。

 そっと顔を出して覗き見ると、先生は小麦色に焼けた二の腕でたくさんの画材を抱えながら、向かいに立つ女生徒に話し掛けている。

 黒屋先生はなかなか格好良いと評判の若い男性教師だが、女生徒は少し困ったような顔である。


「いえ……わたしは何も」

「やれやれ……完成するまでモチーフは内緒ってか? まったく、子供のくせに大人を焦らすのが上手いねぇ……ハハハ」

「先生、前も言いましたけど宮町さんのこと訊かれてもわたしにはわかりませんよ……。それより他の部員の作品にももっと目を向けて下さい、顧問なんですから」

「おう、わかってるわかってる。……あいつの新作が楽しみなあまり、つい、な。会ったら俺のとこ来るように言っておいてくれよ。ふふ、特別に少しだけ指導してやる」


 女生徒から嗜められても、黒屋先生はあまり聞いていない様子だった。

 完全に宮町茜に惚れ込んでいる。そんな熱っぽさが声の中にはあった。

 宮町茜は本当に特別な輝きを持つ女の子だ。歳の離れた先生が夢中になってしまっても何の不思議もない。


 わたしは姿を見られないようにそっと踵を返すと反対側の階段へ向かった。


 それにしても、天才、宮町茜の新作か……。

 美術部顧問の先生があれほど陶酔する才能によって描かれる絵。その次のモチーフを、わたしだけが知っている。

 しかもそれは他でもないわたし自身。……正確にはわたしの髪の毛だけど。

 とにかく、他には誰も知らない、わたしと彼女だけの秘密だ。

 やけに心臓がドキドキして、うるさかった。



 学校を出、河原で夕焼けを描き始めると、草を踏みしめる音が近付いてきた。


「また来ちゃった」


 宮町茜はにこっと笑い、昨日と同じようにすぐ隣に腰をおろす。

 制服のミニスカートから投げ出されたふとももが眩しくて、わたしは咳払いをした。


「"来ちゃった"って、約束したの宮町さんのほう……」

「あれ、そうだっけ? でも会えて嬉しいよ。風見さんいなかったら意味ないし」


 嬉しいことを言われてわたしは顔を背ける。ゆるゆるになった不細工な表情を見られたくなかった。


「…………。また、わたしのこと描くの?」

「もちろん! 風見さんというよりは、風をだけどね」


 彼女は律義に訂正する。


「風を表現したいなら、別にわたしの髪の毛じゃなくても……」

「それはダメだよ」

「どうして」

「だって、風を描けそうだなって思ったのは風見さんの綺麗な髪を見たからだもん」

「えっ……」


 思いがけぬ言葉に、どう返事をしていいかわからない。頬が熱くなってくる。

 髪を誉められたことと、自分が彼女の絵のきっかけになったことが、こんなにも嬉しいだなんて、あまりにも新鮮な体験だった。


「で、でも、わたしなんて……その、地味だし、髪の毛もただ伸ばしてるだけだし、全然おしゃれじゃなくて……宮町さんの絵のモデルとして、相応しくないような……」

「相応しいかどうかは、あたしが決める!」


 宮町茜は立ち上がって、わたしの顔に鉛筆の先っぽを突き付けた。


「描きたいって思ったから、描く! 絵なんてそれで十分! ……でしょ?」

「……う、うん。でも」

「あたしは綺麗って思ったよ、風見さんの髪。あんなに自然に風になびく髪、はじめて見たもん。あたしね、前にも風を描こうとして失敗してるの。でも、風見さんとなら描けるって、そう思ったから」


 宮町茜は一息にそう言った。

 お世辞や建前なんて一欠けらも感じられない、真っ直ぐな言葉に思えた。


「……わ、わかったよ。……その、ありがとう……」

「お礼を言うのはあたしの方だってば」


 すとん、と再び腰を降ろして、彼女は器用にウインクを一つ。


「でもそれは、絵が完成してから。ねっ」

「……うん」


 無言の時間がやって来た。

 二人が鉛筆を走らせるさかさかという音が、川のせせらぎと混ざり合い、夕焼け空へ溶けていく。

 不思議と気まずさはない。とてもゆったりしたひととき。

 ずっとこういう時間が続けばいいのに。

 そんなことを思っていると。


「…………。風見さんって、何か、風、って感じする」


 唐突に、宮町茜が言った。


「え?」


 訳がわからず、描いていた手を止めて彼女を見る。


「わたしが風??」


 空気ではなく?

 自分では全くピンとこない。


「うん」

「どこがそう思うの……?」

「すぐ消えちゃいそうなとことか、目立たないとことか。あと苗字も風見だし」


 期待ハズレの答えが返って来て、わたしは思わず頬を膨らませた。


「そ、そんなのひどい」

「怒った?」

「怒った」

「あはは、ごめんごめん」

「ゆるさなーい!」


 わたしは宮町茜をポカポカ叩いた。

 彼女が吹き出して、わたしもつられて笑った。

 楽しかった。

 不思議だ。ひどいことを言われたのに、全然傷付いてないんだもの。

 こんな気持ちになれたの、いつ以来だろう?少なくとも、すぐには思い出せないくらい遠い昔。


 ありがとう、宮町茜。

 あなたの絵のモデルになれて、嬉しい。







 翌朝、わたしは意を決して2年B組を訪れた。

 まともに登校したのはいつぶりだろうか。

 教室に足を踏み入れると、みんなの視線が集まり、お喋りが止まったのを感じた。

 でも、一瞬のことだ。

 みんなと目が合ったわたしが「あ……」と声を漏らすよりも早く、クラスメイト達は何事もなかったかのようにお喋りを再開させ、教室はいつものざわめきを取り戻す。

 わたしは入り口で立ち尽くした。

 本当は、少しだけ、期待していた。もしかして、と思うところがあった。不登校の期間は長く、その間にみんなすっかり虐めのことなんか忘れて、全部がリセットされているんじゃないかと……。

 でも違ったのだ。今の一瞬、クラスのみんなの一糸乱れぬリアクションで、2年B組の"空気ちゃん"は健在なのだと痛感した。

 そしてそのことが思いのほかショックで、ショックを受けている自分にもショックで、どうして学校に来ようなどと思ったのか、家を出る前の自分を頭の中で何度も罵った。


 わたしは下を向いたまま早歩きで教室を横切った。

 そして、窓際の一番後ろにある自分の席にやっとの思いで辿り着いたとき、ぞわっと体の奥底から何かが込み上げてくるのを感じた。


「…………」


 机の上に置かれていたのは、魔法瓶に生けられた菊の花だった。

 そんな。ひどい。どうして、ここまでするの……?

 呆然としていると、くすくすという笑い声が聴こえてきた気がして、弾かれたように顔を向ける。

 誰もこっちは見ていない。でも、見ていないことが、針のような悪意に感じられてならなかった。


 もう一度机の上を見る。

 菊は死んだ人に手向ける花……。


 ……そうか。わたしは"空気ちゃん"。生きているのに誰からも見てもらえない、誰の目にも映らない幽霊のような存在だ。

 やっぱり、こんなわたしは、生きていないも同然なのかも知れない。


 限界だった。まだ出席すら取っていないのに、情けないけれど、もうここにはいたくなかった。

 わたしは着席しないまま回れ右して、再び教室を横切りこの嫌な空間から出て行こうとした。

 そのときだ。


「あれっ、風見さんだ。珍しいね!」


 真っ暗な物置の中に差す、陽の光のような声がした。

 教室の入り口でわたしは宮町茜と鉢合わせた。


「って、もうホームルーム始まるよ。せっかく来たのにどこ行くの? トイレ?」

「……ちょっと、うん」


 わたしは消え入りそうな小声で応じる。


「元気ないね? 何かあった?」

「……別に。だいじょぶ」

「そう……?」


 彼女はいつもの綺麗な瞳でじっと私を見つめる。


「……ごめん、平気だよ。ありがと」


 わたしは早口で呟き、彼女の脇を抜けて教室を後にした。


「あっ」


 呼び止めようとする気配に気付かないふりをして、足を速める。

 宮町茜の眩しさが、今は見ていてちょっとだけ辛い。

 歩きながらも背中に視線を感じてひどい罪悪感が生まれたが、そのまま学校を出、河原へ向かった。



 河原に人はいなかった。平日のこの時間だし、当然だろう。

 わたしは草むらに寝転がって、いつもより高い空を眺めた。

 真っ白な入道雲を見ていると、宮町茜の白い歯が浮かんでくる。

 逃げ出してしまった自己嫌悪から、はぁ……とため息ひとつ。

 何処かからやって来た風が、そんなわたしの頬を優しく撫でた。


 目に見えないもの、か……。


 あのとき宮町茜は言った。


 "あたしね、目に見えないものを絵にするのが好きなの"


 彼女はそれで風を描きたいと語ったが、ある意味わたし自身も目に見えないものではないか。

 もちろんあの宮町茜がそういう意味で言ったんじゃないことはわかるが、こんな風に落ち込んでいると嫌な妄想が膨らんでしまう。

 早く時間が過ぎてほしい。そうすればまたここで彼女に会える。

 わたしのことをきちんと見てくれる彼女に……。

 もう一度話せば、こんなモヤモヤは彼女の明るさで全て消し飛ばされるだろう。


 再び風が吹き、濡れた頬をひんやり撫でていった。

 わたしは瞼をこすってから改めて空を見つめる。

 まだまだ夕焼けには程遠い爽やかな青色が、鈍色の心をほんの少しげんなりさせた。







 わたしはまた不登校に戻ったが、宮町茜とのお絵描き会はそれから何度も行われた。

 明確な会う約束をしたのは初日のあのとき以来一度もない。しかし、わたしは平日は一日も欠かさず放課後の時間になると河原へ行った。そして、彼女も必ずやって来た。

 約束などという取り決めは、お互いそこに行けば会えるという信頼で結ばれた二人には必要なくなっていたのだ。

 夏休みに入っても、二学期が始まっても、それは続いた。

 わたしたちは、時には無言で、時には楽しくお喋りしながら、お互いの描きたいものを描いた。

 わたしは夕陽が綺麗な茜空。

 彼女はわたしの長い黒髪が風になびく瞬間。


 あるとき、彼女が言った。


「ねえ、ねえ、風見さんの絵も見せてよ」

「ええ~、嫌だよ……下手っぴだもん」


 宮町茜のセンス溢れる作品を知っているわたしは、当然そう答えた。

 彼女はそれでもしつこく食い下がる。


「いいじゃん、別に。絵は誰かに見て貰うためにあるんだよ? あたしは見てみたいな、風見さんの絵」

「ダメ。絶対ダメ」

「けちー」


 宮町茜が唇を尖らせる。

 その表情がおかしくて、わたしはけらけらと笑った。


「むー、何か、自分の絵だけ見られてて不公平な気分」

「……宮町さんは、本当に上手だから」


 そう言うと、彼女は少しだけ目を伏せて考えこみ、そして、再びわたしを見た。


「風見さんはさ、自分のこと、もっと知ってもらいたいって思わないの?」

「……え?」

「だってさ、いつも人目を避けるようにしてるじゃん。あたしにも何処か遠慮してるし。それじゃあ誰にも気付いてもらえないよ。ただの空気と同じになっちゃう」


 突然自分の醜い部分を白日のもとに晒されたみたいで、わたしは少しだけ嫌な気持ちになった。

 彼女とこうして絵を描いているときだけは、楽しいことだけを考えていたかった。

 だからわたしにしては珍しく反論した。


「逆だよ……わたしが人目を避けてるんじゃなくて、みんながわたしを避けてるんだよ」

「そうかな?」

「そうだよ……それに別に今更仲良くしたいなんて思ってないし。あんな人たちと」


 自分で言いながら驚いていた。

 今まで言葉にしたことなんてなかった、他人の悪口。

 少しだけ気分が良かったけれど、何だか、体の中にある見えなくて手の届かない何処かが汚れてしまった気がした。


「そっか」


 宮町茜はあっさり頷き、ワルそうな顔で笑った。


「風見さん、案外言うねぇ」

「う、うるさいなぁ」

「まあ、でも、それも一理あるか」


 不貞腐れるわたしを他所に、彼女は一人納得した様子だ。


「……何が一理あるの?」

「無理に仲良くする必要なんてないってこと」


 彼女は自分の描いたキャンバスを見ながら、思い出すように言った。


「あたしもね、実は昔、風見さんみたく引っ込み思案だったの」

「えっ」

「何か、他人が信じられなくて……下手なことして嫌われて、自分が傷付くのが怖くて、いつも独りでいたがった」

「…………」

「でもね、心の底では自分のこと、考えてること、誰かに知ってもらいたくて。誰かには伝わるかなって。……絵を描き始めたのは本当に好きだからだけど、もしかしたらあたしの"伝えたい"って気持ちも、ペンを動かす力になってたのかもしれなくて」


 意外だった。明るくて、可愛くて、誰にでも好かれる彼女にそんな過去があったなんて。

 でも……そうか。

 自分のことを、誰かに知ってもらいたい。

 それが絵を描く力に。

 そうかもしれない。

 わたしも、本当は、もっと伝えたいのかもしれない。

 自分という存在を。

 でも……怖いのだ。

 彼女の言う通り、拒絶されたり、無視されたりして、傷つくことが……。

 わたしが思いつめた顔をしていたからだろうか、一転して、明るい声が上がった。


「でね、それで描き始めたら、才能があって、天才扱いされるようになっちゃったんだけど。あはは」

「…………。もう、何それ。全然参考にならないよ。大体、それの何処が"一理ある"に繋がってるの?」

「あれ? 繋がってない?」

「ない、ない」

「えーとね、つまり……風見さんの魅力は風見さんの絵を気に入る人にはしっかり伝わるから、そうじゃない連中は気にするな~っていうこと!」

「ええー、絶対それ今考えたやつー」

「いいじゃん細かいなぁ」


 わたしは苦笑いしながら、そんな宮町茜のことが好きだと、今頃になって自覚した。

 同時に、ひとつ、決めたことがある。


「……わたしの絵。いつか、もうちょっと上手くなったら、きっと見せるから」

「ほんとに? 約束だよ」

「うん、約束」


 いつか……そう、いつか。

 あと一歩踏み出せる日が来たら、彼女に、見て貰いたいな。


 わたしたちはそんな風にペンを走らせた。

 毎日。毎日。

 同じ場所で絵を描いて、お喋りして、それでお開きになる。

 端から見たら不毛な遊びに見えるかもしれない。

 それでもわたしにとっては掛け替えのない時間だった。

 宮町茜にとってはどうだろう。わたしと同じく、この時間を大切に感じてくれているだろうか。

 そうであってほしいと、強く願った。


 だって、これは、本当は有り得ないこと。

 奇跡の時間は、魔法が解けるみたいに、いつかは終わってしまうものだから。







 その日。

 わたしは学校へは連絡を入れず、いつもの河原へ自転車を走らせた。

 無断欠席ははじめてだったが、別にもうどうでもよかった。

 河原に着いてからは、夕方になるまでひたすら待った。


 ぼうっと水の流れを見ながら、頭の中では色々なことを考えていた。

 彼女のこと。学校のこと。自分のこと。

 そして、"彼女とはじめて言葉を交わしたあの灯台"でのこと。



 この川が行きつく先に広がる海。その浜に、随分昔に建てられた立ち入り禁止の灯台がある。


 わたしは季節が春から夏に移り変わる頃、そこを訪れていた。

 目的は辛い世界にさよならをする為。つまり、投身自殺だ。

 学校をサボっても苦しみや痛みは消えず、現実の全てから逃れたい一心だった。

 海辺の灯台と言えば自殺の名所として町では有名で、わたしは安易な気持ちでそこを死に場所に決めた。

 その日は嵐だった。

 激しい雨風のなか一心不乱に自転車を漕ぐわたしの姿は、はたから見ればかなり鬼気迫る感じだったろう。

 灯台に着いたときには、不思議と嵐は止んでいた。嘘みたいに空には晴れ間が覗き、穏やかな波音が辺りを優しく包んでいた。

 わたしは夕陽があちこちから差し込む塔内を、内壁に設けられた螺旋階段を使って上へと登って行った。

 身体が弱く運動不足のわたしは、何度も休憩を挟みながらたっぷり時間をかけてどうにかてっぺんの展望室まで辿り着いた。

 息が上がり、両手を膝に当てて呼吸を整える。額から流れ出る汗が鼻の先から滴って、足元の床に染みを作った。

 これから死のうというのにもう死にそうだ、と、わたしはしょうもない冗談を頭に思い浮かべた。


「誰?」


 いきなり声がして、飛び上がった。

 まさか先客がいたとは。

 展望室の端っこ、手すりの近くにいたのは、スケッチブックを胸に抱いた自分と同じ制服を着た学生。夕陽と同じ色の髪が鮮やかな、それはもうとても可愛いらしい女の子だった。

 わたしは更に驚いた。何故なら、目の前のその子に見覚えがあったからだ。


「…………。宮町……茜さん……?」


 そしてそれは、彼女にとってもだった。


「あれっ、もしかして同じクラスの……」



 …………。

 あの灯台でのことは、今でも鮮明に覚えている。

 いつの間にか茜色に染まった空を見て、わたしは悲しげに笑った。


 夕方になっていた。

 時間だ。


 草を踏みしめる音がして、立ち上がり、振り向く。

 現れた宮町茜は、わたしを見て、正確にはわたしの頭を見て、足を止めた。


「風見さん……その髪」


 呆然とした様子で、彼女は呟く。

 胸が締め付けられる痛みに耐えながら、わたしは努めて平静を装う。


「切ったんだよ。似合う?」

「……うん、すごく似合う……。……けど、なんで……?」

「あなたに、絵を描くのをやめさせる為だよ」

「え……?」

「だって、これでもう、風になびくことはないでしょ?」


 わたしは毛先を弄りながら、あはは、と投げやりに笑った。


 彼女と出会ってから、色んなことを考えた。色んな気持ちと戦った。

 でも、考えて、考えて、考えた結果。

 これが、最善の方法だ。


「宮町さん……今日はね、あなたに、お別れを言いに来たの」


 わたしは唖然とする宮町茜の目を真っ直ぐに見て、ずっと黙ってきた、その言葉を、ついに口にした。


「わたしね、目に見えないものが見えるの。だからこんなに根暗になっちゃって、みんなから気味悪がられて、虐められてるんだ。……宮町茜さん、あなたはね、転校してきた二週間後に、命を落としてるの。つまり……あなたは……幽霊なんだよ」







 三ヶ月前、あの灯台のてっぺんで、わたしは宮町茜と出会った。

 彼女がすでにこの世のものではないことには、すぐに気付いた。

 身投げするつもりでやって来た私は、クラスメイトだった女の子の幽霊と出会ってしまったわけだ。

 これはどうしたものかと一瞬迷いが生じたところに、強い風が吹いた。髪が舞い上がり、わたしは両手でそれを抑えて身をすくめた。

 風がやみ、顔を上げると、すぐそばに宮町茜が立っていた。

 彼女はまるで夢遊病者みたいに、無言で、わたしの髪に手を触れようとしていて……。

 怖くなって、逃げ出した。

 彼女が幽霊だったからではない。また虐められると思ったからだ。

 転がるように螺旋階段を降りて、自転車に飛び乗り、青い顔で自宅へ戻った。

 何ということはない。結局この世にお別れすることは出来なかった。

 しかも理由が、"先客"に怯えて逃げ出してしまった、だなんて。

 本当に情けない。もうこんな中途半端なわたしは天国さえも受け入れ拒否なのだろう。

 ベッドに顔を埋めながら、そう思った。

 でも、話はそれで終わらなかったのだ。


 彼女は、あの日、この河原で、再び、わたしの前に姿を現した……。



「あたしが……幽霊?」


 宮町茜が、きょとんと首を傾げる。演技ではなく本当に自覚がない様子だった。

 でも、わたしは驚かない。何度かカマをかけてもみたし、今まで見てきた幽霊は大抵そんな感じだったから。


「そう、あなたはとっくに亡くなってる。今年の春が終わった頃、海辺の灯台から転落死して……」


 地元新聞の記事には、突風に煽られ展望室から落下したと書かれていた。

 彼女はそのとき、そこで絵を描いていたらしい。

 きっと、おそらく、風の絵を。


"あたしね、前も風を描こうとして失敗してるの"


 彼女が言っていた言葉だ。あれは多分、無意識に灯台でのことを口にしていたのだろう。


「風見さん、面白いこと言うね。どういう遊び?オチはあるの?」


 宮町茜がくすくすと笑う。

 わたしはニコリとも出来ない。

 ごめんね、と心の中で自分の不器用さを謝る。


「遊びじゃないよ。学級名簿から宮町さんの名前は消えてるし、下駄箱ももう無い。机の上には菊の花が……供えられてるはずなんだけど、あはは……嫌がらせでそれはわたしの席に移されてた。あなたに本気で心酔してた美術部の黒屋先生は、今でもあなたが生きているって思い込もうとしてるみたいだけどね……」


 皮肉なものだ。わたしは目に見えない幽霊のように扱われているのに、死んでしまった宮町茜は今もまだ生きているみたいに大切にされている。

 けれど彼女は何も悪くない。

 むしろ逆だ。

 わたしは幽霊の彼女から、とてもたくさんの幸せをもらった。

 大袈裟だけど、生きてて良かったって、わたしみたいなダメな子にも、誰かに必要とされることがあるんだって……たくさん、たくさん、思わせてくれた。


「宮町さんは、風を描きたいって気持ちが心残りで、灯台に縛られてた。そこに、わたしが現れた。あなたはわたしについてきて、この河原で、風を描き始めた」

「…………」

「スケッチブック、何度も見せてくれたでしょ? でも、気付いてるかな? あなたが描いた風の絵はね、全部、一緒なの。このままじゃ、あなたはずっと、ここでわたしの髪を描き続ける。ずっと、ずっと、同じ絵を……」


 話しながら、目に涙が溜まってきた。

 こんなことを言うのは、嫌だ。

 でも、もう、終わりにしなきゃいけない。

 風は、いつまでも吹いてはいない。そっと髪を撫でて、そして、去っていくものだから……。


「だからね、髪を切ったの。相談もなしに、ごめんね。似合うって言ってくれて、ありがと」


 終わりの方は嗚咽混じりなってしまって、ちゃんと言えなかった。

 宮町さんは、そんなわたしの言葉を黙って聞いている。

 不思議な表情だった。驚いているような、悲しんでいるような、晴れやかなような……。

 でも、やっぱり、彼女は綺麗だ。

 複雑な色合い。茜空のように。


 わたしは服の袖でごしごしと涙を拭った。

 そして、顔を上げると、もうそこに宮町茜の姿はなかった。




*エピローグ




 あれから時が経ち、灯台は取り壊されることが決まった。

 もともと老朽化が激しく、それで立ち入り禁止になっていたのだ。

 わたしは卒業式を終えたその日の夕方、スケッチブックを持って解体前のそこを訪れた。

 柵を乗り越えて、中へ入り、あの地獄の螺旋階段を登る。

 展望室へ着いたときはやっぱり汗だくだった。

 顔を上げると、海と、鮮やかな夕焼けが、わたしを出迎えた。


 今日は自分の進路を報告しに来た。

 ケジメのようなものだ。

 宮町茜が消えた後、わたしは学校へ復帰し、美術部に入り、そこで絵を描き続けた。

 もちろんクラスで虐めはあったし、部にも上手く溶け込めず独りだったが、無視して絵に没頭していたら……いや、そんな怒りや寂しさも絵にしてやろうと半ばヤケクソになって描いていたら、みんな飽きたのか虐めはなくなり、部活でも絵を通じて少しづつ話が出来るようになっていった。

 そして、描いた絵でいくつかの賞をもらったわたしは、黒屋先生の強い薦めもあり都内の美大へと進学することになった。

 春からは独り暮らしだ。

 うまくやっていけるかどうか、もちろん不安はある。

 でも、生きている限り、絵は描ける。

 地味で根暗でいじめられっ子でも、描きたいものがある。

 だからわたしは、そうやって、伝えられれば良い。

 きっと、そんなの本当の幸せじゃないよとか、もっとたくさん友達を作りなよとか、人は言う。

 でも、わたしはそれで良いのだ。

 それが風見めぐの、生き方だ。


 わたしは、わたしが描いた絵で、わたしを見てもらう!

 誰にも文句は言わせない!


 そう決心させてくれたあの子に、自分が決めた道を伝えておきたかった。

 ……それこそ自己満足かもしれないけど。


 スケッチブックから一枚切り離し、それを持って展望室の端へ向かう。

 頑丈な柵が備え付けられているから、突風が吹いてももう落ちる心配はない。


 約束を、果たそうと思った。

 眩しい夕陽を浴びながら、わたしは同じ髪色をしたあの子を空のキャンバスに思い描きながら、その一枚を宙へ放った。


 何度も河原で描いた、夕焼けの一枚。

 宮町茜との時間。

 わたしのたった一人の友達へ。


 ありがとう。

 さようなら。


 絵は吸い込まれるように、朱い世界へと溶けていった。


 灯台を降りて、自転車にまたがる。


 そのとき、一陣の風が吹いて、すっかり元通りの長さに伸びていたわたしの髪が、大きくなびいた。


 あなたが、背中を押してくれた気がした。





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