66
「団長、何が?」
ライの視線を受けたシェスが、ヒッと息を呑む。
「不可抗力だ、不可抗力。アリーナ嬢が予想外の行動に出たからちょっと…いや、一瞬、ほんの一瞬見失ったんだよ。悪いな。だけどさ、団長をそんな仕事に使うか、普通?」
アリーナには、シェスが言っている内容がよく理解できない。
「…団長にとっての普通は、私にとっての普通ではありませんよ。見失うって何ですか? あなたそれでも騎士団団長ですか」
話はよく分からなかったが、ライが理不尽そうな理由でシェスを責めていることはアリーナにもわかった。
「…そんなに責めなくても。」
「アリーナもアリーナです。ハリー・マルロッタが会場にいるとダニエル殿から聞いていたんでしょう? もう少し危機感を持っておいてください」
あ、口をはさんだばかりにとばっちりだ、とアリーナは思った。とりあえずライは怒っているらしいが、アリーナが怒られているのはとばっちりだと思う。
「そんなの、ライが悪いのよ! ライが私のことないがしろにするから」
は? とライがアリーナの顔を驚いた様子で見ている。
「私がいつアリーナをないがしろにしたと言うんです」
「私との結婚はやめて、他の令嬢と結婚するんでしょ」
「…アリーナ、私がいつそんなことを言いましたか」
ライの声が幾分低くなる。だが、アリーナは怖いとは思わなかった。悪いのはライだと思っているからだ。
「さっき、令嬢とその家族と楽しそうに歓談してたわ。こんな公共の面前で抱きつくようなこと、普通はしないわ」
アリーナは極めて冷静な口調で言うように頑張った。感情的になれば、きっと泣いてしまう。
「…あれですか。あれには私も迷惑したんですよ。まさか抱きつかれるとは思わなかったので。…もしかしてアリーナはあれを見て、嫉妬したんですか」
「…してないわ」
もう今更アリーナの恋心を伝えるなんてできないと、アリーナは嘘をつく。
「アリーナ。アリーナが嘘をつくときの癖、知っていますか?」
「な、なによ」
「アリーナは嫉妬してくれたんですね? …抱きつかれた時には嫌でしたが、こんな御褒美があるのであれば、まあ我慢しましょう。後にも先にもあの1回だけですが」
「違うの」
あれはアリーナが勘違いしただけだということに、アリーナは信じていいのかわからなかった。
「私が結婚したいのはアリーナ以外に居ませんよ。私が愛を囁くのも、その障害になりそうなことを取り除きたいと思うのも、アリーナ以外にあり得ません」
きっぱりと言い切るライは、熱のこもった視線でアリーナを見ていて、それが嘘だなんてアリーナも思いたくはなかった。
「…じゃあ、どうしてあの家族と話を? しかも嬉しそうに。」
アリーナが信じ始めたことを感じたんだろう、ライの表情が幾分柔らかくなる。
「アリーナとの結婚の障害になりそうなことが片付いたんです。ですから、嬉しくないわけがない」
アリーナとの結婚の障害になりそうなこと。
アリーナは全くそれが何なのか思いつかなかった。しかも、令嬢のいる家族と歓談して解決すること。
やっぱりアリーナは何も思いつかない。
「障害って何?」
アリーナの質問に、ライがおもむろに何かが書かれた紙を取り出した。
「丁度ハリー・マルロッタを探しているところだったんです。まさか、こんなことをしているとは思いませんでしたが。」
「…俺を?」
「ええ。喜んでください。あなたの結婚が決まりましたよ」
は? とハリーが声を漏らした。アリーナは、結婚の障害と言われたため、ハリーがどう関わってくるのかがさっぱりわからなかった。
「俺は誰とも結婚する予定はない! あるとすればアリーナとだ! あのときは女子力が低かったから結婚を考え直したけど、今なら…。」
ハリーはそれ以上言葉を発せずに、ひ、と息を飲んだ。
「…そうですか。やはり結婚を決めて良かったですね」
ライの声が今日一番低くなった。向かいにいるシェスは苦笑しながら気の毒そうにハリーを見ている。
「女子力が低くて何が悪いんでしょうか? そもそも、アリーナの魅力を語るためには、あなたの言う女子力など不要です」
ライが紙を一度胸元に戻してアリーナの手を取ると、指先にキスしてアリーナに微笑む。
アリーナは、強く勇気付けられた気がして、初めてハリーを真っ直ぐに見る。
「それに、あなたではアリーナの相手として力不足です。アリーナの相手は私しかいない」
「アリーナの初めては俺だ。それだけは覆らない」
ハリーがライを煽ろうとしていることだけは間違いない。アリーナはキッとハリーを睨み付ける。
「あんな下手くそなキスしか出来ないくせに相手が感じないのは当たり前じゃないの。私に触れたあれが性行為だなんて言わないわよね? 乱暴に触れるだけなら子供だってできるし、あんなの単なる暴力でしかないわ。あの時訴えなかったことを感謝してほしいくらいだわ。…下手くそ。」
10年も経って、ようやくアリーナはあの時のことを消化できた。それは、アリーナの腰を抱いているライのおかげだと言っていいだろう。
言われた方のハリーは衝撃のあまりか目を見開いている。きっと今の今まで自分より年下の経験の乏しい10代ばかりを相手にしていたために、“下手くそ”などと罵られたことはなかったんだろう。ライの風評とは違う自称百戦錬磨のハリーのプライドをアリーナはぽっきり折ったと言える。
「…人生を後悔するだけではなく、人生を終えたいとお考えですか」
絶対零度と言えるライの声は、本気だ。言われた方のハリーは小刻みに震えるように首を横に振っている。




