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うす暗い台所に、二つの明かりが灯っている。
一つはかまどの近くの作業台にある明かり。
もう一つは、かまどに入った火から漏れだす明かりだ。
かまどの上にある鍋を無表情でかき混ぜているのは、アリーナだ。
静かな台所に、アリーナがかき混ぜるお玉と鍋が軽くぶつかる音と、ふつふつと鍋の中身が煮える音だけがしている。
今はまだ朝の5時。そろそろ料理番たちが動き出す時間ではあるが、今のところアリーナしかここにはいない。
アリーナは暗い目で鍋の中を見つめていた。
かちゃり、と台所のドアが開く。
それでもアリーナは鍋から目を離さない。
「アリーナ様!」
慌てたような料理番の声がする。
「アリーナ様!」
もう一度呼ばれて、アリーナはのろのろと視線をあげる。
「おはよ」
その顔に笑顔はない。そしてその視線はすぐに鍋に戻った。
「おはようございます。アリーナ様。」
困ったような表情で料理番のマナがアリーナに近づく。
だが、アリーナはもう顔はあげなかった。
「何を…つ…。」
近寄りながら途中まで言葉を言いかけたマナが、鼻をつまむ。
「…一体何を作られたんですか」
一体何を。
アリーナはマナの質問を頭の中で繰り返す。
「カレー?」
間違いなくそれを作ろうとしたはずなんだけど、とアリーナだって思っている。
どうしてか、鍋の中で渦巻くねっとりと黒々したものは、どう見てもアリーナが食べたことのあるカレーの様ではないし、匂いに至っては全く違う。
「…何を入れたんですか」
「小麦粉、ターメリック、クミン、シナモン、コリアンダー、ブラックペッパー…あといくつかスパイスはいれたはずよ。それから玉ねぎに人参に、ジャガイモにお肉だったかしら。」
マナが首をかしげる。
「私も家で作ったことがありますが…アリーナ様と変わらぬ材料で作ったのですが…。」
皆までマナは言えなかったらしい。
「そうよね。あってるわよね…。どうしてかしら。」
「アリーナ様、いつからこれを?」
「3時より前かしら。」
アリーナがカレーを作ろうと思って2時間以上かけて出来上がったのが、これである。
少なくとも材料を集め切り終わった時にはこんな姿ではなかった。どの材料もその素材らしい色とテクスチャは残していた。形はいびつではあったけれども。
「あの、アリーナ様、これは?」
マナがかまどの側の作業台にあった白い粉の袋を持ち上げる。まだ部屋全体に明かりを灯していないためマナはその材料に書いてある名前を読み切れなかった。
「ああ、片栗粉よ。思ったみたいにとろみが出なくて」
「…とろみ、ですか」
「ええ。私の食べたことのあるカレーはドロッとしていたから。…でも、こんなにもったりとはしていなかったけど」
「えーっと、この瓶は?」
「コーヒー。だってカレーって茶色でしょう? 何だか色が足りない気がして。豆を砕いて入れて見たの。ちょっと入れすぎたかしら。」
マナは脱力する。そもそもコーヒー豆は砕いてドリップして使うもので、そのまま食すものではない。
どうやらかまどの周りにある色んな袋と瓶が、この料理をカレーへと変化させなかったのだとマナは理解した。
「アリーナ様。片付けは私が行いますから、お部屋でお休みください」
アリーナがはじかれたように顔を上げる。
「いやよ」
マナは嫌がるアリーナの気持ちが分かったが、ここにこの物体があると朝食の準備に支障が出ると判断し、心を鬼にする。
「…この中身は、これから何時間煮続けても、カレーにはなりません」
アリーナは目を見開いた。
「どうして」
「アリーナ様。最初にアリーナ様が用意した材料だけを使えば、カレーに近いものにはなったと思います。ですが、その他に入れてしまった材料のせいで、カレーからは遠く離れてしまいました」
特にコーヒー豆はまずかったと思います、とはマナは言わなかった。徐々に部屋に陽が射してきて明るくなって、かまどの近くの作業台に置いてある袋や瓶の中身が分かるにつれ、それだけじゃないと思えたからだ。
「…せっかく作ったのに。」
しょんぼりとするアリーナを見て、マナはおや、と思う。
マナはアリーナが小さい頃からここで働いているため、アリーナの作った歴代料理を知っている。だが、どれをどう失敗しようと、アリーナは、あーあ、という表情はしても、しょんぼりとうなだれるようなことはなかったからだ。
「どなたかに食べさせたかったんですか」
「…違うわ」
ぷい、と横を向いたアリーナの耳がわずかに赤いのがよくわかったのは、台所にすっかり陽が入ってきたからだ。
マナはほほえましい気持ちになりつつも、今日の予定を思い出して、アリーナを部屋に戻るように促す。
「まだ朝食には早い時間ですから、お部屋に戻ってお休みください。このままでは朝食が作れません」
この家の料理を総括するマナにそう言われてしまえば、アリーナも渋り続けるわけにはいかない。
「マナ、ごめんなさいね。片付けお願いするわ」
アリーナはお玉から手を離すと、トボトボと歩き出した。




